皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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002 国事不関与

「何もなし。」

 帝国暦一八一八年十一月十一日の日記に、ミルダネスはこのように記した。

 

 この日、帝国皇帝セラレス四世は、帝国・低地諸国連邦王国国境付近にある軍用貨物駅にて、正式に退位と国事不関与を声明し、少数の近侍を伴って、中立国である低地諸国連邦王国へ亡命した。

 これはすなわち、古帝国の建国より一八〇〇年、現行のボレアニス朝が登極してより一〇〇〇年あまり続いた帝国における君主政体が、その命脈を絶ったことを意味した。

 

  ***

 

〈退位宣言の国事詔書〉

 

一八一八年十一月十一日

 

 忠良なる汝、帝国臣民に告ぐ。

 朕、帝国皇帝たるセラレス・サロリム・ヴィクタロス・ルミナル・ヴェル・ボレアニスは、朕の慈愛する帝国と臣民に対し、胸裏に深甚なる悲痛を抱懐しつつ、以下を宣言する。

 

 四年間に及ぶ血戦は、今や終局を迎えつつある。

 誇り高き我が将兵は、その精神と勇武において敵に劣ることはなかりしも、不運と敵の物量との前に、戦局はついに安定を見なかった。現況において、臣民は日々の糧食を求めて彷徨し、辺境には妖魔の跳梁を許し、我が帝国は内外の危機に直面している。

 かかる艱難なる時局において、最早、朕の統率下での戦争継続は臣民に深甚なる苦難を招致するのみならず、さらなる妖魔の侵寇に対して、国家と民族の存亡の危機を、ひいては人類存亡の危機を招来することになろう。

 朕の玉座への固執が国家の更なる破滅と分断を惹起せしめぬよう、朕は今、皇祖皇宗より承継せし神聖なる帝国の大権を放棄し、退位を宣言するものである。

 

 朕はここに、帝国軍の全将兵と臣民を、朕への忠誠の誓約より解放する。

 帝国軍の将兵に対し、朕はその勇武なる奉仕と献身に深甚なる謝意を表する。汝らは不可能を可能とし、常に名誉と忠節をもって行動した。朕は、諸将兵が祖国に帰還し、帝国再建の任務を全うすることを念願する。

 帝国臣民たる諸種族に告ぐ。現在の動乱の中で秩序が回復されるまで、汝らは現在の指揮官と官吏の命令に恭順し、妖魔の威嚇より国土を保衛し、飢餓と無政府状態を回避せよ。

 

 退位により、朕は帝国の旧制に終止符を打つ。

 しかし、新たな統治が確立されるまで、朕の名において行動する政府は継続して民衆の安寧を保全し、妖魔の侵寇より国土を保衛すべく尽力することを念願する。

 古来継承された帝国の魔術的伝統と諸種族間の協和は、未来においても国制の基礎である。常人と諸種族の調和は、我が帝国が千年に亘り維持し続けたる精神であり、これを亡失することなかれ。

 

 朕は、自らの職務遂行が不可能となった今、古来、国家最高責任者に賦与されたる大権の最後の行使として、その権能を正式に放棄する。

 朕は帝国の今後の統治形態について、協調を基礎とした憲法制定議会を通じて決定されることを期待する。

 

 朕は帝位を離れるが、帝国の一市民として、我が祖国の繁栄と平和のために祈念し続けることを誓約する。

 今後いかなる危機が訪れようとも、国家民族が団結し、古来承継されたる帝国の精神に基づき、これを克服することを切望する。

 

 帝国を滅亡より救済し、新秩序を建設するための努力に、朕は全帝国臣民の協力を希求する。

 帝国は永遠なり。

 神よ、我らが帝国を守護し給え。

 

神の恩寵による帝国皇帝 セラレス四世

(御璽)

 

〈国事不関与宣言(退位補足宣告)〉

 

一八一八年十一月十一日

 

 朕、太上皇帝にしてボレアニス公たるセラレス・サロリム・ヴィクタロス・ルミナル・ヴェル・ボレアニスは、先の退位宣言の国事詔書に加え、以下を宣告する。

 

 退位に際し、朕は、我が血族の帝位継承権を放棄するものではなく、ボレアニス家の世襲帝権を存続させる希望を有している。然るに朕は、現下の政治的混乱を回避すべく、帝国の国事に関与しないことを誓約する。

 

 本日より朕は、王笏と王冠を置き、帝国の統治から身を引く。

 朕は国家元首としての任務を停止し、これを新たに形成される政府に委ねる。

 帝国再建と新秩序建設のため、朕は私心と野心とを捨て、祖国の将来を臣民の叡智に任せる。

 

 朕は現下の政治情勢が落ち着くまで、自ら帝国の国土を離脱することを決意した。

 しかし、朕の衷心は常に帝国と共にあり、朕の精神は常に祖国の運命と結合していることを厳粛に宣言する。

 

 神の加護により、帝国が再び繁栄と平和を回復することを祈念する。

 

ボレアニス家家長にしてボレアニス公 神の恩寵による帝国太上皇帝 セラレス四世

(ボレアニス家印章)

 

  ***

 

 これらの宣言は、ラジオと新聞を通じ、帝国全土と周辺諸国へ伝わった。

 ミルダネスもこの時は領地経営の引き継ぎのため、近郊の鉄道駅を囲むように形成された宿場町に顔を出しており、町長宅の応接室に置かれたラジオでこの放送を耳にした。

 

「皇帝陛下、御退位。誠に畏れ多きこと。御領主元帥閣下、顔面蒼白にして、沈痛なる面持ち。御出立を少しでも晴れやかな御気持ちでなされるよう、我らが心を砕かねばならぬ。」

 町長はこの時のミルダネスの様子について、日記にこう記した。

 

 ミルダネスにとって、今や退位して太上皇帝を称するセラレスは、忠誠を誓うべき主君であり軍の最高司令官であると同時に、かつての教え子でもあった。

 

 一七七一年、ミルダネスが二十四歳の少尉だったころ。

 帝国の祖国統一戦争が終結し、セラレスの祖父たる〈大帝〉が、敵国の宮殿で戴冠式を行ったその日に、ミルダネスは初めてセラレスを直接目にした。このときセラレスはまだ十歳の子供であったが、ミルダネスはこの未来の主君の瞳に、確かにひとつのカリスマと、帝王の器を見出した。

 この戴冠式の日に行われた論功行賞で、ミルダネスの中尉への昇進と、皇孫教導官——すなわちセラレスの教育係への補任が発表された。

 以来、セラレスが十七歳になる一七七八年まで、実に七年間にわたって、ミルダネスは皇孫教導官の職務を全うした。以降も、セラレスは何かにつけてミルダネスの進講を求め、ミルダネスも相談役としてよくこれに応じた。

 セラレスが長じて即位すると、軍中央に地盤を築いていたミルダネスは軍政上の方針で若き皇帝と対立することも多くなったが、それでも両者の基礎には長年の師弟関係があった。

 

 それだけに、改めてラジオを通じて耳にした退位宣言は、ミルダネスの胸中に深い衝撃を刻んだ。

 

「帝室と国制の護持。ひとまず私の考えるべきはこれだけだ。——あとはそうだな。何も。何もなし!」

 

 領主にして元帥である老人を気遣う、町長ら領地周辺の有力者たちを前に、ミルダネスは未練を振り切るように、剛毅に笑ってみせた。

 

  ***

 

 セラレス四世の退位を受け、混乱の渦中にあった帝国議会は、帝政派と共和派の不断の交渉と妥協を経て、暫定政府の樹立と、新統治形態の決定へ向けた決議を捻り出した。

 この決議は、帝都バーレンハイムを中心に跋扈する過激な革命派の圧力と、戦時体制において強力な権限を握った軍部との狭間にあって、五日間の空転を経て、まさに妥協と苦悩の末に生み出されたものであった。

 

〈帝国議会特別会議決議:帝座空位宣言〉

一八一八年十一月十五日 帝都バーレンハイム

 

 帝国臣民各位に告ぐ

 

 帝国議会は、一八一八年十一月十五日の特別両院総会において、全会一致で以下を宣言した。

 

【帝座空位宣言】

 

 帝国議会は、セラレス四世陛下の退位宣言の詔書および国事不関与宣言を厳粛に拝領し、ここに帝座空位を正式に宣言する。

 四年に及ぶ大戦と帝座空位により、我が帝国は一〇〇〇年の歴史において未曾有の転換点にある。帝国議会は、現下における国家の継続性を保障するため、以下の事項を決議した。

 

【暫定統治体制の確立】

 

 帝国議会は、新たな統治形態が確立されるまでの間、国権の最高機関として機能する。

 帝国議会は、帝座空位に伴って総辞職した旧帝国政府に代わる内閣として、「帝国暫定評議会」を設置し、当面の行政権を委譲する。帝国暫定評議会の議長には、帝国議会上院議長 フェラルセン・ヴェル・シルヴァニス伯爵を任命する。

 

 帝国暫定評議会は、以下を主要な任務とする。

 ・一般行政および内務

 ・外務ならびに休戦交渉および講和交渉

 ・防衛および妖魔対策

 ・経済および食糧安定

 ・新憲法制定準備

 

 帝国軍総司令部は、直ちに帝国暫定評議会の麾下に入り、国土防衛と妖魔討伐の任務を継続する。

 

【大戦への対応】

 

 帝国議会は、大戦の終結と講和条約の締結が避けられない現実を認識し、以下を決議する。

 帝国暫定評議会に対し、交戦諸国、すなわち連合国との休戦交渉および講和交渉を速やかに開始するための全権を付与する。

 休戦および講和条件において、帝国の領土保全と主権尊重、および妖魔対策における国際協力体制の構築を基礎として交渉を進めることを指示する。

 

【憲法制定国民議会の召集】

 

 帝国議会は、将来の統治形態を決定するため、以下を決議する。

 連合国との休戦発効より一二〇日以内に、普通・平等・直接・秘密選挙による憲法制定国民議会選挙を実施する。

 選挙においては、常人族のみならず、帝国内に居住する諸種族、すなわち長耳族、鍛冶族、穴居族および鬼人族ならびに混血者にも選挙権および被選挙権を付与する。

 憲法制定国民議会は、将来における帝国の統治形態、すなわち君主制の存続または共和制への移行、および統治機構の構成について全面かつ最終的な決定を行う権限を有し、その招集から解散に至るまでの期間、帝国議会の権能を全面的に代行する。

 ボレアニス家の帝位継承権についても、憲法制定国民議会において審議され、決定される。

 

【国民への呼びかけ】

 

 帝国議会は、この未曾有の難局にあたり、全帝国臣民に対して以下を呼びかける。

 

 現下の政治的・経済的困難は一時的なものであり、我が帝国の一〇〇〇年に及ぶ歴史と文化は不変であることを銘記されたい。

 種族間の分断と対立は帝国の伝統と国制に反し、常人族と諸種族の協調こそが帝国の礎であることを再確認する。

 辺境部における妖魔の脅威に対して、帝国軍と地域防衛組織が引き続き最大限の防衛努力を行う。全ての臣民は、相互扶助の精神を持って行動されたい。

 経済困難と食糧不足とに対処するため、帝国暫定評議会は緊急経済計画を立案・実施する。全ての臣民は、連帯と忍耐をもって協力されたい。

 

【結語】

 

 帝国議会は、皇帝陛下の崇高なる決断と自己犠牲に深甚なる敬意を表する。陛下の精神は、今後も帝国の指針であり続けるであろう。

 帝国は、その悠久の歴史において幾多の危機を乗り越えてきた。現下の試練もまた、帝国臣民の団結と叡智とにより、必ずや克服されるであろう。

 全ての帝国臣民が、この転換期において冷静さと責任感とを持って行動し、共に新たな帝国の未来を建設することを期待する。

 

 秩序と正義と調和のもとに。

 

帝国議会上院議長 兼 帝国暫定評議会議長 伯爵

フェラルセン・ボアウィンド・ヴェル・シルヴァニス

 

帝国議会下院議長 男爵

マクサリオン・ヴェル・ストンメンド

 

帝国軍総司令官 元帥にして伯爵

レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォー

 

(公印)

 

  ***

 

「それで、時局は?」

 深夜の帝都バーレンハイム、首相官邸。今や暫定政府の長となった上院議長兼帝国暫定評議会議長(暫定首相)、シルヴァニス伯爵が、内務担当評議員(暫定内相)へ尋ねる。

 

「民心の動揺は大都市を中心に広がりを見せております。共和派の台頭は、もはや抑えようがありません。その一方で、地方を中心に帝政派への支持には根強いものがあります。

 帝座空位を受け、戦争責任や社会不安への不満が、帝室否定に直結するような状況は回避されました。秘密調査によれば、『退位により一応の責任は果たされた』というのが、一般的な世論傾向です。」

 

「となれば、制憲議会選挙でも帝政派が有利と?」

 

「一般論としてはその通りです。しかし、ご存知の通り、帝政派も割れております。

 皇帝陛下が皇太女へ指名された皇女殿下を奉じる派閥。

 貴賤結婚で廃太子されたとはいえ、軍の根強い支持のある皇子殿下を奉じる派閥。

 両者は国家観からして根本的に異なり、容易には妥協できません。」

 

「共和派と帝政派と、どちらかが妥協する可能性は?」

 

「可能性で言えば、共和派と皇女派とは進歩的改革という大方針では一致しておりますので、両者の間で一定の妥協が成立する可能性はあります。

 しかし、全面的な妥協となれば軍を掌握している皇子派が軽挙妄動に走りかねず、その危険を冒してまで妥協を進めることはないでしょう。

 また、共和派は中央集権型の民主共和制、皇女派は地方分権型の立憲君主制を標榜しており、この点でも妥協は難しいかと。」

 

「共和派と皇子派とではどうか? 双方共に中央集権制という方向は一致すると思うが。」

 

「完全に否定はできませんが、軍を掌握している皇子派としては、中央集権化で得た資源を軍関係に優先して振り向けようとするでしょう。そうなれば、民生重視の共和派とは経済的な利害が対立します。

 また、戦時体制を理想化し軍国主義を志向する皇子派は、他のどの派閥にとっても、講和への重荷になりかねません。」

 

「内務省からの報告書によれば、現状で制憲議会選挙を行ったとして、皇女派・皇子派・共和派でそれぞれ議席の三分の一前後、あとは誤差程度の変動とある。

 ——これでは現行の帝国議会両院の議席配分と大差ない。八方塞がりとはこのことだな。」

 

「優れた哲学者として名声を博した皇女。早くから軍事的な才能を示し、熱烈な支持を集める皇子。民生に明るく、種族を問わぬ連帯を誇る共和主義者。

 閣下。まったく、贅沢な悩みですな?」

 

 祖国の危機にあって、有為の人材が多数現れることは、本来喜ばしいことである。しかしながら、帝国にあって悲劇的だったのは、その有為の人材がそれぞれ異なる方向を指向し、しかも何ら協調することがなかったことであった。

 

「……ひとつだけ、腹案がある。

 皇子殿下を抑えることができる、ただ一人の人物。皇帝陛下の師にして、国家統一期の英雄。

 事と次第によっては、彼に出馬願わねばならん。」

 

 そう告げると、シルヴァニス伯爵は、気怠げに葉巻に火をつけた。

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