021 査察団
「あの日、久しぶりに本物のパンを食べた。混ぜ物でいっぱいのパンじゃない。本物のパンを。
息子に渡してやったら、目を丸くしてたよ。『これ、いつものパンと違うよ、なんか変だよ』ってね。」
――『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年五月三日、帝国西部の工業都市、モナシュテーリア。
「随分と晴れやかな空だ。」
連合国軍総司令官にして共和国軍元帥フェルテナ・ホスは、共和国軍の輸送機でモナシュテーリア飛行場へ降り立つと、タラップに足をかけ、空を見上げて言った。
戦前、モナシュテーリアは〈夜霧の都〉と称された。大陸屈指の工業生産を誇る工業都市であり、昼間の空は灰色に曇り、夜になると工場の煤煙がスモッグとなって深い霧を形成することからついた雅称である。
しかし、この日のモナシュテーリアは快晴であった。ホス元帥は、過日コルピーヌの森で行われた休戦会議で帝国全権委員団が示した統計資料を脳裏で諳んじ、数字を突き合わせる。
「――あの時の鏡は、歪んでいなかったということか。」
休戦会議で帝国全権委員団が示したとおり、モナシュテーリアの工業生産量は、顕著に低下しているようであった。
周囲には新聞記者らが殺到しており、ラジオの中継員までやってきている。
「閣下! ホス元帥! 今回の帝国訪問の目的は!」
「元帥! 講和会議において連合国は何を要求されるのでしょうか!」
「ホス元帥! 〈評議員たちの蜂起〉での元帥摂政公の手際について一言!」
様々な質問を投げかけるが、ホス元帥は悠然とタラップを下り、地上まであと二、三歩というところで立ち止まり、にこりと微笑む。
その妖艶な笑顔に見惚れるように、質問の声が止んだ。
「帝国の皆さん。私がフェルテナ・ホスです。
私は皆さんに、平和をもたらしにやってきました。
剣ではありません、パンを。」
カメラマンは次々とシャッターを下ろし、フラッシュを焚く。
「今回の訪問の目的は、第一に、帝国への人道支援物資の輸送です。
我々は帝国市民の皆さんと戦っていたのではありません。帝国の封建主義と軍国主義を打倒するためにこそ、私たちは戦っていました。
私たちが行うべきは何より、皆さんの食卓に戦前と変わらない、いいえ、それ以上の笑顔を取り戻すことです!」
ホス元帥が搭乗していた輸送機には、食料品や医薬品の木箱が満載されていた。続く第二陣、第三陣も予定に組み込まれている。
「また第二に、帝国軍の妖魔対策の現状を視察することです。
戦争が終わった今、私たちの共通の敵、それは妖魔です。
食卓のパンを保つためには、平和と連帯を!」
連合国と帝国の休戦協定には、帝国軍による〈死の領域〉への適切な戦力配置と、妖魔越境の防止義務が明記されている。帝国軍が脅威でなくなった今、連合国にとって最大の関心事は、妖魔対策の実効性であった。
「そして第三に――示すことです。
私たちは、何も恐れません。
もはや、敵ではないのですから!」
ホス元帥が両手を広げ、天へと掲げる。
その腰には拳銃もサーベルも佩かれてはいなかった。
シャッターとフラッシュの雨が、一層強まる。
その姿を、記者団の背後で遠く眺めている男がいた。
帝国軍総司令官にして元帥伯爵、レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォーである。
「長耳の妖魔め、ぬけぬけと。」
顔の左半分を引き攣らせながら、マルクヴォー元帥はこう零した。
マルクヴォー元帥の左手には、これまで式典時以外は持ち歩くことのなかった、長い元帥杖が握られている。生来精力に満ち、私生活では密かに色街の顔としても知られたマルクヴォー元帥であったが、今は少しでも寄りかかる先を求めて、気づけば元帥杖を持ち歩くようになっていた。
***
これに先立つ帝国暦一八一九年五月一日早朝、徹夜の激務を終えて仮眠を取ろうとしたマルクヴォー元帥に、もはや日課となりつつあったホス元帥からの対帝国通達が舞い込んでいた。
〈【緊急】連合国軍総司令官 対帝国通達 第四五号〉
一八一九年五月一日
発:連合国軍総司令官 共和国軍元帥 フェルテナ・ホス
宛:帝国軍総司令官 帝国軍元帥にして伯爵 レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォー閣下
連合国最高戦争評議会の授権に基づき、ホス元帥より、帝国軍総司令部へ。
帝国における騒擾状態が解消されたことに鑑み、本官は帝国軍による武装解除と妖魔対策の現状を現地において査察・監督し、貴官に対して休戦協定履行のために必要な助言と指示を与え、また必要な承認と協議を行うことを決意した。
よって貴官に対して、以下を念頭とした準備を求める。
一、今次査察における主たる査察先は、以下の通りとする。ただし、本官の判断により、臨機に査察先を変更する場合がある。
(イ)モナシュテーリア市 帝国軍西部戦線司令部、帝国軍基地および市街地を含む
(ロ)西部国境の〈死の領域〉 三箇所(別表の地図による)
(ハ)モナシュテーリア陸軍病院
二、本官および随員は、航空機によりモナシュテーリアへ飛行する。飛行場において簡易的な記者会見を行う。
三、本官の来着と共に、対帝国人道支援物資を空輸する。また、鉄道および自動車による輸送も行う。詳細は別表による。
四、滞在経費および移動・輸送に要する燃料費その他の経費、並びに物資手配に係る経費は、一切を帝国軍の負担とする。清算は帝国正貨(金準備)を以て行う。
本官の権限は、連合国最高戦争評議会による授権に基づき、連合国軍における最高権威を帯びている。
貴官が本官の受け入れにあたって、万事遺漏なく最善を尽くされることを期待する。
***
「レヴェランティユー、今度連れ込んだのは大物だな?」
漆黒の背広に身を包んだ老人、憲法制定国民議会議長にして帝国暫定評議会議長フェラルセン・ヴェル・シルヴァニス伯爵が、遅れてやってきた。
「フェラルセン。洒落になっておらん。」
マルクヴォー元帥が顔をしかめる。
「共和国駐在武官だった頃、よく手紙で自慢していたではないか。絶世の美女を見つけたと。」
シルヴァニス伯爵は目を細め、記者会見の様子を眺めている。
「中身が妖魔だと知らなければ、な。
全く、若き日の自分を殴り飛ばしたい気分だ。」
「元帥杖を自分の再教育などに使ってくれるなよ。」
シルヴァニス伯爵がそう言うと、シルヴァニス伯爵とマルクヴォー元帥は、目を合わせて鼻を鳴らした。
「なに、若い頃の話だ。遊び歩いていた頃の。」
マルクヴォー元帥は、元帥摂政公ミルダネスと異なり、植民地戦争で目立った活躍をしていない。
軍人マルクヴォーの美点はひとえに、軍政家としての才覚にあった。そしてそれは、貴族駐在武官として各地を飛び回った若き日の情報収集活動――駐在先における人的諜報活動によって裏打ちされていた。
駐在先の要人やその周辺へ人脈を広げ、ひとつひとつは些細な、しかし集まれば決定的な情報を積み重ねていく。その点、〈色街の顔役〉の名は有利に働いた。駐在先で羽根を伸ばす不良貴族、不良士官――そんな男を警戒する者は、社交界にも色街にも存在しなかった。いくつか訴訟沙汰になりかけたが、それは全て、単なる不倫問題として揉み消された。
そしてマルクヴォー元帥は、大陸全土に巨大な諜報網の基礎を構築し、帝国の諜報体制と防諜体制の立役者となった。
そしてまた、海外での諜報活動は、マルクヴォー元帥の観察眼を否応なく鍛えた。有為の人材を見極め、派閥の均衡を考慮しながら、適所に配置する能力。それが皇子中将宮ヴァイネスをはじめとする、多数の前線指揮官を見出した。
こうしてマルクヴォー元帥率いる帝国軍は、世界大戦の劈頭、数々の輝かしい戦術的勝利を勝ち得た。敵の配置と戦術をあらかじめ知っている軍隊が有能な指揮官に率いられた時、勝利するのは必然である。
しかし、それがマルクヴォー元帥率いる帝国軍の、限界でもあった。
戦争が予想外に長期化し、マルクヴォー元帥が築いた諜報網が新陳代謝を起こした時、もはや帝国軍の手元には、何の情報も残されていなかった。
***
「ホス元帥閣下、ようこそ帝国へ。歓迎いたします。」
「ありがとうございます、マルクヴォー元帥閣下。好敵手とお会いできて、光栄ですわ。」
モナシュテーリア市庁舎、帝国軍西部戦線司令部において、マルクヴォー元帥とホス元帥の初の公式会談が行われた。
両者の握手の瞬間、記者団が次々とシャッターを押し、フラッシュを焚く。
「それで、マルクヴォー閣下。軍人皇子殿下はどちらに?」
記者団が去ると、ホス元帥はため息と共に椅子に腰掛けた。
「皇子中将宮ヴァイネスは帝都バーレンハイムにて、復員本部司令官として〈無断除隊者〉問題の対処に当たっております。西部戦線司令部における任は解きました。」
マルクヴォー元帥も同様に椅子に腰掛け、ホス元帥の問いに応じた。
「ほう、帝国軍春季大攻勢の立役者が、今や脱走兵狩りですか。
そちらの方面でも才能を発揮されると良いですな、軍人皇子殿下は。」
マルクヴォー元帥の返答に対して、ホス元帥は皮肉で応じた。
「ところでホス閣下、此度の人道支援物資、誠に感謝に堪えません。
我々はこの四年というもの、食糧も医薬品も、買いたくても買えませんでしたので。」
マルクヴォー元帥がさらに皮肉で返す。
「いやはや、連合国軍の海上封鎖が効果を上げているのか、常々疑問でしたが。
何しろ、御国の情報はなかなか私どものところに上がってこないものですから。」
「やはり連合王国の海軍力、侮りがたしですな。
此度はホス閣下に買い物を代わっていただいて、本当に助かりましたよ。」
皮肉の応酬の末に、ホス元帥が立ち上がる。
「さて、仕事の話といこうじゃないか、マルクヴォー閣下。
率直に聞く。郷土防衛隊の動員解除、あれを速やかに実施せねば、我が方には相応の用意がある。」
「当然だな、ホス閣下。我らが元帥摂政公の率いる古参兵は強力無比だ。
貴方がたが砂海大陸で嘗めた辛酸を忘れたわけではあるまい。」
「――たとえ傷痍軍人だの老人だのの寄合所帯だとしても、数が集まれば潜在的脅威なのだよ。
少なくとも、最高戦争評議会のお歴々はそう考える。」
「しかし、今急激に動員解除をすれば、却って混乱が広がる。それはご理解いただこうか。」
「混乱? そんなことは知ったことではない。我々が求めるのは、帝国が剣を下ろすことだ。
帝国が剣を下ろさないのであれば、我々は剣ではなく機関銃で、貴方がたを磨り潰す。」
「妖魔対策が疎かになって困るのはそちらではないかね?」
マルクヴォー元帥の返しに、ホス元帥の美貌が歪んだ。
「よろしい、妖魔対策のための戦力再編の必要は認める。ある程度の猶予も与えよう。
だが、現状のまま郷土防衛隊を維持することは、認められない。これは私だけではない、最高戦争評議会の委員、全会一致の見解だ。
そちらも困るはずだろう? あれは正規軍ではない、貴方がたの――いや、ミルダネス閣下の私兵だ。」
そう投げかけると、ホス元帥は悠々と席につき、人道支援物資と共に持ち込んだ上等な紅茶に口をつけた。
***
帝国暦一八一九年五月三日、マルクヴォー元帥とホス元帥が睨み合っていた頃、元帥摂政公ミルダネスは、皇太女博士宮ヴィクタリースと共に、帝国南部辺境の〈死の領域〉観測所を視察していた。
「――これです、元帥摂政公閣下。これが、〈死の領域〉の発生源と言われています。」
探検隊様式の薄茶色のワンピースに身を包んだヴィクタリースが、ミルダネスに望遠鏡を手渡しながら告げた。
「ほう、あれは……なんですかな?」
ミルダネスが望遠鏡を受け取って覗き込むと、視界にはすり鉢状に穿たれた湖があった。
「いわゆる隕石湖です。調査の結果、湖の底には先史時代に落下した隕石が沈んでいます。」
「すると、星が。」
「その通りです、ミルダネス閣下。現在の通説では、〈死の領域〉の発生源は、天体から発する何らかの力であると考えられています。」
「それでは、他の地域の〈死の領域〉も、同様に隕石が中心にあると?」
「あら、ミルダネス閣下。わたくし達がどこに立っているのか、お忘れになって?」
ヴィクタリースが悪戯っぽく笑う。
「――火山。火山もまた、わたくし達のいるこの星の力が漏れ出る場所です。」
そう聞いて、ミルダネスも得心がいった。考えてみれば、ミルダネスの領地一帯にも隕石孔と思しき窪地や、休火山の類が見られた。砂海大陸における戦役でも、度々火口湖や火山帯で妖魔に遭遇した覚えがある。
ミルダネスの視界の向こう、隕石湖の湖面に、大型の水棲妖魔――大蛙の類――がわずかに頭を出した。
ミルダネスは望遠鏡を下ろすと、従卒へ預け、ヴィクタリースに語りかける。
「皇太女博士宮殿下。臣ミルダネス、改めて御身の博識に感服いたしました。
これだけでも、老骨に鞭打った甲斐があるというものです。領地の者に言って聞かせる土産話ができました。」
「ミルダネス閣下。ご領地の皆様へ土産話をするのは、まだ先になりそうではなくて?」
ヴィクタリースの言葉に、ミルダネスが硬直する。
「――動員解除、〈無断除隊者〉の原隊復帰や革命派民兵の原職復帰、そして新憲法の制定と講和条約……。
博士宮殿下。畏れながら、微臣には荷が重うございます。玄人の方にご出馬願いたい。」
ミルダネスが頭を下げつつ告げる。
「ミルダネス閣下。貴方はわたくし達によって選ばれたのではありません。
帝国の多くの民が、今や閣下を求めているのです。」
ヴィクタリースは、薄手袋をした手でミルダネスの頬に触れ、耳元でささやく。
「――爺や。もう、逃がしませんよ。」
***
帝国暦一八一九年五月三日、帝都バーレンハイム、帝国軍総司令部復員本部、司令官執務室。
皇子中将宮ヴァイネスは、共和派議員団会長セラルフリック・ボアライトと、民兵の武装解除について協議していた。
「共和派民兵や地下水道系鬼人族へ供与した猟銃の類については、この際〈応急対処用〉の自衛用武器として、各地の倉庫に集約すべきと思うが、実現性は?」
執務机に向かったヴァイネスが、机の対面で汗を拭いているボアライトへ語りかける。
「そうですな、ヴァイネス将軍。同様の事態が発生した場合に備えて、市中にある程度の武器を備蓄することも必要でしょう。備蓄場所は、役所や警察署などが良いのではありませんかな?
革命派民兵や〈無断除隊者〉の武器は、帝国軍が接収するということでよろしいので?」
「ああ、無論だ。あれはそもそもが帝国軍の軍需物資を彼奴らが横領したに過ぎん。
だがそのまま原隊に戻すと、今度は武装解除名目で連合国に接収される。そこが思案のしどころだ。」
「郷土防衛隊の件と合わせて、民間防衛の見直しが急務ですな。」
「貴様に言われんでも分かっている。
連合国の言うままに軍備を縮小していては、妖魔対策にも穴が開く。」
ヴァイネスは静かに立ち上がると、壁面に掲げられた帝国地図に視線を向けた。
「己たちのいずれが政権を握るにしても、だ。
――妖魔対策を疎かにする愚だけは、繰り返してはならん。」