「あの時の握手は、忘れられねえよ。ホントに、嬉しかったなあ。
どっちの握手? そりゃ、両方さ。
来たんだなあ、平和が、ってね。」
――『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年五月五日、帝国西部の工業都市、モナシュテーリア。
連合国軍総司令官フェルテナ・ホス元帥は、帝国軍陸軍病院を訪問し、入院中の将兵を見舞った。
意外に思われるかもしれないが、帝国人、特に帝国軍人の間でもホス元帥は羨望の的である。無論のこと、その策謀と作戦地図上で相対した少なからぬ高級軍人はホス元帥を〈長耳の妖魔〉と忌み嫌ったが、多くの一般将兵にとっては、ホス元帥とは帝国軍の好敵手であり、長身痩躯の絶世の美女であり、連合国軍の〈看板娘〉であった。たとえ、ホス元帥がその実年齢において帝国軍総司令官、レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォー元帥と大差ない――六十代――であったとしても、禿頭の軍官僚と〈共和国の戦乙女〉とでは、人気の差は歴然である。
そのような次第であるから、この訪問は入院患者から熱烈な歓迎を伴って受け入れられた。
「そうですか……毒ガスで負傷を。今、共和国でも、後遺症治療のための研究を進めています。帝国との講和が成れば、いずれ共同研究という道も開けましょう。
――私たちは立場こそ違えど、戦友です。どうか、気を落とさないで。」
このようにして、ホス元帥が軍帽を脱ぎ、身を屈めて入院中の帝国軍将兵に親しく声をかけ、時に手を握って見せる様は、ホス元帥が引き連れる多数の記者たちにとって、格好の被写体である。
この訪問に同道したマルクヴォー元帥は、目を輝かせながら敬礼する警備兵に気怠げに答礼しながら、副官の耳打ちを受けて、静かに頷いた。
「ホス元帥閣下。事前の日程にはございませんでしたが、お会いしたいという方が。」
マルクヴォー元帥は、ホス元帥を伴って廊下へ出ると、敢えて記者に聞こえるよう声を張り上げながら振り返る。
「マルクヴォー元帥閣下。この後は、例の従軍画家の方にお会いするのではありませんでしたか?」
ホス元帥は笑顔で応じるが、その目には冷気が宿っていた。
「ラトル・シックルベール上等兵――いえ、戦傷と戦功により昇進して、兵長ですな。
シックルベール兵長は、予定を切り上げて退院してしまったそうで。除隊手続きのため、モナシュテーリアを離れたようです。
『塹壕からの素描』の署名付き初版本を、閣下への置き土産として残しております。」
「あら、それは朗報ですね。負傷者が回復したという報らせは、いつ聞いても嬉しいものです。」
ホス元帥は目を細めて微笑むと、間の副官や従卒を掻き分けつつ、足早にマルクヴォー元帥へ歩み寄り、耳打ちする。
「――この後お会いできる方というのは、名高いシックルベール兵長よりもお会いする価値があると?」
艶やかだが棘のある声。昔日、マルクヴォー元帥が共和国駐在武官だった頃に耳元で幾度も聞いた声であったが、あの頃のような甘さはなかった。
「請け合おう、ホス閣下。
――もうお越しだ。警備兵、扉を開けよ。」
マルクヴォー元帥が警備兵へ声をかけると、廊下の突き当たり、正面の扉が開いた。
「――〈常勝元帥〉。」
使い古された戦闘服に身を包み、静寂を保つ老人を目にして、ホス元帥は思わず声を上げた。
「連合国軍総司令官にして共和国軍元帥、フェルテナ・ホス閣下。
閣下の帝国への来訪を、余は心より歓迎する。我が将兵への慈悲と愛情にも、心より敬意を表する。」
ミルダネスがそう声をかけると、ホス元帥は無意識に右手を挙げ、敬礼の姿勢を取っていた。
「元帥摂政公、ティメル・ヴェル・ミルダネス閣下。
――砂海大陸の先達、戦場伝説の主にお会いできたこと、誠に光栄ですわ。」
そしてこの瞬間を、記者団は見逃さなかった。まずは帝国側の記者団により次々とフラッシュが焚かれ、シャッターが切られる。それにつられて、連合国側の記者団も次々とフラッシュを焚き、シャッターを切った。おそらく、次の紙面を飾るのはこの写真であろう。
フラッシュとシャッターの嵐が止むと、ミルダネスが答礼する。帝国側記者団の反応は鈍く、今度のフラッシュとシャッターは、先程より弱い。
「余も今しがたまで、兵を見舞っていたところだ。
公務のあるゆえ、ホス閣下との会話を楽しめぬのが心残りであるが……せめて、握手を。」
「ええ、ミルダネス閣下。喜んで。」
好々爺然とした笑顔を浮かべたミルダネスと、温和な笑顔を浮かべたホスが握手し、記者団へ顔を向ける。
再び、やはり激しいフラッシュとシャッターの嵐が吹き荒れた。
***
「マルクヴォー! あの狐め! してやられた!」
副官と共に控室へ入り、周囲に盗聴器のないことを確認すると、ホス元帥はその細腕をテーブルへ強く叩きつけた。
ホス元帥は今日、傷病兵をひと通り見舞った後、帝国のみならず共和国でも塹壕の文化人として名高い、従軍画家ラトル・シックルベールと面会し、対談する予定であった。
それゆえホス元帥は、戦闘服でも勤務服でもなく、儀典用の礼装に身を包んでいる。文化人と対談するのであるから、相応に整った装いが相応であると踏んでのことである。
しかし、マルクヴォー元帥の謀略によって、その予定は覆された。
本来、ホス元帥の訪問日程を覆すことは許されない。外交上も非礼であるし、これから勝者対敗者として相対する相手である。その旅程を崩すことには、百害あって一利なしである。
ところが、相手が入院中の傷病兵に過ぎない一介の兵士であれば、それが予定外に退院するということはあり得る。ましてや、それが当人の強い意向であり、しかも除隊手続き――つまりは連合国軍が求めてやまない武装解除と復員――のための早期退院であれば、ホス元帥の立場からは文句のつけようもない。たとえそれが、今や大陸の文壇・画壇に広く知られた文化人であろうと、陸軍病院にいる限りは一介の兵士である。
そしてマルクヴォー元帥が代わりに用意したのが、ミルダネスとの〈立ち話〉である。
(咄嗟に、敬礼してしまった。)
ホス元帥の軍人としての本能と反射神経がそうさせてしまった。同格の元帥であっても、ミルダネスが先任であり、しかも相手は帝国摂政、つまり国家元首代行である。平時の通常の外交上、そして軍事上の儀礼であれば、ホス元帥がミルダネスに先に敬礼し、それに対してミルダネスが答礼することに、何らの不都合もない。
しかし、ホス元帥は戦勝国の軍人であり、ミルダネスは敗戦国の軍人である。連合国にとって、平時の儀礼は、本来成立させるべきではない。ミルダネスが国家元首代行であることを考慮しても、敬礼は同時か、可能であればミルダネスがやや早いくらいが望ましかった。
ホス元帥に準備があれば、戦勝国の総司令官として、堂々たる態度で応じることができたであろう。ミルダネスの敬礼にほんの数瞬遅れて、優美に敬礼することができたはずである。
しかし、実際に準備はなかった。満座の記者団の前で、ホス元帥は先に敬礼してしまった。栄えある共和国軍人としての習慣が、咄嗟にそうさせてしまった。
こうなってしまえば、取り消しは効かない。以後、ホス元帥はミルダネスと対面するたび、同様の敬礼をせざるを得ない。そうでなければ、今日のあの敬礼が誤りだったことになるからである。仮にホス元帥の代わりの誰かが後釜に座っても同様である。この時代の国家と軍隊は、少なくとも名目上は、無謬でなければならなかった。
(そして何より。写真を撮られた。)
ホス元帥が敬礼し、ミルダネスが答礼するまでの僅かな時間。そこを、帝国側記者団が一斉に撮影し、それにつられて連合国側記者団も激しいフラッシュとシャッターの嵐を吹かせた。
間違いなく、マルクヴォー元帥の指図であろう。およそ記者という生き物は、誰かがシャッターを下ろせば、自分も同様にせずにはいられないものである。その人間心理を利用した、宣伝戦。間違いなく、昔日の諜報員、マルクヴォーの手つきであった。
(今後、連合国は――帝国を赦し、少なくとも対等な友として扱わねばならなくなった。)
ホス元帥は、今回の訪問にあたって、表面上は宥和路線を全面に押し出していた。
笑顔と慈悲を振りまき、その請求書はしっかりと帝国側に送りつける――表では飴を用いて帝国世論を懐柔し、裏では鞭を用いてその代償を支払わせるという構想のもとに、ホス元帥は宥和路線を掲げた。世論を激発させず、そして内戦を再発させず、それでいて連合国の利益と安全は確保する。それがホス元帥にとっての至上命題である。
しかし、あの敬礼と答礼、そして握手によって、宥和路線の看板は絶対に下ろすことができなくなった。
使い古された戦闘服を身に纏った老元帥、つまり古き帝国と、煌びやかな礼装の女元帥、つまり今の共和国との〈和解〉。それが、演出されてしまった。
***
帝国暦一八一九年五月五日、帝国南部の地方都市、ミウバエッヘ。
帝国南部軍管区司令部に出頭した従軍画家、ラトル・シックルベールは、この日を以て正式に、帝国陸軍を除隊した。除隊時の階級は伍長、すなわち最下級の下士官であった。
世界大戦の戦後処理過程において、帝国軍は除隊者の階級を原則一律に一階級進級させる特別措置を取った。これは、除隊すなわち失業することになる除隊者達の軍人恩給の支給基準を引き上げるための措置であり、この特別措置は、俗に〈摂政進級〉と呼ばれることになる。
除隊者は、軍管区司令部に設けられた特別復員窓口へ並び、官給品を返還して、軍籍を喪失する。希望者は軍服を引き続き所持することを許され、大半の者がこれを希望して、軍服を纏ったまま帰ってゆく。官給品や軍装のうち、武器弾薬を紛失した者は別室へ呼び出され、取り調べを受ける。
シックルベールも、蛇のように伸びた列に数時間並んで、ようやく手続きを終えることができた。
「失敬。貴方は、ラトル・シックルベール師ではないか?」
手続きを終え、英雄譚を題材にしたステンドグラスを背に、南部軍管区司令部の大階段を降りるシックルベールであったが、背後から声をかける女がいた。
シックルベールが振り返ると、そこには中佐の階級章を帯びた長耳族系の女が立っている。
「――失礼ですが、どこかでお会いしましたか? 中佐殿。」
「ああ、やっぱりシックルベール師だ。読みましたよ、『塹壕からの素描』。あれは良いものだ。」
シックルベールのこの女に対する第一印象は〈話を聞かない女〉であった。
「その〈師〉というのは、やめてください。僕はしがない絵描きです。先生でもなんでもない。
第一、あれはカーレス――フォージライト教授が作ってくださった本で。」
「ではシックルベール殿。貴方も、〈中佐殿〉というのは、やめてほしい。
私はエルマ・セラ・ギユーリン。元飛行士で、今は民間軽便機の操縦士をやっている。」
「ギユーリン、さん? ――あの〈空飛ぶ女王〉?」
「懐かしい呼び名だ。そう呼ばれると面映い。しかし、名乗るまで気づかれないとは。」
ギユーリンが自嘲的に笑うと、シックルベールも苦笑しながら、二の句を継いだ。
「いくら私が画家でも、貴方の顔なんて見えませんよ。
――こうも逆光ではね。」
それを聞いて、ギユーリンが高笑いする。この飛行士には、不思議とそういう演劇めいた振る舞いが似合っていた。
「これは、これは重ねて失敬したね、シックルベール殿。
お詫びと言ってはなんだが――この後、一緒に飛ばないか。」
***
帝国暦一八一九年五月五日、帝国南部の地方都市、ミウバエッヘの西、〈死の領域〉の上空。
シックルベールは、あれよあれよという間にギユーリンに連れられて飛行場へ行き、そのまま機上の人となっていた。
「今日の任務は、地元の郷土防衛隊の依頼でね! 〈死の領域〉の空中偵察だ! 気分はどうかね!?」
軽便飛行機の騒音に負けまいと、ギユーリンが声を張り上げる。
「なぜ僕がここにいるのかわからないことを除けば! 最高の気分ですよ!」
同様にシックルベールが声を張り上げる。
「私はね、貴方の絵には躍動感が足りないと思っていたんだ! だから、こうする!」
ギユーリンが操縦桿を傾けると、機体が宙を舞い、シックルベールは眩暈に襲われた。
「なんてことをするんですか!」
シックルベールが抗議すると、ギユーリンはやはり、高笑いで応じた。
「気は晴れたかね!」
「何?!」
「先刻の貴方は、まるで葬列に向かうような顔をしていたぞ! 何があったんだね!」
ギユーリンの問いに、シックルベールが脳裏で言葉を紡いでいると、機体が急旋回した。
「今度は何です!」
「――シックルベール殿。〈敵〉だ! 巻き込んでスマン!」
ギユーリンの顔は、先程までの悪童のような笑顔から、戦士のそれへと変わっていた。
シックルベールが機体の後方へ目を向けると、大きな鳥が目に入った。
追われている。シックルベールはそう直感した。
「武装は! あれは妖魔でしょう!」
「ない! これは民間機だと言ったろう! ぶつかられたら終わりだ!」
「勝算は!」
「それもない! 直感だが、本気を出せば奴さんの方がおそらく速い! 今はまだ遊ばれているだけだがね!」
ギユーリンの操縦桿さばきに合わせて、再び機体が激しく宙を舞う。その動きに合わせるようにして、鳥も宙を舞いつつ追ってくる。
「ここで仕舞いかもしれん! 先に謝っておく! 本当にスマン!」
「謝る前に! 生き延びる努力をしてください!」
「準備のない努力はね! やけっぱちというのだ!」
機体は激しく運動するが、鳥が諦める気配はなく、鳥は徐々にその速度を増しているように思われた。
シックルベールは、目を凝らして鳥を観察しようとする。
(何か弱点はないか。何か、特徴はないか。何か――。
ああ、カーレス。貴方が居てくれれば。)
その鳥は大きさこそ異様であったが、シックルベールは確かに、見覚えがある気がした。以前まで、慣れ親しんだような、そんな予感がした。
今は亡き戦友にして学友と共に眺めた数々の景色の中に、それは確かにあったはずである。
「――鳩だ!」
シックルベールの中で、何かが繋がった。
「鳩?! あれがかね!」
「間違いない! 軍用の伝書鳩! それと同じですよ!」
「なら速さは折り紙つきだな! これで――」
ギユーリンが肩を落としながら叫ぶと、シックルベールは一段と大きな声で叫んだ。
「上へ! とにかく上へ飛んでください!」
反射的にギユーリンがそれに従う。いずれにせよ望みがないのなら、少しでも高い場所で死にたかった。
***
「それで、なぜ上へ飛べば安全とわかった?」
ミウバエッヘ飛行場へ命からがら辿りつき、タラップを降りるなり、ギユーリンはシックルベールへ問いかけた。
あの後、なぜか鳥型の妖魔――シックルベールが大鳩だと言った妖魔は、確かに追ってこなかった。
「鳩という鳥は、速力こそ一級品ですが――案外、高くは飛べないんですよ。特に、訓練を受けていない鳩が、速く飛ぶ時には。」
「それだけかね?」
「はい、それだけです。」
シックルベールのあっさりとした答えに、ギユーリンは快活さを取り戻したのか、やはり演劇じみた高笑いを見せた。
「気に入った。気に入ったぞ、シックルベール殿! 私の友となってくれないか!」
「――友達なら、〈殿〉もやめてください。」
「では、今日から君は私の友だ。よろしく頼むぞ、ラトル。」
「ありがとう、――エルマ。」
そう言って、今度はシックルベールも、演劇じみた高笑いで応じた。