「共和国、ありゃあ豊かな国ですよ。
工業力じゃあ帝国や連合王国に及ばないが、食文化がね、段違いだ。
飲んだことあります? 共和国産のワインと、ブランデー! 私はね、共和国の文化交流使節の案内をした時に、おこぼれで少し。」
――『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年五月二十四日、帝都バーレンハイム、摂政仮宮殿。
摂政官房長、フォルトゥ・ノ・アジリエは、元帥摂政公ミルダネスから、夕食を共にするよう命じられた。
戦前、アジリエは帝国皇帝セラレス四世の最側近として知られた。特に、ミルダネスが砂海大陸での植民地戦争に従軍している間、宮廷におけるセラレス四世の私的相談役と言えばアジリエを指した。
アジリエは語学堪能であり、周辺諸国の風土慣習に明るく、長く外務省に出仕して外務省政治局高等参事官にまで上り詰め、高等参事官在職のまま宮廷でもいくつかの名誉称号を受けて皇帝官房に出仕し、帝国の外交政策に隠然たる影響力を及ぼしていた。世界大戦開戦に至るまでの数代の外務大臣は、いずれもアジリエの息のかかった貴族または官僚であり、外務省におけるアジリエの影響力は外務大臣のそれを実質的に上回っていた。ある新聞記者は、アジリエを指して「〈外務省の黒幕〉、帝国外交の設計者」と書いた。
その影響力は、ひとえに帝国皇帝セラレス四世の寵愛ゆえである。ミルダネスと並んでセラレス四世の皇孫教導官を長く務めたアジリエは、海外勤務で帝都を離れがちであったミルダネスと対照的に、外交官であるにも拘わらず海外勤務が比較的短く、その短い海外勤務の合間にも、合間を縫って帝都へ出張し、セラレス四世に海外事情を伝える進講役を務めた。アジリエの海外勤務が入省同期の外交官と比べて比較的短かったのも、アジリエを手許に置き続けたいセラレス四世の意向が強く働いた結果であると言われている。
しかし、帝国の外交政策がついに破綻し、共和国との国境紛争をきっかけに世界大戦が勃発するに及ぶと、必然的に外交官であったアジリエの存在感は希薄となり、セラレス四世の側近は主戦派や実務派の軍人で占められるようになっていった。
アジリエは変わらず皇帝官房に出仕し続けたが、セラレス四世から往時ほどの関心を抱かれることはついになく、そのままセラレス四世の退位と亡命により、アジリエの地位は宙に浮いてしまった。セラレス四世の退位と共に旧内閣が総辞職すると、開戦によって停滞していた高級官僚人事にも一斉整理が行われ、アジリエも外務省高等参事官の職を解かれた。宮廷における名誉称号は維持されたが、セラレス四世が他の側近とともに亡命した結果、皇帝官房そのものが有名無実となり、アジリエは戦時中以上に〈過去の人〉となっていた。
ところが、ミルダネスが元帥摂政公となると、アジリエはにわかに再注目されることとなった。ミルダネスが摂政である以上、国家行事や宮廷行事は部分的に復活する。そうなれば、国家行事や宮廷行事をつつがなく執行することのできる側近が必要となるのは、当然の帰結である。
しかし、皇太女博士宮ヴィクタリースの側近たちは学者、実務官僚、資本家などから成っており、この種の象徴的行事の執行には向かない。しかも、彼らは帝国政府や各界の中枢で実働しているのであり、これをヴィクタリースの側近から引き剥がして名ばかりの国家行事や宮廷行事に従事させることは得策ではない。
その一方で、皇子中将宮ヴァイネスの側近たちは大半が軍人、官憲、そして一部が軍需産業関連の資本家であり、これらもまた、帝国軍や軍需産業の中枢で実働している。特に敗戦の折、ここから有為の人材を引き剥がすことはできない。
そもそも、戦前からのセラレス四世の側近の多くが、戦時中に皇子中将宮ヴァイネスの存在感が増大するにつれて、武断派はヴァイネスの側近に鞍替えして皇子派を形成し、文治派はヴィクタリースの側近に鞍替えして皇女派を形成しており、セラレス四世の近侍に残ったのは、そのいずれにも乗り遅れた者、あるいはそのいずれからも拒絶された者達であった。それこそ国家行事や宮廷行事の有職故実に通じた軍人、官僚、名士たちであり、国家行事や宮廷行事の有職故実に精通していること〈のみ〉が存在価値であったような人物である。
このような次第であるから、戦前の外交政策の破綻によって事実上失脚し、〈過去の人〉であったアジリエが、同じく〈過去の人〉から再発掘されたミルダネスの側近として招聘されたのは、必然である。失脚している故にセラレス四世の亡命に同行せず、かつての亡命貴族の末裔として社交界の有職故実に通じ、外交官として国際儀礼や諸外国の風土慣習に明るく、宮廷への出仕が長く国家行事や宮廷行事の実務にも詳しいアジリエは、肌に合わぬ摂政職に辟易したミルダネスにとって、最適の番頭役であった。
〈評議員たちの蜂起〉を収集したミルダネスが摂政府の体制を固めるにあたり、摂政官房長にアジリエを指名し、彼に空中分解していた旧皇帝官房の再編を命じたとき、異論を述べる者は誰一人としていなかった。アジリエは優秀であるが、同時に帝国の内政にとって無害でもあるとみなされていた。
アジリエは同様にセラレス四世の亡命に同行できなかった側近たちや旧皇帝官房の職員たちをほとんど横滑りで再編し、臨時政府や帝国軍への干渉を巧みに抑制しつつ、有能かつ無害な摂政府を立ち上げてみせた。
***
アジリエはミルダネスの身の回りの世話を、なるべく自分で受け持つよう差配した。そうすることで目下の主であるかつての同僚の側近としての地位を、物理的に確保することができる。人は誰しも、近侍し世話を焼く人間に親近感を抱き、重用するものである。
二度目の失脚を繰り返さぬためにも、アジリエはミルダネスに忠実に仕えていた。
しかしながら、夕食を共にするよう命じられるのは、これが初めてのことである。
「フォルトゥ。こうして君と夕食を共にするのは、何年ぶりのことだろうか。」
ミルダネスが、食後酒のグラスを卓上へ置きながら、アジリエへ語りかけた。
「公が御領地に隠棲される直前のことでしたから……十年前のことでしょうか。
あれは、秋でしたな。風のよく通る日でした。」
アジリエはそれほど間を置かずに、ミルダネスの問いに即答した。
アジリエの記憶力は宮中屈指である。ある時、セラレス四世が座興として側近たちに知能検査を受けさせようとしたことがあったが、最初に検査を受けたアジリエが異様な高得点を叩き出したため、誰もが馬鹿馬鹿しくなり、沙汰止みとなったほどであった。
「そうか。まだケーレンがはな垂れ小僧だった頃か。
あの頃の君には生気がみなぎっていたな。」
十年前、ミルダネスはセラレス四世に確かに信頼されていたが、その一方で、敬遠されてもいた。外交においても軍事においても積極策を好んだセラレス四世に対して、ミルダネスはあくまで慎重策を好んだことから、次第にセラレス四世はミルダネスを疎むようになり、それを察したミルダネスは引退を願い出て、元帥号以外の一切の官職を返上して隠棲した。
「あの頃は、世界のすべてが意のままになると息巻いておりましたからな。
しかし、あの頃の皇太女博士宮殿下のお言葉、覚えておいでですか。」
対して十年前のアジリエは、セラレス四世に盛んに積極策を献策し、その歓心を買って、宮中でも最有力者となっていた。
「『逃げるのですか、爺や』。そう言われた。ちょうど『統治という職責』を書き上げられた頃だったか。」
「しかし、公は戻ってこられた。思えば、皇太女博士宮殿下は、私ではなく、公こそがまた必要になると、分かっておいでだった。私が太上皇帝陛下に近侍できなくなったときには、何も仰せになりませんでしたからな。」
「殿下には殿下の、人には人の思惑があるということだ。しかし、実際のところ世界がどう転ぶかなど、分かったものではない。」
「まことに。わからぬものです、歴史というやつは。」
アジリエが肩をすくめると、ふたりは目を合わせて笑った。
そして、笑いが落ち着いた頃。ミルダネスが切り出した。
「さて、その当時に、小耳に挟んだことだが。
――君が〈共和国通〉と見込んで、聞きたいことがある。」
ミルダネスの言葉を受けて、アジリエは、微かに片眉を上げた。
***
元来、アジリエ家は古帝国が各地に派遣した巡察神祇官の末裔である。古帝国各地に存在した神殿の管理と監察を職掌とした巡察神祇官は、やがて古帝国の属州間の連絡役となり、古帝国の地方長官が土着化・自立して諸君侯となると、これら諸君侯の連絡役、すなわち外交官としての性質を帯びるようになった。
古帝国西部の農業地帯を統一した君侯が〈大王〉を称して皇帝の宗主権からの離脱を宣言すると、当地に土着化していたアジリエ家もまたこれに従い、帝国暦十五世紀に大王国最後の王朝が王統を継いだ時、傍らにあってこれを最も熱烈に支持した。
帝国暦十五世紀には、大王国における教派対立が激化しており、それが王位継承争いと複雑に関連して、幾度もの内戦が繰り返されていた。アジリエ家は巡察神祇官としての出自から、これらの対立を仲裁し、宗教寛容を旨とした王統統一と国内平和を追求し、ついにこれを成し遂げたのである。
しかしながら、大王国における宗教寛容は、やがて〈光輝王〉と呼ばれた大王が親政を開始すると、ついに破綻する。〈光輝王〉は宗教寛容を国家の堕落と断じ、自身が崇拝する太陽神のみを唯一至尊の最高存在として、他の神殿を徹底的に破却した。〈光輝王〉は太陽神以外を崇拝する都市や村落に大王騎兵隊を差し向け、表向きは地方巡察と称して一般家庭に宿営させ、実際には徹底的な威嚇や侮辱、略奪や破壊を通じて、非太陽神信徒を〈自主改宗〉させた。
〈光輝王〉は「ひとりの大王、ひとつの神殿、ひとつの国家」を追求し、ついに帝国暦十六世紀後半には、太陽神信徒以外の公職就任を禁じ、猶予期間経過後の国外脱出を禁じた。これを受けて、大王国からは多数の非太陽神信徒が脱出を試みたが、成功したのはごく短い猶予期間内に脱出を試みることができた者であり、その多くは貴族、資本家、そして手に職を持つ自営業者の類であった。そしてその脱出の列の中に、アジリエ家もまた、存在したのである。
大王国からの亡命者たちの向かう先は、大半が陸路で接する帝国や低地諸国連合王国、都市国家連合であり、また一部は海峡を渡って連合王国へと辿りついた。特に熱心に亡命者を受け入れたのが帝国、特に祖国統一戦争前のボレアニス朝であった。最盛期には、帝都バーレンハイムの人口の三分の一は大王国からの亡命者であったと伝わる。
そして、アジリエ家をはじめとする亡命貴族の多くは、ボレアニス朝によって帝国の高級官吏や軍人・官憲として登用された。国力に優れ、中央集権化著しかった大王国で行政実務を経験した亡命貴族たちは、国家統一を目指すボレアニス朝にとっては垂涎の人材であった。また、資本家や自営業者に対してもボレアニス朝による積極的な支援が行われ、このことが帝国の資本蓄積と近代における工業化の一助となった。
対する大王国において資本蓄積が遅れ、また工業化が遅れた原因のひとつとして、この非太陽神信徒の大量亡命を挙げる歴史学者・経済学者は多い。
アジリエ家がボレアニス朝に高級官吏として登用されるにあたり、最も適職な官職と考えられたのが、外交官である。そもそも巡察神祇官に端を発し、以来外交交渉と仲介を家職としてきた名家であるから、これは当然の帰結であった。
アジリエ家をはじめとする大王国からの亡命貴族の外交・軍事方針には、固有の特徴が見られる。
第一に、大王国――そして後には共和国に対する、抑止外交。植民地における膨張主義と、それに裏付けられた本国における富国強兵主義を追求し、武力による威嚇も辞さずに、大王国、そして共和国の帝国に対する領土的野心を抑止する。
第二に、前段と矛盾するようであるが――対大王国、そして対共和国非戦主義。抑止のためには瀬戸際外交も辞さず、従って強硬策を採る一方で、抑止外交と武力による威嚇を、あくまで外交交渉上のカードとみなす傾向があった。
第二の特徴が、高級官吏としての合理的計算から生じたものか、それともかつての祖国への郷愁から生じたものかは、判然としない。おそらく、両者を区別することには、さしたる意味はない。
歴史的事実として、フォルトゥ・ノ・アジリエが帝国外交の設計者として追求した対共和国外交は、他の誰よりも悪辣にして強硬であった。そしてまた、フォルトゥ・ノ・アジリエが追求した、開戦に至るまでの対共和国交渉もまた――他の誰よりも平和を希求していた。
***
「十年前。私が、帝国軍総司令官であった頃――情報部長だったマルクヴォーから、頻繁に報告があった。」
ミルダネスは、摂政官房長、フォルトゥ・ノ・アジリエの瞳を見つめ、淡々と言葉を紡ぐ。
「アジリエ高等参事官が、秘密裏に共和国系の知識人と文通している。共和国諜報員の疑いのある人物と、会食している。そういった内容だ。」
「――ミルダネス公。私は。」
「今更、追求しようというのではない。当時の我々の政治力では、皇帝陛下の覚えめでたい君を告発することなどできなかった。そしてまた、内定結果は常に〈保留〉のままだった。
君が、共和国に複雑な感情を抱いていることはわかっている。それこそが、君の外交官として、政治家としての識見を支えていることも。」
ミルダネスがアジリエの言葉を遮ると、アジリエはミルダネスから目をそらさずに、言葉を重ねる。
「ミルダネス公。私は、帝国に忠誠を誓っています。もっと言えば、帝国の〈国益〉に。
ですから、そのためなら――いかなる手段でも用いましょう。」
しばしの沈黙の後、ミルダネスが言葉を継いだ。
「私も、帝国に忠誠を誓っている。皇帝陛下が去られた今は、君と同じく、国益に忠誠を誓わねばならん。
――その上で聞く。〈対妖魔戦力整備拡充要綱〉。あれはどうだ。」
「巧妙ですが、極めて危険です。扱いを誤れば、帝国の国際的立場を回復不能なまでに損なうでしょう。」
「復員兵が職もなく路頭に迷っている。妖魔の活動も未だ活発だ。何も対策を取らなければ、国内の不満が爆発するか、辺境地域が妖魔に飲み込まれるかのどちらかだ。」
「代替案があるかもしれません。」
アジリエは、慎重に言葉を選びながら続けた。
「復員兵の問題と妖魔対策は、連合国も関心を持つ課題です。特に国境地域での妖魔の活動は、共和国にとっても脅威。もし、この問題を〈国際共同事業〉として提案すれば、あるいは。」
「共同、事業? 共和国と我々が?」
「はい。表向きは、文民による、民間の妖魔対策組織として、連合国の監視下で。
代わりに、経済支援や妖魔対策の技術協力を受ける。休戦協定の枠内で最大限の柔軟性を引き出す道がありましょう。」
ミルダネスは再び沈黙し、しばし逡巡した。
「――フォルトゥ、君は。共和国の反応をどう予想する?」
「共和国は表向き、反発して見せるでしょう。それも、強く。
しかし、実際には交渉の余地があります。彼らも帝国の崩壊や妖魔の脅威拡大を望んではおりません。」
「それならば。君の〈知人〉に、我々の苦境と誠意を伝える機会が欲しい。」
「非公式に?」
「ああ、非公式に。」
「公のご意向を体しまして、〈知人〉に当たりましょう。」
「名目はどうしたものか。私が共和国人と対面するとなると、周囲も色めき立つ。」
「それならば、腹案が。」
「文化交流使節。その名目で特使を迎え、共和国系亡命貴族の親善会を開きましょう。」
アジリエは淡々と言い放つと、手元のグラスを勢いよく傾け、酒精を呷った。