「砂海旅行でサンスンブラ趣味の建物を見つけたら、気をつけろ。
きっと、妖魔が住んでいる。」
――『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年六月十日、帝都バーレンハイム近郊、サンスンブラ。
サンスンブラは、帝国暦十四世紀に帝室御猟場として選ばれて以後、いくつかの帝室離宮や貴族狩猟館を中心として、行楽地・別荘地として発展してきた。
この湖沼地帯は、歴史上最後の氷河期において、北方大氷床が形成した氷河地形である。氷河の移動と融解によって、氷堆丘と水路網が多数削り出され、複雑に入り組んでいる。その帰結として、独特の景観と豊かな生態系が育まれた。
かつて、バーレンハイムが東方の諸種族衝突の前哨地たるレギスヘーエンの後方基地であった頃、サンスンブラ一帯の水路は内陸の補給路として重宝され、その豊富な生態系はバーレンハイムに対する蛋白供給源として活用された。むしろ、サンスンブラ一帯の水路と生態系の存在によって、バーレンハイムが造営されたと見る歴史学者もいる。
そして交易路が十分に整備されサンスンブラの水路と生態系がバーレンハイムにとってもはや必要不可欠なものではなくなった頃、当時の帝室は、サンスンブラに新たな価値、すなわち御猟場にして行楽地という価値を見出した。
元来、帝国北部、特に洪海沿岸は地形の起伏に乏しい平坦な平野地形である。対するサンスンブラ一帯には、氷河が削り出した氷堆丘があり、また水路網があって、これらが緩やかな丘陵地帯を形成している。豊かな生態系は狩猟における確かな収穫を保証し、緩やかな丘陵地帯は城館造営における豊かな視覚効果を保証した。平素の政治・生活空間とは異なる地形条件が、非日常の政治・生活空間としての離宮・狩猟舘群の成立を可能としたのである。
サンスンブラにおいて、氷河が削り出した借景を背に、王侯貴族は狩猟と舞踏、対話と思索に興じた。豊かな自然環境は人々の気分を開放的なものにし、丘陵地帯による緩やかな孤立は、王侯の孤独な内省を助けた。大陸史において、自然が自然であること、ただあるがままの地形が、これほど空間の政治性を左右した例は、他に類を見ない。
そしてまたサンスンブラは、帝国暦十六世紀に大王国からの亡命者が大挙して帝国へ移住した当初、帝都バーレンハイムに次いで、その中心地となった。他ならぬサンスンブラの離宮において、時の帝国皇帝が宗教寛容令を発して、大王国からの宗教難民の積極的受容を宣言したからである。
この〈サンスンブラ勅令〉は、第一に大王国からの亡命者に対して、皇帝直轄領に対する自由な入国と居住、そして帰化手続きの簡便化を認めた。第二に、従来帝国において認められていた信仰の自由を再確認した上で、大王国出身者が、大王国での信仰的紐帯に基づいた独自の神殿組織と学校組織を設立し、大王国様式で典礼と教育を行うことを許可した。第三に、租税上の特別措置、すなわち移住後一定期間の免税措置など、経済的な優遇を与えた。そして第四に、職業活動上の便宜を与え、商工業者・職人などの自営業者に対して、同業組合規制の一部免除や土地家屋の取得援助を含む営業上の便宜を図った。また、これと併せて、就農を求める者には未開拓の土地や開拓に必要な資材、家畜、建材などを一切の代償・借款なしに支給し、開拓達成地の私有を認めた。
特に、第三の租税上の特別措置と第四の職業活動上の便宜によって、大王国からは多数の資本家と自営業者が帝国へ移住することを決意し、勅令が発せられたサンスンブラは、その移住先の代名詞となった。サンスンブラに定着した彼ら亡命者は、やがて育んだ資本と技術を携えて帝国各地へ散らばり、その近代化に大いに寄与することとなる。
そして、現代においてもサンスンブラは、共和国系帝国人にとって、一種の原風景とみなされている。サンスンブラこそは、帝国における彼らの始まりの地であった。共和国系帝国人の中には、自らの家系を指して〈サンスンブラ系帝国人〉と称する者もある。帝国社会一般においても〈サンスンブラ趣味〉と言えば、共和国文化に対する愛好を意味した。
サンスンブラの中心に位置する迎賓館〈新客殿〉は、サンスンブラ趣味の最たるものである。帝室離宮に隣接して造営されたこの迎賓館は、その当初から、大王国からの亡命貴族を迎えるために設計されたものであった。その改築には多数の亡命貴族が関与し、迎賓館でありながら、彼ら亡命貴族に限っては、この建物を自家の別荘として用いることを許された。亡命貴族にはそれぞれの個室があり、アジリエ家もまた、この〈新客殿〉に個室を保持している。
そしてこの日、〈新客殿〉において、共和国系貴族や共和国系名士が交歓する親善会が開かれていた。名目上の主催者は、帝国国際文化協会名誉会長である皇太女博士宮ヴィクタリースであったが、公務多忙を理由として〈帝国貴族筆頭たる公爵家の家長〉、すなわち私人としてのミルダネスを名代として派遣していた。
「ミルダネス公。こうして再びお目にかかれましたこと、誠に光栄に存じます。」
長耳族の共和国文化交流使節、スタネリア・ノ・エテルスタンが、ミルダネスに一礼した。
少し癖のあるゆったりとした黒髪に、切れ長の目、やや厚い唇、優美だが今にも泣き出しそうな表情。この女の顔を、ミルダネスは一度として忘れたことがない。
エテルスタンは今でこそ一線を退き、共和国文化連盟の総裁に収まっている。しかし、ミルダネスの知るエテルスタンは、優美でもなければ、泣き顔を晒すような女でもなく、ましてや文化的でもない。――〈文明的〉ではあったとしても。
「エテルスタン総督。あなたが砂海の灼熱と大海の波濤を乗り越えて大陸へ戻られたことに、まずは祝福を。」
ミルダネスもまた一礼し、グラスを掲げる。
スタネリア・ノ・エテルスタン。彼女は共和国海外領土省の事実上の立役者であり、共和国砂海植民地の総督職を歴任し、現在に至るも共和国植民地全域にその人脈を保持する、共和国植民地統治の象徴そのものである。
「御身のご健康にも祝福を!
――でもわたくし、砂の海でも、水の海でも、どこへでも参りますのよ。共和国文化を世界に広げる使命のためなら。」
「御両所のご健勝と、両国の繁栄に!
――エテルスタン殿。この湖もお気に召しましたかな?」
ミルダネスの傍らに立つアジリエが、グラスを掲げつつ、エテルスタンへ問いかける。
エテルスタンが恍惚とした笑顔を見せ、応じた。
「この湖沼地帯! 本当に素晴らしいものですね。
どこを見ても、まるで祖国に帰ってきたかのよう!」
エテルスタンの恍惚は、ミルダネスとアジリエの見るところ、演技ではない。エテルスタンは、心の底から祖国に帰ってきたようだと感じ、恍惚を覚えている。
***
共和国砂海植民地総督スタネリア・ノ・エテルスタンは、共和国軍元帥フェルテナ・ホスと共に、砂海における植民地拡大・保持とその統治に、多大な成果をあげた。
ミルダネスの見るところ、砂海大陸におけるホス元帥は、脅威ではあった。ミルダネスが早々に諦めてしまったような難所を落とし、易々と現地部族を屈服させる。ミルダネスなら手持ちの戦力の消耗を恐れて迂回するような〈死の領域〉を突破して、資源地帯を確保する。もしもホス元帥があと十年早く生まれ、ミルダネスと初期の植民地争奪戦を戦っていたなら、ミルダネスの今日の名声と栄光はなかったであろうと、ミルダネスは思っていた。
しかし、エテルスタン総督は脅威ではない。彼女が保持しているのは、植民地憲兵と植民地政庁であって、植民地軍ではない。ミルダネスにとって、エテルスタン総督は脅威ではなく、〈死と恐怖〉そのものであった。
エテルスタン総督は、その限りある暴力を帝国に向けなかった。敵対する現地部族にも向けなかった。彼女がその暴力を向けたのは、すでに投降し恭順した植民地人と、もとより共和国人であったはずの入植者に対してであった。
とはいえ、エテルスタン総督率いる植民地政庁は、その植民地統治において、一部の凶悪犯罪者を除き、誰一人処刑していない。植民地を積極的に開発し、高度な教育を施した。エルスタン総督は共和国砂海植民地の経済を富ませ、確かに文明を伝えた。
彼女が奪ったのは、植民地人と入植者の、生命以外の全てである。
つまり、言語と方言、文化と慣習、自由と思想。
エテルスタン総督の植民地憲兵は、現地語や入植者方言を話す植民地人と入植者に、徹底的な暴力を加えた。エテルスタン総督の植民地学校は、植民地人と入植者の独自文化や慣習から子供たちを隔離し、〈洗練された〉共和国文化を伝道した。エテルスタン総督の植民地報道機関は、植民地人と入植者の民謡と文学を〈正統〉に〈復元〉し、流暢な共和国音律と正確な共和国標準語に矯正した。
今日の共和国砂海植民地の現役世代において、統計上も実質的にも、独自の言語と方言、文化と慣習なるものは存在しない。全て矯正されてしまったからである。
エテルスタンは〈文明人〉である。彼女は大王が興し、民衆が継いだ共和国の文化を愛し、それを〈恵まれない人々〉に伝道した。
「闘いは終わりました。文化は戦争に対して勝利を収めました。
だからわたくし、共和国文化を、もっといろいろな方に教えて差し上げたいの。」
エテルスタンは今も、〈共和国文化〉を愛していた。
***
帝国暦一八一九年六月十日、サンスンブラ〈新客殿〉、〈碧玉の間〉。
砂海大陸産の赤碧玉と、ミウバエッヘ近郊の大理石で装飾されたこの部屋は、〈新客殿〉の中でも最大の舞踏室であり、建物の中央のドームの下に位置する。
天井には〈神々の祝宴〉と題するレリーフが取り付けられている。神々の像は帝国各地で産出する銘石で作られており、帝国に貢献した英雄たちの顔を造形上の参考としていた。帝国で新たに英雄が顕彰される度に神像が追加されたが、世界大戦勃発を機に、その更新は止まっている。
レリーフのうち、最新の神像は〈戦神像〉であった。レギスヘーエン近郊で産出する琥珀と砂海大陸産の黒御影石を用いて作られた、戦旗を片手に持った男神の像である。
「確かに、よく似ておいでですね。そして造形は、やはりどこか共和国風です。」
共和国文化交流使節、スタネリア・ノ・エテルスタンは、そのレリーフを眺めながらつぶやいた。
「改めて見ると、鏡に映る自画像以上によく出来ておりますよ、エテルスタン総督。
造形が共和国風なのは、やはり今もサンスンブラに共和国系の職人が根付いている証拠でしょうな。」
ミルダネスは、この神像を見たことがない。外交官ではなく、政治への干渉を嫌ったミルダネスにとって、外交とは砂海大陸の天幕や要塞や現地民の小屋で行う実務交渉であり、サンスンブラの迎賓館で行われる舞踏会ではなかった。
「しかし、こうもがらんとしていては、少し寂しいものですね。」
今、この〈碧玉の間〉には、エテルスタンとミルダネスのふたりしかいない。ただ、広い舞踏室の中央に、小さな円卓と、近世大王国様式の肘掛け椅子が置かれているだけである。
表向き、〈碧玉の間〉の謂れを共和国文化交流使節に案内するため、という名目で人の出入りを禁じているが、ミルダネスにはそのための知識がないし、エテルスタンもそんなことは求めていない。
「そう、寂しいものです。僚友がいないというのは、誰にとっても。」
ミルダネスのその言葉に、エテルスタンの目つきが変わった。
「だからといって、ひっきりなしに人が出入りする場所というのは、困りますね。
特に、兵舎や天幕というのは、落ち着いて静かな方が良いものです。」
「しかし、それでは寂しいと思うのも人情ではありませんかな?」
「何度も舞踏会を開かれては、浮き足立ってしまうのが隣人の気持ちというもの。」
「では、隣で何度も舞踏会を開かれたなら、あなたはどうされます?」
「そうですね……わたくしが何も持たぬ小市民であったなら、乗り込んでいって、暴れてしまうかもしれません。」
エテルスタンは、口元を押さえてくすくすと笑った。
「それでは大荒れになりますな。何しろ、この辺りには野良犬が多い。」
「ええ、そうなんです。野良犬が増えすぎると、隣人としても困ってしまいます。
隣がほどほどに賑やかで、ほどほどに穏やかでないと。閑散としても、騒然としても野良犬は寄ってきます。」
「とすれば、隣人としてはどうされます?」
「わたくしは幸い、何も持たぬ小市民ではありません。
作法を知らぬ小市民とは異なり、乗り込んだ後も、暴れる以外のことができます。」
「暴れる以外のこと?」
「そうです。わたくしはそのために参りました。」
エテルスタンが立ち上がり、ミルダネスを見下ろす。
「ミルダネス公。隣人として忠告を。
わたくしたちは、軍人さんばかりの粗野な舞踏会を望んでおりません。
剣舞や儀仗は必要でしょう。しかし、楽器にするには大きすぎるような大道具は困ります。」
「野良犬を追い払い、舞踏会を盛り上げるための小道具であれば?」
「それもいいでしょう。適度な喧騒は必要です。
そしてもうひとつ、ご忠告を。」
エテルスタンは席を離れ、ゆっくりと歩き出す。
床を踏みならす硬質な音が響いた。
「舞踏会の主催者について、どのようにお考えです?」
足音が響く。その音は優美で、静かで、しかし確かだった。
「我が国では、主催者は決まっております。今は遠いところにおいでですが。」
ミルダネスは、自分の老いた心臓が脈打つのを感じる。
「それはいけません。乱痴気騒ぎを起こして隣人を不眠にしてしまうような主催者の再登場は、許容できません。
もちろん、ミルダネス公。あなたも主催者にはできません。あなたは主催者として魅力的すぎて、舞踏会があなたひとりのものになってしまいます。
――私的な舞踏会は、もう終わり。」
足音が弧を描きながら、徐々にミルダネスに近づいてくる。
「では、どうしろと?」
ミルダネスは、荒くなりつつなる呼吸を抑えながら、そう絞り出し、瞑目した。
背後から、足音がする。
「――一緒に、踊りましょう?
わたくしたちが息を合わせれば、妖魔とだって踊れます。」
エテルスタンの囁きは、あくまで透き通っていた。