「あれはいいものだった。
そりゃあ、飛行機ほどの速度は出ない。飛行場の整備も大変だ。
できないことは山ほどある。
ただ、あの圧倒的威容。それだけは、飛行機にはないものだ。」
——『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年七月十日、帝国北西部の都市、アクレギア。
アクレギアは帝国の隣国、低地諸国連邦王国との国境地帯に位置する。歴史的経緯も手伝って低地諸国連邦王国は伝統的に帝国の友好国であったことから、帝国西部にあっても世界大戦の直接的な影響を受けず、都市は平穏そのものであった。
そして、むしろこの都市は、世界大戦によって好況を享受した数少ない都市のひとつである。
有毒ガスが多数噴出するこの一帯には、元々鬼人族の築いた城塞都市があり、現代でも山間部にその遺構が残る。先史時代の巨石文明の流れを汲む鬼人族の城塞遺構は、多数の考古学者の関心を集めた。
しかし、アクレギアを最も特徴づけるのは、有毒ガスでも、鬼人族の遺構でもない。
幾度の遠征の果てにアクレギアが古帝国に征服されると、古帝国はこの地に、新たな価値を見いだした。
鬼人族との戦いで傷つき疲れた兵士たちが、せめて戦塵を落とそうと天然の湯溜まりに身体を浸すと、戦傷が癒え、活力を取り戻した——。その報に接した古帝国の元老院は、この地に公衆浴場を整備し、帝国全土から傷病者を集めるよう号令した。
各都市からこの地へ街道が整備され、上下水道が地下深く整備され、そして源泉から平地へ温泉が引かれた。鬼人族の城塞に用いられた巨石はそのまま公衆浴場の礎石となり、有毒ガスがあふれる死地は、人々を癒やす湯治場へと一変した。
そして古帝国に屈服したアクレギアの鬼人族は、代償として山間部に存在する源泉の管理権を獲得し、〈死の領域〉と隣り合わせながらも、貴重な定住地を得た。古帝国としては、北西に居住する長耳族系の蛮族に対する国境監視の意味もあって、彼ら鬼人族に特権を保証したのであった。
現代においても、アクレギアの源泉と、その周辺の〈死の領域〉の管理は、現地の鬼人族にのみ認められた特権である。
アクレギアの民謡には、こう伝わる。
「アクレギアの山の中、湯が湧き出るのを見かけたら、触るな隠すな引き込むな。
鬼人の群れがやってきて、おまえの両の手足取り、命もろとも持ってゆく。
この地の湯は血より重い、おまえの命などよりも、だから黙って立ち去ろう。」
近代以降こうした私刑が行われることはなくなったが、時折、鬼人族の言うところの〈街場者〉が山へやってきて温泉を盗掘し、鬼人族の自警団に捕縛されることがある。古帝国時代の勅許により彼ら自警団は盗掘者の所持する財産を自由に処分することを許されていることから、この種の盗掘者はたいていの場合、身ぐるみを剥がされ、文字通り裸一貫でアクレギア市警に引き取られることになる。なお近年はアクレギア市警の苦情により、下着のみ着用を許されることが多くなった。
このような次第であるから、アクレギアには湯治客をもてなすための宿場町が形成され、古帝国以来の公衆浴場が現代においても改修され利用されている。山間部に一歩足を踏み入れれば、鬼人族の砦を見ることもできた。
帝国軍はこの地に保養所を置き、前線で傷を負った軍人が、休暇としてこの地に差し向けられることも多い。無論、そのためには湯治を推奨する医師の診断書が必要であったが、アクレギアは、前線で心身を病んだ将兵が癒やしを受けることのできる、貴重な場所であった。
多数の傷病軍人がアクレギアに押し寄せ、戦時下のアクレギアは好況に沸いた。戦後も、復員兵が途切れることなくアクレギアを訪れた。観光都市であるアクレギアは工業地の誘致に消極的であったから、郊外の新市街の形成もなく、従って革命派の浸透も希薄で、戦中戦後の帝国の動乱にもかかわらず、一種超然とした雰囲気がアクレギアを支配している。
しかしこの日、アクレギアの鬼人族の砦は、にわかに騒然としていた。
***
「どうする。〈街場者〉に通報するか? 私は、通報すべきと思う。」
この地の鬼人族の長キーケが、頭を掻きながら皆に問いかける。
「連中が信じるか? 私たちを。」
列席している鬼人族の若い女が、反対意見を述べた。
「奴らが信じる、信じないではない。ここで通報を怠れば、それは俺達の不信だ。」
別の列席者の男が、キーケの意見に同調する。
この日、アクレギアの鬼人族は、巡回中に発見されたある物をめぐって、頭を悩ませていた。
「写真を撮ったら? 昔、盗掘者から没収したのがあったはず。」
「あのカメラなら、先月、源泉の撮影に行って壊れた。替えの部品はないし、修理に行く時間もない。」
また別の列席者の女が提案すると場はまとまりかけたが、肝心のカメラが故障中ということで頓挫する。
カメラは貴重品である。温泉の盗掘に手を染めるような手合は大抵この地にカメラを持ち込まず、また高級品であるカメラを鬼人族が購入することも稀であった。
貧困ゆえにカメラを買えないのではない。アクレギアの鬼人族は、源泉使用料としてアクレギアの浴場や宿屋から多額の報酬を得ている。アクレギアの貴金属店やカメラ店——これらの店の客層は概して富裕層である——が、彼ら鬼人族にカメラを売らないのであった。
「なら、やはり言葉を尽くすしかない。」
「それでは堂々巡りだ。信じてくれなければ意味がない。」
「絵が上手い者は? せめてスケッチでも持ち込めば、マシなはずだ。」
「五番源泉のトーボは絵が達者。」
「トーボは筆が遅い。速描きなら、八番のギリスの方が良い。」
慢性的に客が足りない画材店であれば、鬼人族相手でも商売をしてくれる。それゆえ、アクレギアの鬼人族の手慰みと言えば、入浴と詩作、そして絵画というのが定番であった。
「——では、ギリスを呼んで、絵を描かせよう。誰か、八番源泉へ使いを。」
キーケがそう告げると、キーケと目の合った鬼人族の女が黙って頷き、八番源泉と呼ばれる源泉へと駆け出した。
「やれやれ、〈街場者〉との付き合いは、いつでも疲れるが。
あんな物がやってくるのを見過ごしては、防人の名折れぞ。」
キーケが誰にともなく口にした言葉を、否定する者は誰もいなかった。
***
鬼人族の長キーケの遣いが帝国軍アクレギア守備隊山間派出所へ到着し、派出所の入口で使い古されたスケッチブックを立哨に手渡したが、派出所班長を務める穴居族の女は当初、これに真面目に取り合わなかった。
「こんな古ぼけた帳面を渡してどうしようと言うのだ。妖魔対策は君らの仕事だろう。」
そう言い捨てると、スケッチブックに一瞥もくれずに鬼人族に突き返そうとすらした。
直前まで〈一服〉していたと見えて、彼女の身体からは、薬物の煙たい香りが漂っている。
「いいや、お前がこれを見るまで帰らぬ。」
鬼人族らがこう言い張って聞かないので、派出所班長は渋々といった態度で気怠げにスケッチブックを開いた。
そうして最初の一枚をめくると、彼女は硬直し、スケッチブックを取り落とした。
「警報鳴らせ、急げ!」
派出所班長は正気を取り戻すや、ほとんど絶叫と言ってよい命令を飛ばすと、派出所内の机をひっくり返して、長らく使われていなかった〈緊急通報表〉を取り出す。
「守備隊司令部、軍管区司令部、陸軍省に国防省、陸軍参謀本部に帝国軍総司令部……それに外務省?!」
〈緊急通報表〉によれば、今般鬼人族が通報してきた事態は、直属の上級司令部である守備隊司令部のみならず、軍管区司令部に軍中央、さらには外務省にまで即時通報しなければならない重大事態である。
(ここ百年というもの、この北西は平穏そのものだったというのに……。
なぜ、今なのだ。なぜ、私がいるときに。)
派出所班長は己の不運に呪詛を吐きつつ、頭を抱えた。
それと同時に、周囲一帯の拡声器から、けたたましい警報音が鳴り響く。
警報器に連動して守備隊司令部にも第一報が飛ぶことになっているから、いずれにせよ早々に守備隊司令部に通報し、判断を仰がねばならない。
「貴様ら! 〈薬〉を仕舞え! いや、さっさと燃やしてしまえ!」
守備隊司令部に判断を仰ぐということは、おそらく守備隊司令部の遣いがやってくるということである。
そうである以上、派出所班長としては、不祥事の種は消さなければならなかった。
「班長殿! 燃やすと言ってもどこで燃やすのでありますか!」
「ええい、そこらに穴でも掘ってまとめて燃やせ。深く掘れよ、延焼してはかなわんのだ!」
本来はそんな会話をしている場合ではない。しかし、事態は一介の派出所班長の理解と判断を超えていて、彼女たちは完全に恐慌状態に陥っていた。
***
帝国は、低地諸国連邦王国と伝統的に友好関係にある。それゆえ、他の列強諸国には決して輸出されないような物資や製品も、低地諸国連邦王国対しては盛んに輸出されていた。
世界大戦末期、帝国の食糧事情がいよいよ逼迫すると、低地諸国連邦王国とのバーター取引のため、軍需品や戦略物資、工作機械、先端工業製品までもが輸出されるようになる。世界大戦を通じて、低地諸国連邦王国の生活水準、工業水準は飛躍的に向上した。
帝国は、なりふり構わずあらゆるものを輸出して、食料を買い漁った。もっとも、買い漁った食料の多くは西部戦線で蕩尽され、アクレギアのような幸運な例外を除いて、市井に流通することは少なかったが、それでも低地諸国連邦王国との貿易が帝国の台所事情に多少なりとも貢献したのは事実である。
帝国は、実に節操なく輸出を行った。
その中には、たとえば本来戦後の鉄道改革を見据えて設計・製造された高速鉄道車両や、超高精度光学観測装置、静音駆動機関、高規格安全保護へルメットといった、わずかな改良で容易に軍事転用可能な先端工業製品が含まれる。
これは戦時中、帝国議会でも問題視されたが、戦時下の慣性が追求を弱め、結局なし崩し的に輸出は続いた。むしろ戦局悪化につれて輸出は加速し、ほとんど低地諸国連邦王国側の要望すら無視した、押し付けて的な輸出さえ横行した。
戦時下の統制経済にあって、低地諸国連邦王国との貿易関係に限れば、ほとんど無統制と言ってよい状況であった。国防省、陸軍省、海軍省が別個に軍需品の輸出入契約を行い、商工省、農林省、外務省も多種多様な経済協定を締結した。これらの中央官庁の影響下にある国営企業や公団、特殊法人の類も同様である。民間企業については言うまでもない。
帝国議会も帝国政府も、帝国軍総司令部であっても、おそらく低地諸国連邦王国との貿易関係を完全に掌握できていなかった。
このような次第である。ある軍需品が低地諸国連邦王国に輸出され、そしてそれが、低地諸国連邦王国政府の管理を外れて横流しされても、不思議はなかった。
問題は、その軍需品が、時として帝国に〈戻ってくる〉ことである。
陸路戻ってくるのなら問題はない。国境の鉄道駅で税関検査が行われ、危険な物品は没収されたり、送還・返送されることになる。
海路戻ってくるのでも同じことである。港湾で同様に税関検査が行われる。
しかし、この軍需品は、そのいずれの経路も辿らなかった。
無節操で無統制な輸出品目に含まれていた物。
アクレギアの鬼人族が巡回中に発見した物。
守備隊派出所班長がスケッチを見ただけで恐慌状態に陥った物。
それは、帝国・低地諸国連邦王国国境に浮遊していた。
遠くからは、宙を舞う木の葉にしか見えない。
しかし、それは確かに存在し、周囲を静かに威圧していた。
望遠鏡で覗き込めば、単独での大洋横断も可能とする巨体が目に入る。
風を受けてわずかに揺れる巨体は、しかし、悠然と安定した浮遊を続けながら、非常にゆったりとした速度で航行を続けている。
それは、帝国において世界大戦直前に発明された。
長距離を安定して航行することができ、一定の空域に滞留することも容易である。
原理はいたって単純である。空気よりも比重の軽い気体を密閉容器に詰め、そこにゴンドラを吊るせば、原始的な機械としては完成する。
とはいえ、このような気体を安定して供給し、また安全かつ確実に密閉容器に封印するためには、高度な工業技術を要する。実用に耐える機体を設計するために、帝国の産業界と科学界は多大な努力と犠牲を払ってきた。
それは、戦前は国際定期航路に就航させるべく計画され、戦時下にあっては軍民問わず国内輸送のために大量に生産されて、連合王国や共和国に対する空襲にも利用された。
戦闘機を差し向ければ落とすことは容易である。しかしながら、その威容は見る者に圧倒的な印象を植え付け、帝国の国力を誇示するための〈空飛ぶ看板〉でもあった。
その原理に反して、それは、見る者にひとつの印象を与える。
〈鉄の塊〉。それが、宙に浮いている。
***
このとき、当事者の多くは知る由もなかったが、それは、硬式飛行船〈調和〉号、といった。
最初期に建造された硬式飛行船のひとつであり、〈秩序〉号、〈正義〉号と並んで、戦前のわずかな期間、国際定期航路に就航した優秀船である。
戦時下で国際定期航路が閉鎖されると、設計が古く軍事目的には不適格と言うことで、長く民生品の長距離輸送任務に就いたが、やがてその任務も他の新型機に取って代わられ、戦時中は長い間、格納庫で死蔵される憂き目に遭った。
そして格納庫に所在したままいくつかの官庁、外郭団体、国営企業、そして民間企業を渡り歩いた末に、倒産寸前のある企業が社債の〈カタ〉として、低地諸国連邦王国に売り飛ばしたのである。
無論、旧式であっても飛行船は立派な軍需品である。輸出には本来相当厳格な審査を要し、当然輸出許可など出るはずもなかった。しかし、〈調和〉号は〈屑鉄〉名目で輸出リストに計上され、分解されて貨車へ積み込まれた末に、税関検査も形式的な確認のみで通過してしまった。
受領した側の低地諸国連邦王国企業はこれをさらに転売し、そうしてたどり着いた先で、〈調和〉号は再発見され、かつての威容そのままに復元されてしまったのである。
その外壁には、次のように大書されていた。
「秩序と正義と調和。」