「ほら、この缶詰。低地諸国連邦王国の刻印が押してあるだろ。
戦時中はよく食ったもんさ。肉のクセがちょっと強いから嫌いなヤツも多いんだが、慣れるとこれがうまく感じてくる。カミさんは嫌いらしいけど、俺と娘は好きでね。
……でもさ。戦後になって、共和国から支援物資が来たろ?
その中にあった共和国の缶詰。この缶詰とそっくり同じ味でさ。
妙だな、と思ったんだ。」
——『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
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帝国暦一八一九年七月十日、帝国北西部の都市アクレギアへ飛来した飛行船〈調和〉号は、鬼人族が帝国軍にその飛来を通報するその瞬間まで、帝国は無論のこと、連合国にも、そして〈調和〉号が飛来してきた低地諸国連邦王国にさえ、その動向を捕捉されていなかった。
第一に、この時代において、空中目標を遠距離から探知する手段は事実上存在しない。対空レーダーこそ開発が進んでいるが、それを早期警戒網として国境全域へ張り巡らせた国家は未だ存在しなかった。そうである以上、国境線上に連続した監視哨がなければ、国境付近の監視員の視界に入るまで、飛行船が発見されることはない。
第二に、帝国にとって、低地諸国連邦王国は伝統的友好国であり、世界大戦においても好意的中立を保持した貴重な隣国である。戦前に策定された帝国の対共和国戦争計画において、低地諸国連邦王国の中立を侵犯して共和国を奇襲する計画が存在したことはあったが、それでさえ皇帝セラレス四世の裁可を得ることができず、また外務省の強硬な反対を受けて、最終的には破棄されている。
ましてや、相対的に国力に劣る低地諸国連邦王国が帝国へ侵攻する未来など、想定の埒外である。低地諸国連邦王国は帝国にとって〈将来において獲物になり得る無害な隣人〉であって、警戒の対象であったことはない。
従って、低地諸国連邦王国との国境地帯には、妖魔監視のための拠点が散在するばかりであって、連続した監視哨などは存在したことがなく、設置の検討すらされたことがない。
第三に、低地諸国連邦王国は世界大戦において中立を保った数少ない主要国であって、連合国においても低地諸国連邦王国は警戒対象であったことはない。低地諸国連邦王国は共和国とも国境を接し、また海峡をまたいで連合王国の隣国でもあったが、共和国にしても連合王国にしても、今世紀に入って以来、低地諸国連邦王国を軍事的脅威であると考えたことは一度としてない。
従って、連合国はその国境地帯に最低限度の妖魔監視ないし国境管理のための能力を保持するばかりであり、ましてや対帝国国境の監視などは、検討すらされたことがない。
第四に、低地諸国連邦王国自身も、自国のこうした国際的地位を自覚しており、国境警備に消極的であった。国境警備に兵力を割いていたずらに自国の中立的地位を脅かすよりは、むしろ国境警備に割くべき兵力を妖魔対策や国内の治安維持に割いたほうが合理的であり、主要街道の周辺に申し訳ばかりの警備部隊を置くのみに留めていた。
また低地諸国連邦王国は海外にいくつかの島嶼植民地を保持しており、これらとの海上交易路の確保の方が優先順位が高く、伝統的に陸軍の予算は貧弱そのものであった。
第五に、飛行船はその特性上、低速で低高度を安定して飛行することができる。それゆえ、夜間や悪天候では目視による発見が困難となり、ましてや人口密度の低い国境地帯においてはなおのこと、発見が遅れる。
〈調和〉号もその例に漏れず、人口密度の低い国境地帯を、低速・低高度で闇夜に紛れて飛行してきた。
すなわち、低地諸国連邦王国は無害な中立国であるからこそ誰からも警戒されることがなく、そうであるがゆえに、低地諸国連邦王国から飛行船が飛来するなどという事態は、帝国にとって全く想像の埒外であった。
むしろ〈調和〉号が発見されたのは、まったくの偶然である。
アクレギアの鬼人族は、その生業がアクレギアの源泉管理と周囲の〈死の領域〉の監視である。日常的に山野を闊歩して遠方を見ることが多く、他の地域の鬼人族や他種族と比較しても、視力に優れた者が多かった。〈調和〉号を発見した鬼人族はわけても視力に優れており、その視力を買われて監視任務に就いていた。
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低地諸国連邦王国は、国際色豊かな国家である。
帝国・共和国国境が山岳地帯であるのに対して、低地諸国連邦王国一帯はその名の通り低地・平地であり、またその海岸線は天然の良港であって、古くから大陸交易の結節点として栄えた。
そしてまた、その立地からして帝国・共和国・連合王国の緩衝地帯でもあって、当地の中立と安定はあらゆる列強諸国の重大な関心事であった。
それゆえ、世界大戦勃発によって国際貿易が著しく停滞すると、むしろ低地諸国連邦王国は貴重な貿易相手先としてあらゆる列強諸国から重宝され、多数の外国人が低地諸国連邦王国へ足を運んだ。表向き公言こそされないが、帝国・連合国間の中継貿易すら行われていた形跡がある。
こうした経緯から、低地諸国連邦王国には海外に出自を持つ国民が多数居住していた。その中には功績を立てて貴族に取り立てられた者、貿易や投資、殖産で財を成して資本家となった者も数多い。
そしてまた、低地諸国連邦王国は多数の亡命者も受け入れてきた。政変で失脚した王侯貴族や政治家・軍人や、思想・宗教上の抑圧を受けた知識人達は、安息の地を求めて、しばしば低地諸国連邦王国の門戸を叩いた。これら亡命者を多数受け入れることで、低地諸国連邦王国は周辺諸国を牽制しつつ、自国の国力を高めることができた。
そのため、帝国暦一八一八年十一月十一日に帝国皇帝セラレス四世が低地諸国連邦王国へ亡命したとき、突然の亡命に驚きつつも、低地諸国連邦王国という行き先自体は、誰もが当然のこととして受け入れた。
たとえば、連合王国海軍大臣、ウィニスタ・オンナード・ディスペー・サクレモンは、セラレス四世の亡命に際して、次のような談話を発表している。
「亡命者一覧表に、セラレスの名がまたひとつ加わった。それがたまたま、敵国の君主というだけだ。」
事実、過去にはボレアニス朝の皇族が低地諸国連邦王国へ亡命したこともあったし、その中には〈セラレス〉の名を持つ者もあった。サクレモン海軍大臣の言葉は、そうした歴史を踏まえた皮肉である。
同じく、共和国軍元帥フェルテナ・ホスも、次のように談話を発表している。
「低地諸国連邦王国政府においては、各国の亡命者の権利を従来通り擁護し、その中立義務が変わらず遵守されることを望みます。」
これは全く事務的な談話であって、ホス元帥が、低地諸国連邦王国が各国の亡命者を受け入れることを半ば自然現象のように捉えていることを表している。
〈評議員達の蜂起〉が鎮圧された後、逃亡を図った革命派も、多くは低地諸国連邦王国を目指した。
少なからぬ者が国境の鉄道駅や主要街道で捕縛されたが、前述の通り帝国・低地諸国連邦王国国境は警備が手薄であって、死の危険を顧みなければ、山野を抜けて低地諸国連邦王国へ入国すること自体も容易であった。
このことは帝国政府も帝国軍も認識していたものの、当面は各主要都市の治安維持と各地の〈死の領域〉の管理が課題であったし、低地諸国連邦王国との国境地帯の山野にも〈死の領域〉が点在していたから、鉄道駅や主要街道を迂回した亡命は自殺行為であるとも考えられた。
事実、少なからぬ革命派民兵が国境地帯の〈死の領域〉で妖魔に襲撃され、その生命を〈死の領域〉の養分とした。
しかし、何事にも例外はある。
低地諸国連邦王国はあらゆる亡命者を受け入れる。そうであるからといって、あらゆる亡命者が永遠に亡命者でいるわけではない。
帝国・低地諸国連邦王国には危険な〈死の領域〉が広がっている。そうであるからといって、あらゆる亡命者がそこを通過できないわけではない。
〈調和〉号で飛来したのは、まさにそうした〈例外〉であった。
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後年、低地諸国連邦王国中立擁護庁——秘密警察——が発見した、一通の命令書がある。
この命令書は、低地諸国連邦王国の農村部、穀物倉庫の中から発見された。穀物倉庫は帝国系企業の登記となっており、その帝国系企業の社長は、社会活動への支援に熱心な若手経営者であった。
命令書が発見された時点で穀物倉庫は廃虚となって久しかったが、屋根には複数の補修痕があり、工具類が散乱していた。
そして何より、農村には似つかわしくない大量のボンベ・タンク類が設置されており——爆破されて跡形もなかったが、発電機が設置された形跡すらあった。企業所有の穀物倉庫だけあって規模は大きく、周辺の農民の間では一種名物的に〈鬼火倉庫〉と呼ばれていた。廃虚であるが、夜な夜な光を発し、騒音が出ることからそう呼ばれていたようである。
なお、穀物倉庫の地下からは、若手経営者の屍蝋が発見されている。目立った外傷はなく、周囲には青酸カリのカプセルが入った瓶が置かれていた。
この穀物倉庫に捜査の手が入ったのは、この穀物倉庫を所有していた帝国系企業が、〈調和〉号の購入元だったからである。しかし、農村部の穀物倉庫、それも廃虚となれば捜査の優先順位は自ずから下がり、事件当時にこの命令書が日の目を見ることはなかった。
この命令書は長年、中立擁護庁の機密書類保管庫に保管されており、一般の目に触れるのは、事件から数十年の時を経なければならない。
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帝国暦一八一九年七月十日、低地諸国連邦王国南東の河畔都市、モサレンス。
貧民街の中心にある寂れた神殿で、一人の神官が、供回りと共に祈りを捧げていた。
「すべての軍神の祖なる大神よ。我らを聖戦に打ち勝たせたまえ。我らの大義を言祝ぎたまえ。
御心の戦場になるがごとく、街頭にもなさせたまえ。
我らを試みに遭わせ、しかして勝利を与えたまえ。」
軍人の間で広く信奉されている軍神への祈りの言葉、しかしそれは独特の響きを持っていた。
この神殿に神官が赴任してきたのは、ごく最近のことである。
世界大戦勃発以来、大陸における軍神信仰の熱は乱高下を続けてきた。
開戦当初は参拝客が殺到し、祖国の勝利と家族の無事を祈願した。個々の戦闘で勝利した側においては神殿への喜捨が絶えず、敗北した側においてもむしろ軍神信仰の熱は高まった。
しかし戦線が膠着し泥沼化すると軍神信仰の熱は冷め、食糧不足は人々を豊穣神信仰へと駆り立てた。
中立国であった低地諸国連邦王国においても、開戦当初は各国に出自を持つ外国系市民が軍神殿へ殺到して、各々の祖地の勝利を祈願し、あるいは親類縁者の無事を祈った。戦争が泥沼化して以後の推移もおおむね他国と同様であったが、低地諸国連邦王国においては元来、外国系市民以外は軍神殿への信仰が薄く、したがって彼ら外国系市民の足が遠のくと、自然、軍神殿は開店休業状態となった。
ここモサレンスの軍神殿においては、神殿の立地の悪さから参拝客は開戦当初からまばらであった。むしろ、軍神殿が不人気だからこそそれを中心に貧民街が形成されたと言えるかもしれない。
このような次第であるから、高齢であった神官が病死すると、首都の大神殿から後任の神官が派遣されることもなく、いよいよもってモサレンスの軍神殿は廃虚一歩手前というところであった。
それが最近になって、比較的年若い神官が、供回りを連れて赴任してきた。
言葉には外国風の訛りがあったが、聞けば最近まで海外の島嶼植民地に従軍神官として赴任しており、供回りはそこで出会った植民地軍の兵士達だと言う。本来は任務を早々に終えて低地諸国連邦王国に帰国すべきところ、世界大戦の勃発で海上封鎖の憂き目に遭い、なかなか船便をつかまえることができず、島嶼植民地で足止めを食ってしまったのだと言う。
この説明を聞き、首都の大神殿から発給された任命状を示されると、貧民街の住民も巡回の警察官も、そこですっかり納得して、この風変わりな一団を受け入れた。
この神官と供回りは、どこから食糧と資金を調達してくるのか、盛んに炊き出しを行い、また貧民街の住民に仕事を斡旋して、貧民街の生活改善に取り組んでいた。
彼らがこの街へやってきてからまだ三ヶ月ほどであったが、彼らの活動はすっかり貧民街に受け入れられて、道行く誰もが、彼らにすれ違うと笑顔で頭を下げるようになった。
しかし、日頃貧民達に向ける笑顔は、今の神官にはない。
祈りを終えて周囲の供回りを睥睨する神官の目は、すっかり冷えきっていた。
「それで〈同志〉。首尾は。」
「同志大佐、〈荷物〉の配送は予定通りに進んでおります。定時連絡は続いており、間もなく〈祖国〉との国境付近です。」
「国境越えも定刻通りに?」
「はい、同志大佐。それと同時に、各地の新聞社、ラジオ局に一斉に匿名投書を。」
「素晴らしい。後始末の方は?」
「彼は覚悟の自決を。彼の会社も、中枢は我々の手の者が掌握しています。
彼からの伝言です。〈祖国革命万歳〉。」
〈祖国革命万歳〉の文句とともに、一同は自決した同志に敬礼を捧げた。
「大変結構だ。
——同志諸君。時間だ、始めよう。」
〈同志大佐〉と呼ばれた神官は、僧衣を脱ぎ捨てた。
それに続いて、供回り達もぼろ布の外套を脱ぎ捨てる。
「祖国革命同志諸君。
今や皇帝なき帝国となった我らが祖国に、〈宝物〉をお返しする。
秩序と正義と調和——それがどれほどのものか、お手並み拝見といこうじゃないか。」
軍帽を被りながら、〈同志大佐〉、〈無断除隊者〉の大佐である男は、一同に告げた。
帝国陸軍の将校用軍帽からは、帝国の国章だけが削り取られていた。
***
〈作戦命令第六十八号〉
一八一九年七月九日
発:中央評議会書記局筆頭書記代行 兼 革命戦士幕僚団指導者、祖国革命指導者代行 ハネス・クルックピーク
宛:革命戦士団 低地諸国連邦王国浸透細胞
我らが永遠の祖国革命指導者、同志ローゼティエン・ブルガネスの崇高な革命精神を受け継ぎ、同志ブルガネスに代わって、革命派細胞たる各員に、祖国革命の大義達成のため、以下の通り命令する。
一、護送用船体は予定通り手配された。明日の到着を期して、祖国に対して〈荷物〉を出荷せよ。
二、出荷に際しては、〈荷物〉およびその周辺の自由意思において出荷が実行されるよう、細心の注意を払わねばならない。
三、〈荷物〉周辺に潜伏する細胞は、飽く迄〈出荷〉の支援に徹し、〈荷物〉と同乗してはならない。
四、〈荷物〉が可能な限り継続して稼働できるよう、燃料と食糧を遺漏なく調達し、積載せよ。
五、上記の一切の命令は、同志ブルガネスの崇高な革命精神を引き継ぎ、祖国革命の大義を達成する目的で発せられている。これらの目的を逸脱する一切の行為を、厳に禁ずる。軽挙妄動による冒険主義は、同志ブルガネスの革命精神に対する背信行為とみなされ、革命戦士団からの外科的除去の対象となる。この点を全同志へ遺漏なく周知せよ。
六、その他詳細は別途命令する。革命戦士幕僚団の命令なき行動を厳に禁ずる。祖国革命同志の奮戦に期待する。
祖国革命万歳。