「低地諸国連邦王国から帝国に旅行したときに、印象深かった注意書きがある。
あれは、〈深森〉散策に出かけたときだ。
木道の入り口に、看板が掲げてあった。昔の高札か何かの引き写しらしいが、あまりに印象的だったので、その場に残ってグズグズと書き写してしまってね。
後で、夫にずいぶん怒られたものさ。」
〈深森へ立ち入る者へ〉
黒い天球、銀の星座。そして、時読の金梟。
夜毎、天体の運行を記録し、暦と時間、法と叡知を司る、魔術的象徴。
梟を狩ることは、何人にも許されぬ。
——『群像:帝国暦一九世紀という時代』より。
***
帝国暦一八一九年七月十日、帝都バーレンハイム。
「低地諸国連邦王国から領空侵犯機。
硬式飛行船が帝国北西部、アクレギアへ飛来しつつあり。」
この、ごく短い第一報が帝国中央へもたらされると、中央官庁は〈評議員達の蜂起〉以来の地獄絵図となった。
外務省は直ちに帝国駐箚の低地諸国連邦王国大使を外務省本庁舎へ召喚し、事情説明を求めた。
しかしながら、大使も随員も事情を全く把握しておらず、むしろ帝国外務省へ事情説明を求める始末であった。
また外務省はこれと平行して、低地諸国連邦王国駐箚の帝国大使へ現地の情勢報告を求めたが、現地の帝国大使館でも何ら事態を把握しておらず、低地諸国連邦王国は平穏そのもの、全くの平時状態であるとの報告があるばかりであった。
外務省は混乱し、身内である帝国軍の陰謀すら疑った。
国防省と帝国軍総司令部は直ちに連合国へ事態を通報し、偵察機と迎撃機の飛行許可を要請した。
しかしながら、連合国軍総司令部の返答は「事態を静観せよ、帝国軍航空機の飛行禁止は継続する。」と端的な回答を寄越すばかりで、帝国軍の要請は一蹴された。
それではせめてと、帝国軍総司令官レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォー元帥は、連合国軍総司令官フェルテナ・ホス元帥へ親電を送って連合国軍機による偵察飛行を要請したが、これもまた却下された。
帝国軍は、これが連合国による謀略であるとすら考えた。
ただ一機の飛行船の飛来。
単に戦力として数えるなら、飛行船の戦闘能力は物の数ではない。迎撃機を上げれば直ちに撃墜することができるし、高射砲の射程に入れば、やはり同様の運命を辿ることになる。
しかし、臨時政府がそれに対してこれほどの反応を示したのには、相応の理由がある。
飛行船は、それほど多くの重量物を運搬することはできない。
無論、旅客用途や多少の物資を運搬する用途には耐える。貴重品や戦略物資を運搬するのにも相応しい。
そうであるから、仮に〈調和〉号がその積載量の限界まで爆薬を満載していたとしても、都市上空に到達する前に撃墜してしまえば、大した被害は出ない。
しかし、飛行船が積載することができるのは、それだけではない。
帝国も連合国も、戦前戦中には競って、様々な兵器を開発した。
その過程で多くの科学的発見と発明があり、そのことは大陸の文明水準を著しく高めた。
前世紀には、人口爆発で人類は餓死寸前であるとまで言われたが、兵器開発の過程でもたらされた化学肥料の発明が、人類を餓死から救ってさえいる。
しかし、この化学肥料を生むきっかけになった兵器こそが、問題であった。
飛行船は、重量物を運ぶことはできない。
しかし、重量物でなければ、容易に、そして安全に輸送することができる。
そして、帝国政府が最も警戒したその兵器は、それほど大きな質量を持たない。
〈前線開啓用特殊薬剤〉。帝国では、その兵器は公式にそう呼ばれた。
連合国ではより実利的に、その性質に応じてこう名付けられ、帝国軍人も実務ではこう呼んだ。
〈毒ガス〉。
***
「副官。毒ガスだと思うか、積み荷は。」
摂政仮宮殿にて外務省、国防省連名での報告を受けたミルダネスが、摂政副官、ペルペトゥ・エリカール・ヴェル・ピアルムス少佐に問いかけた。
老境に入って以来、ミルダネスの表情は常に憂いを帯びていたが、この日のミルダネスの表情は、義甥たるピアルムス少佐から見ても、沈痛そのものであった。
「元帥摂政公閣下。積み荷については、この際確かめようがありません。
ただ、毒ガスを〈積んでいるかもしれない〉。その前提でかかるべきでしょう。」
ミルダネスの問いに応じるピアルムス少佐の表情もまた、決して明るいものではない。
ピアルムス少佐は常々、秀才特有の余裕を帯びた傲慢な笑顔を湛えているが、この日ばかりはさしものピアルムス少佐にも、余裕が残っていなかった。
「で、あるな。
——飛行船の特徴から、〈調和〉号と見られる、とあるが。」
「〈調和〉号は最初期に建造された旧式機です。
軍用機として設計されておりませんので、飛行機の搭載もないでしょう。」
世界大戦勃発以後に建造された飛行船は、偵察・連絡・護衛用に小型の飛行機を搭載するのが常であった。
しかし〈調和〉号はまだ大陸の勢力均衡が信じられ、ある種楽観的な文明観が支配した時代の産物である。そのような物騒なものを搭載するようには、作られていなかった。
「純然たる民生機ということか。〈子機〉もなしの。」
「然様です、閣下。
かと言って、積載量は以後の新型機と遜色ありません。むしろ安全設計をいくつか省略している分、より機体が軽量で——なりふり構わなければ、新型機よりも積載量は上回るでしょう。」
〈調和〉号においては顕在化しなかったが、飛行船の建造が始まって以来、数々の航空事故が発生した。
そして事故の度に、新規に建造される飛行船には安全装備が追加され、また将来に安全装備を追加するよう拡張余地をもって設計されるようになっていった。
しかし〈調和〉号はそうではない。最初期の、まだ飛行船を実用化すること事態が目的であった時代の産物である。
そうであるからこそ、より軽量で、〈無理〉の効く機体でもあった。
「自殺的攻撃が前提であれば、甚大な被害をもたらせる、と。」
「はい、閣下。
仮に毒ガスを積んでいたとして、その種類も不明ですから、これも厄介な点です。
下手に落として——妖魔を刺激するような薬剤であった場合。
直接人的被害が出なくても、妖魔が氾濫すれば被害は見当もつきません。」
大戦勃発以前に発明された毒ガス。その目的と効果は、人間の殺傷のみに限定されない。
妖魔の攻撃性を刺激し、妖魔の氾濫を意図的に引き起こす毒ガスも、実験室段階では存在した。
戦時中、帝国と連合国との間で実を結んだ数少ない外交協定のひとつが、妖魔刺激剤の全面禁止を定めた交戦協定であった。
「高射砲を配備はするが、無許可射撃禁止を徹底すべきだな。」
「ええ、然るべく。しかし、偵察飛行が一蹴されたのは痛手でした。」
「副官、偵察飛行について何か妙案はないか?」
ミルダネスが、紅茶の入ったカップを口へ運びつつ、ピアルムス少佐へ問いかける。
「——閣下。確認ですが、連合国が飛行を禁止しているのは、〈帝国軍機〉でしたね?」
ピアルムス少佐の言葉に、ミルダネスの手が止まった。
「ああ、その通りだ。マルクヴォー元帥からもそのように聞いておる。」
「でしたら、手はあります。
心苦しいですが……閣下のお名前をお借りして、伝手に当たっても?」
ピアルムス少佐の打診に、ミルダネスが暫し瞑目し、逡巡する。
ピアルムス少佐は、ミルダネスの優柔不断を知る数少ない、おそらくは唯一の将校である。
ミルダネスの思考の出口、その選択肢を絞り込むことに長けていた。
「この非常時だ。よかろう。
——して、伝手とは?」
ミルダネスが目を見開き、冷めた声色でピアルムス少佐に問いかける。
「連合国の言うところの閣下の〈私兵〉。それに当たってみます。」
いつの間にか、ピアルムス少佐の口元には、皮肉な笑みが戻っていた。
***
帝国暦一八一九年七月十日、帝国西部の工業都市モナシュテーリア郊外、モナシュテーリア飛行場。
この飛行場には、モナシュテーリア郷土防衛隊の出張所があった。
「それで、エルマ。帝都からは、何だって?」
モナシュテーリア郷土防衛隊非常勤飛行士、エルマ・セラ・ギユーリン退役中佐に、同じくモナシュテーリア郷土防衛隊非常勤職員、ラトル・シックルベール退役伍長が尋ねた。
ふたりは帝国軍を除隊して以来、帝国南部のミウバエッヘ郷土防衛隊に籍を置いていたが、モナシュテーリア郷土防衛隊の航空観測隊で欠員が出たため、急遽モナシュテーリア郷土防衛隊へ出向となっていた。
本来はギユーリンのみがモナシュテーリアへ出向する予定であったところ、ギユーリンが半ば強引にシックルベールをモナシュテーリアへ連行し、気付けばシックルベールもモナシュテーリア郷土防衛隊へ出向と言うことになってしまった。
そしてこの日、ギユーリンはモナシュテーリア飛行場へ出勤するや、「帝都からの電話だ」と飛行場事務所へ呼び出され、シックルベールを引き連れてこれに応対していたのである。
「ラトル、どうにもまだ私の時代は終わっていないようだぞ。
伝言が二件、どちらもお偉方からの依頼だ。」
ギユーリンが演劇めいた高笑いを見せつつ、シックルベールの問いに答える。
シックルベールは当初こそ彼女のこの高笑いに慣れなかったが、短くも濃密な友人関係のうちに、どうやらこの演劇めいた態度こそがギユーリンの自然体なのだと悟っていた。
「エルマへの依頼だ、空に関するものなのは間違いないとして。
飛ぶのはどこと、どこだい?」
シックルベールが鞄から地図帳を取り出しながら尋ねた。
「それが妙な話でな。
——どちらも目的地は同じ、観測対象も同じだ。報告先だけが違う。」
ギユーリンが首をかしげつつ答えると、シックルベールもまた、眉をひそめる。
「ふうん、それは確かに妙だ。
観測ってことは、輸送じゃなく偵察か。」
「ああ、そういうことだ。だからラトル、君には——。」
「わかってるよ、観測手だろう。写真と素描、可能なら所感も。」
シックルベールがため息をつきつつ言葉を重ねると、ギユーリンは口角を上げて、また高笑いを見せた。
「相変わらず話が早くて助かる。
食事と支度を済ませたら、すぐ出発だ!」
***
古帝国時代、帝国で名家と言われた氏族は、いずれも伝説的聖獣をその象徴として掲げた。
たとえばミルダネス家の〈琥珀角鹿〉。白い牡鹿であり、琥珀の角を持つ。闇夜には角から放たれる光を放ち、正邪を見定めると言う。
たとえばピアルムス家の〈瑠璃鯨〉。瑠璃色の巨鯨であり、背には珊瑚の冠を頂く。背から吹く潮は虹色に輝き、無限の富をもたらすと言う。
これらの氏族が大公として自立すると、聖獣を象った紋章はそのまま、各大公国の国章と定められ、各大公家はこれらの聖獣に連なる獣の殺傷を制限した。
ミルダネス大公国では、鹿猟を免許制として、鹿猟の実施を冬至祭前の時期に限定した。免許を持たず鹿を殺傷した者、または禁漁期に鹿を殺傷した者は、その鹿の角の重さと同じだけの琥珀を大公へ献納するか、またはそれと同じだけの労役に就くものとされた。
ピアルムス大公国では、捕鯨を海神殿の祝福を受けた漁師のみに許し、捕鯨船には必ず監察官を同乗させた。監察官は海神殿に捕鯨量を報告し、帳簿を提出する義務を負った。密猟者は海神殿への奉仕労働を強いられ、しばしば鯨の生態調査のための命がけの遠洋航海を命じられた。
そのような聖獣のひとつが、〈金梟〉である。〈時読の金梟〉とも呼ばれる。
黄金の翼と瞳を持ち、その瞳は、過去と未来、そして千里を見通す。
〈金梟〉は夜毎、夜空を見上げる。そして天体の運行を見定め、これを脳裏に記録して、暦を告げるのだと言う。
そしてまた、過去と未来を見定め千里を見通すことから、〈金梟〉は森羅万象の理非を知り、〈金梟〉の羽根は持つ者の罪の重さと同じだけ、重くなるのだと言う。
この聖獣を象った紋章は、〈司暦梟紋〉と呼ばれる。
背後には黒い天球が描かれ、旗印の場合は、しばしば絹糸の天球に、銀糸の星座が刺繍される。
そしてこの黒と銀の天球を背に、〈金梟〉の姿が描かれる。旗印の場合は、これもしばしば金糸で刺繍される。
夜毎、天体の運行を記録し、暦と時間、法と叡知を司る、金の梟。
時間と法則を支配する、絶対的支配の象徴。
それゆえ、この千年というもの、この〈司暦梟紋〉が掲げられた土地で梟を狩った者は、皆悲惨な末路を辿った。
〈金梟〉の呪いゆえではない。〈金梟〉の伝説は古帝国時代から続く神話であって、〈金梟〉は妖魔ではない。
梟を狩った者が悲惨な末路を辿ったのは、〈司暦梟紋〉を掲げた者が、梟狩りを決して許さなかったからである。
中世期のある暴君は、梟狩りの罪人に、その梟と同じ重さの肉を捧げよと命じた。獣の肉ではなく、己か、さもなくば肉親の肉を。そしてその暴君が放伐されたのは、梟狩りの罪人に肉を捧げさせたからではない。単に放埒に走り、酒色に耽ったからであった。
中世期を通じて、梟狩りをこの種の極刑に処するのは、ある種当然視された。
低地諸国連邦王国から帝国北西部、アクレギアへ飛来した旧型硬式飛行船〈調和〉号の船体には、確かに〈秩序と正義と調和〉と大書されていた。
当初、〈調和〉号を発見した鬼人族の斥候も、そしてその通報を受けた帝国中央も、この事実に気を取られ、肝心のものを見落としていた。
それは、第一報が長距離からの目視であったがゆえに、見落とされていた。
帝国暦一八一九年七月十日、帝国陸軍航空本部長、エウェリカ・ルデンヘイム大将名でモナシュテーリア郷土防衛隊へ行われた偵察飛行依頼。
そして同日、摂政副官、ペルペトゥ・エリカール・ヴェル・ピアルムス少佐名で同郷土防衛隊へ行われた同様の依頼。
奇しくも同一の対象に行われた、重複するひとつの偵察飛行依頼は、その対象を〈調和〉号と指名していた。
そして、モナシュテーリア郷土防衛隊非常勤飛行士、エルマ・セラ・ギユーリン退役中佐操縦の軽便飛行機が、アクレギア郊外の上空で領空侵犯機、すなわち〈調和〉号に接近したとき。
モナシュテーリア郷土防衛隊非常勤飛行士、ラトル・シックルベール退役伍長が目撃し、撮影し、また素描したのは、帝国において誰もが知り、また誰もが恐れる図像であった。
帝国において、梟を狩ることは何人にも許されない。
中世期のように厳罰が課されるのではない。ただ、ほとんどの者が、それを躊躇する。
時読の金梟は、夜毎、天体の運行を記録し、暦と時間、法と叡知を司る、魔術的象徴である。
暦と時間、法と叡知とは、すなわち帝国における、〈秩序と正義と調和〉をもたらす根本原理であり、人類社会に栄光と繁栄をもたらす魔術である。
それゆえ、黒い天球、銀の星座を背にした時読の金梟は、至尊不可侵であった。
その紋章を帯びることを許される者は、この地上に、唯一無二である。
当代の彼が、今どこにいるのか。
ギユーリンとシックルベールは、同じ名を想起した。
彼らから至急報を受けた国防省と帝国軍総司令部、摂政府でも、皆が同じ名を想起した。
〈司暦梟紋〉は至尊不可侵の紋章である。
そしてその至尊不可侵の紋章を帯びる者は、ただ一人。
ボレアニス家家長にしてボレアニス公。
神の恩寵による帝国太上皇帝。
セラレス四世、ただ一人である。