皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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004 憲法制定国民議会

「軍人となって以来、初めての投票。この歳で初めての経験とは、何とも不思議なものだ。」

 一八一九年三月十日、憲法制定国民議会選挙の投票を終えて、ミルダネスは新鮮な感情を書き残している。

 

  ***

 

 一八一九年三月。帝国は戦争の熱狂と敗戦の混乱も冷めやらぬ中で、政治の季節に突入していた。

 

 帝国暫定評議会議長シルヴァニス伯爵と、帝国軍総司令官マルクヴォー元帥伯爵の、文字通り身を削った努力と交渉により、連合国との休戦協定は無事に延長され、憲法制定国民議会選挙の実施に漕ぎ着けたのである。

 

 この間、帝国中央で最も問題となったのが、政府・軍中央の多忙さ、それ自体であった。

 元来、中央官庁というものは多忙を極めるのが常である。それが列強と呼ばれる大国のものであれば、尚のことであろう。

 しかし、今の帝国は常ならぬ混乱を来していた。崩壊した前線、革命派による暴動、皇帝の退位と亡命、休戦協定の締結と終戦処理。いかに戦時体制といえども、その労苦にはひとかたならざるものがある。

 ましてや、そこに選挙事務が加わるとなれば、中央官庁の疲弊は国家総力戦のそれを遥かに凌駕した。

 

 内務省勤務の官僚が残した手記に、こんなものがある。

「高級官僚には召集令状が来ない。召集するまでもなく、官庁街そのものが戦場だからだ。我々は、自ら進んで最前線の地獄に身を投じた、哀れな志願兵なのだ。

 ここでは人を殺してしまうのに、砲弾も、銃弾も、刃物すらも必要ない。

 ただ、一筆の書き付けを回覧すれば、それでひとつの官衙が壊滅する。」

 

 しかし、時は国家存亡の危機である。

 革命派による再度の暴動を阻止するには、何よりも民生の安定が必要だった。

 皇帝、すなわち国家権力の中核そのものの不在という巨大な空白を埋めるためには、複雑極まる利害関係の、際限なき再調整が必要だった。

 束の間の休戦協定を維持し終戦処理を完遂するには、帝国軍将兵と武器弾薬の動向を常に注視し、不測の事態を抑止することが必要だった。

 そして、選挙事務を公明正大に処理しなければ、これら全ての労苦とその果実が、帝国という国家それ自体とともに、吹き飛ぶのである。それも、修辞的表現ではなく、物理的現実として。

 

 その結果として生じたのが、中央官庁における深刻な薬物汚染であった。

 

 もともと、戦時下のことである。大規模戦闘の発生時には、麻酔作用や覚醒作用を持つ薬物の大量需要が発生した。

 比較的戦況が安定した戦線では、これらの薬物は概ね規定通りに適正に使用されたが、激戦地では身体の限界を超えた濫用がしばしば横行し、帝国軍と内務省はこの取締りに頭を悩ませていた。

 薬物汚染は軍紀に関わるが、他ならぬ戦争という状況それ自体が将兵に薬物の濫用を強いている。この時代の帝国において、これは構造的に解決困難な問題であった。

 それでも、休戦協定締結までは、薬物汚染を辛うじて前線の一部部隊に押し留めることができていた。

 前線の将兵は、前線に耐えるために薬物の濫用に手を染めている。それは逆説的に、薬物濫用者たる将兵たちが、薬物とともに前線に留まり続け、他に薬物汚染を流出させないことを意味していた。

 あとは、戦況の安定を待って、順次将兵の治療なり、悪質な者の処分なりをすれば良い——それが帝国軍と内務省の一致した見解であった。

 

 しかし、休戦協定締結以後、終戦処理として帝国軍部隊の再配置や帝国軍将兵の復員が始まると、事態は帝国軍と内務省の予想と処理能力を遥かに超えて悪化した。

 

 〈無断除隊〉者——休戦と終戦処理の混乱に乗じて大量に発生した脱走兵を、帝国軍は官僚的修辞としてこう糊塗した——たちは、前線にほとんど偏執的に備蓄されていた膨大な薬物を着服し、横流ししたのである。

 もちろん、混乱の最中にあっても帝国軍とて無為無策ではない。大規模かつ組織的な物資横流しや強奪に対しては、十分な警戒が行われていた。

 しかし、小規模かつ個人的な物資の着服の全てを防ぎ切れるほど、終戦処理の混乱は甘くはなかった。

 その結果、〈無断除隊〉者による小規模かつ個人的な物資の着服は全く抑止されることなく、それが積もり積もって、戦前戦中からは考えられないような薬物汚染が、帝国全土を襲ったのである。

 

 〈無断除隊〉者のうち少なからぬ割合が革命派およびその同調者で占められたことは、事態をより悪化させた。

 革命派の地下組織は、皇帝亡命という〈果実〉を得て以後、徐々に全国的な基盤を整えつつあったが、帝国軍と帝国政府の官僚機構が一応の機能を保っている以上、次なる一手を打てずにいた。

 そこで利用されたのが、〈無断除隊〉者と彼らが着服した薬物である。

 未曾有の混乱期、中央官庁は多忙と混乱の極致にある。そこへ〈便利な薬〉を流せば、必ずや中央官僚たちはこれを競って求め、帝国軍も帝国政府も弱体化するであろう——。これが、革命派の描いた絵図であった。

 

 折しも、終戦処理に伴う物流の混乱が食糧不足と物資不足とに拍車をかけ、各地で配給制度が崩壊しつつあった。

 需要あるところに、供給をもたらそうとするのが経済のもっとも原始的な原則である。

 当然、大小の規模の差はあれど、帝国全土に配給制度の網を逃れた闇市が形成された。

 誇り高き帝国軍人や帝国官吏といえども、腹は減り、楽しみを求めるものである。もちろん、遵法精神から闇市の利用を拒んだ者もいない訳ではなかったが、そうした者は多くが過労か、飢餓か、いずれかで心身に深刻な後遺症を残し、あるいは生命を落としていった。

 大多数の者は、暗い思いを胸に抱えながらも、闇市へ足を運んだ。

 日々の糧を求めて闇市へ繰り出す彼らに〈便利な薬〉が差し出され、そして帝国の中央官庁は、深刻な薬物汚染の坩堝となった。

 

 果たして、革命派の目論見は半ば成功した。

 

 中央官僚の多くが何らかの形で薬物に手を付け、少なからぬ者がその依存者となった。薬物汚染の収益は革命派の貴重な資金源となり、その策動の自由度を大いに高めた。

 しかし同時に、このことが中央官庁の実務処理能力を一時的に著しく高めもした。

 もとより、正気でこなせる仕事ではない。とりわけ、崩壊の瀬戸際にある大国を支えるなどという仕事は、狂気をこそ必要とした。

 そのような意味において、革命派が意図したほど目覚ましい〈弱体化〉は起こらず、それゆえにこそ、最大の懸案であった制憲議会選挙もまた、大きな問題を起こすことなく実施し得た。

 

  ***

 

 一八一九年三月十日投票の憲法制定国民議会選挙は、文字通り、帝国史上最大の選挙となった。

 

 戦前、帝国議会の下院議員選挙は男子普通選挙であったが、政軍分離の建前から、軍人の選挙権は現役時に限って凍結されていた。また不文律として、予備役・退役軍人であっても、将官は選挙権の行使を慎むべきものと考えられていた。これには例外もあったが、大多数の予備役・退役将官はこの不文律に従った。

 地方議会選挙では婦人参政権が広く認められていたものの、下院議員選挙では高額納税者・学位保持者、予備役および退役軍人または軍属——すなわち、〈国家に貢献した理性的な女性〉とされた者にのみ参政権が認められていた。

 上院議員に至っては、皇族および貴族、高級軍人・官僚・外交官出身者、高額納税者・学位保持者にのみ門戸が開かれており、勅撰枠と互選枠が存在した。

 

 ミルダネスは隠居の身とはいえ元帥であり、元帥位には生涯現役待遇が約束されていたため、彼は成人以来、一度として選挙権を行使したことがなかった。勅撰枠での上院議員就任を打診されたこともあったが、元々政治には疎いことからこれも固辞していた。

 

 しかし、憲法制定国民議会は一院制と定められた上に、成年者すべてを対象とした普通選挙が実施されたことから、今回の制憲議会選挙における有権者数は膨大な数に上った。そして現役軍人にまで選挙権が拡大されたため、予備役・退役の将官も積極的に選挙権を行使することとなった。

 

 ミルダネスもまた、今回の制憲議会選挙において生涯初めて選挙権を行使した。投票へ同行した執事は「投票所となった村の公会堂に足を運んだ時の御屋形様は、まるで初めて馬に乗った子供のようだった」と日記に書き残している。

 

 ミルダネスの領地を含む一帯の選挙区には一名しか立候補者がおらず、この投票は単なる信任投票であって、この候補者は結局特に波乱なく信任され、晴れて制憲議会議員となった。

 この候補者とは、かつてミルダネスの自警団に参加した、村の出納係の半病人の男である。

 病弱ながら勇気を振り絞って自警団に参加し、村の出納係も勤勉実直にこなしたことが評価されたのであった。

 

 憲法制定国民議会選挙の開票結果は、全体としては下馬評通り、帝政派が三分の二、共和派が三分の一を占める形となった。

 帝政派は皇太女たる皇女を奉じる皇女派と現役将官たる皇子を奉じる皇子派とに分かれており、共和派のうち、過激な者は選挙をボイコットして革命派に合流していた。

 

 この構成は、皇帝退位以前の帝国議会の大まかな構成と、ほとんど変わらなかった。

 

 選挙権の拡大は一見すると民生重視の共和派に有利に働くかと思われたが、共和派は保守的な農村部や現役軍人の票を取り込むことができず、従来の地盤である都市部にしか浸透することができなかった。

 また、現役軍人への選挙権拡大により皇子派が躍進するという観測もあったが、戦時中に指導力を発揮していた皇子の敗戦責任を問う声も根強く、その間隙を突いて皇女派と共和派が勢力を維持した。

 皇女派もまた、その政治姿勢は良く言えば安定志向、悪く言えば微温的なもので、選挙民の歓心を買うには至らず、消去法的に選好される勢力に過ぎなかった。

 

 結局、制憲議会選挙は大山鳴動して鼠一匹という有様で、どの勢力も多数を占めることができず、単に拒否権集団が三極鼎立することは誰の目にも明らかであった。

 

 帝政派は〈国制護持、帝室存続〉という点では一致できても、皇女と皇子どちらの皇統を優先するかという肝心な点で妥協できない。

 共和派は統治機構改革に関する個別の論点では皇女派・皇子派とそれぞれ一致できても、肝心の〈帝政廃止〉の旗を下すことができず、従って妥協が成立しない。

 

 結果、制憲議会は一八一九年三月十六日の招集劈頭、完全に空転した。

 

  ***

 

 憲法制定国民議会の審議初日を終えて、深夜。帝都バーレンハイム、帝国学士院会館。帝国を知性の面から支える象牙の塔の本丸にして、官界・学術界・経済界に多数の支持者を持つ皇女派の牙城。

 

 皇太女博士宮、ヴィクタリース・サロウェン・ヴェル・ボレアニスは、帝国学士院会館の貴賓室で、王冠状に造作された黄金色の三つ編み頭を揺らしながら、ロッキングチェアを漕いでいた。

 

 手元には、スプレミオン・スレッドウィーヴ博士との共著書『統治という職責』が開かれている。

 

 『統治という職責』は、政治哲学の泰斗・スレッドウィーヴ博士との公開討論書簡を元に、国家権力の在り方を具体的な職業上の責任として論じた書物である。

 スレッドウィーヴ博士による精緻で冷徹な現実主義的立論と、統治を家職としてきたヴィクタリースによる文字通り大所高所からの俯瞰的立論とが結びついた前例のない大著であり、ヴィクタリースはこれをきっかけに、有力な政治哲学者にして政治家として知られるようになった。

 

 ヴィクタリースが保持する博士号は、パトロンたる王侯貴族に授与される名誉学位ではなく、歴とした業績の産物である。

 そのためヴィクタリースは、自らの署名に欠かさず〈博士宮〉の称号を冠し、単に〈殿下〉と呼ばれるよりも、〈博士宮殿下〉と呼ばれることを好んだ。

 

 しかしヴィクタリースは、今や帝国の政治的現実の前に打ちのめされていた。

 

(わたくしの権威も、学識も、名声も、分裂した議会、分断された世論という現実の前には何の意味も持たない——。)

 

 帝国の華。知性の清華。

 ヴィクタリースの怜悧な美貌は飾り物ではなく、その内面に宿る深い知性の証であると誰もが認める。

 ある文学誌などは、「ヴィクタリースの鼻があと少し低かったとしても、やはり彼女は美貌と讃えられたであろう。なぜなら、彼女の美しさはその造形ではなく、その内面の発露たる表情にこそ宿っているのだから。」と書いた。

 

 しかし、それはヴィクタリースの政治的現実を打開する破城槌ではない。

 誰もがヴィクタリースを認めるが、それは妥協の理由とはならない。

 

(帝国に必要なのは、〈認められた者〉ではない。〈求められる者〉こそが——。)

 

 ヴィクタリースはゆっくりと、しかし確実に、脳裏で言葉を紡ぐ。ちょうど、ロッキングチェアを漕ぐのと同じように。

 

(かつてそれは父帝陛下だった。皇統に連なることは、無条件で〈求められる者〉の資格たりえた。

 けれど、今は違う。敗戦は、皇統からカリスマを奪った。わたくしも、兄殿下も——。)

 

 脳裏に、数えきれないほどの有力者の顔と名前が思い浮かぶ。

 今、帝国で〈求められる者〉とは誰か?

 

(カリスマには、神話が必要。

 けれど、今の帝国にあるのは歪んだ現実ばかり。

 わたくしの足元にも、それは押し寄せている。薬物汚染——。)

 

 ヴィクタリースやその側近達は、巷間に流れ満ちた〈便利な薬〉に頼る必要がない。

 ヴィクタリースはこれまでも清廉潔白であったし、これからもそうあり続けることができる。

 しかし、彼女たちの手足となる、官僚や経済人はそうではない。そして、手足の汚れは、その主から神話的色彩を奪い去る。

 

(そうである以上、わたくしは神話の担い手にはなれない。残念だけれど。

 ならば、別の——。)

 

 そこまで思考を進めたところで、ヴィクタリースは強いノック音で現実に引き戻され、ロッキングチェアの動きを止める。

 夜間、ヴィクタリースの思索を妨げる者はいない。これまでで唯一の例外は、父帝の退位のきっかけとなった、あの暴動だけだった。

 ヴィクタリースの返事も待たずに、皇太女侍従武官が、貴賓室へ躍り入ってくる。

 

「博士宮殿下に申し上げます! 本日深夜〇時、帝国全土で革命派を称する勢力が一斉に蜂起! 主要都市を包囲しつつあります!

 ……お逃げを!」

 

 平素は人好きのする相貌の、穴居族の女性士官。元は法務士官で、身辺の心地よさと温もりを何より愛する小柄な侍従武官が、息を切らせて告げた。

 

「いいえ、中佐。——帝都こそが、わたくしの家です。」

「しかし!」

「先の暴動とは異なり、今度の蜂起は計画的なものでしょう。わたくし達が逃げ出しては、思うつぼです。」

 

 ヴィクタリースは窓の外に、街灯のそれとは異なる、熱を持った光を認めた。

 ——放火か、火炎瓶か、あるいは手投弾でも投げられたか。まだ火は遠いが、いずれにせよ、安全な場所などどこにもない。

 

「シルヴァニス伯と、マルクヴォー元帥に伝令を。兄殿下と——共和派。ボアライト会長にも。」

 

 今やヴィクタリースの脳裏には、一つの名前だけがあった。

 

「今こそ剣を、取らねばなりません。」

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