皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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006 頂上会議

「何ということだ。領地に留まるべきではなかった。」

 帝国暦一八一九年三月十八日を境に、ミルダネスの日記にはこの種の後悔が渦巻くようになる。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年三月十七日、早暁の頃。帝都バーレンハイム、帝国学士院会館・大講堂。

 

 帝国軍総司令官、レヴェランティユー・ヴェル・マルクヴォー元帥伯爵は、生涯で初めてこの部屋に足を踏み入れた。

 帝国学士院は、定員四十名・終身制を伝統としている。その成員は学識者に限らず、各界において知性を発揮したとされる名士たちが選ばれる。

 マルクヴォーもまた、帝国学士院の会員候補のひとりである。しかし、帝国学士院の〈軍人枠〉は伝統的に定員一名とされており、前任者が死去するまでは、マルクヴォーが帝国学士院の会員として選ばれることはない。

 

(まさか、引退する前にこの部屋に足を踏み入れるとは思わなんだ。)

 そんな場合ではないと知りつつも、マルクヴォーは白髪混じりの禿頭を掻き、運命の皮肉を自嘲する。

 

 円形の講堂、すり鉢状の空間の中央には、皇太女博士宮ヴィクタリースが待ち受けていた。

 赤みの強い朝日がドームの天窓から降り注ぎ、ヴィクタリースを照らしている。大理石で彩られた神殿風の列柱廊も相まって、ヴィクタリースはさながら、託宣の巫女であった。

 

「皇太女博士宮殿下。臣マルクヴォー、ただいま参上致しました。」

「マルクヴォー元帥伯爵閣下、ようこそ参られました。

 どうぞ、お掛けになって。」

 

「殿下が御起立あそばされている時に、微臣が着座するわけには……。」

 マルクヴォーは姿勢を正して応じる。

「いいえ、マルクヴォー閣下。あなたは今の帝国で最もご多忙な方です。休める時に休まねばなりません。

 ……必要というなら、皇太女として、座ることを〈命じます〉。お掛けなさい。」

 口調に反して、ヴィクタリースの声色と表情は穏やかだった。

 

「ヴィクタリース。お前はいつからマルクヴォー閣下に〈命令〉できる立場になった?

 ……マルクヴォー閣下、どうぞお掛けください。小癪ですが、こいつの言う事はいつも〈正しい〉。まったく腹立たしいことだ。」

 青年の色を残した、よく通る男の声がした。

 

「兄殿下。ようこそお越しに。

 あら、シルヴァニス伯とご一緒でしたか。」

 入り口に立つ皇子中将宮ヴァイネスの背後から、憲法制定国民議会議長にして帝国議会上院議長兼帝国暫定評議会議長、シルヴァニス伯爵が姿を見せる。

「騒ぎが起こったときに、ちょうど首相官邸で中将宮殿下とお話ししておりましてな。御車にも便乗させていただいたのですよ。」

 

「それより、共和主義者の彼奴はどうした? 席次から言って、彼奴こそ先に姿を見せるのが筋だろう。」

 苛立たしげにヴァイネスが訊ねる。

「ボアライト会長のことでしたら、先に到着されて、学士院会館周辺のバリケードの見回りを買って出てくださいました。そろそろお戻りになるでしょう。」

 ヴィクタリースの回答に、ヴァイネスはふんと鼻を鳴らしながら、席に着いた。

 続いて、シルヴァニスも席に着く。

 

「いやはや、遅くなりました……皆様お揃いですな。」

 ややあって、共和派議員団会長、ボアライトが姿を見せる。先ほどまで作業を続けていたと見えて背広が煤けているが、この建物を守るためのバリケード構築をしていたとあっては、誰も咎める者はなかった。

 

 円形の大講堂、その座席の最前列に、五人の有力者たちが揃った。

 こうして、帝国の命運を左右する頂上会議が始まった。

 

  ***

 

「それで、話というのは何だ? まさか、自分を帝座に就けろというのではあるまいな?」

 座席に肘をつきながら、皇子中将宮ヴァイネスが切り出した。

 

 出席者の視線が、無意識のうちに大講堂の一点に集中する。

 すり鉢状の大講堂、その頂点から、全体を見渡す席。

 ひときわ良質な大理石で装飾された、帝国学士院主宰者の席。

 定員四十名の帝国学士院にあって唯一その定員に含まれない、主宰者の指定席。

 すなわち、帝国学士院における帝国皇帝の玉座である。

 

「いいえ、兄殿下。わたくしはそのような野心も、資格も持ち合わせておりません。

 それにそのつもりなら、皆様を出迎えるとき、すでにその席に座っていたことでしょう。」

「ほう、殊勝なことだ。では、ようやく己に皇太子の座を明け渡す気になったか?」

「殿下!」

 憲法制定国民議会議長にして帝国暫定評議会議長、シルヴァニス伯爵が立ち上がった。

 

「皇太子をお決めになるのは、至尊の座の主。皇帝陛下、ただお一人なれば。

 ゆめゆめ、滅多なことをおっしゃられますな。」

「シルヴァニス。その父帝陛下が去られたから、こうなっているのではないか。」

「両殿下の去就を定めるのは、憲法制定国民議会の仕事です。」

「では、その制憲議会を事実上指導しているのは我らだ、〈議長〉殿。だからこそ我らはここに集められた。

 ヴィクタリースが譲ると言うのなら、あとはこの己が同意してしまえば、議会の三分の二が賛成したのと同じこと。

 異存はあるまいな、ヴィクタリース。」

 

 応酬の果てに、シルヴァニスは苦虫をかみつぶしたように皺深い顔を歪め、席に着く。

 

 シルヴァニスは、元来が厳正な中立派である。

 皇女派・皇子派いずれにも属さず、かといって共和派を支持もしなければ軽侮もしない。そうであればこそ帝国議会上院で、そして憲法制定国民議会で議長となり、また暫定政府を率いることとなった。

 皇女ヴィクタリースを力不足と感じ、皇子ヴァイネスを危うく感じる貴族は多い。

 シルヴァニスとしては、決定打を欠いたまま帝位継承者が定まってしまうのは何としても避けたいところであったが、ヴァイネスの言に一理あるのは事実であった。

 

 しかし、シルヴァニスの懸念に反して、ヴィクタリースは静かな微笑みで応じた。

「いいえ、兄殿下。

 わたくしは皇太女の座を降りるつもりも、兄殿下に帝座をお譲りするつもりも毛頭ございません。」

「それではどうするというのだ!

 まさか、学問のしすぎで共和主義者にでも成り下がったか?」

 今度は、ヴァイネスが猛然と立ち上がった。

 

「おや、結構なおっしゃりようですな、ヴァイネス将軍。

 私どもの党員名簿に、ヴィクタリース博士のお名前はございませんぞ。」

 共和派議員団会長、ボアライトが肉厚の口を開き、諭すように応じる。

 その信念を反映して、皇族を飽く迄その職責で呼びながら。

 

 ボアライトの観察眼によれば、ヴィクタリースは聡明で慎重だが、決して惰弱ではない。

 ヴィクタリースが今ここで共和派に擦り寄るような軟弱者であれば、革命派の一斉蜂起を待つまでもなく、とうにこの国は共和制に移行している。

 

「皇子中将宮、いがみ合っている場合ではない。

 敢闘精神は見上げたものだが、頭に血が上るのは貴官の悪い癖だ。

 落ち着かれよ、そして席に着きたまえ。

 そうでなければ私は司令部に戻る。」

 帝国軍総司令官、マルクヴォー元帥伯爵が続けた。

 

 マルクヴォーもまた、シルヴァニスと同様に、厳正な中立派に属する。

 マルクヴォーは軍内部において、多数派に属する皇子派を優遇したことはないし、少数派に属する皇女派や共和派の軍人を冷遇したこともない。

 実力があればこそ、ヴァイネスの軍内部での政治活動を一々掣肘することはない。しかし、皇子だからといって〈部下〉を甘やかしてやる義理もなかった。

 

「ふん、マルクヴォー閣下に免じて、話を聞いてやる。続けろ、ヴィクタリース。」

 ヴァイネスが折れ、荒々しく席に着いた。

 

 ヴァイネスもまた、マルクヴォーを信頼していた。

 マルクヴォーが厳正な中立派であるからこそ、軍人としての功績、軍内部での勢力拡大が、軍中央のお手盛りではなく、ヴァイネスの純然たる実力であると示すことができる。

 ヴァイネスも皇族である以上、進級にあたって多少の〈飛び級〉があるのは事実であったが、マルクヴォーがヴァイネスの将器を厳正に評価している事実は誰の目にも明らかであり、それゆえに、生来傲岸不遜な所のあるヴァイネスも、マルクヴォーには頭が上がらなかった。

 

 ヴィクタリースは優雅に立ち上がり、ドーム天井を仰ぎ見ながら告げた。

「もはや、言葉は尽くされました。

 あとは——剣を交えるのみ。」

 

「剣! 剣ときたか! お前の口からその言葉が出るとは思わなかった。

 ——戒厳と軍政か?」

 革命派の一斉蜂起が起き帝国全土が騒乱状態となった以上、ヴァイネスの言う通り、戒厳を布告して軍政に移行するというのは、ひとつの選択肢ではあった。

 

「いいえ、兄殿下。軍政は愚策です。

 ——そうですね、シルヴァニス伯、マルクヴォー閣下。」

 名指しされた二人が、視線を交わす。

 

「……御賢察のとおりです、博士宮殿下。

 レヴェランティユー、言ってしまって良いな?」

「ああ、フェラルセン。この場で隠し立てしたところで、どうにもならん。」

 そう言葉を交わすと、シルヴァニスとマルクヴォーは、息を合わせるように、深いため息をついた。

 

 シルヴァニスが、暗い声で続ける。

「此度の休戦——いえ、繰り言ですな。

 此度の敗戦で、我が帝国軍の名声と権威は地に堕ちました。

 内務省と憲兵隊の報告では、街頭で、勲章目当ての強盗被害が相次いでおります。

 ——軍服を着た復員兵や後備兵が、市民に狙われているのです。その日の食料を、得るために。」

 

「何! 己は聞いていないぞ!」

 ヴァイネスが瞠目した。

 

「中央で緘口令を敷いているのだ、中将宮。

 貴官の所属する西部戦線司令部を含めて、前線司令部には伝えないよう、私が命令した。

 復員兵や後備兵が狙われるとなれば、〈無断除隊〉は加速の一途だろう。

 部隊ごと、下手をすれば司令部ごと、自衛のために野盗化しかねん。」

 マルクヴォーが目を伏せて応える。

 

「共和派で伝わっている話とも一致しますな。

 先日、軍服を生産している縫製工場が焼き討ちにあったそうです。表向きは失火と言われていますが、それも——。」

 ボアライトが続けて問う。

 

「然様、議員殿。それも緘口令を敷いて、辻褄合わせをした。

 失火ではないし、革命派の仕業でもない。

 ……何らの前歴もない、善良な市民らによる犯行だった。」

 マルクヴォーが瞑目しつつ肯定する。

 

「ならば、なぜヴィクタリース博士は〈剣〉と?

 私どもは学が無いものですから、もう少し噛み砕いていただけると助かりますが。」

 ボアライトがヴィクタリースに水を向ける。

 

「皆様のおっしゃるとおり、軍の権威は、もはや前線の兵士の脳裏にしか存在しません。

 そして、それはわたくしも、兄殿下も同じこと。」

 

 ヴィクタリースは、大講堂の中央から、すり鉢状の階段を上へ上へと登っていく。

 行く手には、大理石の玉座があった。

 

「敗軍の将に、そして亡国の帝王の血統に、どうして国家の象徴が務まりましょう?

 軍政も帝政も、もはや無意味です。

 ——でも、この席に相応しい方がひとりだけ。」

 

 ヴィクタリースは玉座の前に辿り着くと、一同を睥睨した。

 

「マルクヴォー閣下。ちょうどあなたの席に、その方の名前があります。」

 

 ヴィクタリースの言葉に、マルクヴォーがその〈名前〉を探す。

 

「宿将であっても敗軍の将ではない。

 貴人ではあっても帝王の血統ではない。」

 

 帝国学士院会館、大講堂。その席次は、創設時のものを引き継いでいる。

 

「わたくしたちの取る〈剣〉。

 軍を統制し、民心を慰撫し、内乱を収められるたったひとりの方。」

 

 マルクヴォーが無意識に選んだ座席。それは帝国学士院創設時、最初の〈軍人枠〉出身者が、同じく無意識に選び、代々受け継がれてきた。

 

「そこにあるのは、ただ栄光によって、人々に求められる方の名前。」

 

 最前列のうち、玉座への通路に最も近い席。通路が右手側にあり、いつでも武器を取り出すことができる席。

 

「——軍人さんはどなたも、同じ席を選ぶのね。」

 

 

 事あらば、皇帝を守るために駆け出すことのできる、軍人にとって最良の席。

 その肘掛けには、真鍮の銘板が輝いていた。

 

「——ティメル・ヴェル・ミルダネス。元帥にして公爵。」

 

 マルクヴォーの声が、帝国学士院会館、大講堂のドームに木霊する。

 

  ***

 

 革命派一斉蜂起の報を受けたミルダネスは、領地近郊の宿場町の町長宅に詰めていた。

 

 もとより、帝政派は都市よりも地方、中央よりも辺境に多い。それゆえミルダネスの領地の村でも、隣接する宿場町でも、革命派による暴動は確認されていなかった。

 しかしミルダネスの領地は、あまりにも辺鄙に過ぎる。この危急の時に、ラジオのひとつも無いのでは話にならない。

 そこでミルダネスは、近場で最も情報の集まる、この町長宅に詰めることにした。

 なにしろこの家には、ラジオもあれば電話もあり、近場には三流地元紙とはいえ新聞社もある。鉄道駅もほど近い。

 町長も革命派一斉蜂起を聞いてミルダネスの来訪を予期していたのか、丁寧に客間を準備して待ち受けていた。

 

 ラジオでは、帝都バーレンハイムが郊外から包囲されて孤立無援であること、他の主要都市も同様であることが淡々と告げられていた。

 〈偶然〉にも各司令部が〈自主的〉に策定していた応急対処計画に基づき、各都市の帝国軍守備隊・警官隊が速やかに出動。加えて、共和派の義勇兵がバリケードを築いて革命派に対して頑強に抵抗しており、各都市の中枢と、通信網は革命派の手に落ちていない。

 ラジオ放送が続いているのは、その証左であった。

 

 しかし、逃走を図って捕縛された貴族や資本家が、郊外で次々と人民裁判にかけられて処刑されている。

 革命派の捕虜になった将兵は、階級章と勲章を剥ぎ取られ、軍服も燃やされて、鈴なりに木に吊るされている。

 耳を覆いたくなるような報道が、ミルダネスの聴覚を埋め尽くした。

 アナウンサーの淡々とした口調が、かえって恐ろしい。

 

「御領主さま、やはり軍管区司令部に行かれた方が——。」

 震えながら、町長が問う。

「だが、お前たちはどうするのだ。

 今はいい。しかし、いずれ革命派は食糧を求めて辺境へ押し寄せてくるぞ。」

 ミルダネスは瞑目し、顔を覆った。

 

(何になる。この老骨に、今更使い途などあるものか。)

 ミルダネスの胸中には、深い自嘲のみがあった。

 

(こんなことなら、早々に帝都に出向くべきであった。

 そうして、皇太女殿下と皇子殿下をお逃がしする殿軍として、討死するべきであった。

 いや。そうなれば領民たちは? 彼らを見捨てて忠義を取るか?

 ——ああ。これが、老いか。)

 もはや全ては手遅れ。ミルダネスにはそう思えてならなかった。

 

 そうしてミルダネスが、長年手をつけなかった葉巻を町長へ所望して、手ずから火をつけようとした頃。

 〈評議員たちの蜂起〉から二十四時間後の、帝国暦一八一九年三月十八日、午前〇時。

 ラジオから、サイレンが鳴り響いた。

 

「……緊……国民……発……緊急……!」

 先ほどまでとは調子が変わって、ラジオから聞こえるアナウンサーの声色が強い感情を帯びている。

 

「緊急放送。憲法制定国民議会発表。

 緊急放送! 憲法制定国民議会発表!

 こちら帝都中央放送局。

 こちら、帝都中央放送局!

 これより制憲議会からの緊急発表をお伝えします。

 これより、制憲議会からの緊急発表をお伝えします!

 ラジオの前の皆様は周りの方に声をかけ、ひとりでも多くの方にこの放送が届くようにしてください。

 ラジオの前の皆様は、周りの方に声をかけ、ひとりでも多くの方にこの放送が届くようにしてください!」

 

  ***

 

 ややあって言葉を紡ぐ声の主は、フェラルセン・ボアウィンド・ヴェル・シルヴァニス伯爵。

 隠居して久しいミルダネスにとっては、今やすっかり懐かしい、過去の声。

 

「我ら憲法制定国民議会は、帝国の将来を決する重大な責務を負い、

 ——以下の決議を全会一致で採択するに至った。」

 

「——現下の非常事態に鑑み、国家の安定と統治の継続性を確保するため、摂政府を設置する。

 摂政は、伝統的秩序の象徴としての役割を担い、基本法の定める範囲内において、国家の代表としての機能を果たす。」

 

「ティメル・ヴェル・ミルダネス元帥公爵を、摂政に任命する。

 ——秩序と正義と調和のもとに。」

 

 ミルダネスは、未だ火のつかない葉巻を、取り落とした。

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