皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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007 東部軍管区司令部

「摂政! だめだ、だめだ、だめだ!」

 帝国暦一八一九年三月十八日の日記の端には、ミルダネスの物と思しき殴り書きが残されている。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年三月十七日早朝に行われた憲法制定国民議会の諸会派と暫定政府首脳の頂上会議は、膠着した政治状況と緊迫した治安状況との間隙に、一つの突破口を見出した。

 すなわち、危機を口実として帝国の最高統治権の所在という最大の政治的焦点を棚上げし、なおかつ、危機を収拾する能力を持つ者に、その最高統治権を一旦放り投げようというのである。

 

「恐るべき無責任!」

 ラジオ放送の後、町長宅に木霊したミルダネスの言葉を借りずとも、外から見ればそうとしか形容のしようがない行いだった。

 

 しかし、頂上会議の出席者たちにも事情がある。

 彼らはもはや、何らかの大義名分なしには妥協できない袋小路に陥っていた。安易な妥協は、彼ら自身の死を意味する。政治的な死ではなく、物理的な。

 制憲議会選挙と、それに続く〈評議員たちの蜂起〉によって、諸勢力の熱気はこれ以上なく高まっている。たとえ領袖たちが冷静であろうと、その冷気が末端の熱を冷ますことはない。

 熱に浮かされた大衆は、安易な妥協を選んだ諸勢力の領袖たちを決して許さない。盲目的な信奉、熱狂的な支持は、それが裏切られたとき、容易に憎悪へと転化する。

 頂上会議の出席者たちは、〈評議員たちの蜂起〉が着火した政治的熱狂というロケット花火を、何とか軟着陸させる方策を探っていた。

 革命派に包囲され、生命の危機に曝されながら。

 

 頂上会議の出席者たちから見て、ミルダネスという人物は、軟着陸のための臨時滑走路として、まったく最適だった。

 例えば皇女派。戦時中に総力戦体制を主導した現役の軍人は不適格だが、戦前に隠居し長く軍務を離れていた〈手の汚れていない〉老元帥ならば、話は別である。

 例えば皇子派。〈文弱の徒〉に統帥権を握られるなど冗談ではないが、輝かしい軍歴を持つ〈老英雄〉ならば、話は別である。

 例えば共和派。〈皇帝一家〉に連なる者に国家の最高統治権を委ねるわけにはいかないが、〈皇帝一家〉以外の者ならば、話は別である。

 例えば暫定政府。どこかの会派の色がついている人物に主導権を渡すわけにはいかないが、〈隠居した老貴族〉ならば、話は別である。

 つまり、戦争指導責任がなく、文官や学者ではなく、皇族以外で、政治的に無色透明な貴族。それでいて、各勢力の末端までもが「この人物であれば」と納得できること。なおかつ、主要都市に拠点を置いておらず、革命派に包囲されていない人物。

 これが、頂上会議の出席者たちが担ぎ出せる人物の消去法的最大公約数であり、その条件を満たせる人物は、目下のところミルダネスを措いて他になかった。

 

 ミルダネスが軍務の一線を退いたのは、この世界大戦が勃発する以前のことである。ミルダネスは開戦に至る軍中央の軍政上そして統帥上の決定にまったく関与していない。当然、軍務の一線を退いて隠居している以上、前線での劣勢にも責任がない。軍長老として、そして名門貴族としてのミルダネスの権威は、この敗戦によって些かも損なわれていない。

 ミルダネスにしてみれば、年老いて優柔不断となり、自身の識見が時代に取り残されたことを自覚しての引退であった。しかし側から見れば、不本意な大戦へ向かう祖国を憂いての抗議の引退にも見える。開戦と共に軍中央から現役復帰を求められ、これを固辞した事実にしても、第三者からはこの観測を強化する材料に見える。

 

 ミルダネスの軍歴は輝かしい。ミルダネスが従軍した戦役は、いずれも帝国の勝利に終わっている。分裂著しい帝国を統一した〈祖国統一戦争〉に始まり、帝国が〈陽のあたる場所〉を求めて出征した植民地戦争の数々でミルダネスは常に勝利し、その名声は史書に太字で刻まれている。

 ミルダネスにしてみれば、この勝利は自分のものではない。帝国という国家がたまたま興隆期にあり、自分はその尻馬に載ったに過ぎない。祖国統一戦争の絵図を描いたのは当時の国家首脳であり、植民地戦争にしても、二流三流の植民地軍や現地武装勢力を相手取っての掃討戦に過ぎない。しかしそのような内幕は、歴史のヴェールに覆い隠されてしまう。

 

 ミルダネスは貴族である。共和主義者から見れば封建制の遺物にほかならない。しかし皇族ではない。〈皇族以外の者が、帝国の最高統治権を握った〉という名分だけでも、共和主義者にとっては十分な成果である。ましてやミルダネスは、貴族の権威のみならず、軍人としての貢献と実績によってその地位を保っている。つまり、仮にミルダネスが貴族称号を持たないとしても、彼は一廉の人物である。さらに、隠居してなお、自身の〈領地〉では民生に心を砕き、自警団を組織して妖魔討伐に貢献している。つまり〈民衆の護り手〉である。

 ミルダネスにしてみれば、自分は定められたように生きてきたに過ぎない。国家への貢献を旨とする名門貴族家に生まれ育ったから、そのように生きた。隠居後の活動にしても、ただ手の届く範囲で自身の義務を遂行しつつ、先祖伝来の家産を守っている。しかし、貴族の定めを愚直に遂行する姿勢は、共和主義者から見て〈マシで話の通じるマトモな貴族〉のそれであり、自らの職務職能に忠実な労働者の勤勉な姿と重なって見える。

 

 ミルダネス家は帝室に次いで古い家史を持つ、帝国一の名門貴族である。帝国貴族で最上位の公爵位を持ち、貴族称号が名誉以外の何物も保障しなくなったこの時代にあっても、〈領地〉と称される先祖伝来の地所では〈御屋形様〉と慕われている。ミルダネス家はその歴史を通じて、軍人や官吏としての帝国への貢献のほかには、先祖伝来の地所の経営と財産管理のみに熱心であり、ただ民生と経済の安定のみを願う模範的貴族であった。ミルダネス自身、軍人枠そして貴族枠での上院議員任命を固辞して所領に引きこもり、帝国学士院へも軍人枠で籍を置くばかりで出席も登壇もしたことがない。

 ミルダネスにしてみれば、家風を盾に政治から逃げ、学問から逃げ、楽隠居を決め込んで、ただ耄碌した自らの老醜を衆目に暴露しないよう心がけていたに過ぎない。しかし、軍国主義と貴族主義の色彩が濃く、下手の横好きで政治に容喙する軍人貴族の多い帝国にあって、これほど無色透明というのも珍しい。無能な働き者の多い政界にあっては、権威ある軍人貴族が〈黙っている〉だけでも加点要因となりうる。

 

 ミルダネスは、その内心とは全く無関係に、あらゆる勢力から待望されていた。

 元来、貴族として、軍人としての名誉を重んじるミルダネスである。老境に達して以降、周囲にその内心を吐露することはほとんどなく、都合の悪い場面になれば、神妙な表情で沈黙を守り通すのが常であった。あとは、名門貴族として、高級軍人としての地位ゆえに、その沈黙を周囲が都合よく解釈してくれる。

 老耄ゆえの優柔不断をそのように糊塗してきたミルダネスであったが、そのツケが、まったく思わぬ場面で回ってきたのであった。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年三月十八日未明。

 領地近郊の宿場町の町長宅で自身の摂政任命を耳にしたミルダネスは、自らが取り落とした葉巻を拾うことも忘れ、「恐るべき無責任!」と叫ぶと、ただ呆然自失としてラジオを睨みつけていた。

 町長にしても、あまりのことに驚くばかりで、ただオロオロとミルダネスの周囲を歩き回っていた。

 

 しばらくそうしていると、町長宅の門前が俄に騒がしい。

「来客か、革命派か、それとも軍からの使いか。」

 町長が家人に様子を確かめさせると、どうにも様子がおかしい。門前に多数の人影があるが、暴徒や革命派の類とは思われず、熱を秘めつつも統制を保っている様子である。

 やがて家人が門を開くと、武装した老若男女が庭先へ雪崩込んできた。

 

「御領主様! 御屋形様!」

「元帥! 元帥閣下!」

「摂政様! 我らが摂政!」

 

 ガチャリガチャリと金属音を立てながら、武装した民衆が口々に叫ぶ。彼らはみな、この宿場町の、そしてミルダネスの領地の村からやってきた自警団であった。

 先頭には、自警団の世話役を任せられていた傷痍軍人の穴居族の男が、型の古い軍服を着て立っている。

 

「お前たち! ここへ一体、何をしに来た!」

 ミルダネスが、町長を伴って庭先にやってきた。

 

「御屋形様! 元帥閣下! 今こそ我ら、立つ時です!」

 右手に装着された、木の義手を掲げて敬礼しながら、穴居族の男が叫ぶ。

 この穴居族の男は、戦前は家具職人だった。元来、穴蔵のような住居を快適に整えることを何よりの喜びとし、身の回りの清潔と安楽を旨とする穴居族である。彼にはこれが天職であった。

 しかし開戦劈頭、この男は早々に前線へ駆り出され、そして数々の家具を仕上げたその腕を、永遠に失った。以降は故郷へ帰って甥に工房を譲ると、在郷軍人のまとめ役となり、自警団の世話役を務めていた。右手の義手は、工房を譲られた甥の作であるという。

 

「そうとも! 我ら在郷軍人、閣下と共に立つ!」

 しわがれた女性の声。

 在郷軍人には女性も多い。後方勤務の比率が高いが、それでも戦局の悪化で前線へ駆り出された者や、敵の奇襲で負傷した者も少なくない。

 自警団では妖魔を相手に銃を取る女性も多く、慢性的に人手不足の自警団においては、彼女らは貴重な戦力だった。

 

「我らの郷里を守るため、我らの故郷を守るため!」

 まだ幼さを感じる青年の声。

 徴兵年齢に達していないが、妖魔の脅威を前に立ち上がった青少年は数多い。妖魔に家族を殺された者、妖魔の被害で家産を失った者もいて、戦意は高い。

 年齢を誤魔化して強引に従軍しようとするのをミルダネスが押し止めて、自警団に参加させた者もあった。

 

「鋤でも鍬でも、腕一本でも!」

 張りのある男性の声。

 農業生産力を維持するため徴兵されなかった農民たちは、前線で戦えない負い目からか、自警団に積極的に参加していた。

 武器の扱いを心得ない者も多いが、そうした者でも持ち前の土地勘や妖魔の生態に関する知識を生かして、妖魔対策に一役買っていた。

 

「やれると思うか、私に。」

 ミルダネスが、町長へぽつりと呟く。

 先ほどまで呆然としていた町長も、自警団の面々の熱気にあてられて、今やすっかり正気を取り戻していた。

 

「これまでと、やることは何も変わりませんとも。

 ええ、そうですとも。

 あなたさまは、あなたさまの務めをなさいませ。」

 身分違いの幼馴染でもあった町長の言葉に、ミルダネスは決意を固めた。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年三月十八日、払暁。

 ミルダネスは、所領に最も近い地方都市、レギスヘーエンの帝国軍東部軍管区司令部に出頭した。

 

 レギスヘーエンは東部国境地帯沿岸部に位置する、東部国境地帯の中心都市である。東部国境地帯の工業化は極めて緩慢であり、それゆえにレギスヘーエンもまた、著しい都市化と近代化の洗礼を免れていた。都市全体に古帝国時代の遺構や中世の遺構が多数残る、古都の色彩が濃い都市。それがレギスヘーエンである。

 工業化の遅れと地域全体の農民的気質ゆえ、レギスヘーエンは〈評議員たちの蜂起〉の影響を受けず、どさくさ紛れの小規模な放火騒ぎがあったばかりで、都市全体が平穏そのものと言って良かった。

 

 帝国軍東部軍管区司令部は、港に面して建てられた古城、レギスヘーエン城に居を構えている。レギスヘーエン城は、基礎部分が古帝国時代の古代コンクリート、城壁は中世騎士団様式、内装は近世復古様式と、各時代に跨った歴史遺構でもある。

 中世期には、レギスヘーエンの街と共に、この城をミルダネス家が領有していたこともあった。

 

 ミルダネスが町長の手配した自動車でレギスヘーエン城に到着すると、その門前には、古い型の軍服を纏った在郷軍人たちが列を成していた。

 同様に古い型の軍服を身に纏ったミルダネスの姿を認めるや、在郷軍人たちは次々と歓声を上げる。

 

「万歳! 元帥万歳! 摂政万歳!」

「古都の古き城主が、故郷へ帰ってきたぞ!」

 在郷軍人たちは、少なからぬ者が、高齢のため除隊したか、何らかの戦傷を負っている。

 しかし、彼らの歓声にはそのような色彩が微塵も感じられなかった。それほどの熱気である。

 

 ミルダネスの車が広場の車寄せに到着するや、軍管区司令官の中将が、降り立つミルダネスを直立不動で待ち構えていた。

「我らが摂政、ミルダネス元帥公爵閣下に敬礼!」

 左右に控える将兵が一斉に敬礼する。

 ミルダネスが答礼しつつ観察すると、いずれも最高位の礼装に身を包んでいる。

 

(摂政! 私が摂政!)

 誰よりも帝室崇敬の念の強い自分が、よりにもよって皇帝に取って代わる摂政に任命された。その運命の皮肉を自嘲せずにはいられない。

 

 中将に導かれてレギスヘーエン城の廊下を進むと、至る所にミルダネス家の痕跡を見て取ることができた。

 片隅にミルダネス家の頭文字を象ったモノグラムがあり、あるいは家伝に所以のある動物のレリーフがあり、ミルダネス家の当主の頭像があった。

 

「元帥閣下は、レギスヘーエンの城に足を運ばれたのは初めてですかな?」

「——祖国統一戦争では西方、それ以降は中央、海外勤務が多かったものでな。」

「そうして海外から戻ったと思ったらまた中央、そして御引退という訳ですか。

 御家のかつての居城に老境に至って足を運ばれるとは、なかなかどうして。」

「まったく、世界も人生も、どうなるか分かったものではない。」

 

 中世城塞らしく曲がりくねった廊下を進み、急勾配の階段を登り、塔を上へ上へと進んでいく。

 老齢のミルダネスには堪えたが、態度には出さない。

 

「門前の列をご覧になりましたか。各地の軍管区司令部や駐屯地にも、同様の列ができていると聞いています。元帥閣下と同じ古兵が、元帥閣下を奉じて集まっているのです。」

「分からぬ。なぜ私なのだ。」

 

 階段を登り切って、塔の頂上。木の大扉の前で、中将が立ち止まった。

「この城と同じことですよ。——我らの心に、刻まれているのです。」

 

 中将は、ミルダネスへ扉を示すと、改めて敬礼する。

「元帥閣下には、これからラジオで、全国民に呼びかけていただきます。

 ——ミルダネス元帥摂政公閣下。」

 

 レギスヘーエン城、東部軍管区司令部、通信塔。

 オーク材の扉の中央には、ミルダネス家の巨大な紋章が刻まれていた。

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