皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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008 摂政行為

「私が行うのは、あくまで〈行為〉だ。私は、統治者ではない。断じて、そうではない。」

 帝国暦一八一九年三月十九日のミルダネスの日記には、摂政体制の性格が極めて如実に現れている。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年三月十九日正午、帝国東部国境地帯の中心都市レギスヘーエンにおいて、歴史的なラジオ演説が行われた。

 憲法制定国民議会により帝国摂政に任命された、ティメル・ヴェル・ミルダネス元帥公爵(〈元帥摂政公〉)による、任命受諾演説である。

 このラジオ演説は、東部軍管区司令部が置かれたレギスヘーエン城、〈大公の間〉にて行われた。

 

 〈大公の間〉は、レギスヘーエン城の北端、最も海に近い塔の頂上に位置する。近年の考古学調査によれば、この塔はレギスヘーエン城の中でも最古の構造物である。

 トーガと染布で着飾った常人族たちが栄華を誇った古代、海を臨むこの地に、古帝国の神殿が築かれた。後にレギスヘーエンが常人族と諸種族との衝突の最前線となると、古帝国は神殿を要塞化し、防塁と堀が築かれ、神殿は高楼となり物見塔を兼ねるようになった。やがて神殿が他の場所へと遷座され、この場所がレギスヘーエン城と呼ばれるようになると、この物見塔は総督の居所とされ、古帝国歴代の総督はここからレギスヘーエン港とレギスヘーエン市とを睥睨した。

 

 古帝国における官職の固定化と世襲化が進むと、古帝国における一大貿易拠点のひとつであったレギスヘーエンの総督は〈大公〉を名乗り、自立を強めた。時代が進むにつれ、歴代大公が居所としたこの塔は〈大公の塔〉と呼ばれるようになり、その最上階も、〈大公の間〉と称された。——この〈大公〉たちこそ、ほかならぬミルダネスの父祖であり、レギスヘーエン城こそが、ミルダネス家の始まりの場所であった。

 後世、ボレアニス朝が興ると、ミルダネス家はこれに恭順。君主号たる大公号と祖地たるレギスヘーエンを捨てて、敵意のないことを示した。ボレアニス朝の太祖は、ミルダネス家に筆頭貴族の証として公爵号を許し、狭いが実り豊かな街や村落を各地に多数与えて、これに報いた。以来、レギスヘーエンには特定の貴族家が封ぜられることはなく、ボレアニス家の派遣した代官がこれを統治し、かつての栄華も失われて、近代に至っている。

 

 さて、主を失った〈大公の塔〉は、レギスヘーエン城に帝国軍東部軍管区司令部が置かれると、海に臨み遮蔽物の少ないその立地と高さから、通信塔として活用されることとなった。特に〈大公の間〉は、海風のほかは雑音が少ないことから、ラジオが普及すると、地域の行政・軍事に関する情報を放送するための放送スタジオとして整備されていた。

 この〈大公の間〉でラジオ演説に立ち会った、帝国軍東部軍管区司令官オサル・ヴェル・ヴェイルワード中将は、東部軍管区司令官日誌に以下のように書き残している。

 

「元帥摂政公閣下は、獅子のごとく堂々たる態度を以て、我ら帝国軍人に垂範された。

 この重大なる時局にあって、我が東部軍管区司令部がその舞台として選ばれたことに、誠に感嘆してやまない。今や、レギスヘーエンは忘れられた古都から、帝国精神の中心となった。

 我らはこれより、賊徒を討伐し、世界に対して帝国精神の精華を示す。

 我らは決して、敗残の兵ではない。

 帝国の偉大な歴史の生き証人にして体現者! 父祖万歳! 元帥摂政公万歳!」

 

 〈大公の間〉でのラジオ演説に立ち会ったあらゆる将兵が同様の感想や証言、手記の類を残しているが、当事者であるミルダネスに焦点を当てると、実情は大きく異なる。

 

  ***

 

「〈摂政令〉は出せぬ! 決して! それは謀叛だ!」

 

 帝国暦一八一九年三月十九日午前十時。同正午に予定されたラジオ演説の直前、〈大公の塔〉、控室。

 

「摂政就任については、この際致し方あるまい。

 主力部隊は未だ武装解除と復員の途上にあり、残る部隊も〈死の領域〉に張り付いて離れられぬ。

 有力な貴族や将帥はいずれも大都市にあって革命派に包囲されているとなれば、老骨に鞭打って馬車馬の如く走るほかないというのには、納得した。

 しかし、中将。

 帝国全土に号令するは、古来、神の恩寵による帝国皇帝にのみ許された大権である。

 皇帝陛下のお許しもなしに、そのようなことはできぬ!」

 

 押し問答であった。

 東部軍管区司令部やレギスヘーエン市の要員からなる一団とミルダネスの討議により、演説の内容も大方定まり、帝都救援の戦略もある程度固まってきた頃になって、ミルダネスはヴェイルワード中将に再考を促した。

 

 ミルダネスは帝室崇敬の人である。ただでさえ、旧主にして教え子である皇帝セラレス四世の退位と亡命に衝撃を感じている。摂政任命にしても青天の霹靂であって、何の準備もできていない。

 そんなミルダネスにとって、そもそも摂政号自体、荷が重い。状況が状況でもあるから摂政号自体を何とか飲み込むとしても、その摂政号は軽ければ軽いほどよい。間違っても、皇帝に取って代わるような称号であってはならない。

 

 ミルダネス家は、かつて大公を号し、それを捨てて帝室に恭順し、公爵号を受けた家系である。

 

(そのミルダネス家に連なる私が摂政というだけでも畏れ多い。

 その上、〈摂政令〉などという、まるで勅令かのごとき命令を発することはできない。)

 ミルダネスにとってこの種の非常命令は、皇帝自身が発するか、あるいは受権者が皇帝の名のもとに発するものである。

(帝座空位である以上、そのようなことはできない——。)

 

 〈国体論としては、まさしくそのとおりである。しかしこの非常の時に、いちいち命令の体裁に構っている場合か〉。そのような考えを持った者はひとりやふたりではなかった。

 しかし、まさに彼らは正統な帝国の統治権力を回復するために立つのであり、名分を捨てては立つ瀬がないというのも事実である。

 ミルダネスに整然と反論できる者は、ひとりとしていなかった。

 

(このままでは、放送予定時刻に間に合わない。)

 ヴェイルワード中将の焦燥は、いよいよ強い。寒さ厳しい三月のレギスヘーエンであったが、背中からは汗が吹き出し続けていた。

 危惧は、徐々に現実のものとなりつつある。

 

(ただでさえ、時間がない。)

 任命受諾演説によって一刻も早く制憲議会決議を既成事実化し、そのまま帝都救援のための檄を帝国全土へ発する必要がある。

 そのために、帝国全土でラジオ聴取率の高いと思われる正午に放送時刻を設定していた。

 

(深夜と早朝には予告放送まで流してあるのだ。

 今、放送が遅延すれば——。)

 帝国は、滅びる。

 

「議論百出! 十五分間、小休止!」

 ヴェイルワード中将は、強引に会議を打ち切って電話交換台へと飛び込んだ。

 

  ***

 

「〈摂政行為〉。〈摂政令〉ではなく。

 それならば、私も構わない。直ちに原稿を修正してくれ。」

 小休止を終えて控室へと戻ったヴェイルワード中将が息も絶え絶えにミルダネスへと耳打ちすると、ミルダネスは大きく頷いて、書記官へ原稿の修正を命じた。

 

「中将閣下! 今から再度の清書となると、間に合いません。

 ——紙を上から貼って、訂正するというのは。」

「公文書としては異例だが、致し方あるまい。修正の旨を議事録に残して、出席者全員で連署する。

 構いませんかな、元帥摂政公閣下。」

「この際だ、やむを得ん。私も原稿と議事録、双方に署名捺印する。」

 書記官とヴェイルワード中将、ミルダネスが言葉を交わし、段取りが固まった。

 

 この時ヴェイルワード中将が交換台から電話をかけた相手は、西部戦線で負傷して陸軍病院に入院している予備役中尉、カーレス・フォージライト教授であった。

 フォージライトは、法学・政治学・哲学・美学の領域で若くして才能を発揮し、二十代後半で複数の博士号と教授就任資格を獲得した秀才である。ヴェイルワード中将は開戦直後にフォージライト教授の講演を聴講して以来、時折文通しては、助言を求めていた。

 

  ***

 

 〈摂政令〉ではなく、〈摂政行為〉。この微妙な表現の調整は、非常に重大な意味を持つ。

 古来、帝国の国制において、国家の最高統治権は皇帝に専属し、帝国におけるあらゆる正統性の源泉は、皇帝にあった。

 無論、古帝国が徐々に変質し、ボレアニス朝が登極して以来一〇〇〇年。その原則が維持されていた時代のほうが短い。祖国統一戦争以前の帝国では、古帝国時代の諸長官に由来する君侯が各地に分立し、それぞれが古帝国時代の任命状を持ち出して、〈皇帝の名のもとに〉独自の統治を担ってきた。

 ここでの〈皇帝〉とは、同時代に実在するボレアニス朝の帝国皇帝個人のことではなく、かつて彼ら君侯の祖先を諸長官に任じた古帝国時代の偉大な皇帝たち、そしてそこからさらに転じて、抽象概念としての〈皇帝〉のことを指す。諸君侯にとって、ボレアニス朝の帝国皇帝個人は古帝国時代の偉大な皇帝たちの遺産を継いだに過ぎず、本質的に諸君侯の同輩とみなされていた。

 

 しかし、一七七一年の祖国統一戦争によってボレアニス朝がこれらの諸君侯に城下の盟を誓わせると、〈皇帝の名のもとに〉という決まり文句が、文字通りの意義を持つようになる。

 祖国統一戦争は、帝国を古帝国の昔、偉大な皇帝によって統治される古き良き秩序に再編するという大義名分で行われた。そうである以上、統一された帝国の貴族・軍人・官吏が〈皇帝の名のもとに〉命令を発するのは、まったく当然である。

 したがって何人も、ボレアニス朝の帝国皇帝以外の名によって命令を発することは許されない。祖国統一戦争以後の帝国において、国家の最高統治権とあらゆる正統性の源泉は、ボレアニス朝の帝国皇帝個人でしかありえず、またあってはならない。これが、祖国統一戦争以来の帝国における国制と国体、その基本原理である。

 〈摂政令〉という形式は、帝国におけるこの基本原理と真っ向からぶつかる。ましてや、かつて諸君侯のひとりとしてボレアニス家と並び立ったミルダネス家の末裔が、そして祖国統一戦争に従軍した英雄が〈摂政の名のもとに〉命令を発すれば、それはミルダネス家がかつての諸君侯と同様の独立君主家たることの宣言、あるいはミルダネス家による帝位簒奪の宣言であって、最大の背信行為と解釈される。そうであればこそ、ミルダネスは最後まで〈摂政令〉という形式に反対した。最悪の場合、革命派と帝政派に挟撃され、ミルダネスは宮殿前広場で吊るされるだろう。

 

 〈摂政行為〉という奇妙な表現は、こうした問題を解決した。

 帝国において、〈命令〉という形式それ自体が、皇帝主権の象徴的・実体的表現である。しかし〈行為〉という形式は〈命令〉に比して、主権的含意が希薄である。

 すなわち、〈摂政行為〉という表現は、〈摂政〉という表現で帝権の代行者としての地位を主張しつつ、〈行為〉という表現で〈命令〉との区別を維持し、その過渡性・暫定性を主張する。それでいながら、〈摂政令〉と同様に、拘束力を持つ指令でもある。

 〈摂政行為〉は、フォージライト教授にとって、国体上の問題を回避しながら実効性を担保する妥協解であった。

 

  ***

 

〈帝国摂政任命受諾演説〉

一八一九年三月十九日

 

 本日、元帥にして公爵たる余、ティメル・ヴェールスガル・ケーレン・アンスロス・ヴェル・ミルダネスは、非常に厳粛な決意をもって、諸君に語りかける。

 

 我が帝国は今、開闢以来一〇〇〇年の歴史において最も危機的な時を迎えている。

 先般、憲法制定国民議会において、帝国の暫定的統治体制として摂政府の設置が決議され、余がその重責を担うよう指名された。

 この決定を知らされたとき、余は辺境の静寂の中で余生を送る決意を固めていた。老骨は辺境の土となり、ただ風と共に去るのが我が本意であった。

 

 しかし今、我が祖国が内乱の危機に瀕し、革命派が帝都を包囲する現状において、余は祖国への最後の奉仕として、この重責を受け入れる決断をした。

 

 よって、余は本日より、憲法制定国民議会の決議に基づき、帝国摂政の職を正式に受諾することをここに宣言する。

 余は党派的利害を超え、全ての帝国臣民のため、そして我が国の安定のために、与えられた職務を全力を尽くして遂行する。

 

 秩序と正義と調和のもとに。

 

レギスヘーエンにて

憲法制定国民議会による帝国摂政 元帥にして公爵

ティメル・ヴェールスガル・ケーレン・アンスロス・ヴェル・ミルダネス

(ミルダネス家印章)

 

〈摂政行為第一号〉

一八一九年三月十九日

 

 帝国摂政、元帥にして公爵たる余、ティメル・ヴェールスガル・ケーレン・アンスロス・ヴェル・ミルダネスは、以下の行為を発する。

 

【国家非常事態の宣言】

 現時刻を以て、帝国全土における国家非常事態を宣言する。

 かかる国家非常事態は、秩序が回復し、憲法制定国民議会のもとにある合法的政府の機能が全土において確保されるまで、継続する。

 

【軍の動員】

 帝国軍総司令部は、暴徒鎮圧および帝都防衛、並びに妖魔対策のため、全予備役および退役軍人の即時動員を行う。

 全兵力は速やかに戦時体制へ移行し、国内治安維持のため配備される。

 

【郷土防衛隊の組織】

 各地方当局は、郷土防衛隊を組織し、軍および警察と協力して治安の維持に当たらしめる。

 これらの郷土防衛隊は、軍管区司令官の指揮下に置かれる。

 軍管区司令部または司令官が現に包囲下にあって指揮遂行が困難な場合においては、別にこれを定める。

 

【反逆者への処遇】

 武装蜂起を企て、憲法制定国民議会のもとにある合法的な国家機関に対して暴力を行使する者は、反逆者とみなす。

 しかし、直ちに武器を放棄し、当局に投降する者には、その名誉と公正な裁判を保障する。

 

【臣民への呼びかけ】

 全帝国臣民に対し、平静と秩序を維持するよう求める。

 不必要な恐怖や混乱を引き起こす噂の拡散を控え、当局の指示に従うこと。

 

 余が意を体せよ。

 

 秩序と正義と調和のもとに。

 

レギスヘーエンにて

憲法制定国民議会による帝国摂政 元帥にして公爵

ティメル・ヴェールスガル・ケーレン・アンスロス・ヴェル・ミルダネス

(ミルダネス家印章)

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