街の灯りは、遠くから見るよりずっと禍々しかった。
ネオンの色が幾重にも重なり合い、油混じりの排気と一緒に夜空へ立ち上っていく。トラックの荷台から見上げるその光景に、ニッカはしばらく声を失っていた。荒野の星空とは、何もかもが違う。眩しさの奥に、得体の知れない圧迫感が潜んでいる気がした。
車列は、大通りを避けるように裏道を選んで進んでいた。運転席のファルコは、地図も見ずに幾つもの角を折れていく。事前に洗っておいた経路を、体に叩き込んでいるのだろう。
「この辺りから、静かにいくぞ」
助手席のニッカに、ファルコが低く告げた。
「静かに、って」
「エンジン音も、ヘッドライトも、最小限に絞る。この先は、見られたくない連中の縄張りに近い」
その一言に、荷台の空気がわずかに張り詰めた。デイビッドが身を乗り出し、窓の外を窺う。
「ヴァレンティーノズの、辺りか」
「際どいところだ。真ん中は突っ切らねえ、外周を回る」
やがてトラックは、廃棄物処理施設と書かれた錆びた看板の下を通り抜けた。街灯の一つも点いていない一帯だった。積み上げられたコンテナの影が、月明かりの中で墓標のように並んでいる。
「……ここ?」
ニッカが呟くと、ファルコは頷いた。
「表向きは、とっくに稼働を止めた施設だ。企業の登記からも、とうに消えてる」
「なんで、そんな場所を」
「消えた施設ほど、誰も見に来ない。逆に言えば、隠れるにはちょうどいい」
トラックは、崩れかけたフェンスの隙間を縫うように敷地の奥へと進んだ。エンジンを切ると、あたりは急に静かになる。風に乗って、饐えたような臭いが荷台まで流れてきた。
「うっ……なんだ、この臭い」
デイビッドが顔をしかめると、隣に座ったレベッカが鼻を摘みながら答えた。
「そりゃ、ゴミの臭いだろ。廃棄物処理場だぞ、ここ」
「分かってるけど、覚悟してた以上だ」
二人のやり取りに、荷台の後方からルーシーが低い声で付け加えた。
「これから、ここが家になる」
「……マジかよ」
力なく呟くデイビッドの声が、夜の闇に溶けていった。
降車した一同を先導したのは、キーウィだった。煙草を挟んだまま、崩れかけたプレハブ小屋の裏手へと回り込む。
「入り口は、こっちだ」
「小屋の中に?」
「表向きは、な」
軋む扉を押し開けると、床の一角に、重い鉄製のハッチが埋め込まれていた。年季の入った取っ手には、蜘蛛の巣がびっしりと絡みついている。
「これ、開くのか」
メインが取っ手に手をかけ、力任せに引いた。金属の擦れる音が、鈍く響く。だが、ハッチはびくともしなかった。
「……錆びついてやがる」
「貸して」
ニッカが横から進み出て、懐から潤滑油の小瓶を取り出した。蝶番の隙間へ丁寧に垂らしていく。数十秒待ってから、もう一度取っ手に手をかけると、今度は軋みながらもゆっくりと持ち上がった。
「力より、油だから」
得意げな一言に、メインは苦笑いを浮かべるしかなかった。
荷台のロープを解きながら、ニッカは地上の様子を見渡した。ハッチの向こうに続くのは、狭い梯子だけだった。とても、あの車体を担いで降りられる幅ではない。
「……あんたは、下には連れていけない」
独り言のような呟きに、傍らで手を貸していたファルコが振り返った。
「置いていくのか」
「地上に、隠す。この敷地なら、置き場所はいくらでもある」
答えながら、ニッカはコンテナの影が並ぶ一角へ視線を向けた。墓標のように立ち並ぶ影の隙間になら、車体一台くらい、誰の目にも留まらずに紛れ込めるはずだった。
二人がかりで運び出した車体を、崩れかけたコンテナの陰にそっと据える。錆びた鉄板の陰に隠れると、三本の排気管も、遠目にはただの廃材にしか見えなくなった。汚れた防水シートを上から被せ、ニッカは最後にもう一度、結び目を確かめた。
「……ここで、待ってて」
留守番を言い聞かせるような口調で呟くと、彼女は工具袋を担ぎ直した。振り返ることなく、ハッチへ向かって歩き出す足取りには、迷いがなかった。
ハッチの下から、錆びた鉄梯子が闇の奥へと伸びていた。懐中電灯の光が届く範囲は、ほんの数メートルほどしかない。
「先、行くぞ」
ファルコが真っ先に梯子へ足をかけた。続いてメイン、ドリオ、デイビッドと、一人ずつ暗闇へ降りていく。最後に残ったニッカが、道具袋を背負い直して梯子に手をかけた瞬間、頭上でレベッカの悲鳴が響いた。
「ぎゃっ!」
「な、何」
驚いて振り返ると、レベッカが自分の頭を押さえてうずくまっていた。
「配管に、頭ぶつけた……」
「大丈夫か」
「痛えけど、大丈夫。それより、こんな低い場所に配管仕込むなよ、誰だよ設計した奴」
誰にともなく毒づくレベッカに、下から呆れた声が返ってきた。
「私に言われても」
「あんたのことじゃねえよ。この施設作った奴に言ってんの」
軽口の応酬が、緊張していた一同の空気をわずかに和らげた。
梯子を降りきった先には、長い通路が続いていた。剥き出しの配管が天井を這い、時折、水滴の落ちる音だけが反響する。懐中電灯の光の輪の中を、小さな影が横切った。
「な、なんかいた!」
デイビッドが飛び退くと、ルーシーが冷静に光を向けた。
「ネズミ」
「……ネズミか」
「拍子抜けした声、出さないで」
ルーシーの淡々とした指摘に、デイビッドは咳払いでごまかした。荷台での威勢はどこへやら、狭い暗闇の中では誰もが臆病になっていた。
通路を抜けた先で、視界が一気に開けた。
巨大な吹き抜けの空間が、闇の奥に広がっていた。天井近くまで積み上がった廃棄物の山、幾筋にも枝分かれしたベルトコンベア、錆びついた分別用のクレーンアーム。どれも動きを止めたまま、じっと眠りに就いている。
「……すげえ」
最初に声を漏らしたのは、デイビッドだった。だが、その驚きをはるかに上回る反応を見せたのは、ニッカだった。
「……」
言葉もなく、彼女はしばらく立ち尽くしていた。懐中電灯の光が、あちこちの廃棄物の山を照らし出すたびに、その目がわずかに見開かれていく。配線の切れ端や歪んだ筐体、型式の分からない基板まで。荒野では滅多に出会えない部品の山が、視界いっぱいに広がっていた。
「おい、ニッカ。大丈夫か」
心配したメインが声をかけると、ニッカはようやく口を開いた。震える声だった。
「……宝の山」
「は?」
「宝の山だよ、ここ。見て、あの山。基板だけでも、ざっと三桁は転がってる」
興奮を隠しきれない様子で、ニッカは廃棄物の山へ駆け寄っていった。その背中を見送りながら、ドリオが小さく息を吐いた。
「もう、そういう顔ね」
「そういう顔って」
「腹減った時の、あんたたちと同じ顔よ」
ドリオの一言に、荷台から降りてきたレベッカとデイビッドが、思わず顔を見合わせた。
「ここ、電気は」
メインが天井の配線を見上げながら尋ねると、キーウィが煙草を吸いながら答えた。
「メインの送電網からは切られてる。だが、廃棄物処理の余熱発電設備が、まだ生きてるはずだ」
「まだ、って」
「四十年前の代物だがな」
その言葉に、ニッカが即座に振り返った。
「四十年前の余熱発電、生きてるの? 見せて」
「まだ入ったばかりだろうが」
呆れたキーウィの声を無視して、ニッカはすでに奥の設備室へと駆け出していた。
残された一同は、荷物を降ろしながら空間の隅々を確かめていった。ファルコが壁伝いに歩き、退路になりそうな通路をいくつか記憶に刻んでいく。懐中電灯の光を壁の継ぎ目に沿わせ、崩れかけた箇所と補強できそうな箇所を一つずつ選り分けていった。荒野で染みついた用心深さは、拠点が変わっても失われていなかった。ドリオは、寝床に使えそうな比較的乾いた一角を見つけ出し、荷物を運び込む指示を飛ばしていた。
「ここ、天井高いし、雨漏りもなさそうだな」
メインが天井を見上げながら呟くと、ドリオが頷いた。
「悪くないわね。掃除さえすれば」
「掃除、誰がやるんだ、これ」
積み上がった埃と廃材を見渡し、メインは思わず腕を組んだ。答える者はいなかった。
しばらくして、奥の設備室から、火花の弾ける音とニッカの叫び声が響いた。
「あ、ちょっと待って」
「おい、大丈夫かよ!」
真っ先に駆けつけたデイビッドの前で、ニッカは端子を握ったまま、青ざめた顔で立ち尽くしていた。焦げた匂いが、うっすらと漂っている。
「……大丈夫、感電はしてない」
「してないって、今のは何だよ」
「配線の極性、間違えただけ。もう直した」
あっさりとした答えに、デイビッドは天を仰いだ。
「あんた、油断も隙もねえな」
「油断はしてない。感電の可能性、想定内だったから平気」
「想定内なら、先に言っといてくれよ!」
悲鳴じみた抗議に、設備室の奥からニッカの平然とした声が返ってきた。
「言ったら、驚かなくてつまらないでしょ」
「性格悪いな、それ!」
二人のやり取りに、通りかかったレベッカが吹き出した。
数十分後、頭上の照明が、鈍い唸りとともに点灯した。長らく眠っていた配線が、久しぶりの電流に軋むような音を立てる。橙色の光が、埃だらけの空間をぼんやりと照らし出した。
「……点いた」
ニッカが設備室から顔を出すと、拍手をしていたのはレベッカだった。
「おおー、やるじゃん」
「四十年前の設備にしては、上出来」
「四十年前のもん、四十分で直すあんたの方が上出来だと思うけどな」
あっけらかんとしたレベッカの返しに、ニッカは肩をすくめただけだった。
照明が灯って間もなく、入り口の方角から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「おーい、遅れて悪かったな! 荷物運びに手間取っちまって……って、うおっ、なんだこの臭い!」
姿を見せたのは、ピラルだった。長く伸びた義手に大荷物を提げたまま、鼻を摘んで顔をしかめている。
「ピラル、なんで今頃」
レベッカが問いかけると、ピラルは荷物を下ろしながら答えた。
「中央キャンプの連中の荷物、手伝ってたんだよ。お前らだけ先に行きやがって、水臭えな」
「あんたが遅かっただけだろ」
「兄貴に向かって、その口の利き方はなんだ」
軽口を叩き合う兄妹に、メインが呆れた顔で割って入った。
「揃ったところで、荷物運びの続きだ。手が空いてる奴から動け」
その号令に、ピラルは大袈裟に敬礼のポーズを取った。
「了解だ、リーダー」
一通りの荷下ろしが落ち着いた頃、ピラルは荷物の陰で作業をしていたニッカに気づき、片手を挙げた。
「よぉ、ニッカちゃん。噂には聞いてたが、ここまで派手に引っ越すとはな」
水を向けられたニッカは、荷解きの手を止めずに答えた。
「噂って、なに」
「メインの奴が、しょっちゅう自慢してんだよ。うちのメカニックはとんでもねえ、ってな」
「大袈裟」
素っ気ない返事に、ピラルは声を上げて笑った。
「相変わらずつれねえな。まあいい、また改造頼むわ」
軽く手を挙げるだけの挨拶に、ニッカも小さく頷き返した。そこには、初対面らしい硬さなど欠片もなかった。
レベッカの兄だと聞かされてはいたが、顔を合わせるのはこれが初めてだった。義体の斡旋やパーツの横流し、ちょっとした運び屋仕事。ナイトシティの裏路地でしのぎを回す方が、砂まみれの荒野より性に合っている、というのが本人の言い分らしい。
その気安さに気づいたのか、通りかかったレベッカが荷物を抱えたまま口を挟んだ。
「あんたら、今日が初対面だろ。なんでそんな普通に喋ってんだよ」
「噂だけは嫌ってほど聞かされてたからな。俺はずっと、こっち側が縄張りだ」
「連れて行ったところで、どうせすぐ退屈がるだろ、あんたは」
「否定はしねえ」
あっさり認めたピラルに、レベッカがふと手を止めた。
「そういや、一回も連れてったことなかったわ、あんたのこと」
軽い調子で交わされたやり取りに、ニッカは荷解きの手を止めないまま小さく頷いた。それだけで、この二人が今日初めて顔を合わせたのだと、改めて腑に落ちた。
新しい拠点に、また一人賑やかな面子が加わった。
「にしても、広いな、ここ」
照らし出された空間を見渡しながら、ファルコが呟いた。
「クラン全体で暮らしても、まだ余裕がある」
「その分、隅々まで目が届かねえってことでもある」
メインが応じると、キーウィが煙草の灰を落としながら口を挟んだ。
「死角を潰すのは、明日以降の仕事だ。今夜は、休むことを優先しろ」
その言葉に、誰もが一斉に肩の力を抜いた。丸一日以上、まともに休んでいない体には、その一言が誰よりも堪えた。
試しに、と言いながらメインが近くの棚に肩を預けた瞬間、乾いた音とともに棚全体が崩れ落ちた。積み上がっていた廃材が、彼の足元に雪崩れ込む。
「……おい、大丈夫か」
ドリオが駆け寄ると、メインは埃まみれのまま、気まずそうに頭をかいた。
「悪い、思ったより脆かった」
「思ったより、じゃなくて、四十年放置された棚がそんな頑丈なわけないでしょう」
呆れた声で言い返しながら、ドリオは崩れた廃材を仕分け始めた。その傍らで、レベッカが腹を抱えて笑っていた。
「ギャハハ! 力自慢が真っ先にやられてやんの!」
「うるせえ、次はお前が試せ」
「あたしは賢いから、最初から触らねえんだよ」
軽口の応酬に、崩れた棚の残骸を片付ける作業が、思いのほか賑やかな時間になっていった。
荷物の仕分けが一段落した頃、レベッカが廃棄物の山の陰から、何かを引っ張り出してきた。
「見ろよ、これ」
差し出されたのは、片方の目玉が取れかけたぬいぐるみだった。汚れきった生地の隙間から、綿がはみ出している。
「なにそれ」
「知らねえ。ゴミの山から出てきた。でも、なんかこいつ、あたしに似てね?」
真顔で言い放つレベッカに、デイビッドが即座に突っ込んだ。
「似てねえよ、どこがだよ」
「目つき悪いとこ」
横から口を挟んだのはルーシーだった。淡々とした一言に、荷台の周りに小さな笑いが起きた。
「おい、それ褒めてねえだろ!」
声を荒げるレベッカを尻目に、ニッカは真剣な顔でぬいぐるみを覗き込んでいた。
「……このファスナー部分、精密機器の防塵カバーに転用できそう」
「あんた、そこ見るのかよ!」
呆れたレベッカの声が、天井の高い空間に反響した。
ぬいぐるみを巡る騒動が収まった頃、通路の奥を懐中電灯で照らしていたファルコが、思わず足を止めた。
「……おい、見ろよ、これ」
示された先には、埃を被った自動販売機が、廃棄物の陰にひっそりと佇んでいた。ガラスの向こうには、色褪せたパッケージの合成菓子が、まだ数十個並んでいる。
「動くのか、これ」
興味を惹かれたレベッカが、真っ先に駆け寄った。
「動くわけないでしょ、電源切れて何十年も経ってる」
ニッカが冷静に指摘すると、レベッカは残念そうに肩を落とした。だが、すぐに何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、ガラス割って中身だけもらうのは」
「駄目。中身、絶対腐ってる」
「合成菓子だぞ、腐るわけ」
「腐るよ、四十年経ったら何でも」
あっさりと切り捨てられ、レベッカはガラスに額をつけたまま、恨めしそうに菓子の山を見つめ続けた。
「……食欲より先に、命を大事にして」
通りかかったドリオの一言に、レベッカはようやく我に返り、大人しく引き下がった。けれど、去り際に一度だけ振り返り、未練がましい視線を投げかけていた。
寝床の割り当てを巡って、拠点にはちょっとした攻防が繰り広げられていた。レベッカが目をつけたのは、廃棄されたオフィスチェアの山だった。背もたれの高い一脚を引っ張り出し、廃材の上に堂々と据え付ける。
「よし、これがあたしの玉座だ」
「玉座って、ただの椅子でしょ」
呆れたようなニッカの指摘に、レベッカはむしろ胸を張った。
「ただの椅子じゃねえ。ゴミの王国の、女王の椅子だ」
「王国じゃなくて、ただの地下だけど」
「細かいこと言うな!」
声を張り上げるレベッカの横で、デイビッドが小声でルーシーに囁いた。
「あいつ、テンション戻るの早すぎねえか」
「昨日、爆発見て喜んでた人だから」
冷静な指摘に、デイビッドはただ頷くしかなかった。玉座に腰掛けたレベッカは、腕を組んだまま満足げに周囲を見渡している。その滑稽な姿に、拠点全体が小さな笑いに包まれた。
夜も更けた頃、簡易の寝床を整え終えたドリオが、ニッカの隣に腰を下ろした。空になった木箱を椅子代わりにしながら、彼女はしばらく無言のまま、天井を見上げていた。
「どう、初日の感想は」
「思ったより、悪くない」
「意外ね。もっと嫌がると思ってた」
ニッカは小さく笑った。
「臭いはひどいし、天井は低いし、配線は四十年前のまま。それでも」
言葉を切り、彼女は積み上がった廃棄物の山を見つめた。
「材料には、困らなそう」
その答えに、ドリオは呆れたように息を吐いた。
「あんたって人は、本当にぶれないわね」
「褒めてる?」
「褒めてる。多分」
少し離れた場所で、メインとファルコが照明の配線を確かめていた。太い指先で束ねられたケーブルを辿りながら、メインがぽつりと漏らした。
「バートの奴が見たら、何て言っただろうな」
「宝の山だ、なんて言うんじゃねえか。あの爺さん、ガラクタに目がなかったらしいからな」
ファルコの答えに、メインは低く笑った。
「似た者同士、ってやつか」
「ああ。血は繋がってなくても、な」
設備室から戻ってきたニッカが、その会話の断片を耳にして足を止めた。二人はすぐに気づき、決まり悪そうに口を閉じる。
「聞こえてた?」
「聞こえてた」
正直に答えると、メインは頭をかいた。
「変なこと言っちまったな」
「別に、変じゃない」
ニッカはゆっくりと首を振った。
「バートなら、絶対そう言う。宝の山だ、って言って、真っ先に分別を始める」
しばらくの沈黙の後、キーウィが端末を片手に近づいてきた。
「通信の状況、確認した。ここは、企業のネットワークからも死角になってる」
「それって」
「監視の目が届きにくい、ってことだ。少なくとも、しばらくは」
その報告に、格納庫ならぬ新しい拠点の空気が、穏やかに落ち着いていった。
「なあ、ニッカ」
道具袋を抱えたまま座り込んでいたニッカに、デイビッドが声をかけた。
「なに」
「これから、ここが俺たちの拠点ってことで、いいんだよな」
「うん。多分」
「多分、じゃなくて、はっきり言えよ」
珍しく強気なデイビッドの言葉に、ニッカは苦笑した。
「はっきり言うと、ここが新しい拠点。あんたたちの、専属メカニックとして」
その一言に、荷台の周りに集まっていた面々が、それぞれの表情でニッカを見つめた。
「専属、って言葉、随分あっさり出るようになったな」
メインが感慨深げに呟いた。
「前は、依頼なんて絶対受けない、って喚いてたのに」
「今も、依頼は受けたくない。でも」
ニッカは言葉を選びながら続けた。
「あんたたちのことは、依頼とは違う。それだけ」
その答えに、レベッカが目を輝かせた。
「おっ、いいこと言うじゃんか」
「調子に乗らないで」
「乗るだろ、これは!」
軽口の応酬に、拠点全体に温かい笑いが広がった。
「そういや、この拠点、名前つけねえのか」
ふと思いついたように、デイビッドが口を挟んだ。
「名前?」
「ガレージの時も、みんな適当に格納庫とか呼んでただろ。ここも、何か呼び方決めといた方が、話が早い」
その提案に、レベッカが目を輝かせた。
「あたしに任せろ! ……『レベッカ要塞』ってのはどうだ」
「即却下」
間髪入れずに切り捨てたニッカへ、レベッカは口を尖らせた。
「なんでだよ、いい名前じゃねえか」
「あんたの名前、拠点につけたら、いつかあんたが暴走した時に恥ずかしい思いする」
「じゃあ、なんて呼ぶんだよ」
問われたニッカは、少し考えてから答えた。
「ナイトシティの胃袋、でいいんじゃない」
「胃袋?」
怪訝そうな顔をしたファルコに、ニッカは廃棄物の山を指し示した。
「街のゴミが、四六時中流れ込んでくる場所でしょ。胃袋みたいなもんだよ」
その説明に、キーウィが煙草の煙を吐き出しながら、わずかに口の端を緩めた。
「悪くない呼び名だ。少なくとも、レベッカ要塞よりはましだな」
「なんだよそれ! あたしの案、そんなに駄目か!」
声を荒げるレベッカに、拠点の面々から一斉に笑いが起きた。こうして、新しい拠点には「ナイトシティの胃袋」という、いささか冗談じみた名前が与えられることになった。
その時、ルーシーの端末が短く振動した。画面を確認した彼女が、小さく眉を上げる。
「グロリアから、連絡」
「母さんから?」
デイビッドが慌てて駆け寄ると、ルーシーは画面をこちらへ向けた。
「無事に着いたか、って。心配で眠れないみたい」
「うわ、今の時間に……」
デイビッドが頭を抱えると、隣でニッカが小さく笑った。
「返しておいてあげて。無事に着いたし、新しい家は宝の山だった、って」
「宝の山って言ったら、余計心配されるだろ!」
ツッコミを入れながらも、デイビッドは端末を受け取り、慣れた手つきで返信を打ち込んでいった。画面を覗き込む指先の忙しなさが、母親を気遣う不器用な優しさを物語っていた。その姿を見ながら、ニッカは温かいものが胸の中に広がるのを感じていた。
夜がさらに更けていく中、拠点の奥では、キーウィとファルコが今後の防衛計画について低く言葉を交わしていた。
「明日から、死角の洗い出しだ」
「地下って言っても、出入り口はここ一つじゃねえだろう」
「排水路が、もう二本ある。そっちも塞ぐか、逆に利用するか、決めなきゃならない」
二人の会話には、すでに次の戦いを見据えた緊張が滲んでいた。だが、それは焦りではなく、経験に裏打ちされた静かな備えだった。
「排水路、繋がってる場所は」
ファルコの問いに、キーウィは粗い見取り図を端末に映し出した。
「一つは、旧市街の地下水路に合流してる。もう一つは、行き止まりだ」
「行き止まりの方は、埋めるか」
「いや、逆に使う。行き止まりに見せかけて、緊急時の避難口に仕立てる」
淡々とした提案に、ファルコは小さく頷いた。
「ニッカに、頼めそうか」
「頼むまでもない。あの様子じゃ、放っておいても明日には自分から手をつけてる」
キーウィの言葉に、ファルコは苦笑した。荒野からナイトシティへ、拠点は変わっても、彼女の性分だけは変わりそうになかった。
簡易の寝床に体を横たえたニッカは、天井を見上げながら、ここまでの道のりを思い返していた。荒野のガレージ、バートと過ごした十八年。そして今夜、初めて自らの意思で踏み込んだナイトシティの地下。使い慣れた寝袋の匂いだけが、唯一荒野から変わらずに続いているものだった。
この街に、今、自分は根を下ろそうとしている。その事実は、まだどこか現実感が薄かった。それでも、隣で寝息を立て始めたレベッカの気配や、遠くで交わされるファルコとキーウィの低い声が聞こえてくる。そのせいか、恐怖より安堵の方が、不思議と勝っていくのを感じた。
瞼を閉じる直前、ニッカの頭の中に、ふとバートの声が蘇った。
土地に根を張るのは、木だけでいい。
その言葉の通り、彼女は今、新しい土地の上に立っている。根を張るかどうかは、まだ分からない。同時に、荷物と一緒に運んできたものたちが、この地下にもう一つの居場所を作りつつある。その感触だけは、確かなものとして感じ取れた。
翌朝、地上の換気口から差し込んだ細い光が、埃の舞う空間をぼんやりと照らし出した。目を覚ましたニッカは、寝床から体を起こし、周囲を見渡した。
昨夜は闇に沈んでいた廃棄物の山が、朝の光の中では、より一層雑然とした姿を晒している。とはいえ、彼女の目には、それがただのゴミには映らなかった。
「……よし」
小さく呟き、ニッカは軍手を締め直した。
その気配に気づいたドリオが、寝床から顔を上げた。
「もう、起きたの」
「うん。やることが、山積みだから」
「休むって、昨日決めたはずだけど」
「休んだ。もう七時間近く寝た」
あっさりとした答えに、ドリオは苦笑するしかなかった。
「相変わらず、切り替え早いわね」
「切り替えないと、追いつかないから」
立ち上がったニッカは、廃棄物の山の前に立ち、腕を組んだ。分別されるはずだった都市のゴミが、今は彼女だけの資材置き場になっている。ベルトコンベアの錆びた駆動部を眺めながら、彼女の頭の中には、すでに幾つもの改造案が浮かび始めていた。
「まずは、これの動力を確保して」
誰にともなく呟く声に、寝ぼけ眼のデイビッドが答えた。
「もう始めるのかよ、朝から」
「朝からじゃないと、日が足りない」
その返答に、拠点のあちこちで、次々と体を起こす気配がした。新しい一日と、新しい拠点での暮らしが、少しずつ動き出そうとしていた。
伸びをしながら起き上がったレベッカが、大きな欠伸をひとつ挟んで言った。
「にしても、ゴミの中で目覚める朝ってのも、悪くねえもんだな」
「あんた、たくましいわね」
呆れた様子のドリオに、レベッカは得意げに胸を張った。
「ダスト・ウォーカーズを舐めるなよ。ゴミの中で寝るくらい、朝飯前だ」
「その理屈、ちょっとおかしい気がするけど」
デイビッドの冷静な突っ込みに、レベッカは口を尖らせただけだった。拠点のあちこちで交わされる、そんな他愛のないやり取りが、昨夜までの緊張を少しずつ溶かしていく。
窓のない地下空間に、朝という区切りはない。なのに、換気口から漏れる薄い光が、埃の匂いに混じって差し込んでいる。目覚めていく仲間たちの気配もまた、確かに一日の始まりを告げていた。
ニッカは工具袋の紐を締め直し、山積みの廃棄物へと足を踏み出した。バッドランズを離れ、絶対に近づかないと誓っていたナイトシティ。その地下深くで、彼女はもう一度、静かな暮らしを組み立て直そうとしていた。積み上がった部品の匂いと埃の重さだけは、どこにいても変わらない、彼女にとっての唯一の道標だった。
もっとも、この街が本当の意味で彼女を静かにさせてくれるかどうかは、また別の話だった。
工具箱の蓋を開け、油の匂いを確かめながら、ニッカはふと乾いた笑いを漏らした。使い古した工具の柄には、荒野の砂が今もわずかに食い込んだままだった。バッドランズの端で口にした言葉が、頭の隅をよぎる。
ナイトシティの依頼になんて、絶対関わらない。
あの言葉は、もうとうに形を変えてしまった。だが、今この瞬間に感じている落ち着きは、罪悪感よりも確かな手応えに近かった。
「おーい、ニッカ! こっちの配線、どうすりゃいいんだ!」
遠くから飛んできたデイビッドの声に、ニッカは道具袋を担ぎ直し、廃棄物の山の奥へと足を向けた。
「今行く」
短い返事とともに、彼女の一日が、地下深くの新しい巣でひっそりと始まっていった。
ナイトシティ編へ突入です。
ここまで読んでくださった方々、そして感想やご指摘をくださった方々、本当にありがとうございます。とても励みになっています。
ここから舞台や設定が大きく変わるため、原作との整合性を確認しながら、慎重に執筆を進めています。
そのため、次話以降の投稿に少々お時間をいただく場合があるかもしれません。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。