八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~ 作:露李鈴
一月二十八日、午後六時。
俺たち連合部隊は、
ついに「
* * *
史実において、
数多の将兵が『遺体』となって発見された場所だ。
彼らは、ここまで辿り着きながら、力尽きた。
* * *
だが、今、その同じ土を、
二百五十五名の生きた軍靴が踏みしめている。
気温は、零下十度のあたりまで緩んでいた。
極限の日々に比べれば「暖かい」とすら言える気温だ。
だが、この温もりが、新たな罠となった。
二百名を超える兵士たちに、
何度も踏み固められた雪が、圧力で融けて、再び凍る。
あっという間に、雪道は、
磨き上げられた氷の『滑り台』へと姿を変えていった。
――――――――――
「……ッ、足元が滑るぞ!
それが氷の斜面上で制御を失い、
じりじりと雪道の横に流れていく。
谷底が、すぐそこにある――
「少尉! このままでは、
滑る足元を必死に踏ん張りながら叫んだ。
小隊ごとの交通整理を試みているが、
それでも、
人の足に固められた雪道が滑る――
「酒井軍曹、行李に積んである『荒縄』をすべて出せ!」
「はっ」
「木村、
「荒縄……これを、どうするんですか?」
木村が戸惑いながらも動く。
「靴の上から、土踏まずに縄を幾重にも巻き付けろ!
軍靴の底は平坦で滑りやすい。
固めつけられ、凍り付いた氷の上を歩くのに無力だ。
だが、荒縄を巻けば、
その凸凹が氷の表面を噛む。
それだけで足元が、別物になる――
「少佐を落とすな、ロープを引け!」
青森隊の兵と、弘前隊の兵が、
咄嗟に同じロープを掴んで踏ん張った。
連隊の垣根など、どこにもない。
氷に足を取られながら、
互いの体を支え合いながら、
一歩、また一歩と、呪われた丘を越えていく。
「……よし、動けるぞ」
荒縄を巻いた足が、
確かに、氷を『噛んだ』瞬間だった。
――――――――――
そして半刻。
「酒井軍曹……?」
俺たちが丘の頂に立った時、
不意に、酒井軍曹が足を止めた。
次の瞬間、
風が、ふと凪いだ――
「……っ」
吹雪の幕が、引かれるように薄れていくと、
視界が、ゆっくりと開いていく。
眼下には、
白く塗りつぶされた
その先へ、先へと続く雪原が、
夜の藍色に沈んでいる。
稜線の向こうに見える漆黒の海は、
空との境を曖昧にしながら、長く横たわっていた。
陸奥湾だ――
波ひとつない、静かな冬の海。
その水面が、
雲の切れ間から差し込む月明かりを受けて、
鈍く、銀色に光っている。
そして、その海岸線に沿うように、
橙色の粒が、点々と並んでいた。
俺たちは、陸奥湾の方向を、
しばらくの間、無言で見つめていた。
「少尉、青森の
吹雪の合間、遠く眼下に、
小さな、だが確かな光が瞬いていた。
文明の証――
帰るべき場所の色だった。
「ああ……本当に、みんなで帰れるんだな……」
五日前、青森営舎を出発した朝が、
もう遠い昔のように思えた。
「……いや、ここからが、一番危ない」
史実を思い出せ――
第五連隊は、
あと、一・五キロを目前にして壊滅したのだ。
「小峠までの下り坂。
この、氷の道を抜けるまで、気を引き締めるんだ」
「了解であります」
酒井軍曹の声に迷いはなかった。
俺たちの足が、
また、一斉に動き始めた。
――――――――――
午後十一時。
部隊は難所を抜け、
ようやく「小峠」へ到達した。
誰もが、疲労の極致にある。
湿った軍服に、体温を奪われていく。
それでも、二百五十五名の目に、
絶望の色はない。
あと少し――
「田茂木野まで下れば、
村人が、青森の営舎が待っているぞ!」
神成大尉の声が、深夜の雪原に響きわたる。
脱落者、依然としてゼロ――
史実では多くの命を飲み込んだ「八甲田の闇」を、
今、ここで、俺たちは塗り替えている。