いち早く二人で離脱したマギーとニナも、しつこく屍者《ゾンビ》の群れに追われていた。大多数の屍者は、発砲音と戦闘音の響く後背に引き寄せられているが、一部の屍者《ゾンビ》たちは執拗に後を追ってくるし、逃げ回るうちに分ったことだが、灌木の林の広範囲にわたって彼方此方と潜んでいた。何時もと違う経路を取るべきではなかったとか、他のものがどうなったとか、他人と一緒に行動するのも善し悪しだなとか、そんな考えも一瞬だけマギーの頭を掠めたが、今考えるべきことでもない。
灌木の林に、どれほどの数の屍者が、何時から潜んでいるかは見当もつかない。先月は間違いなくいなかった。林を縦断する街道を行商人や旅人が通ってきたからだ。大地を彷徨う屍者の群れが偶々、林に流れ着き、そのまま潜んでいた領域に、うかうかと最初の頃に踏み込んだ。運のない行商人や旅人が時としていきなり陥る、どうしようもない曠野の罠だった。
(……屍熊よりマシ。三つ目狼よりマシ。変異獣よりマシ。略奪者《レイダー》よりマシ。盗賊団《バンディット》よりマシ)どうしようもない思考の欠片を脳裏に浮かべつつ、マギーはニナと共に走り続けた。時折、行く手を遮るように現れるゾンビにバットを叩きつけ、粉砕する。屍者は殆んど怯みはしない。ただ、強烈な打撃で後退したり、破壊したりは出来る。
だから、力一杯にぶん殴る必要があるし、走りながら連戦すれば、武器も体力も激しく消耗する。大抵の人間であったら、力尽きていただろう運動量にもマギーは持ち堪えた。だけど、ニナの息遣いが少しだけ乱れ、荒くなっているのが耳に入る。
ニナも懸命に走ってはいるし、まだまだ持ち堪えるだろうが、いずれは限界を迎えるだろう。その前に、ゾンビの領域を抜けられるだろうか。
分からない。
林の外に向かって走り続けるうち、ふとした瞬間、マギーの目に林の向こう側にある何かが映った。建物のようだ。廃墟、廃屋、それとも廃村?それとも人が住んでいる場所か。
共同体までゾンビの群れを誘引した場合、下手人は死刑となっても仕方ない。それでも、追い詰められてやる人間は後を絶たないが。
地図を脳裏に思い浮かべれば、近くに名の知れた町や村がない事はほぼ確かだった。とはいえ、外部とのつながりを持たず、息を潜めるようにひっそりと暮らしている集落も曠野にはあるのだ。
「あっちだ」マギーの言葉に「マ……ギ。誘引、撃たれる……死刑」ニナの息切れ混じりの声が追いついた。
「大丈夫、廃村だ。少なくとも、まともに住人が暮らしている集落ではない」
見れば、風車が破損したまま、放置されていた。羽根はひしゃげ、支柱の一部は崩れかけている。麦を育ててるのであれば、どんな土地でも最重要の設備のひとつが、全く動いていない。住人は殆んどいないか、いてもごく僅かなだろう。もちろん、それでも住人がいるなら、ゾンビを引き連れてきた時点で殺されかねない。だとしても、マギーは一縷の望みに賭けた。
廃墟に逃げ込めば、上手く振り切れるだろうか?分からない。決断は、何時もいつも一瞬で迫られる。マギーはちらりとニナを見やった。肩で息をしながら、こちらの判断を信じるという目をしている。
「行くしかない……」マギーは低くつぶやいた。
相棒の決断に、ニナも小さく頷いた。背後からは、ゾンビたちの執拗なうめき声がまだ追ってくる。どうやら、村に逃げ込むしか道はなさそうだった
二人は息を整える間もなく、村の内側を目指して全力で駆け出した。風車の下を通り抜けながら、マギーはかすかに聞こえる気配に耳を澄ませた。人の気配は感じられない。
恐らくは廃墟だ。近づいても、煙ひとつ立たず、しわぶき一つ聞こえてこない。怪物の接近に、警戒の鐘を鳴らす事もない。かと言って、それが安全を意味するわけではない。廃墟という場所には、時にゾンビ以上の脅威が潜んでいることもある。
振り返ると、灌木をかき分けて屍者たちがゆっくりと、だが確実に迫ってきている。猶予はない。マギーはニナの手を掴み、廃墟と思しき建物群に向かって全力で走り出した。足元に絡む枝や、朽ちた葉で滑る危険をものともせず、二人は必死で駆け抜けた。屍者のうめき声が間近に迫ってくるのは、いい気分ではない。
ようやく廃墟の入口と思われる部分に到達した。家々は荒れ果て、壁の大部分が崩 れ落ちている。だが、奥にはまだ使えそうな家屋が侘びしく佇んでいた。
足を緩めた二人が息を整えるが、その合間にも追ってくるゾンビのうめき声はすぐ近くに迫っている。
「ニナ……先に行きなさい」
マギーがバットを構えながら、村の外を指さした。
足の速い屍者を振り切るのは、容易ではない。屍者は疲れも知らず、諦めもしない。見失う程に距離を稼ぐにも、何かで、或いは誰かが足止めしなければならない。
「時間を稼ぐ。できるだけ遠くに、急いで」マギーは冷静に淡々と告げた。
声には震えも脅えも感じられない。
ニナは絶句し、涙ぐみ、首を振るうと、マギーの隣に立って槍を構えた。
「今なら、まだ戦う力がある。そして一人なら生き残れる」マギーは言葉を繰り返した。
「信じて欲しい。頼むよ。戦闘に関して嘘を吐いたことはないだろう?かなりの確率で一人なら生き抜けるし、駄目でも最後まで足掻ける。でも、君が一緒にいたら、足手纏いなんだ」迷ってるニナに、マギーは言葉を重ねた。
「頼む、信じられないだろうけど、これが最良の手段で選択肢なんだよ」
……本当に?と問いかけようとして、ニナは止めた。それほどの時間もない程に死者の群れは間近に迫ってきていた。動きは素早い。
ニナはマギーを信じることにした。そして「……待ってる」とだけ告げると、後ろを見ずに崩れた壁の陰に身を隠し、音を立てずに村の外に向かって移動し始める。
マギーがホッとしたように息をついて、ゆっくりとバットを構え直した。
※※※
陽が沈みかけ、空が薄紫に染まり始める頃になっても、ニナは城門の前に立ち続けていた。冷たい風が頬を撫で、耳元で微かに木々のざわめきが響いている。日が完全に落ちる前に、マギーが戻ってくることを祈るように、ただじっとその場を動かずに待っていた。
城門を通り過ぎる人々は、或る者は奇異の眼で、また、或る者は憐れむような眼で、祈るように立ち尽くしている少女を眺めた。城門付近に住む住人たちにとっては、帰る者たちが無事であるために祈りを捧げる者の姿は、きっと見覚えのある光景だったのだろう。近くの土産物屋の親父が据わるように勧めてくれたがニナは礼を言って断ると、ただずっと立ちながら、マギーがやって来るのを待ち続けた。
マギーは来なかった。ついに城門の重い扉は、静かに閉じられた。遠くの景色はすでに薄暗くなり、街の灯りがぼんやりと見え始めている。陽が完全に沈んだ頃、城門はもはやほとんど暗闇に包まれても、ニナは衛兵詰所の僅かな照明の近くで一人静かに立ち続けていた。
マギーちゃんが帰ってきたのは、翌日の昼頃であった。凄まじい悪臭を漂わせ、全身が血塗れと化している。腐った血と肉片にまみれ、遠目に見るとまるで怪人としか思えない。地平線の彼方から続く街道上で、旅人にドン引きされながらも、手を振ったり、両手を振ったり、手で丸を描いたりして、生きている人間であることを必死に示さなければ、誰もが新種のゾンビ特異体だと思ったに違いない。
城門の警備たちがざわめきながら、門内までやってきたマギーを取り囲む中、「マギッ!」ニナは思わず叫びながら近寄ろうとしたが、マギーは掌でそれを遮った。
「噛まれてない。くさっ。……でも、全身、あれだから。返り血で。駄目」
「まずは服を脱げ。水をぶっかけろ」警備隊の班長が言うが、ニナが噛みつくように反論した。
「水はダメ!死んじゃうよ!」曠野は、いまだ肌寒さの残る季節であった。
「……お湯沸かせ」そうして服を脱いだマギーは、衆人環視の中、ぬるま湯を何十杯とぶっ掛けられつつも、裸で一回転してみせた。
鍛え抜かれて、均整の取れた美しい肢体は、男性警備兵たちの中で少しばかりの反応を引き起こしたが、それどころではない。
「傷は無さそうだな。でも、あんなに……感染してるかも」
「……眠りたい。眠らせて。」
兎も角も一晩、留置場で様子を見守ることに決まった。薬液の入った風呂に全身浸かったマギーは、髪を短く切られてクールカット擬きにされ、白い寝間着に着替えた後、毛布に包まって死んだように眠り込んだ。
偵察騎兵が報告したところによると、マギーが来た道沿いには、破壊された屍者たちの死体が何十体も転がっていたとそうだ。
「スネイクバイトだ。最強最古のスネイクバイト」
「凄い女だ」どうでもいい事を騒ぎ立ててる警備兵たちの中、しゃがみ込んだニナは、口元を抑えながら涙を零し続けた。
※※
エミリー・グレインズは、マギーの友人だ。悪友とも言える。実家は自由都市で小規模な食料品店、特に穀物を扱う問屋を営んでいる。お互いに利益がある事から、マギーとは長い友人関係を続けている。手広いとは言えないが堅実な商売に、篤実な父親の評判は悪くないが、娘の方は賭場に度々、出入りしてる姿を見られており、一部の良識ある大人からは不良娘とも見做されていた。家柄や財産は悪くないが、同等の階級との結婚は絶望的というのが巷での噂である。
マギーとニナは、自由都市での滞在に、グレインズ商店の屋根裏を借りて過ごしていた。自由都市に来るたび、二人は若干の小麦を持ち込んで換金し、また一日だけの滞在なので不良娘の知己とは言え、一応の客人扱いはされている。薪と食事は自弁だが、今の懐具合なら問題はなかったし、なにより屋根と壁が無料で提供してもらえるのは快適で素晴らしかった。
さて、留置場に拘束されていたマギーだが、一応の簡単な医療チェックの後に、異常なしとされて解放された。手続きのさなか、「こいつがゾンビになったら、手に負えない変異体になるんじゃね?」などと笑ってる警備兵を睨みつけたニナだが、当のマギーなんて一緒になってケラケラと笑っていた。
無頓着さに少し怒りつつも安堵したニナと、無事に釈放されたマギーは、兎も角も、エミリーの家へと足を向けた。グレインズ商店は、自由都市の一角にある小ぢんまりとした店で、倉庫には穀物の袋が所狭しと積み上げられている。入り口の扉を開けると、乾いた穀物の香りが鼻をくすぐった。エミリー・グレインズは、カウンターの奥で帳簿をめくりながら、やや投げやりに「勝手に入りなさいな」と声をかけた。
勝手知ったる屋根裏への急な木製階段を昇ったニナとマギーだが、埃っぽくも落ち着く雰囲気の部屋に入って二人きりとなった。
「マギィ、無事でよかったぁぁぁ」感極まったニナが抱き着いた。顔を胸元に埋め、すすり泣きながら小さな拳でマギーの背中をぽんぽんと叩く。マギーはニナを撫でながら「暫くはキスも駄目だね、皮膚に悪い菌とか残ってるかも知れないから」なんて宣ってから、冗談だよ、なんて言っていた。
「何も変わらない。良かったよぅ……」
ニナは心底ホッとしたように涙を拭き、マギーの胸元にもう一度額を預けた。
ホッとしてるニナを撫でながら、「新しい服を買いに行かなくちゃね。出費だらけだ」ぼやいたマギーだが、流石に今日一日も休むことにして、明日から蚤の市へと赴く事にした。既に蚤の市での露天商や屋台での仕入れよりも、店舗持ちや天幕の商人相手の仕入れの方が増えているのだが、それでも蚤の市もまだ、中々、馬鹿にならない仕入れ先ではあるのだ。
さて、黄昏時。部屋の外が赤く染まり始めた頃、マギーが寝台から身を起こした。少しばかり疲れの色を残していたが、その瞳はどこか冷たく冴えている。
「少し出てくる」少なくないお金を握りしめて、ふらりと外へ向かうマギーに違和感を感じつつも、ニナは深くは追及せずに見送った。
「……気をつけてね」
聞こえはしないだろう呟きで送り出した後、ニナは屋根裏で一人、窓の外の夕焼けをじっと見つめていた。
※※
剣呑な気配を漂わせつつマギーが向かったのは、自由都市の裏通りでも特に悪名高い一角にある「レオーネの店」だった。賭博場、酒場、そして売春宿を兼ねた場所で、荒くれ者たちが夜な夜な集まる街の闇と言える場所だった。
石畳の細い路地にかけられた古びた木製の看板には、剣と薔薇が彫られているが、どこか物々しい雰囲気を漂わせている。店の入り口はぼんやりとした灯りで照らされ、扉を開けるたびに中から喧噪と煙草の匂いが漏れ出していた。
マギーが扉を押し開けると、店内の空気は一瞬、微妙に変わった。賭け金を前に盛り上がる荒っぽい笑い声や、どこかで響く音楽はそのままだが、店の隅々にいる人々の視線が一瞬、マギーに集まる。だがすぐに、荒んだ眼差しを目の当たりにしてまた各々の遊びに戻っていった。
「……スネイクバイト、生きてたのか」カウンターの向こうに立つ店主のレオーネが、太い腕を組みながら低い声でそう言った。レオーネは自由都市の裏社会を取り仕切る一人で、筋骨隆々とした大男だ。眉間に深い傷跡があり、風貌だけでも十分に威圧感を放っている。
「死んでたら、ここには来ないよ」マギーは平然と返しながらカウンターの一角に腰を下ろす。ポケットから少しばかりの紙幣を取り出し、カウンターの上に無造作に置いた。
レオーネは紙幣を手に取り、真贋を確かめるように見つめてから、片手で奥の扉を指し示した。
「……女か?」レオーネの言葉に、マギーの目が細められる。蛇のように冷たく、荒んだ視線を投げかけながら、マギーは肩を軽くすくめた。
「壊れてもいい娘をね」
「相変わらずだな。趣味が悪い。」
「40でどう?それと、水も一杯」
レオーネは一瞬、マギーの無表情な横顔を見つめたが、すぐに紙幣をポケットに押し込み、手を振って示す。
「好きにしな」奥の階段へと向かうマギーの背中を、ちらりと周囲の男たちが注視する。だが興味深げな視線を意に介することなく、マギーは階段を昇っていった。
「わたしでいい」奥の部屋へと続く廊下で、痩せた年若い少女が、壁にもたれながら静かに呟いた。灯りに照らされた顔にはどこか幼さが残り、頬はやつれ、唇は乾いて白い。
「なにをしてもいいよ」少女の声は驚くほど冷静で、諦めのような響きがあった。隣に座っていたもう一人の娘がその手を掴んで引き留める。
「やめなよ、首も絞められるよ。あんたじゃ無理だ」
だが少女は、隣の娘の手を振り払うようにして立ち上がり、再びマギーを見つめた。
「……20貰えるなら」言い切ると同時に、恐ろしく強い力でマギーが少女の腕を掴んだ。細い腕が一瞬、痛々しいほど強く引き寄せられる。少女は短く息を呑んだが、その瞳には恐怖だけでなく、奇妙な覚悟が宿っていた。
「20か」
マギーは少女の瞳をじっと見つめながら短く笑い、紙幣をポケットから取り出すと、少女の胸元に無造作に押し付けた。
「ついてこい」引きずられるようにして歩き出した少女の後ろ姿を、隣の娘が不安げに見送った。廊下の奥へと進む二人の姿が薄暗い光に溶けるように消えるまで、部屋の外は静寂に包まれていた。
※※※
「マギーは、どこに行ったんだろう……」夕食の席で、ニナがぽつりと呟いた。手元のスープをかき混ぜる手が止まり、テーブルの上で俯いた。
向かいに座るエミリーは、一瞬何かを言おうとして口を開きかけたが、代わりに軽く息をついた。そしてスプーンを置き、少し間を置いてから言葉を選ぶように話し始めた。
「マギーが……その女……女同士で」言いづらそうにするエミリー。
「女の子好きなのは、知ってる」とニナ。
「よね。もちろん」エミリーはすぐに首を振って、慌てるなとでも言うように手をひらひらと振った。
「あ、いや、そういう話じゃないのよ。こういう時のあいつは……うーん……」エミリーは顎に手を当てて天井を見上げながら言葉を探している。
「……いや、貴方のこと、大事にしてるから、あんまり言えないのかも。って、そんな感じ?」
ニナは首を傾げて、疑問符を浮かべたような顔をする。そんなニナに、エミリーは少しだけ表情を曇らせた。
「あのさ、人間って、どうしようもない時に、どうしようもない面が出ちゃうことがあるのよ」
「……それも分かるよ」ニナは淡々と呟いた。
「わたしも、ゾンビに囲まれて喰われそうになった後……助かったんだけど、一時期発狂してた。だから、わかる」ニナの視線はエミリーを見ていない。記憶の中の、自分だけの景色を見ているようだった。
「理性とか倫理とか、普段大事にしてることなんて、一瞬で吹っ飛ぶ。なんていうのかな、生きてるってだけで頭の中がぐちゃぐちゃになるんだよね……」
ニナはそれ以上何も言わなかった。ただ黙って、手のひらで膝をぎゅっと押さえ込んでいる。ニナの語った過去に引くかと思ったエミリーだが、ほほ笑んでいる。
「……なんだかんだ言ってお似合いか」
「そうかな?」首を傾げたニナに「そうだよ。だからさ、ニナ」頷いたエミリーは再びスプーンを手に取りながら、少しだけ微笑んだ。
「マギーがどこで何してるのか、あんまり気にしすぎない方がいい。あいつは、ちゃんと帰ってくるよ。貴方のところに」
4月20日 マギーたちの財産 177クレジット相当
11月30日まで残り224日。必要金額 177/800クレジット