春の終わりの夜空に星が瞬いていた。寒さは和らぎ、空気が少しだけ湿り気を帯びている。こんな夜は、町外れでも裏通りの静けさが心地よかった。
焚き火で十分に熱くなった石を穴の中に置き、その上にパンを乗せ、さらに土や石で覆う。古来よりある伝統的なパン焼き方で、アースオーブンと呼ばれている。
焼き上がった巨大なパンは、ライ麦と小麦のブレンドで芳ばしい香りを漂わせている。廃墟の少女トリスがごくりと喉を鳴らした。ねぐらの主であるマギーがナイフで切り分けると、たっぷりのバターを塗って手渡した。
鍋にスープが湯気を立てていた。僅かなコンソメと山羊の乳を混ぜたスープに人参やキャベツ、鼠肉や栗鼠肉が浮かんでいた。無論、ドブネズミではなく、野鼠である。錫の深皿に各々のスープをよそう。狭い路地裏で二対二の位置取りで焚火を囲み、誰もが黙ってスープをすすっていた。火の熱気と土の匂いの混ざった郷愁を誘うような温かさが身近に感じられる。パンを一口、一口頬張りながら、リリーは時折、遠くを見つめるように目を逸らし、手元が震えていた。
暖めたワインに蜂蜜を入れた小鍋から、マギーが一杯ずつ掬っては、コップを仲間たちに配った。普段、行商の旅から帰った時には、色々と土産話をするマギーとニナだが、黙してなにも語ろうとしなかった。四人とも黙々と食事を取っている。
どうでもいい、投げやりではなく、この瞬間、マギーはそう思った。いや、或いは自棄になっているのかも知れないと、頭の片隅では考えている。旅籠の壁の外で、僅かばかりの金がない為に、罪のない人間たちが死んだ。
厳しい曠野で生き抜き、時に他者を助けるために命を懸ける旅籠のものたちが、僅か20クレジットを持たぬ者たちを見殺しにしたことは、マギーにモラルについて考えさせる。一緒に逃げ延びた者たちは、仕方ない事だと口々に囁き合った。まるで互いに許しを与え合うかのように、だ。
金。僅か20クレジットの金が生死を分けた。だから、無防備な愚かさを晒して人を試すのだろうか?トリスとリリーの事は、多少なりとも信じている。だけど、もし、マギーの金を盗むと言うのなら、盗めばいいとも思った。招いた者たちが盗むのであれば、二人に盗まれるのであれば、それはきっと仕方のない事なのだ。
戸惑った様子ながらもマギーが差し出した毛布を受け取ったトリスは、少し躊躇ってからそれを広げ、肩に掛けた。寒さが少しずつ身に染み始める夜の冷気に、毛布の暖かさがありがたい。トリスは静かに毛布を体に巻きつけ、大きなゴーグルの下で多分、目を閉じた。
リリーも毛布を受け取ったが、しかし、目の奥には、どこか遠くを見つめるような空虚さが漂っている。毛布を肩にかけたまま、何も言わずに焚火を見つめていた。
マギーは焚火のそばで静かに腰を下ろし、最後の毛布をニナに渡した。マギーたちは互いに視線を交わすことなく、それぞれが持ち場で眠りに就く準備を整えていった。ニナは、毛布に包まれたまま、まだ少し震える手をマギーの胸に押し当てた。
マギーは空を見上げることなく、目を閉じ、深い眠りへと身をゆだねる準備を始めた。焚火がぱちぱちと音を立てる中、リリーは何時までも壁際に座り込んでいた。
※※
夜が終わった。焚き火の跡から立ち上る微かな白煙が途切れ途切れに揺らめいている。東の地平からの柔らかな日差しが、町外れの崩れかけた壁や天幕、剥き出しの地べたを暖かな小麦色の光で染めていく。
マギーは路地裏の小さな木箱に腰掛け、良い煙草を一本取り出して火をつけた。紫煙がゆっくりと空に溶けていく。その隣では、ニナが昨日の残りのパンを裂き、熱いスープを注ぎながら朝食の支度を進めている。スープの鍋からはかすかにキャベツとハーブの香りが漂い、空腹の胃を優しく刺激していた。
金は盗まれなかった。その素振りもなかった。ホッとするでもなく、喜ぶでもなく、そうか、とただ思い、少しだけ気持ちが楽になった。
トリスは足元に置いた小さな包みをほどき、拾った小石や古びた金属片をひっくり返して何かを選んでる。顔にはまだ眠気の名残がありつつも、どこか真剣な表情だ。「何をしてるの?」とニナが声をかけると、トリスは振り返り、「面白い形の石を集めてるんだ」と答えた。ニナは半ば呆れたように肩をすくめた。
リリーは少し離れたところでひとり、地面に寝転んで寝息を立てていた。朝になってようやっと眠る姿に、ニナやトリスは覚えがありそうだった。
「……夜は恐くて眠れないんだよね」ニナが呟き、トリスも無言で頷いて、それからリリーに毛布を掛け直してやっている。
こいつらの面倒をもう少し、見てやってもいいかな。マギーはそう思った。
今までは、小金が出来たからと言って、すぐ気前良くして散財する者たちを、ただ愚かだと考えていた。今は、金以外に信じられるものが欲しくなったのだろうと思っていた。
危険に溢れた黄昏の世の中、頼れるものは少なく、信じられるものはもっと少ない。上手く使えばかなり有用だが、金は決して万能の力ではないし、急に忠実な仲間や部下を作ろうとしても、出来るはずもなかった。
そして或いは、小金を持った行商人に必要なのは、高い能力を持った切れ者より、愚鈍でも背中を預けられる友人かもしれない。
「……先行投資してやるか」呟いたマギーは煙草の先を見つめた。紫煙が細く揺れながら朝の光に溶け込んでいく。
荷車のきしむ音や家畜の嘶き、街区バリケードの門扉を開く重たい音。表通りから聞こえる人々のざわめきが届いた。近づいてくる朝の気配が、一日の始まりを告げていた。
※※
朝食後、トリスは廃墟に戻り、リリーはまだ寝ていた。
ニナはマギーと共に、町外れの少し高い所にある廃墟を訪れていた。無人の屋上で街区を見下ろしながら、帳簿を見比べている。
「今回の利益だけど……雑貨屋に売った分だけで134クレジット」ニナが告げた。かつてない金額だった。
「手持ちは?」丁度よい瓦礫に腰掛けたマギーが、淡々と尋ねる。
「ええと……」ニナは躊躇いがちに手元の帳簿を確認した。
「家に手を入れるのに300近く払ったよね?防寒に布を張ったり、ポリスチレンを下地に床を敷いたり、あとは釘と材木、木工所への加工の支払いを全部して……」唾を呑み込んでから、ニナは数字を読み上げた。
「529クレジット。間違いない。三回計算してみた」
余りの金額に現実感が薄いのか、ニナは変な笑いの衝動に襲われた。表情を歪めては、真顔に戻ってを繰り返している。
「農家の人に頼まれた縄とか、針金とか。あとは仕入れを頼まれてた針や洗剤、石鹸、シャンプーにトイレットペーパー、調味料も売れたし……」帳簿を見せながら、ニナは結論した。
「……前回が146クレジット。なんで多分、ほぼ確実に一過性の利益じゃない。頭打ちではあろうけど」
じっと見つめるニナだが「そうか」とマギーは紫煙をくゆらせている。
「驚いてないね」ニナは疑問を呈するが、マギーはパイプを咥えたまま、肩を竦めた。収入は突然、跳ね上がった。日当を幾らか補える程度から、段階を経ずに、一気に数倍に。単純に元手が増えたからか。廻る店で仕入れる量が増えたからか。
日雇い仕事も毎日、有りつける訳ではないので、もう日当よりも行商で稼ぐ金額の方が多くなっていた。
ワインやビールに手が届くようになってから、マギーは密造酒《ムーンシャイン》を止めた。密造酒《ムーンシャイン》よりも値の張るワインだが、飲む量が激減した上、半分ほどは配給チケットや割引チケットを貰って補ってるので、費やす金額自体は実は減っているほどだ。煙草も高級品だけを日に一度か二度、嗜む程度。タンポポの珈琲だけは、続けて飲んでいたが、兎も角、上等な酒と煙草がそれだけ効きやすいのか、稼げるようになってマギーのストレスが緩和されたのか。判断つけがたい所だが、兎も角もニナには嬉しい誤算だ。
一方のマギーは、さして喜んだ様子も見せずに町を眺めていた。
「……ポレシャは千人の町だよ。わたしたちが年に十回、二十回と往復したところで、需要の方がずっと大きい」
「たとえ、商売敵が現れてもね」ニナもうなずいた。
防壁の内側の市街地、外に広がる農地、それから見張り塔をじっと見つめているマギーの唇が瞬間、微かに緩んだようにも見えたが、すぐに紫煙に隠れてしまった。
「月に500から600の都市クレジット」マギーは独り言のように淡々と呟くと、ニナを見つめ、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「二人で暮らすには充分。トリスやリリーの面倒を見てもいい」
ニナが瞬いてると、マギーは久しく見せなかった穏やかな眼差しを向けて頷いた。
「つまり、上がりだ」マギーの笑顔に、ニナは少しの戸惑いを覚えた。言葉にできない想いが千々に乱れながら胸に込み上げ、何を喋って良いかも分からなくなったからだ。
殆んどの
「おいで、ニナ」マギーが据わったまま、瓦礫の隣をポンポンと叩いた。
ニナははにかみ、ついで満面の笑みを浮かべると、トトと駆け寄った。それから隣に腰掛けるとマギーに寄り掛かり「やったぜ」と呟いた。
そうしてマギーとニナは、居留地の片隅に自分たちの居場所を作り上げた。ささやかな商売を営みながら、これからも二人の冒険は続いていくが、物語は此処で一旦、幕を閉じさせてもらおう。
(作者※まだ続くんじゃよ)
ズールの273年 5月末
マギーたちの財産
529クレジット相当
残り184日