夜は危うい。木柵やバリケードなどに守られた集落でさえ、夜に出掛けた者が消えるのは珍しい話ではなかった。
防壁と腕利きの傭兵に守られたポレシャの市民区画は、辺土において『比較的安全』と呼べる数少ない場所のひとつではあるが、それでも数年に一度は人が忽然と消失して、そのたびに世間には不安と恐怖が醸し出される。
コンクリートの高壁と重武装の警備隊によって厳重に守られている筈の自由都市でさえ、人々は夜を無闇に出歩かない。富裕地区さえ例外ではなく、行方不明者が相次いだ時期、金持ちたちの突き上げによって警備隊に夜間の街路巡回が義務付けられたことがあった。しかし、強力なライフルや自動小銃、弾切れに備えた鋼の槍で針鼠のように武装した挙句、金属の盾を連ねながら分隊規模で行われる業務にも拘らず、夜間巡回には人手が足りず、割増手当を出した上で、指名によって辛うじて賄っていたのが実情だった。
保安官たちが危惧するように潜り込んだ奴隷商人や誘拐業者の手先の仕業なのか。練達の狩人たちが語るように空飛ぶ怪物にも居留地は警戒すべきなのか。神秘主義に傾倒した一部レンジャーが囁くように、黄昏の世の闇にはある種の意思が宿っているのか。或いは、地下鉄駅や古い地下水路、トンネルなどに住まう者たちがまことしやかに語るように、地底に恐るべき何かが潜んでいるのだろうか?
もっとも、闇に潜む気配が必ずしも人知の及ばぬ何か、とも限らない。
飢えに苛まれて大地を彷徨う屍者が人の気配に誘われてバリケードの裂け目から迷い込むこともあれば、人間や家畜を狙って忍び込びこむ変異獣や狼、野犬もめずらしくはない。不審者の類が息を潜めている場合もあるだろうが、騒音の正体を突き止めてみれば、犬や猫、その他の他愛ない野生動物の気配が夜の闇に紛れていただけ―――そんな結末も少なくない。
夜の道を歩いていたニナは、背後に視線を感じていた。
(……おう、視線を感じる)
勘違いかも知れない。しかし、恐ろしい感覚が背筋をゾクゾクと駆け抜けていった。ただでさえ、夜の道は物寂しく、深海のような静けさに包まれている。
数十メートルごとにぽつぽつと、人家の明かりが夜道を照らしていた。ランタンやドラム缶、焚火の弱々しい炎が風に揺れている。明かりを隠し、息を潜めながら閉じこもっている者たちもいるであろうけれど。
家々を通り過ぎてしまえば、星明りだけが夜道と街影を微かに照らしている。民家、と言うのもおこがましい。布や紙の天幕に端材、泥や土壁を用いた小屋などが道すがらに集落めいた風景を形作っていた。人々は、ある程度、家族単位で寄り集まっては、互いの存在を頼りに夜を越える。家々に人数も集まれば、崩壊前の廃屋の頑丈な壁に木材や土嚢を組合わせて、貧しい者たちでも、なんとか簡単な防壁のひとつ、ふたつを築けなくもない。
屍者《ゾンビ》や獣、巨大蟻にちょっとした変異獣の二、三匹であっても、槍を揃え、棍棒を振るい、石を投げて撃退できなくもない。よしんば、撃退できずとも、逃がした子供が自警団の詰め所へと駆け込む時間も稼げよう。そうすれば、火縄銃やクロスボウを携えて自警団が駆けつけてくれる。地区全体が襲撃に晒されていなければの話だが。
居留地の大半の地域では、日が落ちるとともに人々の活動は終わりを告げる。下層地区でも、人出が多い一握りの地域を除けば、殆んどの場所は人家も疎らであり、一人で歩くには心細かった。
意外にも危険な筈の曠野に面したバリケード一帯ならば、小娘一人でも安心して歩くことが出来た。武装した自警団が夜中から明け方まで火を焚いて、警戒に当たっており、春から夏の夜の短い時期には、眠らぬ者たちが夜を徹して語り合い、或いは謡い、踊る日などもあった。自警団には、居留地から薪と食料が割り当てられ、ささやかな手当てが出ている。逆説的に言うならば、バリケード出入り口を訪れれば、常に武装した男女が火を焚いて屯しているのだ。
今日のニナは偶々、マギーと行き違いになっていた。門前近くの農場跡とやらで日雇いの野良仕事に励んでいる筈の保護者を迎えに行ってみれば、夕刻までの一日仕事と聞いていたのが、予想外に早く終わって帰路に付いたと告げられる。仕方なしに夕暮れの街路を一人、家路へと向かう羽目に陥っていた。
(……一気に走る?少し遠いな)脅えたニナは、躊躇なく通りかかった
夕食時に飛び込んできたニナに目を丸くした
「ごめんなさい。何か、気配が付いてくる気がして」ニナの言葉を聞いて、すぐに真顔で頷いたのは長男だった。
「いや、いい。良く来た。火の傍にいなさい」手早い動作でクロスボウに弦を張りながら、旦那さんに頷きかける。
「女たちは、背後に下がってろ」旦那さんが指示し、次男がこん棒を手に取る中、松明を掲げた長男が表に出て、様子を見た。誰もいないように見える。
だが、夜の闇に隠れてしまえば、素人が玄人であっても容易くは見つけられない。
「息子たちに送らせる」ニナに言った旦那さんが、二人の息子を見てから言った。
「離れるなよ。嫁入り前の娘さんに妙な真似はするなよ」父親の言葉に、ムッとしたように次男が頷いた。
「あとでお礼を」ニナは頭を下げる。いらん、などと言う旦那さんだが、そんな訳にはいかない。何かしらを送ることを考えながら、ニナは背後を見た。
崩れ落ちた夜の町並みに、闇は静かにたたずんでいた。
※※
陽が沈んでからの時間帯に食事を取るのは、まだ暖かな季節、町外れの人々にとっては、ちょっとした贅沢だった。町外れの廃屋や路地の彼方此方でランタンなり、焚火なりの明かりが僅かに揺れている。
ひとたび火が消えてしまえば、周囲を取り巻くのは星明りだけの世界だった。温かいスープや、焼け焦げたパンの香りが漂うのも、僅かな合間だけ。薪にも不自由していた頃は、マギーとニナも、日暮れと共に周囲の闇が迫ってくるのを感じていた。人類が洞穴で暮らしていた時代には、やはり夜の闇を強く恐れていたに違いなく、火も人類の最初の心強い利器であったのだろう。黄昏の世でも、大した武装を持ちえぬ貧しい人々は、松明の炎を振って、変異獣や狼へと立ち向かっている。
「恐かったにゃあ」マギーの胸に顔を埋めながら、ニナはにゃあにゃあ鳴いていた。
「なるほど、なるほど」撫でながら、マギーは頷いた。
「恐かったねぇ」「ままぁー」甘えてくる。今日はそう言う気分なようだ。
「注意した方がいいね。新参が増える時期だし、特に例年よりも人数が多いそうだ」
そして、悪人は何処にでも混ざっている。
振り返ったマギーは、火の傍らでお粥を食べてるリリーと、トリスにもそう告げた。
豆と芋のスープ。鳥肉や刻んだベーコン、キャベツ。米を茹でた粥に揚げた芋。幾らかの焼いた肉と人参。夕食は人数が揃っていた方が楽しい。少なくとも、四人揃っていれば早々、妙な人間や獣の類も近づいてくることはない。とは言え、曠野などでは、逆に炎に引き寄せられる屍者《ゾンビ》やら追い剥ぎの類もいるので、油断は禁物であるのだが。
リリーが咳き込んでいるので、毛布を貸してやる。
「おおきに……」蒼い顔でリリーが礼を言った。春先に体調を崩し掛けているようで殆んど、リリーの持ち物のようになってる。もう一枚、買うかな。とマギーは思った。
毛布と、リリーの命のどちらが大事か。いきなり突き詰めて考え、リリーと答えを出したからには、毛布をくれてやってもマギーは惜しくない。一見、甘くて愚かにも見えるが、逆に言えば、見知らぬものへの冷淡な結論や、損切りの判断も、マギーは普段から恐ろしく早かった。
ギターやハーモニカ、安くて有り触れた楽器の音色が、風に乗って近所から響いてくる。楽しい夕餉の余韻にニナを抱え込みながら、マギーは画集を開いて読んでいる。たらふく食べたトリスは、毛布に包まって猫のように惰眠を貪り、リリーもうつらうつらと舟を漕いでいた。夜に眠れるのは幸せなことだ。空き地に張られた板と布切れの天幕や段ボールの小屋では、守りなどはほぼ皆無なので、誰かしらの見張りがいなければ、夜に安心して眠ることさえ難しかった。
町外れは、バリケードや土嚢で境界線や不要な街路を封鎖してあるが、防備を越えて屍者《ゾンビ》や変異獣が紛れ込む事例もない話ではない。三人、四人と仲間が集まれば、まともに眠れる時間もそれだけ増えるわけだ。酷い話だとは、思う。「……当たり前の日を普通に送りたいだけなのに」小さな呟きは、ニナの口から零れたものだった。心を読まれたかと思うくらいの絶妙な間に、マギーはドキッと胸を鳴らしつつも、そっと顔を寄せた。
「……当たり前の日を普通に送るのが大変なのだ」
近所でも火に当たれず、腹を空かせながら、寒さに震えて夜を過ごす者たちはぽつぽつと見掛けている。
最近、流れ込んできた新参にも賢いものや善良なものもいるだろう。両方兼ね備えた上に可愛い女の子でさえ、いるかも知れない。だけど、悪辣だったり、後先考えない愚かなものもほぼ確実にいるに違いない。可愛らしく、或いは無害な姿をした犯罪者だって幾らでも見てきた。そして、困窮している者たちを単純に助けるものもいれば、当然に食い物にしようとするものもいる。助ける振りをして恩義を盾に縛り付け、搾取し続けるものもいよう。
保安官助手としてのマギーは、議会からやや厳しめに取り締まるように命じられていた。
(……いやな仕事だなぁ)とマギーは思っている。
最近、なんとはなしにポレシャ居留地の影の側面が見えてきた。
まともに助けようとする者にも、あまり大きくまとまらないように、それとなく警告を与えておけ、と言うのが議会の指示だ。当たり前の話だが、下層地区に幅を利かせるギャングなり、必要以上に力を持った顔役が生まれることを市民たちは望んでいない。下層地区なり、何処かの地区が一つの共同体として独り立ちし、ポレシャに伍すようになる事を、古きポレシャ住人たちは許容できないようだ。
盗賊団や人狩り、
この点は、気心の知れてきた雑貨屋の爺さんも同様だろう。スタンフィールド氏は、やや異なる展望を持っているかも知れないが、賢い人間の思考は、追いきれるものではない。だから、町外れやその他の地区にも一定以上に大きな相互扶助組織は生まれ難いし、移住してきた者たちは、自力で生活を築き上げるしかない。それでも働けば食べていけるし、長年を貢献すれば、迎え入れられるだけ、ポレシャは他の居留地よりも公正で慈悲深くはあるだろう。今は野宿して過ごしている者たちも、いずれは、それなりの仲間を見つけるか、稼ぎ始めて木賃宿などに泊まり始める筈だ。
トリスとリリーが鼾を搔いていた。マギーも眠気を覚えたが、みんなして惰眠を貪る訳にはいかなかった。恐らくは大丈夫だろうが、万にひとつがあり得る。
鑑みれば、以前の路地裏は狭いが、守りには便利であった。まともな壁を持った家が欲しいが、資材を集め、また一から作り上げるのに何年、掛かるだろうか。
「……私たちは、哀れな存在かも知れない」少しだけ自己憐憫に浸ったマギーだが、するとニナが手を握ってくれた。
「こうして一日、一日。一緒に食べて、寝て、歩いて、話して、それが掛けがえのない事だと知ってます」手を暖めてくれた。
マギーは、泣きたい気分になった。
其の儘、暫く静寂に身を任せていた。
「……もっとひゃやく……はやく、廃墟を出ればよかったのかな」ニナがぽつりと呟いた。
「そしたら、お姉ちゃんとマギーと三人で暮らせたかも。そうしようって、言われたのに……」どうやら、ニナの亡きお姉ちゃんこそが、廃墟を出ていくことに乗り気だったようだ。ニナがマギーに付いてきたのは、姉が外の世界を見たがっていたからと言うのもあるかも知れない。
「……花を飾ろう」マギーはニナを抱き寄せながら、それだけを告げて、ニナは頷いた。
マギー自身は、薪にも食べ物にも困窮しない身の上と、なにも変わってないように思える日々に、なんの不満もなかった。飲み水もガロン単位でボトルに貯めてある。 小説を読んだり、アニメや映画、ドラマを見て、ニナと感想を言い合ったり、一緒にゲームをする。失った財産の損失を少しずつ埋めながら、或いは一瞬で崩れてしまうような砂上の楼閣かも知れない日々を、渾身の力で生きていた。
5月下旬
4169クレジット