初夏の湿り気を含んだ空気が、居留地の下層地区全体を包み込んでいた。一帯には、整った家屋はあまり見当たらない。古くからの住人が暮らす幾つかのバラックや掘っ立て小屋を除けば、廃屋の壁を利用した簡素な天幕や、新聞紙や木の板を組み合わせた粗末な住居が雑然と広がり、廃墟の狭間の路地裏に段ボールで作られた小屋や、泥で塗り固められた仮住まいがいくつも立ち並んでいる。見た目には、今にも崩れそうなものばかりだ。
道らしい道もなく、地面は乾いた土と湿った泥が混じり合い、歩くたびに靴底が汚れる。人々が生活の名残を刻み込んだ風景――擦り切れた服を干すロープ、どこからか拾われた古びた鍋、そして廃材を組み合わせて作った小さな焚き火台やドラム缶などが、まばらに点在している。時折、焚き火から立ち上る煙が風に乗り、鼻を刺す焦げた匂いが漂ってくる。
一見すれば、廃墟地区の小集落と大して変わらないように見えるが、しかし、背景はしっかりした木柵が広がって外と区切られており、使われない路地には土嚢が詰まれ、地面には木杭が埋め込まれている。それとなく観察すれば、注意深く配置された防備や安全に配慮された形跡が随所に見て取れるはずだ。居留地の入口は、木製の頑丈な門が設けられ、夜間には必ず閉じられる仕組みになっている。また、門の傍らには簡易な見張り台が設置され、昼夜を問わず交代で見張りが立っている様子が見えた。住人たちの表情も、心なしか廃墟の住人たちよりはずっと明るく、屍者や変異獣に怯える様子もなく、のんびりと穏やかな日差しを楽しんでいる。
遠くから、廃墟に住む子どもたちの声が響いてくる。笑い声とも、泣き声ともつかないその音は、青く澄んだ空の下、風に流されながら次第にかき消されていく。周囲では、雑草が地面を埋め尽くし、湿り気を帯びた匂いが漂っていた。泥にまみれた犬が無造作に寝転び、鼻を鳴らしながらぼんやりと空を見上げていた。
傍目には活気がないようにも見える下層地区だが、人々はそれぞれに生きやすい時間の流れを見つけて、生活を続けていた。遠くの路地では、どこかで拾ってきた錆びついたラジオから、微かに音楽が流れている。どこまでも人間臭い、希望と絶望が混在する町外れが、トリスの希望の地であった。
七月の上旬。まだ、季節は初夏だったが、新聞と木板のみすぼらしい天幕の下に寝転んでいた親方のマギーが、思い出したように告げた。
「今年の冬は、居留地の木賃宿で過ごしなよ」何気ない口調だった。
近くで寝転んで本を読んでいたトリスは、理解するまで数秒の間、固まってから思わず息を呑んだ。
「ニール親父のところなら、金を出してやれる」マギーの言葉を疑った訳でもないが、喉を鳴らして「いいんすか?」と尋ねる。
「秋までに何が起こるか分からないんで、先に払っておこう」マギーが言ったが、ニナは待ったをかけた。
「あ、でも、あそこの宿泊券。サイン入りじゃないんだよ」
「……すると、早めに払って、盗まれたら拙いな」マギーは考え込む。真面目な話、廃墟一帯で冬を安全に越えられる宿泊券の所持がバレたら、殺してでも奪い取ると考える奴は幾らでもいるだろう。
「廃墟で小娘が値打ち物持つと……」ニナが言葉を濁し、マギーは苦痛でも味わったかのように表情を歪めた。
「ああ、うん。二の舞は嫌だな」
自分より前、目を掛けていた誰かがいたのかな、とトリスは思った。
「今年は、少し早めにこっちに来て、秋の初めくらいになったら、もう宿泊券を買おう。その後は、冬までは、もうこっちで暮らせばいい」少し考えてから、マギーはそんな風に結論した。
「ありがとう、助かります」勿論、トリスには否やはない。
「ただ、私たちに何か起こる事もあり得る。自分でも冬越えの準備はしておいた方がいい」念の為と言うマギーの言に、トリスは頷いた。
※※※
廃墟には深さがあった。外縁の浅瀬には、比較的に変異獣や屍者の姿も少なく、静寂が立ち込めている。しかし、立ち込める静けさの奥には、常にどこか不穏な空気と微かな気配も漂っていた。廃市街では、他所に行き場を失った者たちが、虚ろな町並みに隠れるようにして暮らしている。頑丈な建物の地下室や、崩れた屋上の隅に身を寄せ、粗末な住居を作り上げては、日々を生き延びていた。
多くの場所には、人々の暮らしの痕跡は薄れ、ただ無機質な瓦礫の山が広がっているが、それでも数か所では、小さな市場や集落がひっそりと営まれている。トリスのような廃墟の住人が暮らす『廃墟』とは、まさにこの浅瀬一帯を指している。
深く進むほどに、廃墟はその顔を変えていくが、浅瀬は大概、それほどには危険ではない。貧弱なバリケードが設けられ、生活のために工夫された囲いがあちこちに見られる。廃材や瓦礫、土嚢、錆びた金属で作られた防壁が組まれ、人々は怪物の目に怯えながらも、外界から隔絶された廃墟で必死に生きている。荷車を引いた商人や農民、取引を交わす行商人の姿がちらほら見えるが、来訪者が廃墟へと長居することは滅多にない。廃墟は、外界で不要とされた者らが行きつく、最後の地なのだ。
その廃墟の塒《ねぐら》へと戻りながらも、トリスの足取りは弾んでいた。スリングショットライフルを脇に携えながら、へへ、と鼻歌混じりの足取りも軽く、瓦礫の上を歩いている。
来年か、再来年には、行商人としてのマギーが身元を一人分、追加登録する余地が出ると言っていた。つまり、トリスが居留地の住人になれるのだ。
最短で来年、最長でも五年後には登録できるそうだ。単なる登録とは言え、しっかりした居留地の身分登録があるとないでは、他者からの扱いが雲泥の差となる。
登録したトリスに何かあれば、自警団が。凶悪犯罪なら保安官が動いて調査してくれる。
マギーとニナたちは、金を払って正規居住者になるべきかを相談していた。
まだ、早いと結論していたようだが、雲の上の話過ぎて、トリスは首を振った。下層地区への名簿登録でさえ、廃墟の小娘にとっては望外の幸運なのだ。
ふわふわと、浮かれてる足取りを自覚する。雲の上を歩いているような気持ちが中々に醒めない。
(……拙いって。しっかりしないと)頭を振ったトリスは、両手の拳を胸元に抱えながら、ダンダンと高く足踏みする。
突然の奇行に、すれ違った浮浪者《ホーボー》の一団が、妙なものでも見るかのような視線でトリスを見ていった。
人間になれる。人がましい地位に。スノーゴーグルに触れて、トリスは少し顔を強張らせるが、大丈夫だろうと頷いた。度々、目撃されてもマギーたちは何も言わない。
それに、他にも角や尻尾、鱗の生えてる中町や町外れの居住者がいない訳でもない。流石に市民には見ないし、正規居住者になるなら妨げになるかも知れないけれど。
トリスは歩きながら、ため息を吐いた。悪いことを考えて、いい知らせで浮ついている心の調和を取り戻した。それに悪い事を思い浮かべても、実際に味方がいると思えば、憂鬱になると言うより、立ち向かう気持ちになれた。
マギーたちが裏切る事はない。今のトリスはそう信頼を寄せていた。例えば、戦闘で見捨てる事はあるかも知れない。切り捨てる事はあるかも知れない。しかし、それは考えに考えた末、助けられないと結論したり、トリスが愚かな真似をして忠告も聞かなかった結果としては有り得ると言う可能性であって、トリスの傷つく顔が見たかったとか、そんな詰まらない真似をする人間では多分……ほぼ絶対になかった。仮にマギーが約束を果たせなくても、それは仕方なくだろうと思う程度には信頼できる相手で、事情は説明してくれるだろうし、多分、埋め合わせもしてくれるに違いない。
スノーゴーグルの下。素顔については、これから先も嫌悪の眼差しや忌避は受けるだろうが、しかし、物事の昏い側面ばかり見ても仕方ない。今は、良い流れが来ている。前を向いて歩くべき時だ。
外縁部を抜け、浅瀬では比較的に深い一角に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌に触れ、湿り気を含んだ土と錆びた金属の匂いが鼻を刺した。眼前に広がる景色は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれている。朽ち果てた建物が立ち並び、壁には風化したポスターや広告が色あせて貼られている。ガラスの破片が散乱し、踏みつけるたびにカラカラと音を立てていた。
倒れた鉄骨や崩れたレンガが無造作に散らばっており、まるで誰かが無理に押し込んだように不安定な小道がいくつか続いている。場所によっては、空き缶やプラスチックのゴミが堆積し、動物たちがそれらの隙間を潜り抜けているのが見える。どこからともなく、乾いた風が吹き、枯れた葉が地面を転がり、建物の隙間からは遠くの音が反響する。
足を止めたトリスが、廃車の影から通り道にある公園の様子をそっと窺ってみると、子供の体躯ほどもある巨大な蜘蛛や鼠たちが広場を我が物顔に徘徊している。
ため息を吐いたトリスは、見つからぬように建物の上に作られた不安定な通路から通路へと、時折は縄も伝って歩いていった。一帯の人々が屍者や怪物に襲われぬよう作り上げた、弱者なりの工夫を積み重ねての空の抜け道だった。
鼠や蜘蛛の屯する一帯を抜け、さらに小道を進んでいくと、腐った木の扉や、風でひらひらと揺れるボロボロのシートが見える。
一帯に暮らしている人々は、怪物を恐れているのか、誰もが物陰に隠れては様子を窺い、或いはひっそりと歩き回っている。怪物の群れに息を潜めてやり過ごすのが、廃墟の住人たちの護身術で、時折、どこからかガタガタと音がして、ひときわ古びた建物の中から、何かが物を引きずる音が響いてくる。その音に、誰もが一瞬、立ち止まり、やがて再び、まばらな足音が不安げに反響する。
遠くのほうでは、あちこちから煙が立ち上り、焚き火や簡易な調理が行われている様子がうかがえる。煙は濃く、風に流されながらも、どこかしらで焚かれた物の匂いが辺りに漂ってきた。廃墟と化した街並みの中で、ひときわ目を引くのは無造作に積まれた瓦礫の山。その上を、少しずつ草花が顔を出しているものの、全体的には無慈悲な荒れ果てた世界が広がっていた。
トリスは見張りのいる廃墟のビルの前で大きく手を振ってから、こそこそと建物に入り込んだ。廃墟の塒は、宿代を払えば、まあまあ安全なところに潜り込める。宿代は、コインやチケットだったり、食い物だったり、拾った鉄くずや何かしらの缶や瓶なんかでも構わない。
廃ビルの此処も、比較的にマシな行状で知られる徒党が仕切ってる値段の少しだけ張る木賃宿だった。盗賊《バンディット》や愚連隊に比べれば、徒党の行動はまだまともな方で、他の危険なエリアに比べては、一帯はまだ生きやすい場所だった。それでも、依然として屍者や変異獣は餌食を求めて徘徊し、人狩りや追剥たちも獲物を求めて出没する、暮らす者たちに不安の影が付き纏う何処にでもある廃墟の一角に過ぎなかった。
建物は薄暗く、空気が重く湿っているが、しっかりとした床の上に座ると、ほんの少しの安堵感が胸に広がった。トリスは宿の主人に小さな貨幣を渡し、心の中で少しの間の休息を心待ちにした。此処の木賃宿は、夜間はしっかり戸締りするし、見張りは常時、三名から四名。手作りの簡易クロスボウに槍、木の盾も持っているし脱出口も複数あった。夜を過ごすには、けして悪くない場所だ。
(……早く秋にならないかなぁ)寝転んだトリスは、初夏になったばかりだと言うのに、そんな事を考えてしまう。少なくとも、今年の冬は居留地で過ごせる。例え、下層地区だとしても、毎日、毎日、死の恐怖に怯えないで済むのだ。何処からか、悲鳴や絶叫が聞こえてきて、近づかないように祈って不安な夜を過ごす事も無くなる。
しかも、素晴らしいのは、トリスの冬越えを保証してくれるのは伝手。他人と積み重ねた時間と信頼なので、宿泊券と違って盗まれることもない。
勿論、対価としてマギーには役に立つことを期待されている。
かと言って、能力以上のことは求めないとも言ってた。未来が開けている感覚は良いものだ。
トリスは、気軽に寝転んでいる。盗まれて困る持ち物は、精々がスリングショットライフルくらいか。これも廃墟では、少し高価な玩具だが、少女が持っていて目を付けられるほどではない。いや、そうとも言い切れないか。予断も、油断も、廃墟では禁物だった。廃墟では命は軽いのだから。これも盗まれたり、破損した場合、代わりを買うとも言ってた。取り返す為に無理をするなと、言い含められている。
もうじき、旅の日々が始まる。トリスはほくそ笑んでいる。行商も危険とは聞いているが、例え、死んでも、後悔ないだろう。しかし、そう言ったら、マギーは酷く渋い表情を浮かべて、訓練をよく積むようにトリスとニナに厳重に言い渡してきた。
訓練と言っても、いつも通りのスリングショットライフルを使っての、鼠狩りなのだが。大事にされてる。
(幸せ過ぎて、死んじゃう!)トリスは床で陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回った。隣に寝転んでいた武装放浪者が、怪しげなものでも見るかのようにトリスを眺めてから、距離を取った。
さて、木賃宿には、色々な人間がいる。廃墟では特に客層はよろしくない。
浮浪者や流れ者、武装した放浪者、女衒に娼婦、腕の悪い廃墟漁りや行商人。巡礼に説教師。鼠や蜥蜴くらいしか取れない狩人や罠師、と言っても、これは装備と専門の話だから、それほど馬鹿にしたものでもないが。きっちり稼いで、家族を養っている連中も少なからずいる。大型居留地の学校に通うと親には言いながら、学費を使い込んだ学生崩れや博打打ちなんて連中も転がっているし、宿賃と安全を天秤にかけて、少しでも金を節約したい自由労働者や出稼ぎ労働者なども、居留地に近い廃墟の木賃宿や、廃墟に近い居留地の木賃宿に寝泊まりしてる。
薄暗い室内を観察して、(……セフの連中はいないな)とトリスは結論した。
一線越えた小僧たちが出たことは廃墟でも、話題になっている。雑魚寝の大部屋の隅の方でも、怪しげな旅人たちがこそこそと小声で話し合っていた。
「町外れ……と揉めて」「自警団の連中が……セフ衆」
ぼそぼそと後ろ暗い話でもするかのように囁き合っているのは、そんな詰まらない情報や噂話でも、小金が動く事もあるからだろう。
酒場や食堂の隅で寝泊まりする連中もいる。最低限の食事を取って其の儘、床や壁際に転がるのだ。廃墟では、薪はもっと貴重。炭団子なんかも好まれている。暖かさが逃げる冬には、廃墟や下層地区では、扉を迂闊に長く開けて殴られる奴まで出てくる。
長期の泊まり客の中には、気の触れた老女もいる。居留地に暮らす男が約束の日に迎えに来ると信じているのだ。別に騙された訳ではない。相手の男が、廃墟に来る途中で変異獣に食い殺されただけだ。顔は深い皺に覆われているが、唇には鮮やかな赤い口紅が塗られており、頬には濃いチークが斑に広がっている。化粧品は明らかに居留地の市場から廃棄されたような品で色合いは年月を経て不自然にくすんでいた。色褪せたレースのドレスは、かつて純白だったのだろうが、今は黄ばんでぼろぼろだ。老いた女は、若い娘の化粧と格好をしながら、毎年、恋人が迎えに来る日を指折り待ち続けている。数十年前で時が止まっているのだ。
……秋までは気を抜くまいぞ。老女を一瞥し、トリスは単純に気を引き締めた。自分はよい出会いに恵まれた。廃墟から抜け出してみせる。それからも色々と続くだろうが、何時死ぬか分からない廃墟で暮らし続けるよりはマシだ。
身体を丸めると、部屋の隅で何時ものように蹲った。幾らでもいる、打ちひしがれた惨めな廃墟の子らの一人のように。目を付けられないように。
誰かが廃墟を抜けようとすれば、悪意を持って阻もうとするものもいるかも知れない。努力する奴の足を引っ張るのだ。やられた方は、幾度も盗まれたりするうちに諦める。応援する者らと同数程度には、そんな実例も見てきた。
だから、実際に抜け出るその日まで、トリスは普段と変わらない生活を送っている。用心深く、誰にも悟らせないように。同じように振舞っている。
トリスの隣は、件の老女が毛布に座っていた。窓辺の明かりを受けながら、針仕事をして、口を糊している。丁寧な仕事ぶりに受け答えは、狂気に支配されているとは思えない。実際、それ以外は無害なので、誰も―――略奪者《レイダー》ですら、この気の毒な老女に害を与えようとはしない。
「あら」老女がトリスを見て、微笑みかけた。
「貴女も、居留地で暮らすのね」
トリスは凍り付いた。 胸の奥が凍りついたような気がした。自分の計画が誰かに悟られる――そんな危険をずっと恐れていた。そして今、目の前の老女が秘密を暴きつつあるのではないかという危惧が、頭の中をぐるぐると巡った。
「わたしも、次の春に、居留地へ引っ越すのだけど」
老女の笑顔には、無邪気さと輝くような喜びしか見当たらなかった。若い娘のような仕草を真似ているつもりなのだろうが、動きには歳を重ねた身体特有のぎこちなさが滲んでいた。
「やっぱり不安な気持ちになることもあるの。向こうで彼以外の人を知らないんだもの」
それでも、老女の瞳には夢見るような輝きが宿っていている。
「彼のお友だちや家族の人は、私のことを歓迎してくれるかしら。彼はみんな、いい人だっていうんだけれど。ねえ、向こうに行ったらお友だちになってくれない?」
(……誰かに聞かれたら?いや、ただの世迷い事だ。誰も本気にはしない。今、無表情は保てるか?殺す?いや、馬鹿な。これまで必死に、荒廃した廃墟で人らしさを失わないようにしてきたのに)
ほんの一瞬の恐怖で、線を越えそうになった自分がトリスは怖かった。
(無力な。なんら危害を加えたでもない相手を。そう言う事を忌避してきたからこそ、マギーやニナは同類の匂いを嗅ぎ取ったに違いないのに――――落ち着け)
平常心を取り戻したトリスは、穏やかに返答した。
「そうだね。居留地で会えたら、友だちになろうね」
老女はトリスの言葉に嬉しそうに笑った。笑顔は、何十年も前の春の穏やかな陽だまりを思わせた。取り立てて美人とは言えないが、若い頃はさぞ魅力的だったに違いない。だけど、どこかで止まってしまった時間が、彼女の顔に影を落としている
老女は握りしめている何か――古びたハンカチだろうか――をそっと撫でた。ハンカチの縁は擦り切れ、その刺繍は色褪せているが、彼女はそれを宝物のように大切そうに扱っていた。「嬉しいわ」と口元に微笑みを浮かべたその瞬間、瞳にちらりと涙の粒が光った。一瞬、正気なのではないか。との思いに打たれ、いや、とトリスは首を振った。何十年も、狂気に陥った演技を続ける動機なんて存在しない。
トリスは気持ちを落ち着ける為に、トイレへと向かう事にした。勿論、荷物は全部持って、なんの意味もない石を、使ってると示す為に後において立ち上がる。
途中、顔見知りの飲んだくれが声を掛けてきた。
「ひっひ、優しい奴だな。トリスよ」
「みんな、もっと優しくなればいいのに。って思うよ」トリスは返答した。
「なんだ、酔ってるのか?」虚を突かれたような顔をした酔っ払いに「どうかな?」と返してトリスは夕暮れの薄い闇の穴へと降りていった。
七月の上旬
6082クレジット