黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_58F 分厚い手帳 ロニ

 ロニは昔の夢を見る。

 

 曠野には時折、文明崩壊以前に造られた建造物が往時の姿を保ちながら聳え立っている。大崩壊前か、幾度かあった再建期のどれかに作られたか分からないが、往時の風景を色濃く留めた住宅街の一角がロニの生まれ育った居留地で、百人弱の住人たちが穏やかで慎ましい生活を営んでいた。

 

 小さな雑貨屋、家庭菜園、時折、訪れる行商人や芸人も顔馴染ばかりの今となって思い返せば、たかの知れた規模の共同体《コミュニティ》に過ぎなかった。資源の入手や物資の切迫にもさぞ苦心していただろうが、幼い頃には町並みと切妻屋根から見えた風景だけが世界の全てである。誰もが知り合いの閉じた小さな世界は、ぬるま湯のようにひどく心地がよかったのだ。

 

 両親も知り合いたちも、基本、周囲で手に入るありものだけで生活の全てを工夫し、補っていたが、その頃の感覚には今でも良く助けられる。小さな居留地や集落に暮らす人々の気持ちや、求める物資をよく理解できるからだ。狭い世界だけに生きる人には、独自の世界観や価値観を持つ人も多くいて、中には外部の人間の罪のない言葉や行動で猛烈に腹を立ててしまう事も少なくない。だから、旅商人の助手になって初めて知った世界の広さも、大きな居留地や都市の住人の考え方も、閉じた世界で静かに暮らす人々からすれば、良くも悪くも異質で奇妙な慣習であったりする感覚をロニは肌で理解していた。

 

 

 小さな居留地は、常に危うさと隣り合わせだ。十数匹の屍者《ゾンビ》や数人の略奪者《レイダー》でも、容易く脅かされて、存亡の危機に陥ってしまう。それでも時に傭兵を雇い入れ、時に交渉で退けて、数十年を辛うじて存続しつづけていた。きっと綱渡りの連続だったに違いない。

 

 そうしてある時、捌ききれなかった日が訪れた。十人ちょっとの武装した放浪者《ワンダラー》と物資の提供と休息の要求が折り合わずに突っぱねて銃撃戦となり、その音が偶々、近くまで彷徨っていた少し規模の大きな屍者の群れ(ゾンビホード)を引き寄せてしまった。襲撃に気を取られて、裏手の警戒が薄くなり……多分、何処でもそうなのだろう。

 

 その日、起きた悲劇は、珍しいものではなく、ありふれたものに過ぎないが、かと言ってロニの記憶が救われる訳でもない。近寄ってくる屍者の呻き(デス・ヴォイス)。血相を変えた母がロニを担ぎ上げ、斧を手にした父が扉の前に陣取った。乱打され、歪んでいく扉。父の背中と、半分壊れた窓から射し込む陽光。閉じ込められる時に最後に見た光景と、居留地の終焉が今も繋がらない。

 

 夢から目が覚めても、両親の断末魔の余韻が耳に残っていた。半壊して鮮血に塗れた扉《ドア》。街路で垣間見た、あの日の両親と同じ色合いの服を着た二匹の屍者《ゾンビ》。

 悪夢の生々しさに心臓が嫌な鼓動を立てている。きっとロニの魂は、今も隠れた狭い戸棚に置き去りのままなのだろう。それでも、うっすらと目を見開けば、星明りの下、宿営地の粗末な布の屋根が目に入った。乾いた土埃の匂い。遠い彼方では、黄昏の残光が稜線に淡く溶け込みつつあった。

 

 数瞬だけ、今、自分が何処にいるか分からずに、ロニは混乱した。薄い毛布の上に寝ころんでいる。衝撃に心打たれて動かずにいるロニに「起きたなら、水でも汲んで来い。怠け者め」とぶっきらぼうな声が飛んできた。夜の帳が降りる中、師匠――行商人のグラハム・バートンが焚火の前でパイプをふかしながら分厚いメモ帳に何かを書き込んでおり、護衛兼相棒のハロルド・コッゾはライフルを手入れしている。

 

 宿営地、そこは宿営地だった。旅籠や木賃宿にも泊まる金を持たない貧しい旅人やケチな放浪者らが、都市や町の郊外にある柵や杭で囲まれた空き地に天幕や仮設建物などを設けて夜を凌いでいる。

 

 大きな交易市が開かれる時期、常よりも多くの旅人や行商人、肉商人や農民に牧童や遊牧民なども小銭《ペニー》一枚でも節約する為に宿営地に寝泊まりし、引き連れた羊や山羊、牛に驢馬、犬なども杭に結ばれ、粗末な飼い桶から干し草や豆殻をついばんでいる。

 

 夜半ともなれば焚き火の煙と家畜の鳴き声が入り混じり、低い唸りを上げる犬が見つめる闇の彼方から、別のなにか得体の知れない生き物が吠える音が響いてくる。宿営地は、一応は積み上げたがらくたや土嚢、木柵に守られているものの、荒野《ウェイストランド》には、屍者《ゾンビ》や変異獣は勿論、野生の狼や犬、猪にゲッコー、コヨーテなどが彷徨っていて、巨大化した蟻や鼠、蛙なども人間や連れている家畜を狙っているため、旅人たちはクロスボウや火縄銃、或いはそれ以上の飛び道具を携えた見張りを交替で立てても、気を抜くことはできない。

 

 

 今のロニは、師匠――老グラハム・バートンの丁稚だった。生きるために、行商人の下働きをしている。襲撃の後、大人に守られた、ほんの数人の子供たちだけが生き残っていたけれど、町中を彷徨う屍者《ゾンビ》や屍食鬼《グール》に見つからずに、数日を生き延びたのは、さらに少数だった。ロニの家は町外れにあったから、崩壊した居留地の入り口まで彷徨い出て、久方ぶりに訪れた老グラハムと一番に出会えたのも幸運だったろう。

 

 町外れで町の風景を眺め、一目で何があったかを悟った老グラハムは、町の入り口にへたり込んでいたロニにただ二つだけを端的に尋ねた。他に生き残りがいるか。略奪者《レイダー》なりが占領しているのか。

 ロニは嘘を付いた。他にも子供が生き残っていたかも知れないが、どちらにも首を横に振るった。言葉を返すことなくパンを一切れ放ってよこし、そのまま立ち去ろうとしたグラハムの背中を、ロニは、ふらつきながらも立ち上がって追いかけた。

 

 そして老グラハムは、面倒くさそうな顔はしたもののロニを突き放しはしなかった。近隣一帯で最大の居留地であるツァリオ市の公営孤児院まで連れて来られて放り込まれそうになったが、子供たちの痩せた顔色を見たロニは、老グラハムに引っ付いて離れなかった。

 

 比べれば、サグレー市の教会やポレシャ市の里親制度は幾らか、マシな環境だったが、清教徒めいた規律正しい早寝早起きに野良仕事の日々はいかにも厳しそうだったし、怪物や屍者《ゾンビ》が彷徨《さまよ》う曠野や廃墟と隣合わせの下層地区での暮らしにもうんざりしていた。この二つの共同体は、資源とコストの許す限りで多少なりともマシな人生を孤児たちに与えようとしているのも嘘ではないが、なによりロニ自身が、生涯を修道院の小作人として過ごしたり、その日暮らしの労務者となる人生には魅力を感じられなかった。とは言え、今になってみれば、サグレーの荘園やら、ポレシャの下層地区での暮らしぶりも、それなりに楽しげに見える時もあるのだが。

 

 

 

 いずれにしても、基本的に丁稚と言う立場はいい身分ではない。掃除や炊事といった雑務に始まり、使い走りや荷運びまでこき使われながら、給料はほんの小遣い程度。行商人の徒弟となると、大手の商会や隊商の丁稚に比べて、仕事は多少楽になる代わり、出世や独立の見込みも薄くなり、他人からの扱いもさらに雑になる。それでも文明崩壊後《ポストアポカリプス》の世に、天涯孤独の孤児が大人の庇護を受けて生きていけるだけ、充分に有難いとロニは思っていた。

 

 零細商人に使われる小僧たちの運命など、雇い主の当たり外れで簡単に左右されてしまう。うだつの上がらない親方やら冷酷な雇い主に拾われた少年少女には、ひとたび主人の機嫌を損ねれば、食事すらまともに与えられず、雨風しのげる寝床もままならない者もいれば、奴隷同然に扱われ、裸足にボロ切れ一枚巻いただけで、冬の石畳を駆け回る者もいた。幸いと言うべきか、老グラハム・バートンは、『狐《フォックス》』の異名を取る辣腕として、多少は名の知られた旅商人であり、お零れを戴く立場のロニも食べ物にも寝床にも困ったことはなかった。実際、今だって、乞食とどちらがマシかと言った風体のまま、宿営地で酷使されている少年少女の姿も見かけられて、大半の丁稚や徒弟たちは、自分たちの親方が時折、拳骨や罵声はくれるにしても、其処まで酷薄でも、貪欲でもないことに感謝していた。

 

「お師匠さまは人使いが荒いなぁ」などとぼやきながら、松明の燃え盛っている小さな池のほとりで水を汲み上げる。黄昏の世(トワイライトエイジ)には、人の子くらい軽く一飲みにしてしまう巨大蛙や水棲の変異生物も生息しており、番犬たちも見張ってる最中、まさか宿営地には生息していまいが、草むらがざわめくたびに恐怖心は拭いきれなかった。背筋に嫌な汗が噴き出しつつ、それでも、焚き火の傍で鍋を待つ師匠の顔を思えば、何時までも怖気づいてる訳にもいかない。手早く布越しに濁った水をこし、桶に注いでは、次の汲み桶を準備する。何処かの水面に、ボコリ──と水音がした。どうか、巨大蛙ではありませんように。

「蛙のご飯にはなりたくないなァ」と呟きながら、腰のちっぽけなナイフに触れつつ、ビクビクし通しで水を汲み、用心しながら水面を離れて足早に師匠たちの元へと急いだ。

 

 黄昏の闇は、音もなく宿営地の周囲に忍び寄っている。不寝番の男たちが――幾らかは女も混ざっているが、鋭い目で地平の闇を睨んでいた。大規模な交易市が開かれる今の時期、盗賊《バンディット》やその他の賊徒も活動を活発化させているが、貧乏人の宿営地を襲う愚か者は多くない。とは言え、曠野には野生動物や変異獣、屍者などの脅威が常に彷徨っていて、一晩に幾度かは、銃声なり、レバー式クロスボウの重く響く発射音が聞こえてくるし、見張りたちも緊張を免れないようで、盛んに耳を触ったり、口元を撫でたり、或いは眠気覚ましの珈琲や茶を口にしながら、夜の帳と対峙し続けている。それでも見張りたちが最低でも二人一組なのは、宿営地の者らが夜営に慣れており、人数にも余裕がある事を示していた。

 

 見張りたちに守られながら、所々に焚火が燃えている宿営地を重い水桶を運んで、師匠たちの元へと戻った。途中で、ハロルド・コッゾが迎えに来て、水桶をいくつか持ってくれる。厳つい風貌に似合わずに、用心棒は面倒見のいい男なのだ。汲んできた水は一応は布で濾してあるが、それでは足りない。浄水装置――ペットボトルに砂と炭と布、小石を詰めた、旅人の必須品を使って、藻や不純物を取り除き、それを鉄鍋に入れて煮沸する。水の確保が旅人にとっては最大の鬼門で、湯冷ましにしてようやく口にできる。

 

 勿論、此処は文明圏の野営地であり、近くに農村やら宿場町も点在している。大量に飲料水を処理して、売りに来る水売りや、家畜の乳や酒を売る農民や牧畜民も珍しくない。特に定期市の時期には、そうした物売りらが宿営にもやってきて、物々交換や小銭で飲み物や食べ物まで提供してくれる。治安のそれほど悪くない文明地なら、安価な飲料水に事欠かないのだが、師匠は何時もロニに飲料水の用意を任せるのだった。習い性にするんだ。そう淡々と言う師匠は、何時も口元に悪戯っぽい笑みを浮かべていて、実はケチなだけではないかとロニは疑っている。

 

 鉄製薬缶(やかん)にフィルターで濾した水を入れ、沸騰させてから、幾らかを鉄の鍋に湯冷ましとして取り置いておく。残りの湯で、ハロルドが漆黒の珈琲を作る。タンポポの根を煎っただけの珈琲《コーヒー》に、砂糖とミルクを加える。美味くもないが、眠気覚ましとしては頼りになる。拠点のポレシャ市に帰った時に本物の珈琲《コーヒー》を一杯だけ飲むのが、ロニの唯一の楽しみで、贅沢らしい贅沢だった。何時かは、珈琲《コーヒー》を毎朝、飲める身分になりたいと思っている。

 

 師匠は薄い毛布を引っ被って仮眠を取っていた。熟練の旅人たちは、暇さえあれば身体を休ませる。文明崩壊《ポストアポカリプス》の世に荒野(ウェイストランド)を旅する旅人たちは、纏まった眠りを取れる機会が少ない。大抵、眠れる時に短い眠りを二時間、三時間と仮眠を重ねながら、その時も、仲間の誰かは起きていなくてはならない。

 

 ばらばらに眠りを取っている三人の不定期な眠りだが、夜明けか、危険の襲来時だけは、同時に目覚めが訪れる。間近で銃声が聞こえ、師匠が眠たげに薄く目を見開いた。ロニは立ち上がって、様子を窺ったが、古狸の行商人は慌てていない。銃声はただの一発。見張りたちのざわめきの声も収まった。怪物への牽制か、ケチな痩せ犬が近寄ってきたのなら、慌てる必要はないだろう。別に強い訳でもないが、百戦錬磨でどんな状況でも生き残れるとの噂の老行商は様子を探るよう耳を澄ませたあと再び、目を閉じた。荷物も何時でも持てるようにまとめてある。ただ、気を抜き過ぎないよう、ロニもいつも通りに振舞えばいい。

 

 

 

 老グラハム・バートンは、滞在する宿営地を決める際、曠野の地図を睨み合いながら慎重に吟味した。宿営地に留まるのに、『狐』のグラハム・バートンは、一週間ごとの安くない宿泊料を払っている。もっと安い宿営地も存在しているが、備えも木柵や古い家具のバリケードに若干の土嚢くらいで、見張りの武装もこん棒や槍、弱い弓など遥かに貧弱な代物となる。そうした宿営地では、処理しきれなかった糞尿の匂いも常時、漂っている。士気も低く、万が一、怪物がなだれ込んで来たら、見張りも戦うよりもいち早く逃げだすかもしれない。

 

 文明の残り火が仮初に守られた宿営地では、最低限の秩序が存在し、用心棒たちも巡回して無用の争いを抑えている。もっとも余りに安く、また孤立した場所の宿営地などでは、その秩序もいくらかの怪しいもので、賄賂や力関係に容易く左右されてしまうと囁かれてもいる。

 ロニたちは、幾らかは真っ当な評判を保つ宿営地の隅に小さな焚火を囲んでいる。木箱を組み合わせて作った粗末なベンチや、空き瓶と鉄鍋の光景を夜ごとに眺めながら、何度も継ぎ接ぎされてきた古い天幕の影で、旅の一夜がまた更けていた。

 

 二時間ほど経過して師匠の老グラハムが目を覚ますと、用心棒のハロルド・コッゾが入れ替わりに仮眠を始めた。グラハム・バートンは胸ポケットの懐中時計の時刻を確認してから、ロニに食事の用意を命じた。

 

 食材は、日中に既に買い付けてあった。皮を剝いた蕪や芋に人参。豆に玉ねぎなど扱い慣れた野菜に、贅沢に獣脂で炒めた豚肉や鶏肉を放り込み、水で煮ながら乳や調味料を投入する。人生で今の時期だけ味わえるに違いない肉や香辛料をたっぷり使った贅沢なシチュウにも、すっかり舌が慣れてしまった。家畜市が終わった後が恐ろしい。

 

 

 遠来の遊牧民らが運んできたのは牛と馬に羊と山羊、驢馬に犬など従順な畜獣が主体であって、獰猛な性質の上に群れない習性の豚の取り扱いは乏しかった。瘦せ地にも育成しやすい豚や鶏などは、辺土の僻村にさえ飼われている。羊や山羊の肉、牛や羊の乳製品が多量に出回って、買い手市場になってる現状、地産地消が基本の豚や鶏肉なども安く出回っていた。普段から豚を売ってる農民や牧場主、牧畜民にとっては、トントンや赤字でも売れた方がいいのだ。どのみち自分たちだけで消費しきれるものでもない。農民とは辛抱強い生き物で、今をやり過ごせば、二、三年のうちに普段の相場に戻っていくと知っているのだ。

 

 夜食のシチュウが出来上がった。少し硬めのパンを突っ込んでお皿に盛った。香ばしい香りに近くの焚火から此方を覗いている子供たちもいて、微笑ましいのだが、同時に油断すると食べ物を盗まれる事もあって油断ならぬのが世知辛い世の中でもあった。遠慮なしに湯気を立てるシチュウを口に運ぶ。出会ったばかりの頃、遠慮していたら腹を空かせて倒れたら、置いていくと淡々と警告された。それからは、気後れせず食べるようになった。食事は一日に二食、それと間食をちょくちょくと取っている。空腹で力が抜けるようなことも少なく、長時間の歩きや作業にも耐えやすい。

 

 【狐《きつね》】のグラハム・バートンは、食べながらずっと手帳を読み込み、時折、何かを書き込んでいた。お師匠は常に思考を走らせているのだ。

「お師匠、お師匠、蛇のマルグリット。いなくなってしまいましたよ」サドラン氏族への伝手がありそうな同業者を尾行していたのに、見失うと言う間抜けを晒してしまった。ロニが指摘すると、老グラハムは口の端を微かに吊り上げた。

「思い通りにはいかないのが人生だ。此処で空手で戻ったら、俺も破産だなぁ。随分と無駄金使ってしまった。無駄飯くらいの丁稚は放り出すことになるな」意地が悪い事を言うが、ロニも常々、いずれ一人で生きていくしかないとは考えている。それに突き放したような言葉を吐きながら、老人。この後は、考えるように促しながら、一応の答えを教えてもくれるのだ。

 

 グラハム・バートンは、行商歴四十年の大ベテランだ。商売は、ポレシャ市と北のツァリオの交易市との往来が主体だが、自由都市ズールにも幾ばくかの伝手を有している。目論み一つ外れたからと言って、問題なく常に他の手筈で稼げるように動いている。良質な獣脂や皮革の相当量を廉価で仕入れているし、商会連に小さな倉庫を一部屋ほど確保してもいる。買い付けた商品を他所に運ぶための人夫なり、荷馬車だって手配できるし、ポレシャやツァリオで価格が下落していれば、さらに南方や東方へと転売するための伝手だって有しているのだ。師匠は百戦錬磨で、何時でも次の事を考えている。ロナは良く知っている。

 

――遊牧民への伝手はあんまりない。

――傷の浅いうちに引き上げるか。

――安めの品を買い付けておくか?

 他人が傍で聞き耳立てても、うだつが上がらない老いぼれ商人と誤解しそうなぼやきを洩らしつつ、何処の土地で何が買え、誰が何を欲してるか。数十年の行商生活で蓄積した膨大な知識と機転で他の商人たちを出し抜いてみせるのがグラハム・バートンと言う男の楽しみだった。

 

 狡猾な老狐は、常にリスクを分散《ヘッジ》し、冗長性を隠しながら、少ないコストで効率的に行商を行っていた。今は取引先を弟子に教え、人脈を繋げながら、相場感覚を教えてくれている。価格交渉の仕方、市の周期、季節ごとの変動―――グラハムも把握しきれない情報は当然にあるし、状況や情報も常に流動し、水の如く変化を続けている。そして例え、グラハム・バートンの商売の連続性を引き継ぐことが許されても、ロニは常に緊張を維持しなければならないだろう。自分がグラハム・バートンの何番目の弟子かはロニにも分からないが、独り立ちすれば、その瞬間から【狐】と孤児は商売敵となる。だから、師匠は基礎や思考法を厳しく叩き込みながらも、けして全ては教えてはくれない。ロニはグラハムの分厚い手帳をちらりと見つめた。我ながら、きっと欲深そうな目になってるだろうな、と内心思いつつ、手元のまだまだ薄く、書き込みの少ない手帳を握りしめる。いずれはこの手帳も分厚く成長し、付箋に覆われるようにするのだと、ロニは堅く決意していた。

 

 

 

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