黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_58G 泥と血と

 降りかかる運命は避けられないとしても、どう立ち向かうかは人の自由意思にある

                   ――――――――ストア派

 

 

 

 行商人マギーに率いられた一団は、日没前に辛うじて丘陵地帯を通り抜けた。 

 総勢五人。マギーと相棒ニナ。あまり冴えない牧者娘のジーナ・C(クレイ)。放浪者《ワンダラー》のミリーと護衛のエマ・デイヴィス。早朝のうちにポレシャを発《た》ち、道筋を熟知するマギーの先導の元、幾度となく小休止を挟みながら、それでも平野部へと辿り着いたのが日没直前。そこからはカンテラと松明、コンパスと地図だけを頼りに、夕昏の荒れ野を手探りに進むのだが、わだかまる闇は酷く神経を削ってくれた。街道筋の農村まで辿り着いて宿屋の扉を叩いたものの、日没後の来訪をひどく怪しまれ、扉越しの幾度かの問答と割り増し料金の果てに、ようやく離れの小屋を借りる事が許された。

 

 転がり込むように小屋に身を寄せたときには、誰もが身体も心も疲れ切っており、特にマギーは息も絶え絶えだった。中途で力尽きた足手纏いを背負っていたからである。

 ペイっと、些か乱暴に床に降ろされた【リドリーの娘】ミリーは、申し訳なさそうに俯いていた。「……その、ごめんなさい」気まずげに沈黙しつつ、ようやく重たい口を開いたミリーが謝罪の言葉を洩らしかけた。

「いいから靴を脱いで足を洗う。他の子も。水虫は恐い。それと、その履き慣れてない靴には内側に石鹸を塗っておきなさい。明日も同じ距離を歩くのだから」マギーは叱りつけてさっさと装備の手入れと柔軟運動をするように命じた。

「それとも辛い?すでに街道筋には入ったから、昼まで休息しても、さほど問題はない。ええと、無理して距離を稼ぐ必要はない」

「だ、大丈夫」とミリーの小さな叫びに疑わしげな瞳を向けつつ、マギーは頷いた。

「よし。ただし、辛いならすぐに言いなさい。迷惑を掛けるとか言う理由で、不調を隠したりしない。無理をされて、一人が急に歩けなくなる方が負担が大きい」

 草臥れた様子で頷いているミリーに「返事は?」と促すマギー。

「わっ、分かりました」ミリーが慌てながら頷いた。

「違う。無理をして隠す方が、皆の負担になるから、辛いときはすぐに口にする」

「へっ……え?」

「復唱」マギーはハスキーボイスで穏やかに声を掛けた。

「……わ、復唱?」と焦るミリー。必ずしも、とは限らないが、場当たり的な応答は、抑圧的なグループで長く支配下にあった人間によく見られる反応だった。

「復唱、覚えてないな?」とマギー。

 気まずげに沈黙したミリーの前に屈みこんで、マギーは三度繰り返した。

「無理をして隠す方が、皆の負担になるから、辛いときはすぐに口にする」

「む、無理をして隠す方が、皆の負担になるから、辛いときは口にする」ミリーが言うとマギーは頷いた。

「よろしい。大事な事。このグループを抜けても、覚えておきなさい」

 

 他の随員たちにもやるべきことを命じながら、マギーはニナと一緒に壁をチェックし、窓の鎧戸に扉の立て付けを調べて、グラグラしてる部分に気に入らないと鼻を鳴らしつつも、ようやく床に尻を降ろした。

「よし……多分」

「よし……かなぁ?」ニナは首を傾げてる。マギーも分かってる。かなり適当なチェックである。

 天井を蠅人間やらにぶち抜かれたり、床からくる心配まではしてられない。兎も角も、手近な場所にクロスボウと手槍を置き、埃っぽい室内に腰を下ろした。手斧は身に着けたまま、他の者にも油断せぬよう言いつけつつ、火を起こして人数分の茶を入れ始める。

「わ、わたしが見張っておく」マギーやニナと同様、体力に余裕があるエマ・デイヴィスが、後装式ライフルを抱えたまま、見張りを買って出た。余裕がある時にどもる奇妙な口癖のエマだが、武器を絶対に手放そうとしない用心深さと銃の腕はそれなりに信用できる。旅の間は、二十四時間緊張を維持できる凄い奴だ。

 

 普段は顔を見せぬ農村の、初めて訪れた宿屋である。一応、他の旅人から信頼できるとは聞いていた宿屋だが、しかし、村の中とて油断は出来ぬので見張りを立てておかねばならない。村人や宿屋の人間が悪意を隠して―――と限った訳でもない。備えの粗末な農村など、巨大蟻やら屍者が、木柵を越えて押し入ってくるなど珍しくもないのだ。中型以上の変異獣となればいささか稀であれども、怪物が部屋に忍び込んで子供を咥えて逃げ去る悲劇も、辺土においてはありふれた事例である。そうした事情を説明しつつ、【リドリーの娘】ミリーと、【失業中の羊飼い】ジーナ・C(クレイ)には、特に砂糖を多めに入れた茶を振舞う。二人は特に疲労の色を滲ませていた。

 

 常のマギーとニナであれば、もっとましな宿場で休息する。最短経路を辿れば、一日のうちにズールまでたどり着けないこともない。早朝のうちにポレシャを発ち、短い休息のみで険しいミヌバ回廊を抜ければ、日没の直前にズール市へと辿り着ける。全員が健脚を持ち、経路を熟知して、一切の遅滞なく辿り着ければである。

 

 正直な話、丘陵を抜ける経路《ルート》を同行者たちに教える事には些かの躊躇いもあった。だが、すでに似たようなルートを開拓している同業者も少なくない上、自分たちと似たような境遇の若く、野心的な牧者たちに機会を与えてやりたいと思う気持ちもあった。ポレシャにとっても悪い事ではない。同時に、この同情が命取りとまでは言わずとも、経済的な喪失をもたらす可能性については、マギーも熟考した上で覚悟している。

 

 

 辺りは宵闇に包まれた。時折、夜の静寂を切り裂いて不気味な遠吠えや屍者と思しき呻きが彼方より響いてくるが、どちらもあまり多くなければ、気にする事でもなかった。一匹や二匹が人里近くまで紛れ込んでくるのは珍しくはなく、多数の気配も感じ取れない。少数であれば、エマ・デイヴィスに仕留めてもらう。弾代は後で割り勘とする。そして、大群が押し寄せてきた際の逃走経路については、小屋に入ってから一番最初に打ち合わせ済みだった。

 

 

―――

 

 

 炉端では、球状の炭が微かな明かりと熱を放っていた。隙間風には、乾いた土の匂いが混じっている。時折の人の叫び声。銃声などは聞こえない。恐らくは単なる酔っ払いの喧騒だろう。カンテラの火は一つを除いて、消してあるが、瞬時に付けられるよう各人の松明もカンテラも火種の近くに置いてある。

 

 マギーは壁に寄りかかりながら、地図を眺めて、何かを記入していた。

「このルートでいいかな?」地図を見せながら、マギーは慎重に尋ねてみた。

 ニナが数秒を沈思黙考してから「いいと思うよ」と頷いた。

 返答が返ってきてホッと胸をなでおろすも、おのれの知性も、妹分の判断も、敢えて全幅には信用せずに、もう一度、見落としがないか、手持ちの地図を眺め返した。

 

 水場、地形の把握、安全地帯となる旅籠の位置、旅人たちの秘密の隠れ家(シェルター)。住人が善良で信頼できる農場や集落。見通しの開けた街道は、盗賊にとっても絶好の狩場になり得るので、同行できる隊商の経路に警備隊の巡回路も把握していた。利用者が少なく、盗賊は出にくいが、助けを求めにくい裏道や細道も存在している。

 

 加えて、変異獣の出没領域の色合いに屍者の群れ(ゾンビホード)の最新の位置情報。盗賊団の出没した位置や部族なり、街道にはいずれかの敵性存在が存在している。屍者の群れ(ゾンビホード)の近くに盗賊団は縄張りを構えず、大型変異獣の近くには野生動物は余り近寄らない。少数の巨大蟻は対処できるが、巣の近くでは数が増えて手に負えない。野犬に対処した銃声でも、屍者が寄ってくるかもしれない。

 

 顔見知りの護衛や案内人の雇用費に、日雇いできるか否かなど。隊商に加わる為の費用なども書き込んである。これらの蓄積された情報は、有ると無いでは大きく違うが、しかし、万全な訳ではなく、あくまで多少は生還の確率を上げてくれるだけに過ぎない。

 

 黄昏の世(トワイライトエイジ)の旅路には、常に戦闘や危険の可能性が付き纏い、死の影が傍らに寄り添っている。少人数での旅では、尚更だった。どうしても、その場その場で臨機応変に対応する。言い換えれば、行き当たりばったりにならざるを得ない。諸々の怪物―――巨大昆虫に変異獣、野生動物に屍者は、まだマシな相手だった。

 もっとも最大の脅威は同じ人間である。強力な盗賊団《バンディット》や略奪者《レイダー》は言うに及ばず、蛮族相手でも必ずしも優勢に立ち回れるとは限らない。ある種、マギーの同類である武装放浪者(ワンダラー)や無法者《アウトロー》も総じて手強い相手だ。彼ら彼女らには善悪定かならぬ手合いも多く、迂闊に隙を見せたり、対応を誤れば危険な敵対者ともなり得る。人間相手の戦闘は常に流動的であり、例え、装備や技能に劣った追い剥ぎ相手でも油断できるものではなかった。

 

 確率の問題だ。とマギーは陰鬱に思い耽った。例え、数百分の一でもサイコロを振り続ければ、いずれ必ず死神の手に掴まる。マギーとニナは、上手くいってる部類の行商人だった。暖かな火の傍で贅沢に冷たい水を幾らでも飲める身の上でもある。これは渡り人(オーキー)上がりの行商人として悪くない生活だが、同時にこれ以上を望むのは難しくもある。問題は社会的地位よりも、通貨で手に入る物資の限界にあった。生産力が低い――つまりは現物の価値が高く、通貨の力が限定的な文明崩壊後《ポストアポカリプス》の世において、生産活動に寄与しない商人はある意味、中世初期や古代のように賤業であった。大物とは言わないまでも、一廉の人物。あわよくば、地区の顔役くらいになれれば、とマギーも望まない訳ではない。自らの力量を頼む若者として、マギーとて若干の野心や虚栄心は持ち合わせていた。

 

 いずれにせよ、生活を維持するには稼ぎ続けなければならない。マギーは常々、不労所得が欲しい。或いは、それなりの農場を買って安定した生活を手にしたいと思っていた。単純な怠惰や貪欲だけに基づいての欲求ではない。

 旅の最中に一度ならず、死神の息吹を身近に感じた。生きているのは幸運の賜物でしかない。今のところは上手くやってきたが、マギーとニナ、どちらかが深手を負い、或いは欠ける日がやって来ないとも限らない。

 勿論、マギーたちも、常に怠りなく準備を整え、用心深く振舞っている。消息を絶つ旅人が少なからずいる一方で、老後の引退まで上手くやり抜けた行商人も多くはないがポツポツとはいる。だから此の侭、日々を過ごし続けても、或いは、何とかなるかも知れない。だが、ならないかも知れない。それでも、土に塗れ、血を流しながら、日々を生きるしかないのだ、今はまだ。

 

 ―――用心深い者、賢い者、腕の立つもの。まず死なないと思える腕利きが時として消息を絶つこともあれば、思わぬものが生き残ることもある。究極的には運としかいいようがない。それでも運を引き寄せる努力はするべきだと、マギーは縋るように考えていた。

 

 勿論、普段の危機を切り抜けるには、臆病なほどの用心深さや観察力、賢明さや武装は役には立つはずだが、究極の瞬間、生死の境を分けるのはそれ以上のもののような気もする。確率を越えて、どうしようもない破綻が降りかかる事もある。兎も角も、マギーは金銭や技術、知識、防備や武装を積み上げ続けている。それが安心感を得る為の行為なのか、真に有用だと考えているのか、マギー自身にも判断に迷う部分はあった。毎日、目を醒ますたびに、寝ている間に怪物に喰われなかった無事を安堵しつつ、神々へと感謝する。何時の日か、当たり前に安心して眠れる日が来るかは、分からなかった。

 

 古代ギリシアの世界観では、モイライの三女神が運命を司る存在とされ、人の努力は運命を覆すことはできないとされていた。しかし同時に、勇気・知恵・節制といった徳によってより良い結末を目指すことが許されていたとも聞いた。

 生死のサイコロを振るのが神々だとしても、まずはサイコロを振らせないための努力は、宿命の奴隷に過ぎない人間にもできる筈だ。前向きか、後ろ向きは分からないが、取りあえずは、それがマギーの導き出した結論だった。

 

 

 

※※※※

 

 

 

 茫漠の地平にへばりついた文明の残滓が自由都市だ。住民たちは、自嘲混じりに故郷をそう評しているが、それでも内陸に広がる不毛の曠野で、人がましい暮らしが出来る僅かな土地が防壁を備えた自由都市群であった。

 

 リーニー・アルキスは、自由都市ズールに居を構える中堅の家畜仲買人として知られている。黄昏の世(トワイライトエイジ)の大抵の商人と同じく、リーニーのささやかな商売も不安定、かつ先が読めない生き方であったが、それでも仲買を続けているのは、本人に言わせれば一家代々の伝手や蓄積があって、他の稼業よりはいくらか食べていく見通しが立つからだそうだ。

 

 大規模な家畜市となれば、リーニーのような仲買人には書き入れ時と思えるかもしれないが、実際はそう上手く話は転がらない。旨味のある取引は、大手の商会か、遊牧民なり牧者団との太い伝手を持った一部の仲買人が浚ってしまい、対して普段の売れ筋である羊や山羊、豚に鶏などの取引は、安手の商品が市場になだれ込んできて、むしろ上がりが少なくなる。こういう時に資金繰りが苦しくなり、廃業を余儀なくされる零細の商人や仲買人は少なくない。

 

 郊外の牧場や農家などで一羽あたり十数ズール通貨《クレジット》の家禽を買い付け、露店の肉屋などに売りつけるのが大半の仲買人の主な生業で、一頭二百ズール通貨《クレジット》の豚の売買などは、中堅の仲買人にとっても大事な商いだ。

 競争相手が一気に増える大家畜市の時期、中小の家畜仲買人には苦しい状況が続くのだが、それでもリーニーは骨惜しみせずに動き回り、小さな商いを地道に重ねることでなんとか生活を支えていた。

 

 古参の店持ち仲買人として、稼ぎは少なくとも顔の効くリーニーは、他にも知己の家畜を預かるなど細かな小遣い稼ぎを重ねる事で、経費を抑えつつ、商売の糸口に繋げようと色々と工夫していたが、市場も顧客も限られている中、結果は芳しくなかった。ともあれ、十把一絡げな中堅の仲買にとって、商売の景気が良くないのはいつもの事で、新規の顧客が尋ねてきたのは、家畜市が開催されたばかりの時期であったと思う。確か、その日もリーニーは、店の奥で帳簿を付けながら、姪のメナスと世間話に興じていた。主な話題は、数日前に攫われた都市議員の美しい娘についてだった。

 

 幾人もの護衛を付けていたにもかかわらず、蛮族の若者は白昼堂々と乗り込んできて、浚ってのけたらしい。粗野だが精悍な若者は、いきなり婚約を申し込んで、断られた数日後には、騎馬隊で中央区画を襲撃し、目当ての娘を浚ってみせた。陽動としての市内数か所の放火に防衛ラインでの幾つかの襲撃。都市軍の警備が手薄になった隙をついての大胆な犯行。都市の市民たちが蛮族の青年を恐れ、非難する一方で、一部の者たち――特に市民階級の若い娘などは、無分別にも恐れと憧れの混在したような奇妙な熱情に胸をざわめかせるものもいるようだ。

 

 幸いにもメイアはその手の軽佻浮薄な風潮とは無縁のようで―――子供の頃から、油断すれば誘拐されかねない地に足の付いた商工業者の娘であるから―――皮肉っぽく、精悍な逞しい青年だから偶々、絵になっただけで、「浮浪の汚らしい人狩りに攫われて其の儘、戻れない境遇に陥ったら、とても呑気に憧れてなどいられまいに」などとこき下ろしていた。

 

 身内を浚われた件の議員。幾つかの有力な猟兵《レンジャー》団や傭兵隊、賞金稼ぎの徒党に声を掛けたようだが、今はいかにも時節がよろしくなかった。大家畜市の開催に、ズールは都市を上げての治安維持への力の入れようで、有名どころは猫も杓子も雇用済みである。かと言って、これほど鮮やかな襲撃をしてのけた相手に有象無象の賞金稼ぎを差し向けた所で、返り討ちとなるのは目に見えている。相手はそこらの人狩りやら無法者の徒党ではなく、馬の部族の精鋭である。

 平野における地形の把握と機動力の優位は、銃の時代においても変わらない。えっちらおっちら歩いて向かったところで平野部で騎兵に襲撃されたら、一人として生きて帰れまいと言うのが、世評のおおよそ一致するところであった。

 

 

 

――――

 

 

 

 防壁の外には、果てしなく地平が広がっている。東と南は丘陵地帯に阻まれ、西方も又、険しい山岳を望みながらも、ズールの街道は四方へと限りなく延びていた。

 乾いた風が枯れかけた草むらを揺らしている。彼方から群れを成す放牧された羊や山羊の鳴き声がかすかに響いてくる。大家畜市を訪れた遊牧民らの大天幕や仮設建築らは、自由都市ズールの石造りの建物群とは異質でありながらも機能的であり、日差しを避ける軒下の影で冷たい水を啜りつつ、遊牧民の長や牧者衆の代表らも自信に満ちた態度で絨毯に寛ぎながら、交渉相手の都市商人や牧場主らと渡り合っていた。

 

 遊牧民の騎兵に都市警備兵、武装した車両までが幾台と立ち並び、強力なアサルトライフルや機関銃すら露にされている取引場では、交易市に集められた膨大な財貨を守るために厳重極まる警備体制が敷かれていた。数十頭、時には数百頭の羊や山羊、牛や馬が売り渡され、対価として銀の大袋や札束が法外に積み上げられては、双方の会計士たちが数えて終わると引き渡される。天秤に掛けられる金塊や銀塊、鉱山や農地、井戸の権利書に山積みされる遊牧民の馬蹄型銀貨、都市通貨、ギルド・クレジット紙幣に大陸銀行の大銀貨。内陸の地でも有数の交易の祭典と呼ぶに相応しい、絢爛たる取引の光景であった。二人組の若い男女がリーニー・アルキスのうらぶれた店舗を訪ねてきたのは、喧騒が丁度、頂を迎えつつあるくらいの時刻だった。

 

 剣呑な気配、と言うものは実在している。冷酷な目つきや隙のない足取り、何気ないように見えて、一つ一つが意味を持った位置取りをしながら、走らせてくる鋭い視線。盗みを目論むようなこそこそとした足取りや卑しげな目つきではなく、相手の隙を伺い、攻撃を凌ぎながら、危険を踏んで殺しにくる戦闘を生業とする者たちの立ち振る舞い。無遠慮に視線に入ってきた若い男女の二人組の挙措は、間違いなく手練の其れを連想させた。

 

 熟練の傭兵や賞金稼ぎ、或いは都市軍の古参下士官のような動き方にリーニー・アルキスは突然、空気が粘性を帯びたような息苦しさに襲われて、苦しげに喘いだ。リーニーは戦う人ではないが、家畜仲買人として腕利きの傭兵や護衛、そして一握りの恐ろしい略奪者や盗賊の気配を知っている。

 

 メモを手に商業区画を軽く歩き回った二人の若者は其の儘、リーニーの店の前で立ち止った。目だけを動かし、店の柱の影からこちらを観察してくる。若い男女の足取りは重心を動き易く保ちつつ、獣のように静かな佇まい。何気ない風を装いながら、背中と側面は素早く壁際を取っていた。

(……殺し屋だ)リーニーの背筋から冷たい汗が吹き出た。自分は誰か有力者の怒りに触れたか?リーニーは脳内を探った。思い当たる節はとんとないが、しかし、それでも人は死ぬのだ。蛮王や略奪者王《レイダーキング》、盗賊の大首領の怒りに触れて、大商会の主でさえ暗殺されるのは、自由都市においてはそれほど珍しい事件ではない。或いは、大商人が目障りな中小の商売仇を排除するのも、日常茶飯事ではないにしろ、さして稀な話でもない。

 

 いや、早とちり、かも知れない。若い男女二人の粗末な装束と土埃にまみれた足元が、長い旅路を物語っている。旅人だとすれば、単純に商用だろうか。どちらにしろ、逃げきれんな、と判断し、立ち上がろうと腰を動かしたメイアを、迂闊な真似をしないよう目だけで制してから、「アルキス商店へようこそ。なにか御用ですか?」おのれの側から誰何してみる。

「リーニー・アルキス?」尋ねてきた青年は、鋭い眼差しの下に見慣れぬ横三角の刺青がのぞいていた。氏族や部族の所属を示す刺青は青年だけが刻んでおり、金髪の女の方は腕から首筋に蛇の刺青が目立っていた。白狼《ホワイトウルフ》や黒刃《ブラックブレード》にも並ぶ、賞金稼ぎクラン・毒蛇の牙(スネイクバイト)の構成員が好む意匠で、此方は雇われた傭兵かも知れない。二人組は、取引を望んでいると切り出してきて、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)と名乗る、あまり耳慣れぬ遊牧氏族と、それがリーニー・アルキスの付き合いの始まりだった。

 

 茫漠たる大地を彷徨い続ける定めの遊牧氏族として、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)は、まるきり名を知られてない訳でもなかった。自由都市ズールの近郊にも度々、姿を見かけ、時折は市場に数日間だけ顔を出す小集団の一つらしいが、しかし、リーニー・アルキスとはこれまで特に付き合いもなければ、交流も無かった筈だ。

 

 遊牧民や牧者たちには大抵、古くからの馴染みの仲買人がいて、取引も一任するものだ。よほどの不義理でもやらかさない限り、古い取引先との関係を大事にし続けるのが資本主義の滅び去った文明崩壊《ポストアポカリプス》での商慣習であるが、年季の入った徒党の多い牧者衆にしては珍しく、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)は、結成されてから十年も経っていないそうだ。元々、それなりに大きかった牧者集団が抗争によって痛手を受け、幾つかに分裂した残党のうちの一つだと都市の仲買人組合では記憶されている。

 

 比較的、新参の徒党とは言え、遊牧民の商売上、繋がりの強い仲買人はいる筈だが、母集団とも付き合いを持った老商人が商売を畳むとのことで、「オスカーから、あんたは信用できると聞かされた」と古い先達からの紹介状を渡されたリーニー・アルキスは、若干の戸惑いを飲み込んでから深く肯いた。とは言え、美味しい話には往々にして裏が付き物なのが黄昏の世(トワイライトエイジ)。大きな交易市の時期ともなれば、胡散臭い流れの徒党が市内や農村に入り込んでは、窃盗や詐欺などを重ねる例も後を絶たないが、そこはアルキス一家も古株の仲買人。抜かりなく裏取りするために、店の若衆を老オスカーの居住する宿場町へと走らせている。さて、果たしてこの出会いはうだつの上がらない仲買人にとって好機になるだろうか。リーニーは、書き終わった帳簿を閉じながら、姪のメイアと気づかわげに視線を交わしたのだった。

 

 

 

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