黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_58H 辺土の人々

 曠野の北方によく見かける堅固な作りの農場は、石積の囲いに丸太の壁も相まって、中世初期に流行した盛り土の丘(モット)囲い(ベイリー)様式の城塞《キープ》を連想させた。丘の傾斜は見た目以上で、丸太の壁には銃眼が開いており、撃ち降ろす弾丸を搔い潜りながら、昇り詰めるのは容易ではなさそうだ。砦《フォート》と言うにも及ばぬ規模だが、しかし、連綿と受け継がれてきた仕掛けや武装は、農場を見た目以上に堅牢な防衛拠点たらしめているように見える。

 

 アルゴーの農民たちの家へと招かれたルーク・アンダーソンは今、男たちに混じって穴を掘っている。農場の裏手で、深い穴を。

 

 夕暮れの穏やかな風に草むらがそよいでいる。年嵩の瘦せた背の高い男が、朗々と弔辞を唱えていた。

「……暗き夜を越えて、良き人、ポールは永遠の眠りに就いた。

 もはや苦しみはなく、恐れもない。

 長き歩みし人は、風と共に浄土に流れ着くだろう。

 星々の静寂に抱かれながら、忘れえぬ人に別れを告げよう」

 皆が胸に帽子をあて、或いはすすり泣いている中、老人の亡骸がそっと地の底へと降ろされる。一族や親しい人々が眠る丘の裏手は、静謐さ漂う共同体の墓地となっていた。人々が立ち去り、入れ替わりで見張りについていた者たちが忙しなく駆け寄ってきた。名と歳月のみが刻まれた小さな墓石に野の花が添えられていた。

 

 

  少し離れた位置から葬儀を見守っていると、農場の顔役と思《おぼ》しき、やや腹の出た中年男が歩み寄ってきて、武骨な手でルークの肩を軽く叩いた。

「蛮族から助けてくれた礼をさせてくれ」との言で、一晩の寝床と食事も提供してくれるそうだ。勿論、頷き返したルークは、中年男の後ろについて歩き始める。

「謝礼を飯だけで済ませるつもりはないぞ」と中年男も請け負ったが、丸太防壁を一瞥すれば、見張りに就いてる男女の携えているのは、古臭い火縄銃《マッチロックガン》。辺土の大きめの村の鍛冶屋なら作れる程度の銃器で、代わりにそれなりに入手しやすく、取り扱うにも高度な訓練は必要としない。黒色火薬と鉛の円弾《ラウンドボール》は辺土でも入手しやすいが、それより高度な弾薬となると途端に融通が利かなくなる。

 

 いささか草臥れた衣服を纏う住人たちだが、独立した農場を営む自由農民の身分なら、それなりの収入はあるものだ。しかし、日々の生活を送るのに必要な品々は広範に渡るし、一方の紙薬莢も手が届かない金額ではないが、流通量は多くはない。黒色火薬に鉛の円弾と違って、紙薬莢の製造は機械と熟練工の腕が必要とされる。普段から小まめに買い集めてなければ、意外と備蓄は出来ない類の代物なのだ。弾薬の補填に関しては、それほど期待できまい、とルークも内心、諦めていた。

 

 辺土の暮らしは厳しい。大抵の農民や労働者にとっては良質な銃も、新しい剣も常に高価な消耗品で、人の往来も乏しい辺土の縁《ふち》ともなると、市場へと赴くのさえ危険を伴っている。塩や布と言った必需品に関してさえ、大きな居留地へ買い出しに赴くか、不定期に来訪する行商人に頼らなければならない。

 腕利きの傭兵や用心棒の成り手も滅多におらず、雇う余裕もそれほどない。勿論、人手を探せば誰かしらはいるが、そこら辺の若者や与太者を雇い入れても、貴重な武器を十全には使いこなせず、或いは、持ち逃げされることもある。細々と存続している小さな居留地が、僅かな切っ掛けで滅びてしまう理由だった。

 

 巡歴の牧者としてのルークは、幾つかの名もない居留地を見てきた。百人か、二百人くらいの纏まった蛮族の部隊が侵攻してきたら、アルゴーの農場とて長くは保つまい。土地や財産、身を守る為なら、農場の住人たちも粘り強く戦うに違いないが、それでも出来る事には限りがある。次に訪れた時、跡形もなく滅びていても不思議がない。そうした土地の人々と付き合う時、ルークは心の一部を凍らせようと身構える。

 周囲に戯れてくる子供たちの笑顔を忘れることはできそうにもないが。

 

 遠く地平線の日没が陽炎のように紫紺の光を稜線に走らせていた。遠く、見知らぬ怪物どもの地獄に落ちたような咆哮が荒野《ウェイストランド》の彼方から響いてくる。ふと哀愁に襲われたルークは知らず顎を撫でてから、担いでいる後装式ライフルにそっと触れた。

 

 

―――

 

 

 夕暮れの中、二階建ての大きな母屋へと招かれた。母屋の外壁は石積に煉瓦を組み合わせ、丁寧に漆喰を塗った後、光を反射せぬよう敢えて灰や土で汚されてあった。壁には、古い弾痕や爪痕が幾つか刻まれている。過去、丸太防壁を越えて攻め込まれた痕跡だ。

 

 孤立した民家や農場において、明かりの必要性と危険性の二律背反は、しばしば住人たちの悩みの種となる。闇夜に掲げられる光源は、屍者《ゾンビ》や巨大昆虫(バグ)、そして蛮族や盗賊と言った脅威を引き寄せる。しかし、闇を照らし出す明かりが無ければ、人々は忍び寄る襲撃者に気づくのも難しくなる。

 農場を守るよう張り巡らされた丸太防壁には、銃眼が開けられ、内向きの屋根が設けられていた。屋根の下で焚いた炎を遮光するように土嚢も積まれており、外部へは光が漏れにくく工夫している。建物二階には扉や窓へと近づく変異獣や盗賊、屍者を狙い撃ちできる位置に鎧戸を備えており、きっと長い歳月を掛けて、襲撃者と戦うための工夫を重ねてきたようだ。今も、母屋に建造中の見張り塔が骨組みを晒していた。

 

 日没後には、一階の鎧戸はほぼ全てが閉じられ、上階の見張り塔には常時二人以上が詰めているそうだ。月明かりが照らす荒野の中、息を潜めるように静まり返った農場も、これで他所の廃墟と区別が付かなくなる。

「最近は襲撃が多くてな。何処も安心できん」案内の男がぼやくように洩らした。小さな共同体ほど、生活習慣の多くが生存のための工夫に密接に繋がってる。曠野の農民の頑健さと粘り強い気骨は、ルークのような武装牧者衆から見ても、侮れず、好ましいものだった。きっと屍者の大群が押し寄せてこようとも、大人たちは最後の一人まで戦うに違いない。何処の農村でも、そうであるように。

 

 母屋に入ってすぐの廊下の途中に、大部屋があって黒板と小さな机、教科書やノートが並んでいた。初歩的な数学に歴史、地理と科学など、現代では大きな居留地でも貴重な部類の書籍が棚や机の上に並んでいる。廊下に張られた紙には、各種職業訓練や工作・建築技術に鍛冶の本などの仕入れ要望が走り書きにされていて、子供への教育を大事にしているのが見て取れた。

 

 夕食の場は大食堂で、巨大な梁と柱に支えられた頑強な一室に備えられていた。テーブルの下には犬たちが見かけられたが、いずれもよく訓練されているようで静かにルークを見上げている。食堂と隣接した調理場には芋やキャベツ、蕪や各種の塩漬けが樽に山積みされている。農場に暮らすほぼ全員分の食事が一度に作られるが、食材は別々のものを用いている。食中毒で全員が倒れぬ為の用心で、誰もが食事の時や眠る際まで武器を手元から手放さぬのも習慣付けられていた。

 

 テーブルに着くと昼間に助けた子供たちがルークの周囲に纏わりついてきた。顔を覗き込んでは、小さくはにかんだ笑みを浮かべている。よそ者が珍しいのか。それとも、命の恩人への憧れが混じっているのか。農場は相応に防備が整っている代わり、安全域は見るからに狭く、遊び盛りの子供たちにはいかにも窮屈なのだろう。大人や青年、老人たちも退屈してる様相だった。農作業に出た子供らがきゃうきゃう騒ぎながら見知らぬ旅人《ルーク》に懐いているのを見て、他の子供たちも興味深げな視線をルークへと向けている。こうした堅牢な土地に生まれ育った少年少女は、他所者に憧れを持つだろうか?それとも恐れを抱くものか? いずれにせよ、好奇心旺盛な子供たちは根掘り葉掘り、旅人の話を聞きたがるものと相場は決まっていた。

 

 ルークは話すのは得意ではなかったが、訥々と他所の土地――ポレシャ市や牧草地で立ち寄った小さな前哨、近くの集落での防備や暮らしなども言って聞かせた。ポレシャは大きな居留地で見るべき大防壁や市場、広大な廃墟などの様相を聞かせてみれば、いかにもな興味を示してくる。そこには農場より豊かな土地もあれば、貧しい土地もあったし、今はもう誰も住んでいない廃屋も含まれていた。

 

 廃墟漁り(スカベンジャー)から入手した古代の金属像《メタルフィギュア》。玩具だったらしいが、遊興に耽れる都市や大規模居留地の市民などには、高く売れる。見せてみれば、目を輝かせていた。

「ねえねえ、その金属の人形、どこで見つけたの?」

廃墟漁り(スカベンジャー)たちと物々交換したのさ」賭博で巻き上げたとは告げず、ルークは控えめに言った。

「ポレシャって、すごく大きいんだって?」

「防壁は一見の価値はあるなぁ」ルークも頷いたが、だが、無制限に住人を増やせるだけの水やインフラはないのだ。

「ぼくも旅人になりたいなあ」「なんでそんなに遠くから来たの?」「おじさんの銃って、凄い格好いいね」子供たちは総じてポレシャより無邪気、かつ馴れ馴れしく、それが少しルークを驚かせたが蛮族から助けた事情が効いてるのかも知れない。孤立した居留地はよそ者に警戒心を抱いてるものだが、内側に入り込むと戸惑う程に距離を詰めてくる事も多い。

 好奇心に満ちた子供たちに少しだけ辟易しつつも、苦笑を浮かべたルークが、生活の差に関してはあまり話さず、色々な土地で流行っている簡単な指遊びやカードゲーム、けんけんぱ(ホップスコッチ)など地面遊びについて説明してやると、知らない遊びも幾つかあったようで興味を示していた。使い古したトランプやウノで遊んでいる大人には知っている者もいたようで、幾人かは懐かしげな表情を浮かべていた。カードの類は、大人が独占しているらしい。楽しみがなければやっていけないのは分かるが、子供も娯楽に飢えている。それも小さな共同体には珍しくない。

 

 食事が運ばれてくると幾人かが席に着いた。各自の食事を取る時間を、敢えて少しずらしているのは、共同体の対処能力を維持する為だろうか。見張りたちの食事は、取り置きされているのか。後で持っていくのか。急な襲撃や急病人、火事などに備えて、食事も休息も、常に余剰人員を残しているように設けられているようだ。

 

 丘陵や荒れ野などの辺鄙な地では、飼うのに多めの水やドングリが必要な豚よりも、乾燥に強く、草や木の葉と言った粗食に耐える山羊の方が重宝されやすい。肉の種類にもよるが、一般的にクセの強い赤身肉や野生肉《ジビエ》の類は、煮込み料理などに使う前、軽く焼き目をつけると不思議と独特の風味が抑えられて旨味が増してくれる。軽く焼いた山羊の肉が沸騰させた湯に乳やチーズ、豆やキャベツ、ニンジン、玉ねぎと一緒に大鍋でじっくりと煮込まれている。素朴な全粒粉のライ麦パンや石窯焼きの固めのパンも用意される。山羊肉の煮込みの濃厚な味をしっかり受け止め、腹持ちも良く、保存も効くこれらのパンも、都市や交易市に持ち込めば、それなりの価格で取引することも出来る。

 

 ルークに供された食事は、フィレ肉のいい部分で豊富にバターとチーズ、香辛料を使った柔らかく上等な料理だった。量も多かったが、人々が杯を掲げて、感謝の言葉を向けられながら、笑顔で見つめてくるので、どうにも少し落ち着かない気分でルークも杯を掲げた。子供たちは羨ましそうに見てくるが、大人たちが叱りつける。冬至や夏至の日、新年や誕生日には、誰もが特別なご馳走を口にできるので遠慮なく食べるようにと勧めてくる。

「客人に振舞うにしても、ポールが亡くなった日に」小声でぼやいた男に案内役が断固とした口調で「ルークは、蛮族を十人も撃ち殺して私たちを救ってくれた。十人もだ」告げた。どうやら、この小さな農場にも様々な人間模様があるようだ。

 

 旅人を暖かく迎え入れた後に、殺して食べて、荷物を奪う。うらぶれた酒場の片隅で、そんな恐ろしい人食い村の噂も密やかに語られている。文明崩壊後《ポストアポカリプス》の世には、信じられないような悪徳も蔓延っているが、住居が変に豪華すぎる事もなく、全員で歓迎する事もなく、影を感じる事もない。この人たちは多分、信じても良かろう、とルークも若干、警戒心を解いていた。

 

 

 冷えたエールもたっぷりと振舞われた心地よい晩餐であった。ほろ酔い気分のルークが案内されたのは上階の一人部屋で、生活の匂いが残っていた。今日無くなった老人の部屋だったのかも知れない。一人となった時に調べてみるが、藁に新しい敷布を被せたベッドの床にも、天井にも仕掛けはない。それでも、ベットの上に布団で膨らみを作り、部屋の隅に愛用の毛布に包まって座り込んだ。農場の人々を疑う訳でもなかったが、時に孤独な流浪を行う牧者にとっての習性じみた習慣だった。

 

 深夜に扉がノックされた時、だから、ルークは些か困惑を覚えないでもなかった。そっと扉を開けてみると、若い娘がネグリジェ姿で廊下に佇んでいた。

 助けた娘の一人だった。平凡な顔立ちに紅を差しているが、あまり似合わない。

「血が濃くなる。だから、年ごろの娘は他所に嫁に出される。

 今のアルゴーの何時、滅びるか分からない他の居住地に。

 どうせなら、生まれ育った農場で生きて死にたい」

 それが娘の口からぽつぽつと語られた言い分だった。孤立した集落だけでは血が濃くなりすぎる為、旅人から種を貰うと言うのは聞かない話ではない。

 胸に飛び込んできた娘は、震え慄いていた。残って欲しいとも、連れて行って欲しいとも口にしない。

「ルーク……ルーク・アンダーソンだ」ルークが名乗ると、娘の濡れた瞳が見上げてきた。「……エリーナ」か細い声を洩らす。

 ルークは力強く手を引いて、娘を部屋の中に招き入れた。

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 自由都市の家畜仲買人リーニー・アルキスの店舗を訪ねてきた青年の二人組は、始めての出会いから、勘違いでなく血の匂いを漂わせていた。

「ジーク。大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)の戦頭《いくさがしら》」目深なフードを取った長身の美丈夫が、錆びた鉄のような声で自己紹介し「そちらは、傭兵頭のリディア」と淡々と隣の女を指差した。

「よろしく」此方も言葉少なに、蛇の刺青の美女が冷たい視線を投げかけてくる。

 

 老商人オスカーの紹介で訪れたと言う大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)の使者を前に、緊張したリーニーは喉を鳴らして頷いたが、二人組の襟元の鮮血に気づくと「二人とも、血が……怪我をなされているのかね」尋ねた。

「返り血だ。家畜市の間は、物騒でよくない」訥々と言いつつ、美丈夫の視線は警戒するように店主のリーニーを見据え、同時に油断なく店の奥までも探っていた。

 相棒の女――リディアの方も、背後から攻撃を受けない壁際に移動して、時折、首を廻しながら外や店の内部をどこか茫洋とした眼差しで眺めている。

 

(……オスカーめ。なんとも面倒な連中を送ってきた)したたかにも、老境に差し掛かる前に鮮やかな隠遁生活を決め込んだ同業者を癪に思いつつ、しかし、うだつの上がらぬ中堅仲買人のアルキス一家にとって、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)との新規取引は到底、無視できない大きな商機でもあった。

 

 

 小なりとは言え、一氏族との取引である。数十人の顧客が出来るということだ。常連から定期的にもたらされる羊毛や乳製品を捌くだけで途方もない利益が見込めるし、食料品や酒、日用品、その他の消耗品を売り捌く利益も含めれば、中堅から抜け出すほどの―――それこそ商会連の末席くらいにはなれるのではないか、と。

 そこまで皮算用してから、おのれを見失いかけたことに気づき、リーニーは首を振った。(いけないぞ。どうにも、よくない夢を見かけた。こういう時に好機を逃がしても堅実にやる事で、アルキス一家は暖簾《のれん》を維持してきたんだから)

 

 ジークとリディアと名乗った二人組の要求は端的で、酒や日用品よりも、まずは食料品。それも安めの芋や豆、干し麦、鼠肉の塩漬け、干し野菜の類といった保存が効いて栄養価も最低限確保できる品ばかりだった。トウモロコシは、土壌が痩せ、水も必要とするので除外して鉄板の芋、米、麦、豆を中心に蕎麦や雑穀、干しキャベツに人参。保存が効く替わりに家畜の餌となる古米なども、かなりの量を購入すると申し出てきた。

 

 

 書類に値段を出しながら、購入量を打合せするも「もっと安い代物は無いのか?」とジークが尋ねてくる。

「調達出来ないことはないですけど……」少し迷ってから、リーニーは告げた。「ベイトン倉庫やオズワルド商店と言う店があってね。安いが、保存状態もあまり良くない。小売りや屋台の連中が仕入れて、壁の外の貧乏人に売りつけるような品だが。わたしは食べたいとは思わない」

 責任を取れない品を売りたいと考えないリーニーは、その手の品が欲しいなら直接、買いに行け、と暗に告げたつもりだったが「それでいい」と返されて顔を顰めた。リーニーの手数料が上乗せされるくらいなら、もう少し出してもっとまともな麦や芋を買えばいいとは思いつつも、それが顧客の要望とあれば従わざるを得ない。リーニー・アルキスは単なる家畜仲買かつ、しがない小売り商店の店主でしかないのだ。

 

「それでいい、かね……あまりいい品ではないよ」それでも念を押すも「構わん」と帰ってくる。

 姪のメイアが目配せしてくるので、リーニーは頷いた。ロイド眼鏡の位置を整え、必要量を手元の書類に書き込みながらも(……氏族が飢えている訳でもなさそうだ)と見当をつける。と言うのは、安物を大量に仕入れる一方で、かなり上等な布や糸、ワインに蒸留酒、砂糖、煙草にオリーブオイルと言った嗜好品や調味料の類まで十数人分を要望しているからだ。(―――これは、どうにも。遊牧民の下は辛そうだね)と言うのがリーニーの抱いた感想だったが、勿論、口には出さない。

 

 レンズ豆やジャガイモ、ライ麦、大麦に安価な鼠肉の燻製。保存の効く糧食を大量に買い込み、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)が支払いに充てるのは、塩が多めのチーズにバターに羊毛、そして数匹の子羊と若山羊の遊牧民にとって定番の産物。家畜市の今の時期には、多少の値崩れを起こしてるよ、とリーニーが告げるも、それでも長期保存の効く品々をそこそこの値で捌ける程度の伝手に手管は、老舗のアルキス一家は備えている。

 

 大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)が、リーニー・アルキスの当初、予想したよりも大分、大きな氏族と気づいたのはその時だ。

 値段に満足した様子のジークたちに以降の取引も要望されるも、乳製品や羊毛の量が想定していたよりもかなり多い。聞いてみれば、壮健な男女の働き手だけでも七十人を超え、老人や赤子、足萎えの者に奴隷や召使いなども含めれば氏族は二百人を数えると言う。

 

 七十の牧者や働き手による牧畜で二百の口を養うのは不可能ではないにしろ 、資源の慎重な管理と一定の節制が求められる。黄昏の世(トワイライトエイジ)の遊牧民においては産物の全てを消費に廻せる訳ではなく、襲来する怪物や獣に家畜泥棒もいれば、牧草地を巡っての他の牧者や牧童衆との縄張り争いと、常に銃や弾薬の消費も強いられるのだ。貧しいと言うほどに切羽詰まってはない大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)だが、常に危うさが付き纏う放浪生活に余裕を作りたいと考えるのであれば、定住民と交易し、チーズやバターに羊毛などと交換で安い芋や豆、ライ麦、大麦に鼠肉などを購入し、身分の低いものに喰わせなければならないのが道理なのだろうか。

 

 ジークと名乗った大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)の戦頭《いくさがしら》の青年―――それにしても戦頭《いくさがしら》とは、なんと奇妙な響きの役職だろうか―――が要求してきたのは、六十人から七十人ほどの定期的な食料で、リーニー・アルキスにとって、どうにか応じられる数量であった。

 

 リーニーは、裏通りに店を構えた幾らもいる中堅の家畜仲買人に過ぎない。若干の伝手はあるものの一氏族の生産物を捌き切れるような販路は持ってないし、二百人分の食料や物資などを手配するのも到底、手に余ったが、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)の使者たちは、最初からリーニーをそれほど当てにはしていないようだった。或いは、いや、間違いなく、他にも取引している商人がいるのだろう。

 

 いずれにせよ、子羊や若山羊は都市の富裕層に常に高い需要を持っている。近日中に捌ける品は有難いが、しかし、その前に大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)も支払う金を用意しないとなるまい。

「思ったよりも、大商いになるねぇ」と姪と視線を合わせながら、支払いに充てる通貨も、商会手形や商業地区の紙幣ではいかにも拙かろう。どうにも最低でも都市紙幣か、出来るならば銀貨を集めなければならないようで、それもリーニーには頭が痛かった。

 

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