死の河は、一般に数十や数百で済む程度の
死の河が氾濫した時に、人間に出来ることはなにもない。本流に飲み込まれれば、死ぬよりも酷い末路を迎えることになる。支流に巻き込まれたとしても、逃げ遅れた人々は息を殺して、過ぎ去るまでじっと隠れ続けるしかない。極まれに命を拾う者もいる。死が過ぎ去るまで、たとえ幾日であろうと、けして音を立ててはならない。光を発してはならない。時に、巨大な都邑や軍隊さえ飲み込む死の河を前に、只人《ただびと》はただ、家に閉じこもって、静かに災厄の嵐が通り過ぎるのを待つしかない。
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曠野と隣接する地方で幾つか確認されている
ルーク・アンダーソンは、ポレシャ市に雇用された銃士で、曠野の地に旅慣れた男でもあった。市の存亡にかかわる重要な任務として、大規模な
以来、ごく稀にではあるが、ルーク・アンダーソンは魘されることがあった。深刻なトラウマとなる程のものではないが、自らや知己が暮らす居留地を飲み込むような
闇の彼方に、無数の人影が蠢いていた。乱杭歯を剥いた屍者どもの雄叫びが夜の大気を震わせた。屍者の奔流を阻むことは、誰にも出来ない。扉を打ち破り、階段を駆け上り、廊下を駆け抜け、ベッドに眠り込んでいる傍まで迫って、喉笛に食らい付こうと犬歯を剥いた。ルークは、歯を喰いしばり、身体を痙攣させながら目を見開いた。耳元に生々しく屍者の雄叫びが残っている。しばらくは、夢か、現か、判断がつかなかった。心臓が割れ鐘のように胸のうちで脈打っている。同衾していた娘――エリーナの肌に触れて体温が伝わってくる。柔らかな人肌に触れるうち、ようやくおのれが堅牢な人家の二階に居るとルークは認識した。
娘を起こさないよう、臆病な鼠のように震える手で枕もとのライターに火を灯した。ゆらめく炎が室内を照らし出す。扉は破られていない。外向けの頑丈な鎧戸も閉じられているし、中庭向きにつけられた細い明り取りの窓からも、夜の静寂がひっそりと伝わってきている。息を吐き、近くのランプに火を付けてから、キャビネットの上の水差しに手を伸ばした。コップの水を飲み干すが、手はまだ細かく震えていた。
ゆっくりと深呼吸していると、干し草や飼料の甘い香りに混じって、家畜たちの匂いが微かに鼻腔を刺激した。落ち着く為、煙草を取り出して咥えると、ルークは微かに苦笑を浮かべる。煙草が燃え尽きるまでの数分間、ルークは何もせずに椅子に座っていた。二本目の煙草の先が白灰に包まれたころ、ふと、空気に柔らかな匂いが混ざっていることに気づいた。夜明けが近い。寝台に戻り、横になってエリーナを眺めていると、寝台の傍の狭い窓から僅かに除く空が白みを帯びてきていた。
やがて空気窓と、鎧戸の細い隙間から、一筋の朝光が床の藁へと差し込んできた。柔らかな光は、埃の粒を浮かび上がらせ、中庭からは鶏の鳴き声と、山羊の足音が混ざった微かな騒音が流れ込んでくる。中庭に面した、半地下鳩舎の扉が軋む音が微かに伝わってくる。ルークは寝床にもう一度横たわり、目を閉じて、二度寝を決め込んだ。薄明るい室内に、夜の余韻と家畜の匂い、そして新しい一日の始まりの気配が混じっていた。
鳥の囀りに目を開けると、隣にエリーナがいた。温もりの残る毛布の中、浅く寝息を立てている。しばらく、その寝顔を見つめてから、ルークは、静かに体を起こし、着替えを始めた。といっても、寝間着というほど立派なものは着ていない。粗末なシャツとパンツを手早く整えるだけだ。エリーナが小さく声を上げて、目をこすりながら腕にしがみついてくるので、そのまま二人で食堂へと向かった。
大きな食堂に近づくと、男たちが議論している声が耳に入ってきた。
「西の農場はどうかな?」
「ロバーツか。あそこは本をたくさん持っている」
「ジーンの農場が火薬を出すと」
「あすこは駄目だ。グランツんところの娘に酷い扱いを……」
ルークは横目でエリーナを見やった。この辺りの若者たちは、皆どこかしら血が繋がっている。だから、他所の集落と同世代の男や女を交換する。小さな共同体では、珍しくもない交換婚だ。ルークとエリーナが連れ立って食堂に踏み込むと、話し込んでいた大人たちの声がぴたりと沈黙した。
ルークと娘を見る目は様々だった。大人たちは、ある者は腰を上げて全く呆然としたようにルークと娘の顔を見比べ、ある者は、椅子に座ったまま、頭を掻くと、嫁入り先リストが記された紙束を天井に向かって放った。不貞腐れたように帽子を深く被り、椅子を 軋ませながら揺らす者もいる。
椅子を引いてエリーナを席に座らせてから、「おはよう」挨拶をしながらルークが隣に座った。食堂の大人たちは、しばし、顔を見合わせていたが、やがて何事もなかったように咳払いしてから、大人の一人が話しかけてきた。
「よ、よく眠れたか?」
「結婚するの?」同時に割り込むように子供の一人が斬り込んできた。
「まだ、分からない。そうなったら、いいと思うけど」エリーナが告げると、子供たちは顔を見合わせ、ざわついた。「そうなったら、いいね」と言う言葉からすると、ルークはそれほど嫌われてはなさそうだ。
水を貰って、顔を洗ったルークは、ハンサムとは言い切れないものの、曠野の旅人特有の精悍さに芯の強さを感じさせる引き結んだ大きな口元が、昔の西部劇に出てくる二枚目半と言った雰囲気を醸し出している。
「まあ、いい男だもんなぁ」やや年下の男がぽつりと呟いた。それを切っ掛けに、場の人々にも許容されたようだ。「よし、食事にしよう」老人が口を開き、食堂で配膳と共に再び、穏やかな雑談が始まった。
トマトの豆料理に麦パン、ベーコンエッグ。命の恩人へと振舞われる贅沢な食事を楽しみながら、ルークは切り出した。
「俺はポレシャで市の雇われ銃士《ガンマン》をしてる。くいっぱぐれはない仕事だ……安全とは言えないが」
「一緒に来るか」と尋ねる。ルーク・アンダーソンには、待つ相手もなければ帰る故郷もなかった。しかし、娘は首を横に振った。
「農場に残る」エリーナは、傷の手当てが上手かった。小さな農場では、貴重な人材かも知れない。ルークの見たところ、農場は二十余人が身を寄せ合って暮らしている。裏手や防壁の外にも小屋があり、もう少し多いかも知れないが、若い娘がいなくなるのは痛手に違いない。
「そうか」と、ルークも頷いた。中年の女性が、無言で珈琲を差し出してくる。受け取って、ルークは無言で啜った。
朝食を終えて暫く経つと、ルークは農場の母屋の一室に呼ばれた。部屋には既に顔役が三人集まっていた。ルークの水袋には汲まれたばかりの井戸水が一杯になり、保存用のパンとチーズも袋に詰められている。机の上では、なけなしの銀貨と銅貨に、バラバラの都市紙幣や商会紙幣、塩紙幣などが革袋に詰められていた。そして、顔役の中年男から一枚の手紙が差し出される。
「これは武器商人への紹介状だよ、ルークさん」中年男が請け負った。
「わしの従兄弟のマーティン・コニックがルガリエでブローカーをしている。ささやかな商売だがね。一人分の紙薬莢くらいなら、大抵のライフル弾は融通できる筈だ」
ルークは謝礼を述べてから、手紙を懐にしまい込んだ。田舎の共同体に信頼できる人脈を介した支援を貰えるのは、旅人には有難い事だった。金と違い、伝手は受け取って終わりとはならないからだ。
農場を発つ時刻となった。朝も早いうちに発つのは、日没前にできるだけ足を延ばす為だ。大勢が見送りにきて、背中が少しこそばゆいような気持ちとなる。丸太壁の出入り口までやってきたエリーナは、何かを言いたげにルークを見ている。
「やらなきゃならん仕事がある」とルークが告げると、ぎこちなく微笑んでから俯きかけたエリーナに、「それが終わったら、もう一度、此処を訪ねてくるつもりだ」
今度こそエリーナは顔を輝かせて頷いた。
ささやかな礼金と食料を受け取ってから、居心地のいい農場に手を振って、ルークは別れを告げる。農場の人々や三階の見張り台からも手が振り返された。さて、親戚の武器商人とやらは、どれだけ頼りになるだろうか。幾らか融通してもらえるといいのだが。
気のいいアルゴーの農民たちに背を向け、ルークは無言で曠野を歩き出した。門をくぐれば、赤茶けた大地が地平にまで広がっている。ひび割れた地面に吹く風は乾いており、小さな砂粒が顔に当たった。灌木と背の低い茂みが点々と寄り添う他は、草地と呼ぶほどの植物も殆んど見当たらない。
街道沿いを歩き続ければ時折、ひと気の失せた農村や農場跡が目に入った。色あせた藁屋根の残骸や、壊れた風車の羽根が揺れるだけの廃村が、かつて人が暮らしていた痕跡を辛うじて伝えていた。風に混じって、遠くから不気味な呻きのような音が混ざる。風鳴りか、それとも何か別のものか――耳を澄ませても、判然とはしない。
蛮族の侵入と屍者の徘徊に、アルゴー街道圏は明らかに衰退しつつあった。砦跡さえも土塁が崩れ、門が焼け落ちたまま放置されている。次に訪れた時、エリーナの農場もそうなっていない保証はない――縁《よすが》の出来た人々の無事を、ルークは祈らざるを得ない。数年前には、強力なポレシャ市ですら巨大蟻の侵攻に存亡の危機に陥った。小さな居留地や農場の興廃は、曠野においては日常茶飯事で、アルゴーの農場とて、跡形なく滅びても不思議はない。それはルークの身の上についても、同様であった。それでも、辺土を生きる人々は、意外と粘り強いものだ。ルークは、一度だけ立ち止まって振り返るが、なにも言わずに再び歩き出した。そうであって欲しい、と願いながら、再び自由都市を目指し、荒涼たる辺土の道を進んでいった。
※※※※
曠野の年間降水量は800~1000㎜。雨季を含めてさえ、けして豊富とは言えない降水量だが、数字だけ見れば、地表の大半が不毛の荒野となるほどに水が乏しい訳ではない。しかし、実際には、雨量の大半は他の地方との境界にある山沿いの土地や渓谷へと降り注ぎ、中央には乾いた大気と赤茶けた大地だけが残されて、僅かな雨を吸い込んでしまう。
それでも帯水層が地下20メートルから30メートルに存在し、山岳や丘陵部を水源とするか細い河川は地を潤している。分布が偏ってはいるが、それなりの数の井戸や水場も点在していて、曠野の人々は貴重な水源を巡って睨み合いながらも、日々を生きていた。
小さな湖の傍の野営地で、サドラン種の毛長牛が目を細めながら河口口で水浴びをしていた。
「グーちゃんは可愛いでしゅねえ」毛長牛の名を呼びながら、イザベルがブラシで身体を洗ってやる。毛長牛の毛はゴワゴワしていたが、イザベルが撫でてやると円らな瞳を嬉しそうに細め、低く鳴きながら頭を擦りつけてきた。
「んんんんんっ、グーちゃん。グーちゃん」言いながら、下着姿のイザベルは、塩の塊を取り出して毛長牛の口元へと運んでやった。グーちゃんは、ぺろぺろと桃色の岩塩を舐め始める。
勿論、飲料水などの水源と動物や人間が身体を洗う場所は分けられている。ラバやロバ、牛や馬、羊と言った家畜たちが水浴びしたり、喉を潤しており、河川沿いの少し上流でも、遊牧民や牧者たちも水浴びをしたり、飲料水を汲んでいた。
岩に腰かけたガイ少年。サドラン牛の本来の飼い主は、頬を赤くして目を背けた。赤裸々な装いで水浴びをしている牧者には、若い娘も少なからず含まれていたからだ。「グーちゃん、何日か、水をあまり飲んでなかったねェ。たくさん飲んでいいからねぇ」濡れた下着姿のイザベルちゃんも、牛のグーちゃんに頬ずりしてる。
ガイ少年は、顔を背けながら叫ぶように語り掛けた。「イザベルの姐さん。何時まで水浴びしてるんだよ」
イザベルは、「むしろ、君も水浴びしなさいよ」グーちゃんに顔を埋めながら、言いかえした。
「金が掛かるだろ!節約しないと……俺は。それに、ここで仕事を探すな、って言ったのはあんたじゃないか」ガイ少年の責めるような口調と表情に、イザベルはイラッとした表情を浮かべた。それから首を振って自ら上がり、下着を脱いで、タオルで身体を拭き始める。河原では焚火が焚かれていた。燃え盛る焚火のひとつには、沢山の生木の枝や草がくべられて、恐ろしい量の煙が狼煙のようにモクモクと上がっている。干された衣服が焚火の熱と煙によって燻されており、遊牧民や牧者の男女は、裸で煙に飛び込んでは身体を乾かし、それからセージやニガヨモギ、ハッカにドクダミなどの草を潰しては、身体に塗り付けている。
イザベルも中途で摘んだり、購入したそれを手で揉み潰し、肌に塗り付けたり、他の娘に背中に塗って貰ったりした。ある種の薬草は、防虫や殺菌の効果があり、動物に潜むノミやダニを燻さないと皮膚病を患うので遊牧民や牧者の一部にとっては当たり前の行為だったが、まるで淫靡な儀式でも目にしたかのように、ガイ少年は目を逸らし、普通の生活習慣だったのに却ってイザベルも恥ずかしくなった。
(……なんか遊牧民っぽくないんだよな、こやつ)イザベル・ミラーがそう疑いつつも、遊牧民の宿営地であり、取引の場でもある湖畔の野営地へと自称遊牧民と言い張ってるガイ少年を連れてきたのは、別に素性を疑ったり、化けの皮を剥いでやろうとか企んだわけではない。サドラン牛のグーちゃんが余りにも憔悴していたからである。曠野では飲める水にも金が掛かる。本来、牛の飲む水量は、日に四十リットルほど。牛飼いならば稼げない代金でもないが、それも仕事があればである。職に有りつけぬ少年には、いかにも厳しかろう。
ガイ少年。一応、それらしいペンダントは所持していて、小氏族に属するとおぼしき入れ墨もいれている。元来、生まれた直後から五~六歳までに入れる刺青にしては、入れたばかりみたいに青が鮮やか過ぎないかとも思うが。一応、二、三の隠語やサインも応えてみせたが、抜けも多い。厳しめの牧者や遊牧民の大人相手に迂闊をさらせば、背乗りしたよそ者と見做されて、子供でも処されかねない。
部外者でも、部外者として取引もできるし、牧者や遊牧民同士だからと言ってそこまで取引で有利になることもない。むしろ、牧草地や水場を巡って殺し合うこともある。危険を冒すほど価値はないが、それでも多少の利点が無くはない為か、遊牧民を背乗りして共同体に入り込もうとする密偵や余所者も絶える事はない。兎も角、イザベル・ミラーのような由緒ある牧者の家系から見ても、だから本来、遊牧民の小氏族への成り済ましなど割に合わないものなのだ。
「へい、ガイ君。ここで仕事を探そうなんてしたら駄目だよ」イザベルは忠告した。
ガイ少年は即座に反発した。「なんでだよ。俺だって遊牧民だぜ。割りの良さそうな荷運びが…」イザベルは呼吸を整えつつ、周囲の気配を探った。ちょっと視線を集めている。まだ、大丈夫。好奇心に過ぎない。危険は感じない。
「あのね、ここは結構危ういバランスで成り立ってるんだ。君は内情を知らないだろ。遊牧民だって、小さな氏族や集団が離散したり集合したり、因縁を持つ氏族や部族同士の対立も抱えてる。抗争には至らなくても、喧嘩騒ぎくらいは日常茶飯事さ。時々は人死だって出る。共用地に出入りするくらいならいいけど、背景のない奴が他人の仕事をさらったり、深入りするのは絶対に駄目だ。お勧めしないじゃなくて、駄目なんだよ」イザベルの深刻な忠告に、しかし、ガイ少年は合点がいかない様子だ。野営地を見回してみるも、都市や街道筋で見かけるどさ回りレスラーや傭兵、護衛の類のごとく、背丈の大きな筋骨隆々の人物なども見当たらない。
「喧嘩がなんだい。俺は恐くないよ」大口を叩いたガイ少年にイザベルは、鼻を鳴らした。「ねえ?農村の喧嘩と勘違いしてないかな?結構な頻度で、取り返し付かないよ?」
「取返し?」怪訝そうなガイ少年に、イザベルは頷いた。
「詳しく聞きたいかい?家畜を盗まれたり、娘を浚われたり、少年が去勢されたり……」ギョッとしたようにガイ少年は呻いて、もう一度、野営地を彷徨う人々を見回した。
遊牧民の成人男子たちは、少なからず優美な曲刀を携えていた。葦《あし》のように細い身体ながら、よく鍛えられた精悍な顔つきの男女は、確かに銃創や白兵戦の傷跡を刻んでいる者も幾人と見受けられた。一方で、ライフルを整備分解したり、槍を磨いている牧者らは、穏やかな雰囲気で威圧感は低いものの、油断のない眼差しと熟練の手さばきで、やはり紛れもなく熟練の風格を漂わせている。
今さら気づいたように青ざめたガイ少年に、満更の盆暗でもないな、と少しだけ評価を改めつつ、イザベルは、身を乗り出して顔を近づけ、耳元でそっと囁いた。
「ねえ、怒らないで聞いて欲しいのだけど……君は本当に遊牧民なのかい?」
ガイ少年が再び、ギクッとした様子を見せながらイザベルを見返した。
「刺青を入れたのも、最近だろう?遊牧民に成りすましだと思われると……少し厄介なことになるよ」
「厄介?」と変声期前に特有のやや高い声で聞いてくる。
「うん、痛い目に合う」その痛い目が生皮を剥がれる類の拷問や処刑とは、イザベルは口にしなかった。
「責めようって言うんじゃないんだ」宥めるように言うイザベルがじっと見つめると、冷や汗を搔いていたガイ少年は、そっと視線を逸らして口を開いた。
「遊牧民は本当だよ。一応は……
義理の父さんが……小さい氏族の最後の一人なんだ」ガイ少年は、力のない口調で言葉を続けた。
「族長たちの登記簿にも、まだ残ってると思う。
巨大蟻の侵攻で、農場がやられて。俺が金を稼がないと。家族が……」
やや危うい線ではあるが、それならガイ少年の立場も満更の嘘とも言い切れない。義理の息子が、氏族に迎え入れられるのは、確かに無くもないからだ。
唸りつつも頷いたイザベル・ミラーだが、途中でなにかに気づいたように顔を顰めた。
「ううむ、それで売る訳にはいかない、か。仕送りしないといけないと。で、君を遊牧民に仮装して送り出したの?」尋ねたイザベルは、その遊牧民の義父が、義理の息子を始末しようと旅に出したのではないかと疑った。海千山千の遊牧民たちを相手取るには、ガイ少年の行動や言動は、余りにも幼く、そして危うかったからだ。
「いや、入れ墨も、隠語も、農場がやられる前に習ったんだ。
その時は、こんなことになるとは思わなかった」ガイ少年は小さく息をついた。
「親父さんが来ればよかったんでは?」イザベルの疑問に対して、少年は首を振った。
「蟻に片足喰われた。農場は歩き回れるけど、長旅には耐えられない」それなら確かに、もう他に手がなかったのかも知れないと、イザベルも一応の納得はした。
「その話は、本当だね?」イザベルが念を押すも、少年は深く頷いた。
少し考えてから、面倒を見てやろうと、イザベル・ミラーは結論を出した。
「それならまず。知ってる族長の処に行こう。君の名前をその氏族の名簿に書いて貰わないと。誤解されたら、殺されるからね」事ここに至っては、いかに危うい真似をしていたかを隠すよりは、教えた方がいいだろうと、開けっぴろげに告げてから、イザベルは「お父さんの名前と氏族は……」と尋ねた。
「言える。爺さんと婆さんと三代前まで聞いてる。それに、グーも。あいつが、氏族の牛の血統を継いでいる」ガイ少年が断言する。
「それなら、証明できるかな。出来るかも」ちょっと疑いつつも、イザベルは頷いて、ガイ少年から離れた。
「あ……うん」ガイ少年が、改めて頬を赤く染めたので、イザベルは己が濡れた下着姿のままだと気づいたが、気づかない振りをして年上のお姉さんっぽく振舞った。
「分かった。知り合いの族長なら、話を聞いてもらえると思う」ガイ少年が頷いたので、「駄目でも、殺されないと思う」言葉を付け足す。
「思う?!」
「そうだよ。思う。どうする?」イザベルだって、こんな状況で万全の自信がある訳でも、保証できる訳でもない。
「会わせてくれ」それでも言ったガイ少年の言葉に頷いて、乾いたシャツとズボンを物干しざおから手に取りつつ「付いてきて」とイザベルは肯いた。