黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

202 / 209
03_58M 食らい付く顎、掻き毟る爪

 肩に掛けた優美な刀は、まだ鮮血を滴らせている。積み上げた死体に椅子のように腰かけながら、マルグリット・モイラは暗夜に燃え盛る草原を眺めていた。雇い主である青葉衆《グリーンリーフ・クラン》の大陣営からは、ひっきりなしに銃声が鳴り響き、喚声と怒号、悲鳴と断末魔が交差している。冷淡な眼差しを保ったまま、マルグリット・モイラは、指先をドーランの缶に浸し、夜陰に紛れる漆黒とモスグリーンの入り混じった戦化粧を全身に施し始める。と、音もなく近づいてきた部下がそっと耳打ちしてきた。

「戦頭のケル及びグラが戦死しました。大族長ウルバンも消息不明の模様……」

 大天幕が燃え落ち、生ける松明と化した遊牧民たちが絶叫を上げながら地面を転げまわる光景を無感動に眺めながら、焦げた肉と火薬の匂いをスンと嗅いだ。

 

「青葉衆《グリーンリーフ・クラン》の百騎長共、口ほどにもありませんでしたな」誰かが口を開き、闇の中、含み笑いがさざ波のように広がった。

 ドーランを塗ったスネイクバイトたちの表情は、炎に照り返されて奇怪な仮面のように揺らめいてる。度々、此方を見下す言動を行った割の呆気ない敗死を嘲弄しているようだが、この瞬間に爆弾でも放り込まれたら、我らはもっと滑稽な終わりを晒すことになるな、とマルグリットは鼻を鳴らした。もっとも、部下たちも分かってはいるだろうが。軍閥や領域国家の衝突に比べれば、辺土での戦争ごっこに過ぎないとは言え、それでも人は死ぬのだ。

 本営と慎重に距離を取った窪地に身を伏せ、接近してきた雑兵共を造作もなく処分し、なお己の戦力を保ちながら、マルグリット・モイラは、毒蛇のように逆襲すべき頃合いを見計らっていた。いや、そもそもが逆襲するべきなのか。雇い主の本営は無様なほどの混乱ぶりを晒している。そして、マルグリット・モイラは一介の傭兵隊長に過ぎず、すでに少なくない手勢を喪失していた。退路の確保や哨戒にも散らしている為、現実に手元に残された戦力は十人足らず。

 

 

「これは真偽不明ですが、ククルカンが戦死したとの噂も流れました」同格の幹部の死を聞き、マルグリットは微かに冷笑を浮かべた。黄昏の時代(トワイライトエイジ)に月並みな傭兵団が入手できる程度の無線など、性能もさして良くはない。とは言え、聞き違いと言う事もあるまいな、と判断する。ククルカンの得物である、特徴的な二丁拳銃の銃声が途絶えて久しい。

 悼む気持ちはなかった。ククルカンは、傲慢な上に我の強い性格の持ち主。確かに銃の技量だけは賞賛できる領域に達していたが、同時に長生きは難しいともマルグリットは踏んでいた。

 

「いずれにせよ、味方は総崩れです。どうされますか?」部下の囁きに「他の連中は?」問い返した。

「ティアマットは交戦するとの報告を最後に無線を切りました。ナーガは離脱したとの目撃証言が。最後に此方にも離脱を勧告したとの由」 

「相も変わらず、逃げ足が速い」誰かが囁いた。どちらにせよ、スネイクバイトの他の部隊の動向も、現時点では殆んど不明な様相だった。ナーガやククルカンの手勢も一部合流しているが、多かれ少なかれ負傷しており到底、戦力には数えられない。

「挽回はしようあるまい」マルグリット・モイラは、淡々と「見事に夜襲をし返されたな。どこかで見た戦術だ。そうだろう?」賞賛の念を込めて呟いた。

「連中にこれほどの統率を行えるものがいるとは思いませんでした」と部下が頷いた。

 

 夜半の奇襲に跳ね起きてから、十五分も経過していない。日中と日没後で、マルグリットは、使う天幕を変えている。囮の天幕は引き倒されていた。味方の伝令は見当たらず、頼りの無線も訳の分からない事を喚くばかり。状況は目まぐるしく変化しており、進退の判断さえ容易ではなかった。これが局地的な情報遮断と混乱に過ぎないのか、全軍が壊乱しつつあるのかを、マルグリットも把握できずにいる。

 とは言え、マルグリット・モイラは慎重な類の指揮官で、現地に野営した最初の日のうちに、予め複数の退路を設定してあった。おのれと己の部隊が生き延びるだけであれば、いかようにも手段を取る余裕は、残されている。が、刻一刻と猶予が削れてはいたのも間違いはない。つまりは戦況そのものの破綻が迫っている。

 

「ウルバンは無能ではない」雇い主の人格は兎も角、能力に関しては、マルグリットもそれなりに評価していた。族長ウルバンがなにかしらの手も打たずにいる時点で、マルグリットは半ば、雇い主の死亡、或いはそれに準じた事態が生じていると確信していた。勿論、単に劣勢にあって余裕がないだけかも知れないが。とは言え、スネイクバイトが、戦わずに雇い主を見捨てて逃げ出したことも殆んどないのだ。

 

 保護色の敷布を纏い、やや高い場所に陣取ってた部下が上擦った声を洩らした。

「……大天幕で、族長ウルバンの大旗が降ろされました。慣習の情報が正しければ、死去したかと」

 部下の報告を聞いたマルグリット・モイラは数秒、沈思してから問いかけた。

「薬缶《やかん》頭ども……灰翼《アッシュウィング》は何をしている?」

 

 蒸気騎士《スチームナイト》と呼ばれる驚異的な重装甲と膂力と兼ね備えた動力甲冑集団が――全軍ではないが四個小隊。12機と従士36名が青葉衆《グリーンリーフ・クラン》側で参戦している。

 火縄銃ではあるが馬鹿みたいな大火力の大鉄砲《ウォールガン》、本来は城壁に据え置かれる後期ルネサンス期のゲテモノにやはり大仰な斧型の銃剣を装着し、戦場で名乗りを上げながら仰々しく行進し、或いは敵陣に突撃する正気とは思えない連中の集団だが、戦闘力だけは折り紙付きで、黄昏の時代(トワイライト・エイジ)の歩兵は勿論、正面からの殴り合い限定なら騎兵にも早々負けないだけの戦力だった。

 

「灰翼《アッシュウィング》騎士団は、槍衾を形成しながら後退していますが、かなりの数撃ち減らされ……」双眼鏡を手にした部下は、少し躊躇ってから報告を続けた。

「交戦している部隊ですが、どうもOrmr Mær(オルム・マエル)に見えます」

Ormr Mær(オルム・マエル)ね」溜息を洩らすように息を吐いてから、マルグリットはフッと面白そうな笑みを浮かべた。

「灰翼《アッシュウィング》騎士団の隊長旗が倒れました。黄骨党《イエローボーン・バンド》も纏まって退却しつつあります。他の有力な団も後退し始めている模様」

 頼れそうな味方も総崩れだが、しかし、負け戦と言うのはこんなものなのだろう。

「さて……雇い主死んだ以上、留まる理由もないな」端的に結論する。長々と喋っていたようにも感じられるが、夜半に奇襲を受けながら集結し、抗戦して返り討ち。そこから状況を見極めて結論を纏めるまで四半刻《さんじゅっぷん》も経過していない。

 

「西のかがり火の向こう側に動きが。おそらく追撃部隊です」

「背後の丘も怪しい影が。包囲される前に――」

 半包囲されつつあるが、一目散に逃げに徹すれば間に合うだろう。戦いながら逃げる術の訓練も、一応は積んである。今まで大敗した事が無かったのでぶっつけ本番になるが、半数以上は生き延びれるだろうとマルグリットは踏んでいた。

「全員、散開。調べ上げておいた脱出口から三手に分かれてそれぞれの退路に。

 途中で哨戒と合流したら、一目散に離脱しろ」マルグリットの指示に速やかに離脱していくが、若干名の部下が残っていた。

「マルグリットはどうされますか?」

 問われて少し考える。それにしても、つまらない最後になったと自嘲しながらも、裏切りで死んだ部下たちの事を思い起こして、出来ることはやっておくかと決めて、口を開いた。

「わたしは……そうだな。まだ、やっておきたいことがある」

「お供します」気軽な、しかし、迷いのない口調に、マルグリットは眉を顰めた。出来れば、部下たち(こいつら)には、もっとマシな命の使い方をして欲しかった。

「まあ、好きに戦い、好きに死ぬがいいさ」マルグリットは気だるげに呟いた。しかし、人生は、なるようにしかならないものらしい。

 

 

―――

 

 瞳に雷火を滾らせ、マルグリット・モイラは突き進んだ。

 元より、周囲は敵兵に満ちている。人口の希薄な曠野の何処にこれほどの人がいるのかと思えるほど敵兵が湧いて出、立ちはだかる者、出くわした者、逃げようとした者――ほぼ全てを殺害してのけながら、争乱の巷の中心へと歩を進める。

 

 尋常ならぬ消耗をしたが、付き従った数名の部下が血路を開いてくれた。異なる陣営に付いた中世スイス傭兵のように、スネイクバイト同士の殺し合いも発生したが、虚しいとも思わなかった。他人から見れば、きっと愚かに見えるだろう。面子ではない。誇りに殉じた。死した仲間への弔鐘を鳴らす際、捧げられるものがおのれの命以外に無いのならば、捧げればいい。マルグリット自身を含めて、我らが地獄の縁《ふち》を這いずり回る救いようのない虫けらだとしても、応報だけはしてみせる。

 

 

 そうして争乱の静まった中心地まで辿り着けば、見覚えのある少年と少女が抱き合っていた。片方は、雇い主ウルバンの不出来な末っ子。いや、兄姉たちが死んだ今、恐らくは次の青葉衆《グリンリーフ・クラン》の後継者か。傍らでは、ユーリと老人『大胆不敵な』オーらが二人を見守るように佇んでいる。どうにもマルグリットを蚊帳の外において、何かしらの紆余曲折でもあったようだが、前から全てを知っていたように、敵味方が一堂に会した場面を不思議とも思わなかった。

 

「ロミオとジュリエットごっこかな?しかし、今宵だけでメルキューシオが幾人死んだのだろうね」中心に進み出ながら、思わず場違いな可笑しみが込み上げてきて、マルグリットはくつくつと笑った。

「……マギー」掠れた声に一瞥すると、名を呼んだ少女が息を呑んだ。庇うように少年が立ちはだかったが、どうでもいい。

「戦争は終わりだ。青葉衆《グリンリーフ・クラン》の族長として命じる。戦いを止めろ」少年が宣言してきた。なるほど、短時間で一人前の男の顔になっている。

 それに、と、マルグリットも納得する。場に顔をそろえた大地の舎人(キーパーズ・オブ・ランド)と青葉衆《グリンリーフ・クラン》の幹部は大半が穏健派であったが、戦士たちの中には不貞腐れた者や、疲れ果てた表情で所在なげに立ち尽くす者もいた。

 

 マルグリット・モイラは、微かに首を傾け、微笑みながら人差し指を唇に当てた。

「私に金を払った時、ウルバンは念を押した。俺以外の命令は、息子であっても聞くな、と」

 沈黙した少年をもう無視して、マルグリットはユーリを見つめた。

「二人とも離れて。どうやら、ご指名のようだ」ユーリもまた、マルグリットを見つめながら低く囁いた。

「やってくれたな。ユーリ」道すがらに引き千切った蛇の乙女(オルム・マエル)の生首を嫌がらせ代りに投げつけてみる。受け取った部下の首を一瞥し、裏切り者のユーリが強い視線を返してくる。いや、敵対者に雇われたのを裏切りと呼ぶべきかどうかは、人に拠るだろうが。

「ナーガは……」ユーリが問いかけてくる。

「逃げた。どうせ、碌でもないことを目論んでいたのだろうが」肩を竦めると、ユーリは木箱を一瞥した。

「阿片を……」何かを言おうとするが

「今さら、奴の思惑などどうでもいい」

 マルグリットは、疲れた口調で断言した。

「手塩に掛けた部下が死んだ。哀れな連中の墓前に供える首が必要だ。それがスネイクバイトの総大将……或いは、創始者であっても、笑劇の終焉には相応しかろう」

 言いながら、優美な刀を引き抜いた。ユーリが溜息を洩らす。

「ウルバンは死んだよ」

「知っている」マルグリットは端的に応答し「最後の依頼は、赤子に至るまでヴォルツの血筋を根絶やしにしろ、だった」投げ捨てた封緘がひらりと舞って地面に落ちた。

「怨念に捉われただけの哀れな人生だが、二束三文の賞金稼ぎが殺し合う理由には妥当だろう」マルグリット・モイラの宣言に「もう、これ以上、血を流す理由もないだろう」とユーリ。

「前から思ってたが……私より強いつもりなのかな?」マルグリットは不快そうに吐き捨てた。

「仮にユーリを倒しても、生きて帰れると思うなよ」多分、ユーリ派のスネイクバイトの誰かが囁いた。全く陳腐な手段で頼るのも癪ではあるが、しかし、今、この瞬間。仮に背後からライフル銃を撃たれてもマルグリットは躱せるのだ。

 

 東の果てにジャバウォックと言う変異獣がいる。ルイス・キャロルの鏡の国のアリスから名づけられた怪物で、銃弾をも避けるほどの俊敏さと動体視力から原住民に恐れられている。怪物の精髄と脳を生きたままに摘出し、各種薬物と調合し、煮詰めた丸薬は、訓練された服用者が適量を用いる事で、一時的だが同等の俊敏さと反射神経を与えてくれる。

 

 服用してから五分。猫科の肉食獣のように脳神経の伝達速度と動体視力が高まり、時間がゆっくりと流れる感覚が全身へと行き渡っていた。副作用は当然にあるが、今さら、惜しむべきなにものもない。長々と話しているうち、最高に感覚が研ぎ澄まされた。黄金に染まった瞳でユーリを見つめ、マルグリット・モイラは優しげに微笑みかけた。

「勿論、皆殺しにして帰るがね。

 この場で終わるとしても、貴様は道連れだ。ミズガルズオルム」

「最後まで相変わらずだな、君は」ユーリは呟きながら、西洋風の直剣を構えた。

 

 

――――

 

 

 

 目を覚ましたマギーちゃんは、一瞬だけ何処にいるかを見失っていた。随分と上等なベッドの上で、隣ではニナが安らかな寝息を立てている。かすかな機械音が耳に伝わってきて、ポレシャ公邸の宿泊室に滞在していたのを思い出した。ズール市の通りは、夜半にも松明や電気の明かりで照らされており、深夜にも関わらず、僅かな人影がうろついている。

 

 心臓の鼓動が、やけに大きく胸の内で響いていた。随分と昔の夢を見た。厩舎から聞こえてくる馬の嘶きに刺激を受け、過去の記憶が引きずり出されたのか。ベッド脇の水差しを取って、コップの水を飲み干した。それにしても……と追憶に浸った。格好良く宣告して、みっともなく負けた。コテンパンである。スネイクバイトの総大将に選ばれるだけのことはあった。有象無象は蹴散らしたが、それで疲弊し過ぎていた。食い下がられてるうちに戦闘薬の効果も切れ、ぼろぼろになって止めを刺されそうになった時、生き残った部下が割り込んできた。崖から転がり落ちて、その後は、中立だった者たちの仲介で辛うじて生き延びたが、組織に入った亀裂は二度と元には戻らなかった。

 

 戦争で氏族の強硬派が軒並み討死し、落ち着くところに落ち着いだのか。弱体化した二つの氏族が合流して、元のどちらよりもやや強力、かつ穏健な氏族が誕生した。

 他の氏族に介入される訳にもいかなかったから、妥当だったかもしれない。

 相当の報酬も支払われて、マギーは金で矛を収めた。遺族への仕送りに、不具となった部下が生きていく為の工房や農地、家畜の購入。負けて、しかも生き残った以上、頭目としては後のことを考えなければならない。金は幾らでも必要だった。勇気は萎えたか。それとも、まだ自分の中に眠っているだろうか。

 

 マギーは死を忌むようになった。今の自分が十代の頃より、強くなったか、弱くなったかも分からない。一つだけ学べたとすれば、仕事と仲間は良く選ぶ必要があると言うことだ。少しだけ視野は広がったと思いたい。

 

 ニナが抱き着いてきたので、可愛い、可愛いとおでこに口づけしてみる。

 開いた窓から吹く夜風は肌に心地よい。外を見れば、朽ち果てたビル群のシルエットが薄明かりにぼんやりと浮かんでいる。朽ち果てた文明の墓標のように、ここかしこに寄せ集められた瓦礫と錆びた鉄骨が虚しく聳え立っている。

 

 尖塔の一部には、朧げな電灯が煌めき、強力なサーチライトが防壁の外の荒野《ウェイストランド》を照らしている。

 怪物も略奪者も寄せ付けない―――こんな町で暮せるならば。誰もが安全に暮らせた世界があったのに旧人類は自らの手でその環境を破壊した。そして馬鹿々々しい事に、今の人間も先祖を笑えるような上等な生き方はしていない。

 

 あの抗争《いくさ》になんの意味があったのだろうか。

 別に、自分や仲間の命が殺した相手よりさして上等とも思わないが、どちらにしろ、二束三文でいくさ場を這いずり回り、殺し合うのには、もう飽いていた。

 うつしよがどうしようもない修羅の巷で、血塗られた人生から逃げられないとしても、せめて今度はおのれや身内の為に命を使いたいと思いながら、夜明け前にもう一度目を閉じた。

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 

 ここ数年の曠野は、季節ごとに寒暖差の激しい時期が続いていた。近隣の穀倉でも農作物の不作傾向が拡大しており、経済的な指標も下向きを続けている。

 幸いと言うべきか、都市大学の博士たちなどは現在の激しい気候変動は長続きしないと予想している。大気に変化を与えるほどの工業力を人類は既に喪失しており、目下の異常気象はごく自然な気候変動の一環に過ぎず、数年単位のうちに収束するだろうと言うのが、科学者たちの結論するところであったのだ。

 

 不作と言っても、例年より二割から三割減程度の収穫に収まっており、曠野の長い歴史ではさほどに特記するほどの事態ではない。大抵の農村や大型居留地では農作物には常に余剰と備蓄が作られていて、かなりの範囲で小村や居留地が飢餓に苛まれ、或いは放浪民たちが行き倒れても、離散した住人たちは、大きな都市や居留地の下層地区へと流れ込み、そしてまた寂れた農場や小さな居留地に、いずれ新たな入植者たちが移り住むのが数百年と繰り返されている曠野の風景であった。

 

 

――――

 

 

 

 旅籠に一歩を踏み込んだリーニー・アルキスは、そこで苦しげに咳き込んだ。四方を円柱に囲まれた内庭には、小さいが壮麗な庭園が広がっていた。

 盛りを迎えた薔薇は淡い桃から深紅に咲き誇って回廊を形作り、紫陽花は紫紺の円殿《ドーム》を浮かび上がらせている。レンガ道の縁に沿って可憐なラベンダーやセージが傍らを彩り、小道は小砂利で舗装されている。中央に坐する水鉢には睡蓮が浮かび、時折、水面を破って小さな蛙が跳ねていた。

 リーニーも造園への造詣が深くはないが、仮にも店持ちとして豪商の庭園に招待された経験は幾度かあった。そして今、目にしている美は都市のそれにも劣らぬ――否、人生でも稀にしか出会えぬ貴重なもの。荒廃した世界に気が遠くなるほどの歳月と労力を掛けて丁寧に土を濾したり、細やかに花々に手を入れてきた光景なのだと見て取れる程度の審美眼は有している。

 だが今は、羽音を立てて夥しい蠅が美しい庭園を飛び回っていた。一角に、人の死体が積み重なっている。腐った肉が、猛烈に甘ったるい悪臭を漂わせており、僅かに嗅いだだけで喉が激しく収縮し、思わずえずきそうになる。

 

 床に無造作に置かれた旅籠の看板には、優しい丸文字が描かれている。隅には子供っぽい絵柄のつたない猫の笑顔。

「こいつらは、元の住人たちではない。ホテルに巣食っていた無宿人《ノー・クォーター》共です」大地の子(サンズ・オブ・アトラス)のコル。フードを脱ぐと、頬から耳に掛けて巨大な傷跡が走って、常に歪んだ笑顔を浮かべているようにみえる初老の男が、鉄錆のように軋んだ声で告げる。

 

 確かに、死体が纏う装束はいずれも野外生活に適応した動き易い毛皮や皮革を縫い込んだ分厚い粗布であり、肌にも皮膚病の痕跡や粗末な刺青が刻まれ、古い弾痕や白兵戦の傷跡が荒っぽい生活を伺わせた。無宿人《ノー・クォーター》か、さもなくばもっと危険な無法者《アウトロー》に属していそうな粗野な顔立ちの男女ばかりで、都市圏でも温もりある旅籠としての評判だった【青鹿】亭の主人や従業員たちには到底、似つかわしくない。しかし、それなら本来、此処にいた人々は、何処に行ったのだろうか。胸の奥に冷たい疑惑を覚えつつも、リーニー・アルキスは無表情でコルへと頷き返した。

 

 漂う腐臭を気にした様子もなく、遊牧民たちは平然と廊下を先に進んでアルキス商店の二人を案内する。目につく場所の死体を片付けていないのは、恐らくは示威行動だろう。床や壁にこびり付いた血痕と残された弾痕が激しい戦闘の痕跡を刻み込んでいた。無法者《アウトロー》か、無宿人《ノー・クォーター》かも分からないが、少なくとも籠っていた者たちは、無抵抗でやられた訳ではなさそうだ。いずれにせよ、本来の旅籠の持ち主たちを害したのは、きっと大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)ではないと思いたい所だった。

 

 なにもかもが推測だが。前もって心理的威圧を与えてくるなら、リーニーたちを生かして帰してくれる可能性が高いとも思えた。これから行う交渉になにかしらの譲歩を期待していなければ、そもそもが駆け引きをする必要すらないだろう。もちろん、ただ単に悪趣味で獲物の恐怖を楽しんでから殺そうとしているだけの精神的怪物、という線もないわけではないが。

 

 確かに外縁部は、都市内よりも随分と治安が悪い。地区の守りは、しばしば貧弱な自警団に委ねられるし、時々は愚連隊めいた連中が勝手に住み着いて幅を効かすという話も耳にする。しかし、だからと言って、明らかに横暴に過ぎた。いくら大交易市に外郭地区への警戒が手薄になった時期とはいえ、それなりに名の通った旅籠の主人と従業員を殺して乗っ取るなどと言う暴挙は、ほぼ確実に露見する。ズールの司法官が幾らか腐敗していても、完全な無能ではない。

 いずれは都市警備隊だって乗り出してくる。旅籠の乗っ取りなどは、いかにも失うものがない無宿人たちがやりそうな乱暴で、そして遊牧民たちはもう少しうまく立ち回るだろう。悪人ではないとは言わないが、端的に言えば、割に合わない。もう少しだけ、連中は計算高いとリーニーも踏んでいる。

 

 その意味で、リーニー・アルキスは、多分、生きて帰れるのではないかと、希望的観測を抱き始めていた。コルは鋭い目で推し測るような視線をリーニーに向けている。観察しているのだ。衝撃を受けたか。残酷な光景や暴力の匂わせに動じず、耐えているか。多分、遊牧の氏族にとって、これから始まる交渉は戦闘と同じく、生き残るための戦いの一環で、あらゆる手段を用いる想定と覚悟を持っているのだろう。だけど、それは都市の商人にだって覚悟はあるのだ。意思や思考をぶつけ合う交渉において、商人には一日の長がある筈だった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。