四方から家畜市のざわめきやひそひそ声、騒音が風に乗って響いてくる。
簡素な仮小屋の前でしつこく値引きしている農民と、座りながら頑固に首を振らない遊牧民。小さな天幕では絨毯に坐した肥満した都市商人と牛飼いが身振り手振りも交えて交渉している。荷車の軋む音や牛馬の嘶きが混じって、ときおり乾いた砂を巻き上げる風が家畜の匂いと埃を鼻先に運んでくる。
ズール郊外に設けられた囲いへとにたどり着くと、ンメェ、メェと間延びした羊たちの穏やかな鳴き声が聞こえてきた。家畜を買い求めて約束の場所を訪れたジーナ・
若い牧者娘のジーナ・
千頭にも及ぶ羊や山羊、驢馬、馬や牛の売買契約からチーズ、バターの物々交換に至るまで、大家畜市の最中には都市圏の彼方此方で様々な商取引が盛んに行われているが、想定されるトラブルが、当事者間でだけ発生するものとは限らない。恐れ知らずの盗賊や蛮族、剽悍な遊牧民や馬賊らが大交易市に集まる財貨を狙い、家畜や良民を浚う小規模、かつ素早い大胆な襲撃も、警備が手薄な都市圏の郊外では幾度か、発生している。大牧場や都市代理人と、遊牧民部族の間に交わされる大規模契約に比べれば、ジーナ・
ジーナ・
友好的な雰囲気が醸し出されていることに、ジーナ・
見知らぬ相手や付き合いの浅い者同士が取引するのに、武装と名声を持った第三者が立ち合うのは古来、北米の西部開拓時代や或いは、中世にもよく行われていた手法であり、呑気そうに話し込んでいるグラハム・バートンは、曠野東部でそこそこには名の知れた行商人。牧者の手元をじっと眺めてるエマ・デイヴィスはそれなりの腕の射手として他の氏族や牧者衆にも知られていた。二人は不正がないか、公証人のような役割で態々、取引に立ち会ってくれている。サドラン氏族の若者が金を数え始める。汚れた紙幣を抜き出し、胡散臭そうに眺めるが、透かしを確認すると一応は納得して頷いた。
「確かに。五匹選んで」金を数え終えた牧者がそう告げてから、羊の囲いを見張ってる番人に向かって「五匹!」と叫んだ。後込め式ライフルを背負った番人に手招きされたジーナ・
囲いに入ると、近場に纏まった羊たちがじっとジーナ・
羊の群れでは経験豊富な個体が警戒を解きやすく、それに他の個体がつられて行動を変えることが多い。そっぽを向くとき、小さく耳を揺らし、鼻先で地面の匂いを嗅ぐ。警戒を解いたと見たジーナは、そっとにじり寄るように羊たちの群れに近寄っていった。
ジーナ・
自由都市に滞在中には、顔見知りの牧者や牛飼いなども度々、見かけられた。大半は、ジーナ・
家畜市を少し歩いてみれば、近隣都市圏の馬借や荷運び、或いは徒弟にとっても、独立やら拡大のいい機会であるから、必死に貯めた小金を懐深く忍ばせた若者らが、真剣な眼差しで荷牽きの驢馬や大型犬、小型の雑牛を一頭ずつ値踏みしている光景だって其処此処《そこここ》で見かけられた。
ジーナ・
元手は、行商人マギーから借りた金だが、良質の羊で妥当な値段だったので値切りはしなかった。高い値で売りつける為、値段交渉が当たり前の部族もいれば、少しでも値切ると商品への侮辱と捉えて交渉を打ち切る部族もいる。サドラン氏族は、どちらでもない。性格も穏当で、比較的に取引しやすい相手であったが、大きな信用取引となれば、どうしても互いにある程度の信用が必要となる為、しっかりした身分証を持っていたり、実績を重ねてきた証明を示さなければならない。
大量の現金か、物々交換を揃えてくる商人や牧場主もいるが、そうなると同時に護衛の手筈も必要となり、必要経費も跳ね上がる。過去に幾度かの取引実績があれば有利となるが、それでも時折、計画倒産やら、強盗団の手引きを行う者もいるので、犯罪や不慮の事故に備えるために担保や商会連への預かり金などが必要となる。サドラン牛は良くない、とマギーは説明した。単価が高い。奪いやすく、大金に変えやすく、かと言って、護衛や保険を掛ける程ではない。『私が強盗なら……まさに狙い目だ』と元賞金稼ぎの【蛇】のマギーは囁いてきて、それでジーナ・
すでにポレシャに預けた五頭を合わせて十匹の羊。
牧場主や富裕な遊牧民にとっては財産の一部に過ぎないが、ポレシャの牧者にとっての自前の羊十匹は、商売道具で大事な元手であった。これでジーナ・
巨大蟻の襲来で失われた筈の道を切り開けた。最初は喰うにギリギリだろうけれど、もう一度、友人と一緒に羊飼いに戻れる。羊を増やせたら、燻っている失職中の牧者たちを誘ってもいいかも知れない。或いは、夢にも見なかった、牧者衆の頭に成る日が来るだろうか。
五頭の羊を選んで囲いの外に出ると、焼き印を熱しながら、取引相手のサドラン氏族の若者が微笑みかけてきた。年長の遊牧民や、周囲の牧人らも心なしか笑顔を浮かべている。
「やったな」とエマ・デイヴィスが肩を抱いて、我が事のように笑顔を向けてきた。
羊を選んでいた合間に、ジーナ・
「これで立派な一人前だ」「もう一度、自分の群れを持ったのは凄い事だ」と口々に祝福の言葉を浴びせかけてきた。巨大蟻の被害と言うのは他人ごとではなく、身につまされたのか。
さして互いの事も知らない、或いは、日の浅い牧者たちが幸せを喜んでくれることに、騙されないようにと警戒していたことが恥ずかしくなる。それでも、油断はしないけれども、ジーナ・
※※※※
スネイクバイトたちは、念入りに火薬を巻いていたらしい。恐ろしい速度で補給基地に火が廻っていく。
―――なにが、子供は殺したくない、だ。最初から誰も彼も生かして帰すつもりなど無かったのだ。ルキウスは、皮肉っぽく口を歪めた。
見れば、雇われの労務者たちや奴隷の女子供までもがあちこちに倒れていた。いや、まだ息のある者たちもいるが、動けない程度に傷を負って呻いていた。普通に殺すよりも遥かに残酷だ。毒でも受けたか、口の端に泡を吹きながら、食い入るような瞳で必死にルキウスを見つめる哀れな者らが地に爪を立てながら、助けを求めて藻掻いていた。スネイクバイトが敵に廻った時、幾度かの警告は受けたが、その戦闘力と苛烈さは忠告されたうちでも最悪のものを上回っていた。
(生きながら焼かれるか、俺も……)視界は一面、赤く揺らいでいる。妹の首を抱きしめ、蹲っているルキウス・カッシウスの頬を灼熱の舌が炙った。
此の侭、死ぬのか。絶望的な気持ちを抱えたまま、ルキウスは蹲っていたが、小柄な影が、崩れた天幕を越えて奥から駆けてきた。見れば、布を纏った見知らぬ娘。質素だが色のついた衣服から見るに奴隷ではない。恐らくは、召使いだろう。頬を涙で濡らしていたが「生きてる?……まだ、生きてる!」ルキウスに気づくと慌てて立ち止った。
「お前……」戸惑うルキウスに対して「死体の下で、死んだ振りしてた」説明しながら、何故か、ルキウスの腕を引っ張り、立ち上がらせようとしている。 群小の氏族や牧者衆から雇われる事も多い召使いだが、大抵、忠誠心など持ってない。
なぜ、助ける?と問いかけるより前に。
「あんたを見たことがありますよ。ルキウス・カッシウス。坊ちゃんだ」娘が答えを口にした。「助けたら、褒美が貰えるでしょ?」ルキウスは、自分でも思わぬことに軽く笑った。
ルキウス・カッシウスが頷きながら立ち上がると、娘は血の付いた頬を拭い、周囲を見回した。飲料水の樽を見つけると布を突っ込み、俊敏な動作で身体に巻き付ける。
「これ付けて」ルキウスにも濡れた布を渡してくる。
「待て。もう一人」転がった木箱から布を取り出すと、濡らしてタリウスへと纏わせた。未だに呆然自失のタリウスを引き連れながら「行くぞ」ルキウスたちは歩き出した。
炎の迷宮。敵の侵入を防ぐ為、補給基地は複雑な通路となっていた。押し寄せる熱気と視界を遮る煙に苦しみながらも、身を低くして進み、何とか記憶にある出入口へと辿り着いてみれば、しかし、だが、出口は塞がれてた。どうやら、スネイクバイト共。ついでとばかりに、土嚢や荷物の幾つかで出入り口を塞いだらしい。
「なんて性格の悪い連中だ!」娘が声高く毒づいている。
目が痛む中、見回してみれば、基地の全てが燃えている訳ではないだろうが、頑丈な背の高い木柵は乗り越えるのは難しかった。なにより押し寄せてくる黒煙が拙い。
背後では建物や天幕の倒壊し、崩れ落ちる音も響いてくる。苦しげに咳き込みながら、抜けられる場所がないか必死に探していると、炎に包まれた柱の一本が倒れ込んできた。煙に視界が遮られていたルキウスは、衝撃と共に押し倒された。
―――――
疼くような不快な痛みに目を薄く見開けば、天幕に寝かされていた。
夢……いや、ルキウスが身動ぎすると、脳天から尻までを強烈な痛みが雷のように貫いた。胃が痙攣して口に苦いものが湧いてくる。脂汗がぶわりと吹き出し、唸り声のように苦痛の呻きが無様に洩れた。
遅れて疼くような不快な痛みが襲ってきた、身体の一部に捻じれのような感覚を感じ、この痛みは生涯付き合うかな……と目を閉じると、強烈な匂いにやっと気づいた。膏薬が塗り付けられ、包帯が巻かれている。
ルキウスの呻きに気づいたのか、天幕の外で人の動いた気配がした。
冷や汗が引く程度の時間を暫く待つと、人の気配が近づいてきた。
目を薄く見開いてみれば、天幕に入ってきたのは戦士コルだ。戦頭である父ティトゥスの忠実な部下の一人。やはり、数か所に深手を負っているにも拘らず、機敏な動作で駆け寄ってくると何かを呟きながらルキウスに跪いた。
「若……よくぞ、ご無事で」
「無事とは言えん……お前が助けてくれたのか?」苦笑しながらのルキウスの言葉にコルは「いいえ」と首を振った。
「娘がいたはずだ」幸い、記憶はしっかりしていると自己判断を下しながら、ルキウスは問いかける。
「娘ですか?」戸惑い、少し考えてからコルが応えた。
「火傷を負ったものがいます。御身の近くで倒れており、確か、一応の手当てを施してから、下人たちの病棟に寝かせておいたと……」
簡単な返答をするのにも、多少の努力が必要だった。
「……そうか。会いたいがこれではな。女は無事か?」とルキウス。
「多少の火傷は負っておりますが、命に別状はないと」
頷いてから、ふと気づいたように「タリウスは?」と問いかけると、コルは一瞬だけ、表情を歪めてると「ご無事です」 と頷いた。
眠れる程度に痛みが落ち着いたのが三日後。なんとか移動できるようになるには、さらに二日ほどかかった。娘の方を呼ぶか、とも聞かれたが、命の恩人だと拒んでルキウスの方から出向いた。目覚めて最初に口にしたのも知人の安否で、合戦の戦況や勝敗ではないところが、ルキウス・カッシウスの限界で、凡庸さの現われに違いない。しかし、厳格と思えたコルは意外にもルキウスに好意的な態度で、娘の収容されている病棟まで付き添ってくれた。
身体の数か所に古布の包帯を巻いた娘は、ルキウスを見、手を振ってくる。
記憶よりも傷が増えていて、ルキウスは苦い表情を浮かべて口を開いた。
「お前。俺を庇ったな?」
「褒美が貰えるでしょう」娘がにやりと笑った。
「ああ、約束しよう。期待しておけ」実際には払えるか否かも怪しい趨勢に成りつつあると見ていたルキウスは、己の銀の腕輪を外して、娘に手渡した。
「だが、受け取ったら、早めに離れた方がいいだろうな」
タリウスも生きていたがお付きの者たちに喚き散らしているらしく、会う事は避けた。掌の半分と指全部を失っている。戦士としてはお終いだろう。余程、高度な義手でも装着すれば話は別だが、曠野では滅多に手に入る代物でもない。果たして、ムキアを悼んでいるだろうか。若きルキウスは、妹の死を悼んで欲しいと思いたかった。
娘に別れを告げたルキウスは、火傷の痛みに耐えつつ、病床へと戻りながら考える。先日の合戦では、双方が相当数の兵を失っていた。族長が死に、父までもが討ち取られた。『
大部族の抗争となると、一度や二度の合戦では、決着が付かないことも多い。互いの戦力をじりじりと削り合いながら、耐えられなくなるまで衝突を繰り返すのだ。そして、兄も、姉たちも、他の有力な戦士たちも数多く残っている。 元より『
しかし、『青葉衆《グリンリーフクラン》』の背後には、見たこともない異国の傭兵たちがいる。複数の恐ろしく強力な傭兵団を投入する資金が、いったい何処から湧いたのか──かつて戦った『青葉衆《グリンリーフクラン》』には、それほどの資金力はなかった。考えるほどにルキウスの腹の底が冷えていった。長老たちであれば、何かしらを掴んでいるかも知れないが、部族の名族とは言え、一介の若衆であるルキウス・カッシウスには知る由もない。
遠く、暗雲に雷鳴がとどろいている。部族の戦況には、明るい兆しは見られない。吹き始めた寒風にルキウスは軽く身震いをした。