井戸の権利証書──なんて代物がマギーちゃんの手元に流れてきたのは、偶然である。小金を貸した顔見知りの商人に泣きつきながら、これで勘弁してくれと手渡してきたもので、聞けば、どこぞの農場主が大損をして担保に入れていた物件が市場に出たそうだ。
ポレシャ公邸の風通しの良い部屋で手にした証書をランプの光に翳してみた。証書には、地図上の位置。ズール市における登録番号。現在の所有者。季節ごとの取水量に水質検査結果までもが記されている。場所は、西方の山岳地帯の麓に広がる一帯。うろ覚えの記憶では、地下水脈があっておかしくない場所ではある。本物なら、右から左に流すだけで都市通貨で二百――上等な井戸ならその十倍ほどの利益も出るはずだったが、売ろうとは思わなかった。
見たところ、七割方は本物――転売するかな、と一瞬は考えるも、裏を取るための手間も時間も、今の時期には貴重だった。マギーは稼いでいる行商人なので、二百や三百ははした金ではないけれども、普通に働いて稼いだ方が手っ取り早い。仮に偽物でも誰かに掴ませれば稼げるだろうが、要らぬ怨みを買う事になる。金を出せる誰かしらの、だ。加えて、不動産の転売で稼いだという風評が、今のマギーにとってあまり好ましくない。
「ババ引かされたかね?」とマギーは呟いた。一介の行商人には、迂闊に深入りせずとも、些か手に余りそうだと思える代物であった。こいつをどうしたものかな、と少しだけ悩んでいると、相棒のニナちゃんが「一度、現地に行ってみない?」などと言い出した。
まるで気が進まないので、首を振るう。よそ者が見知らぬ土地――特に、辺境の開拓地に乗り込んで睨みを効かせるには、最低でも仲間が五人。後込め式ライフルも同数が欲しいと、マギーは見積もっていた。理想を言えば、十人からの訓練された手勢に、武装もレバーアクション式か、ボルトアクション式が望ましい。
そんな風に告げると、ニナは鼻白んだように「慎重に過ぎるのでは?」と首を振るう。大仰だと見做しているようだ。ズールから西の山麓地域について、マギーは何度か噂を耳にしている。中々に肥沃な土壌が広がっていて農業や牧畜にはうってつけだが、さらに西に進めば広大な森林地帯が横たわっており、騎獣を駆る野蛮人やら屍者の大群、時として数百からの蛮族の兵団さえも襲来してくる死と暴力に満ちた危険地帯として人口に膾炙している。
富と栄光を求め、交易商人に鉱夫団、都市鉱夫に
そうした辺境の開拓地に比べれば、例え、武装が手放せず、門外に一歩踏み出せば、変異獣や獣、巨大蟻や屍者が彷徨う危険な大地が広がっているとしても、ポレシャ市やズール市、その近隣地帯は、曲がりなりにも文明地帯と呼べるだろう。
蛮族の大群が何時、押し寄せて村や居留地を焼き払うかも分からない人生を送らざるを得ない蛮地や境界線の開拓地に比べれば、法秩序は息づき、居留地の興廃も滅多には心配する必要がないのだから―――。
或いは、昔の賞金稼ぎのスネイクバイトや風来坊のマルグリット・モイラであった頃であれば、土地を得られるチャンスに馬を駆って開拓地へと乗り込んでいたかもしれない。だけど、今のマギーちゃんは守るものができてしまった。ささやかな商いであり、ニナや同居人たちであり、平穏な暮らしであった。マギーは若い頃よりも、用心深く慎重になっている。
一応、自由都市の役所に赴いて登記を登録したものの二、三か月も留守にすれば、現地の誰かしらが井戸を占有し、所有権を主張するに違いない。そしてマギーが井戸を取り返すには裁判ではなく弾薬。もしかしたら、数百発もの弾薬が必要となるのだ。辺境に限らず、開拓地《フロンティア》の最前線とは、逞しく剽悍な人々が闊歩する荒々しく過酷な大地であった。そうしてマギーも、開拓地《フロンティア》の入植者たちを侮ってはいない。自由民にしろ、独立農民にしろ、己の財産と信ずる土地と権利を偏執的なまでに守ろうとする頑固者である。自由と独立を重んじる入植者は、味方であれば心強いが、敵に廻せば、総じて粘り強い相手となる。
今のところ、井戸の権利書はマギーにとって持てあますだけで、大した価値は持たない紙切れに過ぎなかった。
「……これがポレシャやズール近郊か。せめて、もっと文明地よりの土地の権利書なら、もしかしたら、引っ越すだけの魅力があったかも知れないけど。西部開拓地じゃなあ」いずれにせよ、マギーちゃんは一介の商人に過ぎない。
(……私が兵団の指揮官か、せめて農場主だったら)心の中で、一瞬だけ空想を弄ぶも、マギーちゃんは苦笑しつつ頭を振って、野心の残り火を胸の奥底に沈めた。
紙切れをひらひらさせたマギーは、それでも一応の使い道があるかも知れないとくるくると丸めると、背嚢の奥へと仕舞い込んで、それきり忘れてしまったのだった。
※※※※
土地の気温を左右するのは、必ずしも日照量だけではない。海流には、沿岸部の気温を緩やかに保つ効果があって、海からの風が届きにくい大陸内陸部が寒冷な気候を有するのは自然な成り行きである。特に湿度に乏しい土地では、放射冷却の効果が強く働き、夜間や冬に急激に気温が低下しやすい。
よって、内陸の高地などが南北の地域より冷涼であっても不思議ではない。一方、不毛の内陸にあっても、他の地方との境界であったり、山脈の切れ目から吹き込む季節風と降雨の影響で、荒涼たる大地に自然豊かな土壌が点在している事例が生じることもあった。
山脈の影響でフェーン現象や雨陰地帯が生じていたり、丘陵の影に青々とした谷が潜んでいる。河沿いに肥沃な沖積平野《ちゅうせきへいや》が形成され、或いは、塩湖や湿原から伸びた地下水や伏流水を利用することで不毛の荒地にまるで緑の島が浮かぶように豊かな自然が点在している光景が見つかることもある。
手つかずの自然と巡り合うのは、
茫漠たる不毛の地が何処までも続くように見える曠野にも、乏しい動植物なりに案外しぶとく生き延びているし、僅かだが豊かな実りが約束される土地も点々と見かけられる。今から七年か、八年ほども前の話になるだろうか。曠野北西部の山脈沿いの土地に、自然が色濃く残されたデン高原があった。海からの水分を含んだ雲が高い峰にあたって近隣では珍しくそれなりの降雨に恵まれ、地表には風や水で運ばれた細かなシルト壌土が厚く堆積している豊穣の地を巡っては、過去から幾度と血が流されている。
当時、『
そうして曠野でも名だたる数多の人物―――ガズー・ルーや幾人かの豪商たち。【貫く刃】の騎士ダーディオ、骨の大司教メルカに黄骨党《イエローボーン・バンド》と言った高名な騎士や傭兵隊長。伝説的な戦士結社のスネイクバイト―――が盤上へと干渉し、或いは戦争に招聘され、野心の炎に身を焼かれ、数えきれないほどの人が死んだ。
デン王の座へあと一歩まで迫った梟雄、青葉衆《グリンリーフクラン》大族長のウルバンは、スネイクバイトの首領との一騎打ちに敗れて命を落とした。
ルキウス・カッシウスの血族も、友人も夥しい人数が命を落とした。数多の兵たちが参陣したデン戦争において、しかし、もっとも恐るべき猛威を振るったのは、やはり不敗を誇っていたカッシウス一族の悉くを屠った伝説的なスネイクバイトの一党であろう。遺伝子を戦闘調整された太古の超人の末裔。誰に負けるとも思えなかった父【赤眼】ティトゥス・カッシウスは【ウロボロス】に首を取られた。兄のガイウス・カッシウスは、【ナーガ】の毒針に刺されて全身が焦げたように真っ黒に膨れ上がった死に様を晒し、双子のユリアとクラウディアは【ティアマット】の四本腕に文字通り八つ裂きにされた。
誰も彼もが豊かな明日を夢見て、戦場に身を投じ―――挙句、生き残って勝利の果実を貪ったのは、両陣営の裏切り者たちだった。ルキウス・カッシウスの許嫁であった族長《ニウヴ》の娘シーラは、よりによってウルバンの息子と結ばれた。
如何なる手妻を使ったのかは、分からない。部族は、氏族の集まりで、氏族はより小さな氏族の寄せ集めだ。離散集合は、遊牧民の常とは言え、サールスの子孫であるカッシウス家は、それまで部族の戦頭を務めて、代々が部族の為に戦ってきた。
有力な戦士であった年長の血族が軒並み死に絶えたカッシウス家―――サールスの氏族は、
『
長い歳月、血を流しての忠誠の対価がそれでは、余りにも報われなさすぎるではないか。当然に生き残ったサールスの者たちは特に猛り狂い、抗議の声を上げた。
新王国での然るべき地位を求め、大天幕へと乗り込んだ者たちを待ち受けていたのは、シーラとシーラの雇った新たな傭兵――敵であった筈の傭兵団が臨戦態勢で控えていた。流石に有名どころではなかったが、消耗しきっていたサールス氏族の一党に抗うだけの力は既に失われていた。効率的な血の粛清が行われ、僅かに生き残った者たちに対しても、
どちらにせよ、今までの敵と仲良く暮らす気になれない者らは他にもいて、デン高原から穏便なうちに離れることが出来た。今、行動を共にしているジークやコルも、そうして
結果的に、若きルキウス・カッシウスは、デン戦争を生き残った。
――――
若干の残党を率いての長い放浪の果てに『
『大崩壊』前の建物を利用するのは、
流石に火縄銃やクロスボウの自警団では、数十名もの騎兵を誇っている遊牧氏族『
今のところは自警団や住人たちも表立って対抗しようとはせず、また逃げたり、引っ越す者もおらずに、取りあえずは様子見と、住人たちと遊牧民たちは奇妙な小康状態を保っているように思えた。片面を城壁に囲まれつつも、外界の荒野の匂いをかすかに残していたバシカ地区は、堅牢な建物も多かった。長く放浪の辛い生活を送ってきた遊牧民らにも、女子供らの姿が多く、ようやくに訪れた平和の匂いに敢えて平地に波瀾を起こそうと言う者は、殆んどいなかった。ごく一部の例外を除いては。
バシカ地区において『
しかし、中には、例外として、他の天幕から離れた住居もあった。
氏族の抑えた町外れの空き地に大型の天幕が張られている。三方を崩れた瓦礫に囲まれ、残り一方を分厚い木製の柵で固められた地勢は、固く守られているとも見えたし、また、天幕の住人を閉じ込めているようにも見えた。大家族でもなければ、集団が暮らしている訳でもない。家屋ほども大きな布張りの天幕の住人は、尊き血筋の御方とたった一人の主に仕える僅かな奴隷であった。
若い男が狂乱した風情で女奴隷を鞭打っていた。「余の腕を……余を笑ったのは、この口か!この口かぁ!」ポンコツロボットのようなC型の鉄の手に握っていた鞭を捨てると、「この奴隷を殺せ!」甲高い声で命じた。
天幕に入ってきたルキウスは、一礼しつつも義手を付けた青年を諫めた。
「おやめください。昨今は、奴隷も安いものでもないのです。特に従順な奴隷は」
そして、義手もだ。かつて強大であった部族『
ルキウスの言葉に、義手の青年――タリウス・ヴォルトゥリウスは振り返ると「摂政!いつになったら余の玉座を奪還できるのだ!兵はまだ集まらないのか!」甲高い声で叫んだ。
「真に、申し訳も……」ルキウス・カッシウスは恭しく一礼するが、タリウスはさらに激高した様子で、杖を振り上げた。
「無能もの!不忠ものめが!」
ルキウスの頭部へと叩きつけられた杖は、タリウスの義手を外れて天幕の隅へと転がった。奴隷娘たちが杖に当たるのを恐れるように離れる。
「裏切り者が!絶叫した。お前の無傷は、怯懦ゆえではないか!」肩で息をしながら、血走った目でタリウス・ヴォルトゥリウスが叫んでいた。
「余を見捨て、妹を見殺しにした臆病者がァ!」
「まったく、その通りです」ルキウスは、冷静に対応している。
甲高い声で叫んでいるデンの王《ムーテ》タリウス・ヴォルトゥリウスが、C型の義手を突き付けながら叫んだ。
「裏切り者シーラを殺せ!殺せェ!デンの王《ムーテ》の命であるぞ!殺すのだァ!」
タリウスの目は血走り、口の端から泡が吹き出ていた。
「妾の子の分際でありながら、僭王めが!卑しき奴隷女の腹から産まれた身で女族長《シーヴ》だとぉ!」おそらくはデン戦争にタリウス・ヴォルトゥリウスほど、全てを失った人間はいない。両手を失い、家族を失い、地位を失い、部族と故郷を失った。生き残った僅かな身内を、血を分けた妹に鏖殺されて故郷を追放された。惨めな乞食王《ベガーキング》として数年を僅かな自称家臣たちに見世物のように連れまわされ、再び、巡り合った時には完全な狂気へと陥っていた。
タリウス・ヴォルトゥリウスは狂気の世界に暮している。デンの地の正当な王の座は、亡き父から己へと継承されるべきであり、妹のシーラは王位を簒奪したと思い込んでいる。形だけ丁重に扱うもののコルやジーク、その他の有力者たちからタリウスへと向けられる冷淡な目は、実権はなに一つ、与えるつもりはないと物語っていた。
「奴隷たちには言い聞かせておきます故、なにとぞ、ご寛恕を」ルキウスが落ち着かせるように恭しく言いながら、女奴隷たちに目配せすると、真鍮の杯に壺から酒が満たされる。
「うむ、うむ。僭王とその支持者ども。彼奴らに目にもの見せてやらねばならぬ……」震える義手で酒杯を握ったタリウス・ヴォルトゥリウスは、零しながらも口に運んで杯を呷った。
「ただいま、王の忠実な支持者たちに連絡を取っておりますれば、間もなく、曠野の各地より、王を支持する者たちが集まってまいりましょう」ルキウスがそっと言い聞かせてるうちに「うむ……余、余の……」呟いているタリウスの目がトロン、と眠たげに垂れ下がった。幻覚と睡眠作用を持つ黒睡蓮の葉に芥子を煎じた酒は、デンの真王の意識をふわりと包み、現実と幻が入り混じる夢の世界へと連れ去った。
目の前で忠実な支持者たちの顔が揺れ、過去に裏切った妹の嘲笑が重なる。声は遠くから響き、時に自分自身の叫びに聞こえた。
「……真の王を支持する者は……」吐息まじりに呟く言葉は、怒りと悲嘆が混じる狂気の中でふらつき、薬の影響でさらに輪郭を失っていった。黒睡蓮の香りが鼻腔に満ちるたび、タリウスの意識を侵蝕していった。
やがて、崩れ落ちた王の鼻から鼾が漏れ始めると、ルキウスは女奴隷たちに頷き、一人一人と銀の粒を渡しながら「では、頼む」と告げてから天幕を後にした。
外にはコルが佇んでおり、天幕の内部に向けて辛辣な視線を向けてから、ルキウスへ一礼し、何かを口に仕掛けた。
ルキウスはコルの言葉を手で留め、ゆっくりと歩きだした。空は暗く、地平の遠くには稲妻が走っており、遠いデン高原のあの日を思い起こさせた。