ミリーの鼻は、歪に潰れてる。昔、父に口答えした際、拳でへし折られた名残だが、とは言え、迷い込んだ廃市街でならず者らに追われた際、こん棒を振るって娘を守ったのも父リドリーである。リドリーは独善的な気質の持ち主で、他人からそう思われたがっていたほど考え深い訳でもなかったが、荒廃した文明崩壊《ポストアポカリプス》の世において、娘を育てて守り抜いた日々も嘘ではない。誰もが日々、飢えや暴力に晒されながら、生き延びている。世には変態に自分の子を売って稼ごうとする連中だっているだから、欠点はあるにせよ、最低の親ではないとミリーは割り切っていた。
だから、ミリーは父に感謝もしていた。リドリーは欠点の多い人物で、すぐに暴力を振るうのも、子供を卑しめてくるのも苦手だったし、考え足らずに突っ走る短絡さも、何時かは後難《こうなん》を招くのではないかとミリーは恐れていたが、時々は気まぐれな優しさを娘に見せる時もあったのだ。結局、懸念していた通りに牧者に喧嘩を売って呆気なく死んでしまったが。
そうして今現在、ミリーはエマ・デイヴィスに付いてまわっていた。女牧者のエマはぶっきら棒で寡黙だが、暴言だって吐かないし、何かを説明する時もよく嚙み砕いて丁寧に教えてくれる。美味しい食事もくれる。なにより、暴力を振るわない。理解できないでも罵言も拳も跳んでこない。ただ、ビクビクしているミリーを見て、気の毒に目を細めるだけだ。落ち着いてる大人だと思う。
まあ、本当は分かってる。【蛇】のマギーやルーク・アンダーソンも、当たり前にそうしている。大人は子供を殴らない。穏やかに話しかける。エマの対応は、当たり前っぽい。でも、貧しい放浪者《ワンダラー》が厳しい荒野《ウェイストランド》の生活に晒されながら、生き抜いていれば、心だって削れていくものさ、とも思う。リドリーだって最初から、粗暴で独善的だったとも限らない。
それでも、ミリーは父に向けていたよりも遥かに深い感謝をエマ・デイヴィスに向けているが、小さな問題が一つ。父を殺したのはエマだ。悪いのは完全にリドリーで自業自得なのだが、きっと、人に拠ってはミリーを恩知らずだと見做すだろう。いやだなあ、とミリーは思っている。侮辱には慣れ切ってるが、エマだって悪く言われる。ともかく、軽い後遺症を残す程度の折檻で、ミリーはすっかり暴力が苦手な内気な少女になっていた。端的に言えば、足手纏いである。
――――
遊牧民たち――
時刻は夕刻。ルガリエ地区、大穴《ホール》からの帰路では、行きにも劣らない緊張をポレシャ人たちも強いられた。街道沿いの天幕や仮設建物はまだ些かの活気を帯びており、炊煙が風に揺られながら上空にたなびいている。
夕闇に朱く包まれた広大な野営地からは、遠く風に乗って微かな騒めきが伝わってくる。銃や槍を携えたランツクネヒトや略奪者《レイダー》、奴隷商人らが見張り台の上で鋭い視線を通行人に投げかけている。めいめいの天幕《テント》の傍らでは、派手に騒いで殴り合ったり、酒を酌み交わす男たちに入り混じって、女らも出入りしている。酒と暴力、そして女が刹那的なランツクネヒトの楽しみなのだろう。【蛇】のマギーよりもさらに頭一つは大きな巨漢が、殴り合いを制して勝ち誇っていた。ランツクネヒトや略奪者《レイダー》に攫われたか、買われた奴隷女もいれば、稼ぐために好き好んで加わった洗濯女やら隊付きの従軍娼婦もいる。
後者には、火縄の拳銃や特徴的な短剣《カッツバルガー》を腰帯《ベルト》に差し挟んでる女たちもいた。略奪者《レイダー》徒党には男女混合も多いのだが、ランツクネヒト団は基本的に男性が主体で、しかし、一部の女性は高給を目当てに前線に赴き、また陣女中《トロスフラウ》も時に武器を手に取るのが古来よりのランツクネヒトの奇妙な伝統だった。
納屋や小屋にはカンテラの明かりが揺れており、男女が汗を流しながら作業に没頭していた。忙しく立ち働いている奴隷や召使い、或いは雇われた人夫らもいれば、燃え盛る焚火の傍で輪になって博打や雑談に興じているような下働きたちもいた。中には年端もいかない少女たちの姿もあって、半裸で奴隷商人やランツクネヒトらにしな垂れかかっていたが、通りすがりのニナやイザベル・ミラー――同世代らの少女を眺めると、何故か馬鹿にしたように笑い声を洩らした。ニナやイザベルは、露骨な舌打ちを返すと「むうっ。なんだ、あいつら?」「堅気さまに嫉妬しとるんか?」口の中で小さく罵りを洩らしてる。互いの少女らが子犬のように吠えたてるが、ランツクネヒトたちは後込めライフルを携えた牧者一行には手出しをせず、ポレシャの大人衆も寡黙さを保ったまま、足早に通り過ぎた。
高度文明の衣鉢を継ぎながらも、中世めいた様相を帯びた
エマは優しいが、それは責任を伴わない庇護に過ぎない。いや、勿論、食事と薪に寝床を与えてくれるだけで随分と慈悲深いし、人ひとりを世話するのが途方もない負担であるのは、ミリーでも知っている。危険を冒して一緒に犯罪者を追跡してくれてるのだから、神様みたいなもんだ。それは勿論、恩義に来てるが――自由民の端くれでありながら、知識も技能も持たない己をミリーは夜な夜な羞恥していた。ニナも、イザベル・ミラーも妬ましいし、ルークやエマと言った大人の優しさが疎ましく感じる瞬間もある。
身勝手な怒りだとは自覚している――恩知らずな感覚で恥ずべき思考だけれど時折、どうしようもなく怒りの衝動が湧いてくる。同年代の徒弟が努力してない筈もなく、大人たちの優しさに甘えて、我儘を言うべきでもないが、それでもいっそ奴隷であった方が良かったとさえ思う瞬間もあった。ミリーは、親や共同体の大人らに家畜のように棒で打たれ、考えること、発言する事を許されて来なかった。
結論としては、だから、一歩一歩を埋めるしかない。放浪者の小さくて狭い共同体で潰れたり、歪んだ若年者たちは多かったけれど、時折は、まともな外部の大人に繋がって逃げ出したり、別の共同体へ潜り込んだ少年少女だって他にもいたのだ。今、ミリーにも好機が巡ってきたのだと精々、前向きに捉えることにする。
恩知らずにはなるまい。まともな自由民には生涯追い付けない。だが、他にも踏み躙られて生きてきた者たちはいる筈で、この程度の不幸で自己憐憫に浸るよりも、与えられた機会にしがみつくべきだ。或いは、共同体で一番、親に殴られた子供かも知れないが、しかし、曠野には遥かに不幸でも頑張って生きてる人間はいるはずだ。例え、おのれが世界一愚かで不幸であっても、学ばない理由にはならない。
ニナやイザベル・ミラーには馬鹿にされても仕方ない。二人は色々な話をしてるが、ミリーには大半が理解できない。根本的な頭の出来が違うかも知れない。それでもいいや。とミリーは開き直っている。歩みは止めまいぞ。
道沿いには悪臭が漂っていた。人が集まれば、汚物や排泄物も溜まる。糞尿処理は厳しい仕事で、まともな対価を払う居留地―――例えば、ポレシャ市などなら、働き者の労働者が十年余でちょっとした家か、部屋を買えるくらいの賃金を受け取れるのだが、ランツクネヒトや奴隷商人らが人を雇って対価を支払う筈もない。荷車の大樽に汚物を運び込んでいる者たちには、汚れた装束を纏っている少年少女もいれば、裸で作業している者らも混ざっている。
道沿いに漂う匂いと年少奴隷らから投げかけられる眼差しに身をすくめながらも、ミリーはポレシャ人たちの背中に続いた。思考と覚悟は、数秒で吹っ飛んだ。ひゃあ、世界で一番、不幸な子だって?!ごめんなさい。少年少女らの憤怒や虚無、渇望の粘りつくような眼差しにおおよそ同年代であろう二人――イザベル・ミラーは時折、ふぃひ、と奇怪な笑い声を漏らし、ニナは警戒を怠らない。
若い娘や裕福そうな旅人に目を光らせている道沿いの悪党どもらに露骨な眼差しを向けられながらも、しかし、怯む様子を見せなかった。同年輩の勇気と用心深さに、先刻までのミリーは羨望を禁じえなかったが、今は心強さしかない。奴隷商人の天幕が見えると、昼間より人の数は少ないものの警戒と威圧は変わらず。値踏みの視線はミリーにも向かい、放浪者の娘の心臓は小さく跳ねた。しかし、エマ・デイヴィスが庇うように傍を歩いてくれる安心感が、なんとか落ち着きを保たせてくれた。
ランツクネヒトたちは夜の薄闇に染み出すように、派手な衣装を纏っていた。鉄の盾や装甲馬車は静かに見えたが、警戒は緩めていない。人数が夜の闇に隠れることで、むしろ存在感は際立っていた。
ちょうど近くの野営地入り口。男物の衣装を纏い、立ち並んでいる女ランツクネヒトの一団と携えた短剣が目に入って「……連中と対峙した時は、短剣《カッツバルガー》に気を付けなさい。素早く、鋭い」【蛇】のマギーが背後の少女たちに囁くと、ニナは瞳を細めて一瞥し、イザベル・ミラーは口元に嘲笑を浮かべた。唐突な叫び声や銃声、闇に響き渡る哄笑に小便を洩らしそうなほどに脅えながら、ミリーはポレシャ人一行に遅れまいと懸命に歩いた。
差はあるのだ。身分の差。力の差。伝手の差。知識の差。奴隷と放浪者。そして市民。放浪者ミリーは、都市警備に追われたことがあった。悪さをした訳でもない。都市が領有を宣言した領域に単にそれと知らずに踏み込んで、ただ、それだけで死にかけた。似たような状況で、仲間が数人死んでいる。役人たちは、処理と言っていた。
例えば、行商人にとっては
やがて視界の先、ズール市の城門の明かりが揺らめき始めると、ようやくエマは小さな吐息を洩らした。複数の支道が合流する街道の端に目をやれば、昼間の喧騒が和らいだとはいえ、群衆は絶え間なく往来している。農民や鉱夫、浪人に自由労働者、
疲れ切った様子の農夫らがあばら家に蹲って談笑している。疲労と汗の匂いがミリーの鼻腔を刺激した。薪の煙と焼けた麦、干草の匂いが混じり合い、廃墟の物陰からは炊煙が立ち昇っている。あどけない子供が藁の人形を抱え、襤褸布のテントから道行く人々を覗きこんでいる。大穴《ホール》よりも漂う緊張感は薄いが、人々の表情はより陰影に富み、疲れ切った夕暮れの虚脱感が静かに漂っている。同行者たちの足並みに合わせて巨大な都市門を潜りながら、ミリーは改めて旅をしているのだと噛み締めた。
――――
安全なポレシャ公邸へと辿り着くと―――真っ先にジーナ・
土嚢や木柵に囲まれた敷地内とは言え、警備は薄く、確証もないが、遊牧民たちが欠片ほどでも正気ならば、強力な自治都市の防壁内で他勢力の公館を襲撃したりはしない筈だ。もっともあのムーテに揉め事を避けようとするだけの理性が残っているかは怪しいところだと、誰もが思っていただろうが。
立ち止った【蛇】のマギーは、ため息を二、三度洩らしてから、ニナを抱きよせた。ニナは目を閉じ、暫くの間、肩を埋めていたが「生き残ったよぅ」と呟いている。「頑張ったね」とマギーはニナの頭を抱きながら囁いた。おそらくは――【蛇】のマギーでさえも緊張していたのだ。ミリーでさえ銃が欲しい、と思うような緊張感だった。もっとも、使いこなせるとも思えないし、馬鹿な真似をする機会さえなかったのは、逆によかっただろうが。
ニナと、それにイザベル・ミラーは、ライフルを持った相手に狙い定めて、瞬時に拮抗状態へと持ち込んだ。大して年の変わらない二人が、あっさりと死線に踏み込んだ判断に、ミリーは些かの驚愕を隠せななかった。一つ間違えば死んでいた。戦う姿勢を見せなければ却って危険だったとエマに聞かされても、危険の匂いを嗅ぎ取って最適解の行動をとるのは、早々に出来ることではない。もっとも、ミリーはしがない放浪者の娘で、戦う訓練を受けた訳でもない。生き方が違うのだから、「気を病む必要はない」とエマ・デイヴィスは慰めてくれた。ただ同時に、牧者や遊牧民が敵に廻った際には、年端のいかぬ少年少女さえ侮れないね、と嫌な未来を予言するかのように呟いてもいたが。
「後で話そう」一堂――特に大人たちにそう告げてから【蛇】のマギーはニナを連れて、忙しそうに立ち去った。
ルーク・アンダーソンやエマ・デイヴィスは深刻な表情を浮かべて目配せし、ジーナ・
イザベル・ミラーだけは「いや、知らんけど。『
同年代とは言え、ミリーはなんとなく、ニナとイザベルが苦手だった。
ニナは寡黙で頭の回転が速く、口を開けば辛辣な口を聞いてくるので、一言一言を喋る度に緊張させられる。イザベルはイザベルで、最初は格好いい娘さんだったのに、ちょっと親しくなったら酷かった。突然、思い出し笑いを洩らしたり、どうでもいい事を延々と話し続けたりするのは止めて欲しい。奇人の類だし、本当に距離感の詰め方がおかしい。妙な娘ではあるが、度胸の持ち主ではあるのは、多分、皆が認めていた。この時のイザベルも、馬鹿っぽい喋り方で「ムーテは無いわ。ムーテは」と呟いていた。どうせ大したこと言ってないのだろうな。と思いきや、「ミラーの血筋が知らんのなら、筋の通らん話だな」と残った大人衆にジーナ・
【蛇】のマギーとニナが立ち去っていた町並みを眺めてから、ミリーはため息を漏らした。エマ・デイヴィスが焼いた麦のパンに屑肉と野菜、ヨーグルトソースを挟んだ食べ物を持ってきてくれる。至れり尽くせりだ。有難く受け取った。
牧者や遊牧民らが好む食べ物で、屋台でも良く売っている。もそもそと口に運びながらも、ミリーは膨れていた。
「なにを膨れているの?」とエマ・デイヴィスは指を頬に当てて押してきたので、ミリーは、ぷふぅと息を洩らした。ルーク・アンダーソンが微笑ましいものでも見たかのように、フッと笑った。
「だって、あのさ……こんなのってないよ。マギーは皆を巻き込みそうになったのに……」危なかったんだよ、と呟いているミリーは腹立たしいと言うほど露骨ではないが、抗議を上げてみると、エマ・デイヴィスは微かに首を傾げた。
「マ、マギーの災難は、でも、ひ……他人事《ひとごと》ではないねぇ」エマは落ち着いた様子で言うと、横たわった丸太へと腰を下ろした。
彼方を見るような遠い眼差しで夕暮れの空を少し眺めてから、エマは口を開いた。
「あ、或る日、家畜泥棒を殺す……居留地を襲ってきた盗賊を殺す。酒場の揉め事で人を殺す。属した徒党の抗争で人を殺す」淡々とした穏やかな口調で、しかし、エマ・デイヴィスは静かに語った。
「誰かの恋人かも知れない。家族だったり、命の恩人かも」
「……一人殺す。二人殺す。三人殺す。段々、積み重なって、誰の怨みを買ってるか、自分でも分からなくなる。そうして、何処かにエマ・デイヴィスを殺してやりたいほど憎んでる奴が生まれる。きっと、ルーク・アンダーソンを殺したい奴もいるし、今日は【蛇】のマギーを殺したい奴が出てきたね」ふっと、言葉が途切れた。
ルークは無言で珈琲を啜り、ジーナ・
「わたしはいない……と思いたい。殴られたり、奪われたことはあるけど、逆はないし……弱虫だとは思うけどね」
「良い生き方だ」とルークが訥々と言った。
皮肉と疑ったのか。ジーナ・
「ありがとう。褒められたのは初めて」
エマ・デイヴィスは、静かに【リドリーの娘】ミリーを見つめた。
「私たちは、過去に屍を踏み越えてきた。他の誰かの怨恨に巻き込まれても、誰も責めない。もしかしたら、私が巻き込むかも知れない。
何時か、誰かに殺されるまで、そうやってずっと戦って生きていくのさ」告げたエマ・デイヴィスは、ミリーが泣きそうな表情をしているのに気づくと、泣き止むまで肩を寄せてくれた。