黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_58W 【双つ星亭】

 黄昏時の街路を歩くマギーは、常よりも用心深く振舞っていた。路地の曲がり角では、数秒立ち止って後を追ってくる者がいないかを確かめ、階段を昇っては直後に降りる。店の軒先で時間を潰してるように見せながら、唐突な動きで裏へと抜ける―――いずれも、追跡者を撒くような動きだ。タリウス――遊牧民の王《ムーテ》を名乗るヒステリックな若者が刺客を送り込んでくるのをマギーは警戒していた。

 隣を歩くニナは、犬のようにスンスンと鼻を鳴らして大気の匂いを嗅いでみる。何時もの家畜と人間の匂い。時折は、耳を澄ませてもみる。喧騒に紛れる無数の靴音――サンダルや木靴、ゴム底など雑多な足音から、遊牧民が好む堅革の長靴が打ち付けられる音だけを探してみる。この時期の自由都市は、よそ者が多すぎて判別しにくいが、特に特徴的な靴音は追ってきていないように思えた。

 

 傍目には、ビクビクしているように映ったかもしれないが、マギーが臆してないのをニナは良く知っている。曠野の旅路にて追い剥ぎや蛮族に追われた際、マギーは何時も今のように廃市街や裏通りなどの入り組んだ地形に巧みに誘い込んでは、綽名である【毒蛇】のように冷酷、かつ素早く相手を仕留めてきた。素手にナイフ、手斧やクロスボウ、そして投石器や絞首紐など、あらゆる武器を使い熟して、音もなく返り討ちにした賊の数は、両手の指でもなお足りない。口では弱くなったと自嘲しているマギーだが、戦闘技術への研鑽や工夫を今も怠らない。

 

 人数と装備に優越する盗賊団《バンディット》や馬賊ならさておき、生半な賊の二、三人は闇の中で造作もなく屠ってしまう。一部の戦士を除けば、大半の人間は感覚において鈍く、反応は遅く、そして脆い。変異獣や野犬の群れの方が、マギーとニナにとってはよほど恐ろしく、そして手強かった。

 

 しかし、マギーとて不死身ではない。孤立無援の只中に複数の刺客が差し向けられれば、生き延びられる望みは薄いだろう。

「あと、ほんの少しの時間があれば……」ニナが思わずと言った風情で吐露すると、「……愚痴を言っても始まるまいよ」とマギーは笑った。しかし、あと五年。いや、二、三年あれば、刺客を送られたとしても、迎え撃つ準備が整っていた。武器も買い揃え、幾人かの武装した仲間が揃っていた。商売は順調で、マギーには統率力とカリスマがある。数人のささやかな徒党の結成と訓練は、充分に手の届く範囲であった。そして、それで大概の脅威には対処できたはずだ。だが、今、現実に此処にいるのはマギーとニナだけだ。しかし、誰もがそうするしかないように『いつだって、手元の札で勝負するしかない』のだろう。

 

 勿論、マギーは、巧妙で狡猾な戦士である。しかし、都市の闇には、負けず劣らずの腕利きが―――或いは、それ以上の技量の刺客が潜んでいても不思議はなかった。 

 果たして、ムーテ・タリウスの櫃《ひつ》には、そうした用心深い熟練者にも危険な勝負を承知させるだけの銀が詰まっているのだろうか。マギーも相当に羽振りの良い行商人ではあるが、流石に数十人の配下を持つムーテ――遊牧民の間で『王』を意味する称号の持ち主相手に財力勝負となると、これは楽観視できるものではなかった。

 

 黄昏時。自由都市の街路には、建物の影が長く伸び、石畳の凹みに溜まった水に微かな夕闇が映っていた。繁華街に近いとはいえ、裏通りの狭い路地に人通りはまばらで、足音は街路の壁に反響し、小さな物音も異様に大きく聞こえる。幾年も通って一帯の物陰や死角まで馴染んだ薄暗い通りをマギーはそれでも慎重に歩き、ニナは音もたてずに背中を追いかけた。

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 自由都市ズールに夜の帳が舞い降りていた。【双つ星亭】は繁華街の中ほどで繁盛している酒場だ。主人はマーカス・ダウエル。若い頃には相当に浮名を流していたと古い常連たちは口を揃えるが、恰幅よく、毛根が後退した風貌には、かつての恋多き男の面影はまったく窺えない。与太話としてはもう一つ。若き日のマーカスは、高名な冒険家、かつ腕利きのガンマンだったとも囁かれていた。

 

 派手に名を売ったガンマンが勝ち続けるのは難しく、長生きして引退するのは、さらに難しい。マーカスには、目立つ場所に傷一つない。笑うと金歯が光る。商売人らしく愛想は良いが、治安の悪い場所にも関わらず、騒ぐ客はそれほど多くはない。マーカス・ダウエルの様々な伝説のどれが真実で、どれが虚構なのか。虚実定かならぬ噂の是非は、赤の他人にはつかないが、少なくとも、主人として大きな酒場を繁盛させている辣腕ぶりだけは確かなものだ。そして本人が武勇伝を語る事もなく、居心地のいい空間を提供してくれているだけでマルグリット・モイラには充分だった。

 

 マルグリットは【双つ星亭】に部屋を取っていた。今は一人、奥の席に陣取って薄いエールを啜っているように見える。背後には分厚い柱と壁だけがあり、近くには窓もなく、分厚いテーブルに身を伏せる事が出来る薄暗い角がお気に入りの席だった。壁を撃ち抜くほどの銃を持ち出してまで命を狙ってくる相手は、自由都市にもそう多くはいない筈だ。

 

 華やかな大通りの商館や宿屋から一筋外れただけで、石畳は継ぎはぎになり、店先の看板も塗り直されぬまま褪せている。昼間は荷馬車の軋む音が絶えないが、日が暮れると道は急に暗がりを増し、外の街路を往来するのは商売に出遅れた行商人か、仕事明けの労働者ばかりとなるが、真っ当な市民や労働者が入り込むことは滅多にない。

 

 酒場は石造りの二階建てで、梁は煤け、壁には古い黄ばんだ貼紙が何枚も剥がされかけていた。窓は煤で曇り、外から中の様子は窺えない。危険な日没後にも関わらず、薄暗い室内には、油煙と煙草、酒精と古樽の匂いが籠もっていた。掠れた笑い声と、賽子の転がる乾いた音が何時も響いている胡乱な酒場だが、客層は幅広い。

 

 粗野な毛皮服を着込んだ鉱夫や牧者。腕組みしてカードを睨む賞金稼ぎ。目も彩な衣装の踊り子たちの舞台の下、今宵の鴨を探す賭博師《ギャンブラー》もいれば、濃い化粧の娼婦が客を見繕っていた。隊商の会計が仕事を探す傭兵と交渉している傍らでは、非番の警備兵と荷を捌いたばかりの密輸業者が隅の方でなにやら密談している。誰もが背を壁に向け、警戒の視線を絶やさず、傍らに剣や銃を携えていた。壁に掛けられたランタンや不安定に切れる電灯が、ぼんやりと琥珀色の光を落とし、客の顔の皺や傷跡を照らしていた。時折、店を間違えたのか。扉を軋ませて正直な労働者や余所者の渡り人(オーキー)が入ってくるが、客たちを一瞥するや、回れ右して表通りへと姿を消すのが常だった。(……悪党の見本市だな)思いながら、マルグリットは口元にエールを運んだ。煮沸した湯冷ましでさらに薄めており、殆んど水と変わらない。誰かに狙われている時期、マルグリットは殆んど酒を口にしない。

 

 マルグリット・モイラは、自由都市ズールではそれなりには、顔の利く女であった。賞金稼ぎ時代の伝手の幾つかはまだ生きている。馴染みの酒場に顔を出せば、大きめの徒党の動向を追うくらいは造作も無かった。もっとも取引相手となると、かつての同業者――海千山千の賞金稼ぎや、油断ならない傭兵にレンジャーで、こいつらは手元の情報を相手が欲しがってると勘付いた瞬間に値を吊り上げてくる。

 

 油断も隙もない連中だが、それでも荒事に携わる無頼にしては、比較的に真っ当な類ではあった。情報の価値にも拠るが、踏み込む場所や取引相手を間違えれば―――迂闊に舌を滑らせて、価値ある情報を持つと見做されれば、監禁されて情報をすべて抜かれたり、最悪の場合、独占する為に喉をかき切られる者もいる。

 マルグリットも都市の知らない地区には、迂闊に足を踏み入れない。【双つ星亭】に屯する連中は、精々が虚偽やブラフを用いて小金を巻き上げようとしたり、訳知り顔(わけしりがお)で此方の情報を引き抜こうとしてくる程度の善良な連中である。勿論、マルグリットも身の丈に余る情報は扱おうとはしない。

 

 マギーも時折、用もないのに酒場に顔を出してはどうでもいい情報を交換したり、時々はつまらない話に小金を支払っている。特定の情報目当てと言うより、最近の大きな話題を知ったり、繋がりを維持し続ける為の取引も兼ねている。幸いと言うべきか、或いは警戒するべきかも知れないが――『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』は、かなり派手に動いている徒党らしく、酒場の主人マーカス・ダウエルと数人に話を聞き込んだだけで概要をそれなりに掴むことが出来た。

 

 酒場の常連には、事情通を気取っている行商人や賭博師などもいて、こうした都雀《みやこすずめ》連中には、高い酒の一杯も気分良く奢ってやれば、上機嫌で触りくらいなら教えてくれるが大抵、大したことは知らない。或いは、マーカス・ダウエルも同類かと勘繰りたくなる時もあるが、酒場の主人の噂話は少し値が張り、そして確証が取れている事実と単なる噂を前置きで分けてくれる。情報を扱う業者としては、慎重で、それなりに信頼がおける人物だと見做してもいいだろう。

 

 湯気を立ててる分厚いパンをナイフで切り裂きながら「あれは、キミ。大地の舎人(キーパーズ・オブ・ランド)の残党だよ」マーカス・ダウエルは呟いた。

「昔、スネイクバイトに滅ぼされた西方の有力部族だね。ウロボロスの伝説を彩る過去が墓石の下から蘇ってきたわけだ。キミ」クスクスと笑うマーカス・ダウエルにマルグリット・モイラは「……懐かしい名を耳にしたな」と鋭い視線をくれた。

 

 マーカス・ダウエルは、慣れた手つきでレタスとトマトを切り刻み、分厚いハムと一緒にパンへと挟み込んだ。それから切り刻んだ人参をオリーブオイルを塗った鉄板の上に載せる。

「『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』は人を集めてるね。無宿者《ノークォーター》に流れの牧者に傭兵、逸れ者のレンジャーに曠野の果てから無法者《アウトロー》や部族もやってきている。極めつけは、ランツクネヒトの小徒党も加わっているそうだ」手際よく手元を動かしながら、マーカスは囁いた。

「数は?」人参の走りのソテーを眺めながら、マギーは尋ねてみた。

「二十や三十では効かないね。大半は有象無象だが、それと知られた腕利きも混ざってる。油断は禁物ですよ、キミ」

「それほどか」とマギーは呟いた。集まるものか、とも思う。そして人口の薄い曠野で十人の腕利きを率いれば、どれほどの事が出来るか、マルグリット・モイラは良く知っている。

 

「……そこら辺の雑多な放浪者を集めるのとは訳が違う。手練の傭兵や無法者《アウトロー》を含んだ数十人と言うのは、ちょっとした軍団だよ、キミ」六月の旬のジャガイモを潰したピュレにバターとクリームを混ぜながらのマーカスの警告。

「それこそ、小さな街くらいなら征服できる」とマギーの呟きにマーカスは頷いた。

「……王《ムーテ》か」マルグリットは、低く呟いてみる。

「タリウス・ヴォルトゥリウス」マーカスは神輿にされている青年の名前を呟いた。

「クルチの大祖ヴォルツが子孫――このクルチ汗ヴォルツと言うのは、大昔に東方でちょっとした帝国を築いた遊牧民の英雄だね。で、幾つかある血統のうちで、もっとも由緒正しいひとつがヴォルトゥリウス家」マーカスの説明に、マルグリットは考え込んだ。

 

 ……ムーテと言う称号にそれだけの威光があるとして、しかし、連中は、果たしてなにを目論んでいるのだろうか。何処か手薄な街に村の幾つかも征服して、文字通りに小王国くらいは築けるかも知れないが。マギーの呟きに対して「俺もそれが気になってね」鳥の臓物を切り刻んで脂で固めたパテを作りながら、マーカスは、器用にウィンクしてみせた。

「多分に数合わせだろうが、連中。そこら辺の廃墟生活者や浮浪者《ホーボー》の徒党まで呼び込んでいてね。鼻薬を効かせた浮浪者《ホーボー》を幾人か、潜り込ませてみたんだよ、キミ」

 マーカス・ダウエルの抜け目のなさを称賛するように、マルグリットは軽く頷いた。

 

 酒場の主人は微かに目を細め、口元を寄せて囁いた。

「なんと、目的は、西方デン王国の征服……本人に言わせれば、捲土重来らしいが。驚きだね、キミ」

「……正気じゃないな」マギーは一言で切って捨てた。

 『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の戦力であれば、小さな街のひとつくらいは征服できるとマルグリットは見做していた。逆に言えば、それ以上は難しい。

 事は、兵の数だけではない。兵団を養い続けるだけの糧食に戦力を維持する為の軍需物資に給料として資金も必要となる。大義名分もなく占領すれば、逃げ出した支配層の逆襲も警戒しなければならない。ましてデン高原――仮にも王国を名乗る勢力ともなれば、兵の数も百やそこらでは効かない。王国成立初期に叛乱を目論んだ勢力を粉砕し、その後も高原に野心を抱いて食指を伸ばしてきた傭兵団や遊牧民、略奪者《レイダー》徒党と粉砕してきた王国軍には、最低でも、三百からの訓練された騎兵が揃っている。マルグリット・モイラは良く知っている。かつて、その新女王から、勧誘を受けたのだから。

 

 いずれにしても、本気ではあるまい。大義名分――兵を集める為の単なる口実とマギーは判断している。狂った王《ムーテ》だけは本気かも知れないが、他の幹部が抑えに廻るだろう。マギーの知るコルが、無謀な計画に打って出るとも思えなかったが、しかし、警戒はして然るべきでもあった。

 無駄に兵を集める筈がない。権威や名声とて無尽蔵の力ではない。目的が何であれ、兵を集めたのであれば、近いうちになにかしらの行動を起こすはずだ。或いは、デン王国内に裏切り者なり、亀裂があるなど、マギーの知らない勝算があるかも知れないが。推測に推測を重ねるしかない状況に、マギーは僅かな苛立ちを覚えた。

 

「用心したまえよ。どうにもムーテはよほど短絡的なお人らしい」マーカスは淡々と忠告を口にした。それは知っている。

「そして『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』からすれば、キミは仇敵の一人でもある。ポレシャ市の庇護も守り切れるとは限らない」言葉を続けながら、マーカス・ダウエルはなにかを推し測るようにマルグリットを見つめていた。

 

 

 賞金稼ぎや旅商人、廃墟漁り(スカベンジャー)たちが集まる酒場の主人として、普段のマーカスは特に目立って誰かに肩入れする事はない。馴染とは言え、マルグリットは安い客の一人に過ぎないのだ。

(……私が奮戦する事が、マーカスの利益になるのかな?駒として嚙合わせるつもりか?ふむん、穿ち過ぎかしらん?)

 情報を商いとして扱う酒場の主人は、果たして、なにかしら思惑を抱いていているだろうか?自由都市ズールの裏側は、有力商人や貴族、密輸業者に都市軍がせめぎ合う百鬼夜行の暗黒絵図だ。誰かしら、有力な依頼者が大金を積んで『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の動きを探らせていても全然おかしくはない。

 或いは、マルグリットの動きも利用するつもりかも知れないが、一介の元賞金稼ぎにマーカスの思惑を測ることは出来なかった。ただ単に、手助けする程ではないが、多少の感傷を洩らしただけかも知れない。他人の思惑――特に情報業者のそれなど、到底、図り切れるものではない。

 

「……他の幹部が、それを許すとも思えないが」マルグリットは用心深く口を開いた。

「そういう幹部に心当たりが?」とマーカスが問いかける。

(そう、あからさまではないが、喰いついてきたな……)若干の躊躇をしてから、マルグリットは名前を明かした。

「……コルだ。話の分からない男ではない」言ってからマルグリットは溜息を洩らし「食欲がなくなったな。ニナ。食べるといい」

 テーブルの上で料理の皿を押しやると、柱の影から細い手が伸びてきて料理を受け取った。配置を承知している己の店で、すぐ傍らに潜んでいたニナの存在に気づかなかったのか。黒い服に黒く塗った刃物をベルトに挟んだ少女を見つめ、マーカスが目尻を微かに痙攣させた。

「おう。相変わらず、恐い娘たちを飼っている」思わず、驚愕を口にした。

 ニナの隠形の技量と酒場の主人の反応に満足しつつ、マルグリットはニナに低い声で話しかける。

「マーカスが知りたがっていたのも、恐らくそれだ。まだ、内情は探り切れていないのだろう。なにかしらの交渉のタネにするのかな」本人を前に思惑を分析してみる。

「コルは、信用できるの?」とニナが囁いた。

「信用とは少し違う。割に合わない戦いはしないと思う」マルグリットは考えながら、返答した。

 

「今のところ、私はポレシャ市にとって多少の利用価値がある。だから、コルは強力なポレシャと揉める真似はしない。私の人を見る目が曇っていなければ、の話だが」

 告げてから、思考の欠落に気づいて、マルグリットは顔を顰めた。

「ただ、ああした立場の人間は、しばしば裏切り者扱いされる事もある。期待し過ぎるのも、危険か」

「コルは、そう容易くやられる人間には見えなかったけど」とニナが首を傾げる。

「……物事を一つの側面だけで見るものは、視界の狭さで転がり落ちるが、純粋な闘争に限れば、考え過ぎるものを出し抜く事も多い」呟いたマルグリットは、マーカス・ダウエルに視線を転じた。

「念のために保険を掛けておきたい」薄い銀貨の束を帯留めした包みを二つ懐から取り出すと、机に置いて酒場の主人を見つめた。

 

「……昔のキミのようなタイプにとっては、コルは裏切り者にしか見えないだろうね」マーカスの言葉に、マルグリットは渋い表情を浮かべた。

「おお、勘弁してくれ。悪く言ったつもりはなかったんだ。ただ、わたしは今のキミの方が好きだよ、友人」とマーカス・ダウエルは抜け抜けと言ってのけた。

 

 

 

※※※※

 

 

 大型天幕の生地は厚手で熱を逃がさず、同時に外の冷気も良く遮ってくれる。しかし、天井や入り口には僅かに換気口が開いて、涼しさを伴った外気も運んでくれていた。天幕中心の囲炉裏には焼石が積まれ、上から湯が掛けられると湯気が立ち上る。

 蒸気がゆっくりと蒸し風呂を満たし、木製の簡素なベンチに腰を下ろした身体を熱がじんわりと包んでいく。

 

「俺の調べたマルグリット・モイラは、かなり羽振りの良い商人だ」蒸した天幕内に上着を脱ぎながら、ジークが告げた。

「ポレシャ市で何某の役職も持っている。揉めると厄介そうな手合いだな」言ってから「だが、耳にしていたウロボロスの実像には合わないな」鋭い目でリディアを見つめるジークの肉体には、無数の傷が刻まれていた。

 脇腹や肩は銃創で肉が歪み、喉や頬には白兵の切り傷が残っている。野獣や変異獣の牙や爪によって刻まれた引き攣れた痕跡も幾つとなく刻まれていた。

 

「……昔から、なにかと抜け目のない女であったよ」呟きを返したリディアの身体も、ジークと似たような様相だった。冬となれば、古傷が骨を軋ませるように痛み始める。各地を放浪しながら、弱小氏族の女子供を守り続けた戦士の痕跡――細胞再生薬は滅多に手に入らず、癒しきれない傷が蓄積していくが、同時に一つ一つの傷跡に、守った人々の記憶が伴っている。

 

「それほどの相手かね」呟いたジークは、才能と体躯に恵まれた戦士だが、まだ若く、高名な傭兵団やレンジャー、名うての無法者《アウトロー》とは相対したことがない。まして、ウロボロス――マルグリット・モイラ。元スネイクバイトとしてのリディアは、僅かに危うさを感じていた。

 

 ジークを仕込んだのはリディアだ。デンの戦場で拾った。身分の低い下級の召使いであったが、目つきに鋭いものがあった。

 デンの統一戦争の終結後。混乱し、分裂する幾つかの氏族に対して、新女王からの追放が宣告された。戦えぬ女子供も多かった。リディアが命令を仰ぐべき、母体であるスネイクバイトも割れていた。或る隊長は、全て見捨てて撤退せよと命じ、別の幹部は、新王の為に戦えと命じてきた。しかし、誰も、見捨てられた者たちの為に戦えとは命じなかったのだ。スネイクバイトの幹部たちが対立し、鉄壁の団結を誇った筈の結社が、本拠地では内紛一歩手前にまで陥っていた。

 

 しばらくの間、そう、スネイクバイトが落ち着くまでのしばしの間だけ、こいつらを守ってやろう、と。見捨てられずに同行していた合間に、スネイクバイトの本隊には闇の賞金が掛けられ、無法者たちの襲撃に拠って四散分裂していた。

 今もスネイクバイトを名乗る残党集団は幾つかあるが、リディアにとってのスネイクバイトは既にない。

 同胞の幾人かは消息も知れない。しばらく前から兆候は見えていた、と、そう嘯きながら、目端の利く者たちは鮮やかに身を引いていたが、離散に途方に暮れた者たちも少なくなかった。マルグリット・モイラは確かに賢しい女で、直属の部下たちの為に農地や工房を用意していたが、言うまでもなくリディアは見捨てられた側だ。

 

 湯気が籠る中、二人は暫しの快適さに身を委ねた。汗を搔きながら身体を少しずつ解きほぐすと、古傷に染みついた痛みがわずかに和らぐような感覚に襲われた。

「……侮らない方がいいな」とのリディアの呟きに、ジークは冷ややかな笑みを返した。戦闘薬の摂取に常人よりは多少若く、優っていようと衰え始めた女の肉体を、弟子の力量は明確に凌ぎ始めていた。だが、ジークはデン戦争には参加しておらず、スネイクバイトの恐ろしさを知らない。

「ウロボロスはそんなに強かったか?」とジーク。戦場で二十年、三十年と戦い抜いている傭兵隊長も少なくない。十年少しのスネイクバイトの活動期間を考えれば、軽く見るのも無理はないか、とリディアは肩を竦めた。

「……いやな女だよ。色々な意味でな」リディアの知るマルグリット・モイラは、真正面からの戦闘も強かったが、嫌がらせをさせても一流でもあった。

「憎んでるのか?」ジークの問いかけに少し考えてから、リディアは訥々と告げた。

「いいや。だが……何かの巡り合わせで戦うことになった時、手の内を知らなければ、良いようにされて命を落としかねない。そんな程度には手ごわい相手だ」

「俺に直接の怨みはない」

「……臆したのか?」とリディアがおかしそうに尋ねてみた。

「あんたが望むのであれば、誰であろうと打ち倒してやるさ」頭をタオルを被りながら、ジークが強く断言した。最近のジークのリディアを見つめる視線は、妙な熱っぽさを含んでいるような気がした。下腹に僅かに熱さを感じたリディアだが、苦笑して「焦るな」と首を振った。まだかつての仲間と戦うとも限った訳でもないのだ。

 

 

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