黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_58Y 念願のサドラン牛を手に入れたぞ!

 文明が崩壊した現在の世に、世界地図は存在していない。正確には、複数ある世界地図のどれが本物で、どの座標に位置しているかを知る術がないというべきか。

 愉快犯が適当に偽物をばら撒いたのか。地球環境の激変で大陸が浮沈したのか。それとも、巨大な仮想世界の地図が現実でも流通していたのか。測量しようにも、世は戦乱の群雄割拠時代。広域地図は再び軍事機密となり、文明地でさえも製作に至る過程にあらゆる困難が立ちはだかっている。まして大陸の輪郭を把握するには、危険な廃墟や汚染地帯、怪物たちの縄張りを踏破しなければならない。

 

 兎も角も、ポレシャ市やズール市での夏は昼が長くなり、冬は夜が長くなる。だから、曠野の地はかなり緯度が高いと推測されている。今いる大地が、地球か。さもなくば、地軸の傾斜が地球と同じ程度の惑星であれば、の話ではあるが。

 

 六月下旬のズール市の日の出は、おおよそ五時半。これは北緯45度付近に相当するが、四時半頃には、空は淡雪のように白みかけていた。マギーとニナは五時には起床している。ズール市滞在中は、暑さの厳しい正午辺りには昼寝もし、電気の明かりに夜更かしも楽しんでいる。

 

 

 小麦のパンにたっぷりのバター。朝採れたばかりの鶏卵の目玉焼き。オリーブオイルと酢を混ぜたドレッシングとトマトとレタスに掛ける。程よく塩の効いた厚切りのベーコンとチーズを一切れずつ。マヨネーズはブランド品のまろやかさに比較すれば、どうしても味が落ちるが、少量なら問題はない。朝からお肉は胃にもたれるので、ベーコンは良い選択だった。

 

 文明崩壊後《ポストアポカリプス》の流通もない世の中に、鶏卵は存外、値が張った。高級品でもないが、ちょっとした贅沢で、中世は勿論、近世においても庶民には余り行き渡らず、色々と例外の北米を除けば、日常的に口に出来るようになったのは、20世紀に入ってやっとである。

 鶏舎での養鶏。その発想と知識が残っている黄昏の世(トワイライトエイジ)においては、都市や大型居留地で安定供給はそれほど難しくない。文明崩壊以前に比べれば効率は大分落ちるにしろ、卵は存外、安く手に入った。むしろ、郊外の農村地帯よりも、卵に限ってはやや安価かも知れない。鶏舎を作れる土地であれば兎も角、放し飼いとなると、鶏の飼育密度は低くなり、大半が自給に廻される。捕食者もいれば、盗人も出、さらには思わぬ事故で失われる事もある。

 

 稼いでいる行商人にしても、マギーとニナは良い朝食を楽しんでいる。食べる量は違っても、二人は大抵、同じ食事をとっている。徒弟と言う身分は、親方次第で天国にも地獄にもなるものだが、それにしても行商の徒弟でニナほどの贅沢を味わえるものは少ないだろう。マギーとは血は繋がらないが、ほぼ仲の良い姉妹のように過ごしている。時には娘同士で戯れる夜もあって、ニナは他の行商人の徒弟からは、嫉妬混じりに尻小姓呼ばわりされた事もあった。言いたい奴には言わせておけ、とニナは鼻で笑っている。

 

 ベッドの上、パジャマと下着のまま、ゴロゴロしながら据え膳(ベッドトレイ)での食事を終えると、ニナも商売用の服を着込んだ。総額で千五百都市通貨ほどのかなり良い代物で、もちろん定期的に洗濯されている。

 部屋を出て階下へと降りると、ポレシャ公邸の庭先や廊下で既に起きていた同年代や年下、少年少女の視線が突き刺さった。

 

 徒弟の小僧、小娘らにとって、他の商人の徒弟がどう扱われてるかは、やはり興味を覚えるのだろうか。幾人かは観察するように、幾人かは興味深そうにニナを眺めている。ニナも気にした様子もなく、かと言って無警戒でもなく、一瞬だけ視線を走らせて視線の主たちを把握する。

 中には、ニナより年上でなおも使い走りであろう青年や女性たちの恨みがましい視線も合った。二十代を半ば越えても襤褸服を纏った下働き。それも商会や店持ち、隊商ではなく、うだつの上がらぬ行商人の徒弟では、年下の丁稚が美々しく洒落てるのを見るのも、溜まらぬ気持ちだろうと思う瞬間もあった。

 

 

 丁稚ひとりの衣食などたかが知れているものを、食い詰めた子供など幾らでもいると考えて、使い捨てるのか。或いは、なにも考えずにただ切り詰めているだけかも知れない。

 そう考えてから、いや、一人の衣食とは大変なものか。とニナは思い直した。マギーは骨惜しみしない働き者だが食費は多めであり、数年前には賃金とトントンで中々に貯蓄も出来なかったのを思い出す。食うや食わずで行き倒れるものも少なくない世の中、独り立ちするには、さらに相当に元手も必要だ。日雇い仕事で元手を貯めるにしても生半な苦労では済まぬし、いざ商売に乗り出しても上手くいくとも限らない。

 勿論、マギー以上に稼いでいる店持ちもいれば、華美な制服を纏った徒弟もいるが、ニナが特に嫉妬の目を向けられるのは、序列や努力が正当に評価されるとも限らない徒弟暮らしに、親方マギーに露骨に猫可愛がりされているからだろうか。

 

(……そうか、そういう見方もあるんだな)とニナはむしろ、意外の感を覚えたものだ。マギーとニナは互いに疑似姉妹であり、むしろ商売をやりだしたら予想以上に上手く運んでしまった感なので、姉妹の間柄こそが本復であった。

 

 ニナは警戒した。優越感は、例え微かに覚えていたとしても表に出しはしない。哀れみも、また見せない。親方に丁寧に勉学を教えてもらい、独り立ちの準備のために顔を繋がせてもらう徒弟もいれば、ほぼ奴隷扱いで惨憺たるさまの丁稚もいる。人は成るようにしかならない。己が運に恵まれていたことは確かだが、だとしても、ニナには立場を変わってやるつもりなど毛頭なかった。マギーの隣は、ニナのものだ。寒空の下、一枚の毛布に包まりながら夜露を凌いだ頃から、そう決まっていたのだ。

 

 

 

 庭先に出ると、巨大な毛長牛が庭をのんびりとした歩調で歩き回っていた。なぜか、ルーク・アンダーソンが毛長牛の綱を引いており「うおおお!わたしは曠野の帝王だァ!」牛の背中にコアラのようにへばり付いたイザベル・ミラーが馬鹿な事を口走っている。イザベルの肩には猫がへばりついていて、牛が楽しげに間延びした鳴き声を上げている。ブレーメンの音楽隊か?

 イザベルは年上の筈だが、楽しそうでなによりだな、とニナは思った。

「朝っぱらから楽しそうでなによりですね」ニナが冷ややかに言うと、気づいたイザベルが鼻を鳴らし、軽く手でトントンと叩けば、毛長牛があっさりと足を止めた。

「おぉ、命がけで合力してやったのに。そうか、キミはそういう奴なんだな」ニナの言葉を拾って、其の儘に反応せずに先日の出来事を絡めてきた。

 ちょっと演技がかった頭の回転の速さ。

(こいつ、頭がいいんかな?)韜晦してるのだろうか。侮らん方がいいな、と反省しつつニナは手を振って「それはそれで感謝してるよぅ」ご機嫌を取るように諂いの笑みを向けた。

 

 サドラン牛が巨大な鼻面を近づけてきた。円らな瞳が観察するようにニナをじっと見つめてくる。牛の巨大さにニナはちょっと怯んだ。ゴワゴワの毛は見るからに堅くて強く、イザベル・ミラーも毛布を鞍のように牛の背に敷いている。

「脂で固まったサドラン牛の毛は、小口径の銃弾を弾くこともある。サドラン牛の騎兵によって牛を騙し取った町の守備隊が叩き潰されたこともあるのだ」

 顔を牛の背に埋めながら、イザベル・ミラーが説明してくれた。

「頭のいい子らだ。馬鹿な犬とかよりも、人の言葉を理解してる節もある」

 イザベル・ミラーが身を乗り出すと、「嘘の匂いも嗅ぎ分けるのだ」ニナの顔に鼻を近づけてスンスンと鳴らした。果たして牛の事か、イザベル自身の事か。

 ニナがちょっと気圧された所に、「ミラー。先日は助かった」とマギーが割って入ってきた。それからニナの耳元で「悪い癖が出たね」と囁いて笑う。第一印象で侮り過ぎたけど、ずっと馬鹿っぽく振舞ってたのにズルい。ニナは、小さく下唇を噛んだ。

 

 イザベルは気にした様子もなく、気だるげに牛に跨ったまま、懐をごそごそといじり始めた。

「確か、ここら辺に……あった、これじゃ。見てみ」銀のメダルを見せつけてくる。

 ニナが手を伸ばすと「触んない。見るだけ」と引っ込める。どうしろと。

 草原を走る馬の意匠を刻印した銀の首飾りだった。

「一部の遊牧民や牧者仲間にだけ通じる標《しるし》だよ」と気だるげにイザベルは呟いた。

「全面的に信用できる代物でもない。偽物も出回ってるし、ある種の事情通には割れてるだろうけど、この標《しるし》は、身分証の一種なん。連中も似たような代物を持っていた。幾つかの系統があって、割符の種類から割り出したけど、連中は大昔にかなり広大な遊牧王国クルチを築いたヴォルツ汗の系譜だに」イザベルが説明してくれた。

 

 黄昏の世に、安全で頑丈な家屋や肥沃な農地は貴重であり、市民以外には売買出来ない都市や居留地は珍しくもない。建物や土地を所有できない放浪民や渡り人(オーキー)の集団には、財を装飾品や貴金属の形で持ち運ぶのもまた常套手段だった。

 

 そうした世情に、古い一族のうちには同胞にだけ分かるよう、装飾品に紛れて護符や記章を付けている者たちもあった。基本の振舞いとしては、数多の装飾品を付けている中、標《しるし》をさりげなく混ぜて、身内と思しき相手にだけさり気なく見せる。

 それ自体はありふれた、すり減った銀の騎族印貨。東方から流れてきた代物で、それ自体はありふれた古い貨幣にしか見えないが、一部の牧畜民に口伝された伝承には、かつて隆盛を極めた遊牧帝国の遺物として伝わっており、末裔を自認する者たちに仲間を見分ける秘密の標《しるし》の一種として機能している。遊牧民や牧者、一握りの牧童たちが珍しくもない幸運のお守りとして着けているコインを、イザベルもお守りとして身につけている。

 

 風の噂でニナも耳にはしていたが、しかし、あの時一目見ただけの連中の装束から標《しるし》に気づいて記憶していたとすれば、イザベル・ミラーの判断力や記憶力は尋常ではなかった。得々と喋ってるイザベルであるが、マギーとニナの反応を見て、「なんだ。もう知ってるぅ」ぽふんと牛の背に倒れ込んだ。

「そのヴォルツ汗の血統には今でもそれなりのネームバリューがあって、連中は氏族の若党だけでなく、傭兵や流れ者を集めてる……ってのも知ってそうだな」訥々とした言い方で口を挟んできたルーク・アンダーソンも、肩を竦めている。

「イザベルちゃん。アンダーソンさんもだけど。ニナちゃんポイント高いですよぅ」今度はニナが子供っぽい少女のように剽げて、敢えて親しげに振舞ってみる。威圧と暴力を伴う曠野の交渉とはまたルールの異なるゲーム相手として頭を切り替え、擬態に拠る韜晦や軽侮を含めた交渉ゲームの対戦者とイザベル・ミラーを見定めてみる。深刻なやり取りではないだけに、経験値を積むにはちょうどいい相手だ。

 

「ニナちゃんポイントはなにか貰えるのかー?」牛にだらしなく乗ったままのイザベル・ミラー。

 マギーを横目でちらりと見るが、親方マギーは微笑んで口を挟まない。大人のルークも、未成年たちの駆け引きを面白そうに見守っているようだ。

 懐から手紙を取り出して一瞥してから、ニナは意味ありげに、えへへと笑った。

 

 

 

 ※※※※

 

 

 自由都市ズールからやや北東に掛けての起伏の多い地形には、幾つかの川床や谷が走っている。季節によっては枯れる細い川が、真夏には山岳からの雪解け水によって並々と水を満たしていた。俗にいう季節河川《ワジ》に、遠来からも川面が陽光に反射して煌めき、岸辺一帯には葦や小さな草が生い茂っている。

 

 数千頭の山羊や羊、驢馬に加え、馬、牛までが集まる曠野の大家畜市の風景は、流石にイザベルやルークも初めてで、河原の近くの草原を埋め尽くすような家畜の黒い波に息を呑んでいる。獣たちの体臭、乾いた草の匂い、混ざる糞尿の匂いが鼻を突く。若いジーナ・C(クレイ)も興奮した様子で魅入っている。

 

 地の果てまで広がるような仮設建物や天幕、そして囲い。驚くほどに高く積み上げられた飼葉の運送馬車がごとごとと列を為しては、建物の間へと吸い込まれていく。蹄のざわめきや鳴き声の合唱が風に乗って遠くから響いてくる。家畜の移動だけで舞う砂埃が壁のように天に広がっている。天幕が風に揺れ、穏やかに波打っていた。籠に入れた鶏や家鴨、ぶうぶうと呻きながら運ばれる豚や塩漬け肉なども大量に売られている。長く牧者として放浪してきたエマ・デイヴィスにしても、これほどに壮大な光景を目にした経験は、滅多にないだろう。これも経験とばかり付いてきた、おまけのミリーやガイ少年など、口をポカンと開けていた。

 

 

 大家畜市の諸々の仮設建設の一角で、そのサドラン氏族の男は待ち受けていた。

「知らせたとおりに、二頭は融通できるよ」

「有難い。ありがとう、オーウェン」行商人マギーはサドラン氏族の男に頷きかけてから「ポレシャ市の手形で大丈夫かな?」と尋ねる。

「んー。お前さまが裏書きしてくれるならいいよ」事もなげに言うサドラン氏族の男だが、手形の裏書きとは不渡りの際の保証人である。

 一頭で三千から六千のサドラン牛の不渡りともなれば、最大で一万近い支払い義務を生じることになる。マギーなら払えるにしろ、途方もない大金ではあった。

「それはまあ」とそれを事もなげに頷いたマギーは、イザベル・ミラーとルーク・アンダーソンへ振り返って「二人とも、相応の元手は準備してきているよね」と確認してきた。

 

 

「サドラン牛のね。売り手を仲介してもいいと相談して決めました。二人の旅の目的ですよね」ニナはイザベル・ミラーとルーク・アンダーソンに呼び掛けた。

 

 サドラン牛買い付けの仕事に当たって、まず最大の関門が輸送そのものであれば、最初の関門は買い付けだろう。家畜市に集まった膨大な牛飼いや牧者の中から、サドラン氏族を探すのも、紹介が無ければ中々に困難である。

 

 もっとも、難事だけあって報酬も相応の金額が用意されている。流石に滅多にない案件ではあるが、サドラン牛をポレシャ市に転売するだけで千五百から二千都市通貨の現金が手元に入ってくる。これはおおよそ、ポレシャ市くらいの大型居留地で仕事に恵まれた自由労働者が半年働いたほどの金額だ。仕事が見つからない時期もあれば、薪や食料、家賃などの日々の支出は中々に減らせない。

 

 イザベル・ミラーは沈黙した。はしゃぐでもなく、様子を伺う態度で首を傾げている。やはり馬鹿ではないね、とニナは観察しながら思った。

 疑うのも無理はない。重ねて言えば、一千都市通貨と言う金額は、独り身の働き者が節約に節約を重ねて一年かけて貯められるかどうかの金額だ。 存外、少なく感じるかもしれないが、矢玉を買わず、食事や薪の質を落とし、壁の薄い安宿に雑魚寝をする夜は、怪物や屍者に襲われる危険もある、正しく命懸けの節約だ。

 

 一千都市通貨は、多分に人生を左右できる最小の金額だろう。向上心のある者なら、その纏まった金で訓練学校に通ったり、教本や工作器具を購入する。数頭の羊や山羊の番いを飼う。豚や鶏でもいい。或いは、土地を借りて、泥の小屋や天幕でも建てる。それだけで人生は大分に上向く。黄昏の世に、寄る辺ない放浪民が人生を立て直せるだけの力を秘めている。だから、若い渡り人(オーキー)や逸れ牧者、行商人にも、同じ冒険に出た者たちが少なくないし、きっと命を落としたり、人狩りの虜囚となった者たちもいるに違いない。それをくれると言う。信じる方がおかしい、とイザベルは受け取ったようだ。

 

 単なる償いにしては、余りにも大きすぎる。本物のサドラン牛か否かは見れば分かるが、まず、罠ではないか、と詐欺の可能性を探っているのだろう。それからマギーの真意を疑っている、と言うところだろうか。

 

 

 サドラン牛の売り手を紹介し、さらには取引の保証人にまでなっている。それほどまでは期待していなかったのだろう。多少の戸惑いを覚えているようだが、まずはルーク・アンダーソンが頷いてきた。

「イザベル・ミラーは?」とマギーはイザベルに尋ねてみる。欲しがっていたサドラン牛の売り手との繋がりを紹介したのだ。それは喰いつくだろうが、返答はやたらと上から目線だった。

「まあ、許してやっても良いかな」とイザベル。

「あっ。なんだ、こいつ。偉そうに」とニナ。

「ふひっ」と笑うイザベルに対して「それは有難いね」大人のマギーは闊達に笑って受け流すと、何かを問いたげなルーク・アンダーソンに頷きかけた。

 

「だが、本当にいいのか?」とルークが口を開いた。

 サドラン牛買い付けの任は、かなりの危険を伴う仕事だ。それがあっさりと終わりを告げて、ルークは些かの戸惑いを覚えているようにも見える。

「貴方たちの調達した資金について実は調べた。焦げ付くこともない」髪をかき上げながら、マギーが事もなげに告げる。

「うわ、抜け目ない奴っちゃ」とイザベルが鼻白んだようにもごもご言った。

 ルークたちは、地元ポレシャの両替商組合を利用したのだが、行商人マギーは、理事の一人と些か昵懇の仲だった。勿論、種明かしはしない。あからさまな公私混同にも見えるが、商人が取引相手の資産状態を問い合わせるのはよくある事例で、経済面の機密保持に、法もほぼ形骸に過ぎない土地と時代である。中世メンタリティだ。

 

「本当は、自分で買いこもうと思っていた購入枠だったけどね」とマギーの言葉に、「なぜ、そうしなかった?」とルークは眉を顰めた。

「貴方の事情は耳にしていた。多少、気に掛かっていたんだ」マギーは肩を竦めた。

 共通の知己であるポレシャ市傭兵長ジェイクの名をあげると「……ジェイクが」ルークは感じ入ったように深く吐息を洩らした。

「いい切っ掛けさ。件《くだん》の娘さん、助かるといいな」マギーの掛けた言葉に、ルーク・アンダーソンは、無言で幾度かを頷いた。青年の目尻に涙が光っていた。

 

「……わたしは、ついでか」とイザベル。口とは裏腹に、視線は早くもサドラン牛の群れを泳いでいた。

「ついでだよ。多少の縁があったからね。迷惑だったかな?」マギーの台詞に「いいや。いんや」と首を振ったイザベル。

「存外、気前がいいな。いや、有難い」と上機嫌で恭しい一礼をしてきた。此方はしかし、ルークに比べると、どれだけ感謝しているのかも分からない、年少の割に底の知れなさと狡猾さを漂わせていた。

 ニナが警戒を促すようにマギーに一瞥すると、親方は面白そうに苦笑してから「若くして機知を示す子は得てしてそうだよ」と囁いた。この一言はニナにはショックだった。少なくともニナ本人は、もう少し可愛げのある少女のつもりだったからだ。

 

 それからイザベル・ミラーは、サドラン氏族のオーウェンとの間に幾つかの問答を交わし、その値段について耳にした後、考え込んだ。値切りは出来なさそうだ。

「手形かな」金額を聞いたルークが呟く。

「手形だね」とイザベルも応じ、ふと思いついたようにガイ少年に振り返った。

「そうだ。君もグーちゃんを貸し出す時、契約金を手形で送ればどうかな?」

「手形って、なんぞ?」田舎から出てきたガイ少年が首を傾げる。

「そこからかぁ……」イザベル・ミラーは唸った。

 

 

 ジーナ・C(クレイ)も、サドラン牛を眺めていたが、しかし、眼差しには露骨な羨望の色合いが混ざっていた。

「わたしにもサドラン牛を廻して欲しいものだけど……」

 かなり羨ましそうではあったが、貧しい逸れ牧者のジーナ・C《クレイ》は、僅かな元手も用意出来なかった。何やらぶつぶつと呟いていたが、気を取り直した様子で頷いた。

「いや、羊十頭で満足すべきだろうね」一人で納得したのだろう。

「……本来、自分で稼いでたら、どれだけ掛かったかも分からない。うん」

「流石に、サドラン牛は廻せないよ」とやや気の毒そうに、しかし、ハッキリとマギーが告げる。市に雇われた銃士ルークや、家族のいるイザベルと違って、ジーナ・C《クレイ》には安定した職業や資産の裏付けもない。

「分かってる」

「でも、上手くいくようなら、来年も追加で投資するよ」マギーが告げると「再来年や、それ以降も、様子を見て欲しいね」しかし、さり気なく、追加の投資を強請ってくる。それなりに強かでもあった。

「考えておくよ。口約束だけでなくね」苦笑するマギー。

「うん」とジーナ・C(クレイ)は頷いて、マギーが差し出した手に気づくと、照れながらごしごしと服で手を拭いてから、握手を交わした。

 

 握手する二人を眺めて微笑んでるニナだが、内心、ジーナ・C(クレイ)を少しだけ恐れていた。武装した貧乏人は、誰でも恐い。おのれが裕福になってくれば、猶更だ。

 素直さに鋭さが同居しつつも、貧困を舐めているだけあってジーナ・C(クレイ)からは危うさが漂っているが、マギーとの取引が利益になる間は、そう簡単に馬鹿な真似はしないと思えるだけの理知や理性も窺えた。それでも黄昏の世には、ジーナ・C(クレイ)に限らず、飢えた人物との取引には常に猜疑の影が付きまとう。マギーが武装した徒党でもいればな、と苦笑交じりにぼやく所以だ。

 

 

 取引の話をおおよそ片付けてから、マギーは、エマ・デイヴィスに視線をくれた。

 正確にはエマと連れのミリーにだ。若干の躊躇を見せてから、マギーはエマに向かって歩み寄って「もし、良ければ、賞金稼ぎ組合の元締めを紹介しよう」口を開いた。

「……も、元締め?」エマの言葉にうなずきながら、マギーは説明している。

「マーカス・ダウエルは顔が広く、警備隊にも伝手を持ち、そして耳が早い。それが、君たちにとっていい事かは分からないが……」

 

「ミリー。どうする?」とエマ・デイヴィスが傍らの放浪民の少女に尋ねた。

「……ま、前に勧めたように、犯罪者なんか捕まえないでも、ポレシャに戻って違う場所で暮らしてもいいんだ。君は」エマの声は、ひどく優しく聞こえた。

「誰かを狙うことは、相手の仲間や身内にずっと復讐される螺旋の渦に飛び込むようなものだ。そんなことをしなくても生きていけるなら、それに越したことはない」

 そう言ってから、エマはミリーの肩を軽く叩いた。自分で決めろ、と言う事だろう。ミリーは俯いて、ぐずぐずとしている。

 

 ニナなら逃げの一択だろう。ヘレンは手強い評判の割に、捕まえてもさしたる利益もない。捕縛にさして拘泥する理由もなければ、世話になってるエマも危険に巻き込んでしまう。ミリーは、放浪者の徒党に良いように使われてるようにしか思えない。

 ニナと年齢が近い筈のミリーだが、イザベル・ミラーやジーナ・C(クレイ)よりも理解できなかった。少なくとも、その二人はこちらを裏切ったり、見捨てようとしても、動機ははっきりしている。利益と自己保全だ。

 

 結局、ミリーは「お願いします」と呟いた。

 胸を張って帰りたい気持ちが強いのか。それとも、ヘレンに怒りや怨みを抱いてるのか。或いは、どちらに転ぼうとも良い手を打ってるつもりかも知れない。

 マギーが溜息を洩らしてから、頷いた。或いは、ミリーが断ることを期待してたのだろうか。それでも、相手の要望に合わせて、選択肢は用意する。

 見た目よりも、随分といい人なのだ。

「皆、善良で気持ちのいい連中だ。全員が上手くいくといいのだけれど」天を仰ぎながら、マギーは呟いた。それはすこし難しそうと思いながらも、ニナも頷いた。

 

 

 

 

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