黄昏のガンダルヴァ   作:猫弾正

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03_59A 六月の終わりに……  レニ Leni

 マギーは骨惜しみをしない行商人であった。かと言って働き過ぎる事もない。丁度良い具合を保ちながら稼ぎと余暇を上手く両立させているのは、やはり中々の人物だろう。今も蚤の市に数ある露店や屋台を廻りながら、目ぼしい品々を次々と買い込んだり、跳ね除けたりしつつ、借りた驢馬の鞍袋に仕入れた品を積み込んでいた。

 

 時には、知り合いの露天商と世間話を交わしたりもする。

「そう言えば、蛇の刺青をした女を見かけたよ。遊牧民と連れ立っていた」と商人の話にマギーは耳を傾けている。

「あんたの仲間かとも思ったけどね。あまり見ない顔だった。で、アルキス商店にも出入りしているようだね」

「へえ、アルキス商店か」興味深そうに呟いたマギーは「昔馴染みかもね」と軽く応じてみせた。

 

 少し距離を取ってから石壁の下で立ち止ると、懐からメモ帳を取り出して、なにやら書き込み始めた。

 此のメモ帳は何冊目だろうか。耳にした数多の世間話や噂が膨大に描き込まれているが、当然に玉石混合であった。機械のように一気に検索できる訳でもないので、時折、暇を見ては貯め込んだメモ帳に索引を作っている。

 商売の情報を中心にしつつも、しかし、特に危険そうな盗賊団や略奪者の動向、屍者の群れの位置、変異獣の出没場所も記されている。特に探っていた訳でもないが、要警戒対象の『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の動向も含まれていた。

 物陰からそっと露店に視線を送りつつ「今の情報、もう聞いていたんじゃない?」ニナが首を傾げると「裏付けになった」告げたマギーは、手元のメモ帳に新しく聞いた情報と日時、そして聞いた相手を書き記している。重複した情報は、下の方に発言者と日時も書き足していた。

 

 マギーは時折、かなり気前よく情報に金を払う。それに先日、サドラン牛の購入枠を他人にあっさりと譲りもした。数千単位の儲け話なのに。

 ニナには、それが少し不満だ。マギーの視野の広さや賢明さを認めつつも、物資に乏しい危険な廃墟で生まれ育った身には、相方の気前良さがどうにも落ち着かない。反省しつつも、吝嗇な性分が顔を出す時もあって、つい支払った額を頭の中で勘定し直してしまうのだ。まあ、私の欠点をマギーが補ってくれるなら、マギーに足りない所を私が補えばいい、とニナは思ってる。問題は、今の時点でマギーにさほど欠点らしい欠点が見当たらないところだが。

 

 時々、ほんの一瞬だが、自分もマギーに利用されてるのではないか、とニナは恐れる瞬間があった。マギーは巧みに人を利用するし、長期的な視野で計画を立てては、大抵の事を上手くやってのけるので、計画の一部に組み込まれてるのではないかと疑いたくなる時がある。もっとも、マギーに言わせれば、「不公平にならない程度にお互い利用する方が、関係は長続きするんだよ」だそうだ。

 悪意を持てば、他人を利用し尽くすのも可能な程度には頭がいいのだろうけど、どう考えても割に合わないほどにマギーはニナにも時間や手間暇を費やしている。ゲーム理論で言えば、協力戦略の信号を発している訳だ。

 

 倫理観も高く思えるので、ニナはマギーを信じると決めた。確率的に考えれば、マギーと同程度に賢く、しかし、倫理観の欠片もない奴も黄昏の世にはいるだろう。なら、マギーの傍の方が安心なはずだ。

 

 自由都市ズールでの家畜市の開催中にも、マギーたちは度々、ポレシャ市に帰還していた。今回の積み荷は、二人で総計30キロ。重量は敢えて絞ってある。丘陵地帯でいざと言う時にすぐ捨てられるよう、嵩張って重たい瓶や鉄屑などは荷物として分離して運んでいる。

 水と保存食を中心に、適度に休憩を取りながら、狭く険しい隘路を通り抜け、ポレシャ側の平野部に出たら、中継地点として整備した廃屋で休憩しつつ、荷車を用いてポレシャ市まで一気に輸送する。夕暮れまでにポレシャに到着したら、翌一日をポレシャで過ごし、仕入れた品を雑貨屋などで売却。さらに翌日には、再び丘陵を越えてズールへと赴く、往復三日の旅程だ。

 

 旅慣れた二人だが曠野には常に危険が伴っており、軽クロスボウやバット、手斧などを携えている。人口の希薄な丘陵地帯だけに旅人も少なく、追い剥ぎの類は滅多に出没しないが、屍者や獣、巨大蟻に変異獣に遭遇するかもしれない。

 

 用心深く慎重に計画を立てながらも、重武装した旅人でさえ消息を絶つことがあるのが曠野であって、常に最悪の想定をしながら、日常的に旅を行うのが行商人と言う稼業ではあるが、マギーとニナは丘陵地帯の詳細な地図を所有し、年若くとも二、三日の旅程なら充分に熟練した旅人だった。

 

 早朝にズールを出立。その日のうちにあっさりと夕暮れのポレシャに帰還すると、物資を売り払って四百ほどの都市通貨を稼いだ。今月の稼ぎは二千を少し上回るだろう。現金だって一万近く持っている。渡り人(オーキー)上がりの行商人としては、これは中々に大した金額だ。一口に行商人と言っても、食べていくのにかつかつの同業者も多ければ、食うや食わずで稼げない冬などに身体を売る娘もいる。マギーとの出会いは、ニナにとって僥倖であったに違いない。

 

 だから、自分たちの懐事情だけで言えば、もうすでに危険なサドラン牛輸送に付き合う必要など欠片もなかった。それでもマギーが仕事を引き受けたのは、多分に面倒見の良さからだろう。人脈作りにしては、ルーク・アンダーソンやイザベル・ミラーは、それほど大した人物ではない。ジーナ・C(クレイ)など今にも沈みそうな困窮具合だ。ただ、それぞれに美点もあって友人付き合いするには悪くない連中だとはニナにも分かる。少なくとも性根の曲がった人物はいない。利益だけが人生だけでなし。そこら辺の余裕も、マギーの大人だろう。

 

 役所に赴くと参議たちとヘルナル中尉、エヴァンス保安官の前で二頭の購入を含んでサドラン牛を確保したことを報告し、作成した北回りの地図を見せながら、予定ルートの半分まで来たら、若干の騎兵を護衛に出してもらうことを確約してもらった。

 

 人を見る目、面倒見の良さ、人生観。それに数千通貨を稼いでみせる能力。マギーは確かに人物だ。参議たちが何かと頼りにするのも分かる。良いように使われているとも言うが。しかし、マギーが己以上だったと語るオーも無宿者《ノークォーター》共に殺された。ニナが頼りにしていた姉も、屍者に噛まれて亡くなっている。

 優れた人物さえ、ある日、唐突に曠野に呑み込まれて姿を消す。ニナとマギーが生きるのは過酷で容赦のない大地で、それでもマギーと一緒なら、ニナは何処までも行けると信じてもいた。

 

 

 そのマギーは、キャシディ・エヴァンス保安官と話し込んでいた。気が合うのだろう。二人とも本当に楽しげに笑っている。

 マギーは両刀使いである。むしろ、女の子の方が好きな節がある。時々、仲のいい娘さんと性的に戯れる。そしてキャシディは恋人がいない。二人は親しげに見えるが、ただの友人に過ぎないと知っている。しかし、誤解されないかな、とニナは少し心配になった。

 眺めているうち、キャシディの遠縁である老寡婦が保安官に向かって「あんた、いい年なんだから、そろそろ誰か見つけなさいよ」と言い始めた。保安官は冷静沈着な妙齢の女性だが、参議たちは幼少から知っている町の長老格ばかりで、相手がわるい。

 それを皮切りに、他の参議たちも口々に好き勝手言い始める。

「エヴァンス家は古い家系なんだから絶やしちゃご先祖に申し訳が立たんぞ」

「まさかとは思うけど、女に走ったら駄目よ」

 キャシディ・エヴァンス保安官は、何とも言えない表情をしていたが、耳を指で塞ぐと隣の部屋へと出ていった。普段は頼りになるお姉さんのなんとも子供っぽい振舞いを、ニナは呆然と見送るしか出来なかった。

「……いや、キャシディとは全然そういうのじゃない。彼女はきちんと年上の頼りがいのある男性が好みだと」友人の名誉のためにマギーが説明した。

「頼りがいかね?」参議たちが顔を見合わせた。ちなみにキャシディは居留地千五百人のうちで、一、二を争うほどに狙撃が上手い。早撃ちも五指に入る腕前だ。銃の腕前ならマギーを凌駕している。

「最低でも自分より銃が上手くて、稼げて、勇敢で誠実で優しくて賢くてハンサムなら、誰でもいいと。出来れば都市大卒とも言ってたけど」さらに補足するうち、言ってるマギーが何とも言えない顔になって口を閉じた。参議たちは絶句している。ちなみにエヴァンス家はかなりの名家で、キャシディの務める保安官は居留地では高位の役職である。

「いかん。先代保安官に憧れてた頃より悪化しておる」

「年の差とか言ってないで、さっさとくっつけりゃ良かったか?」

「あの子、生涯独身かも知れないわね」寡婦の参議が嘆いた。

 

 役所での打ち合わせも終わった。あとは、サドラン牛を伴ってのポレシャ市への帰還を実行するだけだが普段、用いる丘陵の抜け道は、人が通るにギリギリの隘路や段差、崖沿いの難所も聳えている。勝手知ったる道が使えず、北廻りの街道筋を辿らざるを得ないがそこには蛮族や追い剥ぎなども出没する。加えてマギーも、ニナも道に慣れていなかった。今からでも、案内人を探すべきだろうか。だが、信用できる案内人と言うのも、これで早々に見つかるものでもない。

「これは、まったく骨の折れる仕事だよ」

 流石のマギーも些か緊張を隠せない様子で、地図を眺めながら愚痴っていた。それでも思いつくだけの打てる手は全て打っている。

「上手くいくといいねえ」とニナが言うと「なんとか首尾よくやっつけたら、少し骨休みしようね」疲れを滲ませながら、マギーは笑った。兎も角も、後はやれるだけの事をやるだけだ。 

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 人は生きてるだけで飯を食う。薪を使うし、水を飲むし、糞を放《ひ》る。

 遊牧氏族『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』は元々七十人ほどだが、デン王国を追放されてから付いてきた小氏族を含めればおよそ二百人。放浪中に寄ってきた家族単位の遊牧民や逸れ牧者を加えれば、今は三百人を喰わせなければならない。  

 

 黄昏の世に三百人を養うのは、想像以上に難事業であった。薪や水の採れる土地は限られており、しかも、大集団は短時間で資源を蕩尽し尽くす。食料だけでも豆や麦、チーズなど、一週間で1t近くも消費される。大地を転々と横断していれば、屍者や変異獣が出没する事もあれば、盗賊団や部族、略奪者《レイダー》の徒党に人狩りの襲撃も絶えることがない。脅威にも暇がなかった。旱魃に襲われる時もあれば、家畜とて病気になる。近くの都市や大型居留地の狡猾な役人や横暴な警官に難癖を付けられることもあった。合流してきた衆には、老人や女子供も多い。男衆や若衆が多い衆ならば、なんとか独り立ちして喰っていけるだろうから当然の帰結だ。

 

 族長《ニウヴ》ルキウスは、時に商人に頭を下げて借財し、時に傭兵じみた真似をしながら、泥を啜ってでも氏族を生き残らせてきた。弱小の居留地や集落の近くから立ち去る時に、退去料《デーンゲルド》として食料や飼料、薪をせしめた事も少なくない。そうして都市や大型居留地の領域に属さず、他の牧民たちの縄張り外の草地を放浪しながら、千頭ばかりの羊に三百ばかりの豚、若干の牛や馬をやりくりして、辛うじて食いつないできた。食いつなぐ、と言っても、腹を空かせた子供たちに夜泣きさせつつも、餓死者を出さずにやってきた程度だが、これも破綻しそうなところをぎりぎりで踏みとどまったに過ぎなかった。三百を養いきれぬと分散させた冬に、野営地のどれも兵力を薄くは出来ず、胃を痛めた夜も少なくない。

 

 

 財政が安定して、それなりに食えるようになったのは、自由都市ズールにたどり着いてからだ。無宿者《ノークォーター》たちから拠点を奪い取り、外郭地区のひとつバシカ地区に腰を落ち着けると、少なくとも無料のしっかりした寝床は確保できた。予想外だったのは同行していた王《ムーテ》タリウスの動きだ。僅かな余裕が出来た途端、それまで以上に西方奪還を強く掲げて、実際に兵までを募り始めた。とんだ厄介ごとを引き起こしてくれたものだが、これは忙しさにかまけてて放置していた幹部たちの油断でもあった。氏族の有力者たちが軽んじていたタリウスだが、確かに王《ムーテ》と言う地位だけでみれば、それだけの権限を駆使して然るべき権威ではあったのだ。

 

 過ぎたことを言っても始まらない。兎も角も族長《ニウヴ》としては、皆を食べさせなければならない。バシカ地区で幾らか手に入れた旅籠や酒場もいまだにさほどの利益を生んでいる訳でもない。『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の主産業は、あくまで羊たちを用いての遊牧であった。

 

 今のところは、大家畜市に参加する体裁を保ちながら、飼葉などを安価に分けて貰ってもらっているが、秋の終わりまでに何とか牧草地を確保しなければならない。取引先であるアルキス商店の伝手を辿って、何とか牧草地の入会権を確保しようと働きかけているが、自由都市には有力者と権力者、それに裁量権を持つ役人が多すぎた。

そして外部からやってきた余所者で新参の遊牧民には、誰が権限を持つか、判断が付かないのだった。

 

 すでに六月が終わりつつある。【族長《ニウヴ》】ルキウスは、焦燥感に駆られながらも、連日をアルキス商店に顔を出しては、招かれた商人らを相手に羊や山羊、育てた猟犬、駿馬や牛を売り込んでいた。バシカ地区に資材を集めて、豚や鶏、家鴨を飼う畜舎も確保できそうだった。兎も角も、稼ぎ続ければ、破綻もその分だけ遠ざかる。飼料も北辺や都市境界など遠来の牧草地で――当然に巨大蟻や屍者、変異獣や狼、コヨーテが彷徨う危険な土地だが、なんとか食わせ続けていた。しかし、綱渡りであることに違いはなく、嵐や旱魃、或いは襲撃や疫病に襲われれば、一気に崩れかねない脆さを孕んでいた。薄氷を踏むような生活に、どうにかして一歩進めることを渇望しながら、有効な手を打てず、【族長《ニウヴ》】ルキウスはじりじりとした焦燥の日々を送っていた。

 

 

 

 ※※※※

 

 

 

 現在、『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の最大の資金源となっているのは、家畜仲買商リーニー・アルキスとの取引だろう。

 アルキス商店を通して相当数の豚や羊を販売しているほか、羊毛やチーズ、バター、獣脂、豚肉の販売も行っている。幾らかは蚤の市に出店して小売りしているようだが、大半は、他の食料品店や隊商などに卸している。

 他にも家鴨や鶏肉、鶏卵なども扱っており、此方は中々、値が張るが訓練された猟犬に番犬なども販売している。滅多に売れるものではないが、素晴らしい駿馬も数頭。大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)は、馬の飼育と調教には一家言あるようで、それは見事な鹿毛の駿馬を数頭、預けられた。

 

 加えて、あり触れた雑役牛から、きわめて高価なサドランの長毛牛までも品揃えとして並んでいる。実際には、他の氏族との仲立ちなのだが、大地の子ら(サンズ・オブ・アトラス)は、喰うのに必死とみえて、小売りでも仲介でも何でもやるようだ。リーニー・アルキスも、若い頃には大手の仲買人の処で見習いに出た経験もあれば、今でも手の足りない時には雇われに出向くこともあって、牛馬を見る目や扱いにも慣れており、確かに俊足の馬や逞しい健康な牛たちを預けられているのは理解できた。

 

 都市での商売と都市通貨の獲得を大地の子(サンズ・オブ・アトラス)がいかに重視しているかは、幹部のコルやジーク、それに族長《ニウヴ》であるルキウスすら、度々、店舗に顔を出して大口顧客との折衝に当たったり、取引のオブザーバーとして出席して、補佐役をしてくれることからアルキス一家も重々に承知していた。

 

 『大地の子(サンズ・オブ・アトラス)』の人々は、思っていたよりもずっと柔軟、かつ現実的であった。荒野《ウェイストランド》流の暴力的な交渉は影を潜め、都市の法律や規則に適応しつつも、時には市場に直接売り込みを掛け、時には大胆に利益を追い求めながら、氏族の権益を守ることに注力していた。総じて、生き残る事に必死で、都市生活に順応しようとしているのは間違いない。

 

 リーニー・アルキスは、遊牧氏族の人々――特にコルと族長《ニウヴ》ルキウスを信用する事にした。信頼ではない。まだ、そこまでの時間も実績も積み重ねてはいない。だけれど、おのれの氏族の為に実務と交渉をこなしてきた姿勢は一貫しており、勿論、全面的に信用した訳ではないが、もはや短絡的に商店の財貨を奪ったり、詐欺を働く程度の相手とも思えなくなってきていた。大地の子(サンズ・オブ・アトラス)は長期的な利益と安定を求め、そして都市に基盤を築こうとしていると思えたのだった。取引のあまりの膨大さに「一蓮托生になりかねない」とリーニー・アルキスも多少の怖気を覚えないでもないが、しかし、部族の食糧事情が切迫しているのも、確かだった。夏も半ばを過ぎている。秋までには都市圏に牧草地を確保し、家畜を太らせておかなければならない。そして、その為には相応の資金と伝手が必要だった。

 大地の子(サンズ・オブ・アトラス)には、時間がない、のだろう。

 

 そうして時には雑役牛や猟犬、豚に羊も売れ、また、リーニー・アルキスが若い男女には都市内の労務を斡旋し、女子供や老人でも出来る簡単な内職を紹介しているうち、当初の古い豆や麦、古米から、時折はまともな食事もより大勢が採れるようになり、そうすると大地の子(サンズ・オブ・アトラス)も虎の子の財産をアルキス商店に預けるようになった。きわめて高価なサドラン牛である。

 

 その女が顔を出したのは、アルキス商店がサドラン牛があると布告してから、暫く経った或る日の午後だった。フードを被った女は酷くしわがれた声で「サドラン牛を買いたい」と希望してきた。なにしろ、都市通貨で4000からそれ以上も値が張る高価な牛であるから、まずは支払い能力を確かめなければならない、と言うと、女は確かにその通りだと頷き、商業会館で預けてある金を見せたいと提案してきた。

 

 後日の約束をしてから、リーニー・アルキスは大地の子(サンズ・オブ・アトラス)へと小僧を走らせて、サドラン牛の買い手が現れたと連絡した。

 丁度、折よく翌日に【族長《ニウヴ》】ルキウスの予定が空いており、商業会館で共に相手の支払い能力を確かめようと言う運びになった。

 

 そうして翌日。正午の鐘が鳴る時刻、リーニー・アルキスは、商業会館の職員立ち合いの元、貸し切り用個室の一室で、フードの女が懐のベルトから銀貨と札束の入ったベルトを取り外し、机の上に積み上げるのを目にして、確かに支払い能力があるのを確認した。

 

「サドラン牛は高い買い物ですが、後悔しないだけの価値はあります」リーニーは断言する。仲買人リーニー・アルキスが見た所、実際にそれだけの収益性と品質は保っている。

「ポレシャ市で高く買い取ってもらえるので……」フードの女が酷くしわがれた声で告げた。どうやら転売目的らしい。多少、ガッカリしつつも、リーニー・アルキスは熟練の家畜仲買人として「支払い能力は確認しました、ええ」と愛想よく応じた。

 

 フードの女が手順を説明し始める。「代金は一端、商業会館の金庫に預けます。そして、そちらの牛を見せてもらってから……」互いに取引相手に現金や牛を奪われないように、商会連のエージェントを仲介に挟んでいるのだ。

「そうですね。そこで改めて取引と言う形となると思います」リーニー・アルキスが頷いた時、扉がノックされた。

「【族長《ニウヴ》】が来られました」と言う言葉に、リーニーはフードの女に視線を送った。

 

「遅れて申し訳ない」と扉を開けて入ってきた若き族長を目にして、フードの女が動揺した。傍目にもあからさまに震えると、ひっ、としわがれた声で小さく悲鳴を洩らし、顔を隠すように腕を上げた。族長ルキウスは、フードの女の腕に就いた銀の腕輪を目にした瞬間、顔色を変えて女の腕を掴んだ。

「……レニか?」掠れたような声で懇願するかのように語り掛ける。

「あ……若さま。放して」脅えたように逃げようとして身をよじる女のフードを取り去ると、意外にもまだ若い女だった。

 脅えたような表情で震える女の喉元。赤黒い痣に指を這わせてから、族長ルキウスは静かに女を抱きしめた。

 家畜仲買人リーニー・アルキスは、商会連の仲介人と顔を見合わせた。

 よく分からないけれど多分、相当ななにかがあったんだろうな。とは窺えた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 8841都市《ズール》クレジット

 

 _06月下旬

 

 

 

 

 

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