死の河は、黄昏の時代に暮らす人々にとって最大の恐怖だが、それに及ばずとも、けして侮ってはならない現象が幾つかある。そのひとつを、人々は【波《ウェーブ》】と呼んでいる。
稀にだが廃墟と化した大型建造物の残骸や死都、広大な暗渠などを徘徊していた大規模な
そして、ごく一部。地を徘徊する膨大な
ズール暦の七十九年に起きた『テクタスの悲劇』は、それまで殷賑を極めていた交易都市テクタスに突如、離れた都市廃墟から湧きだした波《ウェーブ》が殺到し、一昼夜にして滅ぼした事件である。
テクタス市にとっては殆んど予期せぬ襲撃であり、不意を突かれた交易都市には、しかし、傭兵団の雇用はおろか、守備隊を呼集する間もすらなく、交易都市はほとんど無抵抗のまま屍者たちへと飲み込まれていったと言う。
小城塞市ズール飛躍の切っ掛けとなった事件ではあるが、無防備な市街地に屍者たちが次々と殺到する地獄絵図は、ほんのわずかに残された映像記録だけでも閲覧者に肝胆寒からしめるだけの凄惨さと衝撃を与え、ズール市はテクタス市の二の舞になる事を恐れて、荒野を挟んでの西方死都テクタスに対して、絶えず監視と警戒を行っている。
――――
第一防衛ラインとしてランツクネヒトたちの装甲馬車を鎖に繋げて並べ、第二防衛ラインとして土嚢を積んで、第三防衛ラインに木柵を設置した。
見通しの悪い丘陵地帯での交戦を避けた判断も無難であったし、野戦築城に複数の防衛ラインを設置した正当な陣形だろうが、会敵した時間帯が全く良くなかった。
日没後に丘陵を越えての百を越える疾走屍《スプリンター》や
燃え盛る松明の覚束ない明かりのもと、それでも傭兵たちは最善を尽くしたと言っていい。都市警備隊の近接支援射撃も屍者たちを次々となぎ倒したが、第一波を粉砕した後にも、第二波、第三波がすぐ近くにまで迫っていたし、合流してなだれ込んできた屍者の数は、軍首脳部の想定をはるかに超えていた。
耐えきれなくなった都市兵とランツクネヒトたちは、第二陣の援護を受けつつ後退し、第二陣に殺到する屍者たちに対して、態勢を立て直して反撃した。
公平に言って、傭兵団は給料以上の仕事をした。陣地に寄って粘り強く戦いながら、屍者たちに甚大な被害を与え、弾薬が付きた後は、一部ランツクネヒトが第三陣に籠って、味方の退却する時間を稼いで最後まで奮戦した。
夜半まで続いた戦いで、
とは言え、都市の近くまで接近されたのは、都市軍の失態であろうと見做す向きもあった。都市防壁の向こう側から響いてくる銃声に、住人たちも神経を尖らせており、また都市軍の警邏が減った地区では、窃盗や強盗などの犯罪被害も増加して市内には依然、緊迫した空気が漂っていた。
※※※※
都市防壁の向こう側から、断続的に鋭い銃声が響き渡ってくる。本隊の前触れのように、ひっきりなしに殺到する二十から三十程度の屍者を都市軍が処理しているのだ。ある種の屍者による襲撃が【波《ウェーブ》】と言われる由縁であった。
西門を閉鎖するとの噂も盛んに飛び交っていて、幾つかの隊商は荷馬を急かして街道を北へと去り、金持ちは我先に馬車を仕立てて逃げようとしている。一方で、一部傭兵団は、都市と契約を結んで陣地を構築し、稼ぎの好機を見出した隊商は、安宿を抑えて腰を落ち着けようとしていた。牧者衆や遊牧民、放浪の職工衆に鉱夫団は最初から都市に寄り付きもせず、概して遠巻きに喧騒を見守っている。
「……軍隊、負けちゃった」
「ババ様?ズール、滅びちゃうの?」
「わかんね」防壁の上で工事を見学しながら、つい先日鑑賞したポスト・アポカリプスアニメの寸劇しているニナとイザベル。それに『狐』と呼ばれる行商グラハム・バートンの徒弟ロニちゃんは、けたけたと笑った。
「糞餓鬼どもが!」偶々、通りかかった都市軍の若い兵曹が怒鳴りつけてきたが、ニナやイザベルが庶民と言うには上等な身なりだからか。それ以上は何も言わずに、兵曹は立ち去った。他人の痛みに鈍感な子供たちは「怒られたぁ」とケラケラと笑っていたが、他人が遠ざかると真剣な表情を浮かべて、陣地をじっと見つめた。傍目から見れば、紛うことなき悪餓鬼であろうが、死と隣り合わせであることは重々、承知している。
防壁の上や陣地後方の高台には、他にも裕福な隊商主の子弟やら若い貴族など、見学と洒落こんでいる若者たちが少なくなかった。ビデオカメラや写真機、或いは、文明の高価な遺産である小型の動画撮影機を使っている者さえもいる。
題名は『自由都市の攻防』と言ったところだろうか。勿論、彼ら彼女らは、かなり詳しい戦況報告と分析を耳にしており、ズール軍が一時は不利な状況に陥ろうとも、最終的には勝利するだろうと言う空気が支配的だったが、しかし、軍の勝利を無邪気に信じて疑ってないのか。それとも、滅多に見られない大規模戦闘を見物する為に命を懸けているのかは、いずれも本人以外には分からなかった。他に都市防壁の外の廃屋などで息を呑んで見守ってるのは、貧しい住人に旅の
ポレシャ人たちも、ズールが落ちることはあり得ないと、ほぼ確信していたものの、万が一に備えて城壁の上に昇っていた。サドラン牛や家畜たちは、郊外に預けている。昨日から忙しく動き回っているエマ・デイヴィスとミリーは連絡できなかったのは気がかりだし、ガイ少年の飼ってる牛のグーちゃんは、ポレシャ公邸の畜舎に預けてあるので万が一、失陥した場合はお気の毒様である。
そのガイ少年はドン引きして「屍者の群れが押し寄せてくるんだぞ!」と慌てているが少女たちは三人とも慌てていない。最悪の場合でも、頼りになる大人たちがすでに撤退計画を立てている。そして生きてさえいれば、金はまた稼げるのだ。都市防壁の上で様子を見ているのも、いざと言う時は其の儘、防壁の上をぐるっと大回りしてズールの東門から離脱する為であった。
しかし、マギーだけは常と様子が違った。
「えらい事になった」ジーナ・C
「今度は勝てるかね?」双眼鏡を手にした老グラハムが呟くと、マギーちゃんは耐えきれずに、地に手を突いて「はぁあああん!」思わず慟哭を洩らした。
都市通貨ちゃんは、他の通貨に対して二割近くを暴落していた。そしてマギーちゃんは都市通貨を多分、六千か、それ以上から保有していた。
銃で撃たれたり、刺されたり、怪物に骨を折られた時も泣かなかった女が泣いた。
そしてイザベルや『狐』、ロニが笑顔で笑った。
「大人がマジ泣きするの初めて見たわ」イザベル・ミラーが言い、「大人が泣いていいのは、人との出会いと別れ、そして財布を落とした時だけだって師匠は言ってた。これは、三番目だな」とロニが言う。
「曠野の伝説ウロボロス、財布を亡くしてここに眠る」イザベルは正体を知っていたようだ。ルーク・アンダーソンがギョッとしている。
「はあ?マギーは、やればできる子なんですけお?!」マギーに抱き着きながら、ニナは支離滅裂な事を言い張った。
「暴落と言っても、精々二割でしょ」ロニの言葉に「にわっ、二割!」マギーが涙をこぼして呻いた。痙攣してる。
「相当、弾薬使ってるから、数千発か……それ以上の金属薬莢の使用は、都市でも暫く防衛力落ちるよ。その間は通貨は落ちるだろうけど、すぐ戻らないかな?」イザベルの分析に「まあ、金持ちの悩みだわ」とガイ少年が言った。
「サドラン牛の売買も、手形決済。変動の後払いじゃなく、払落し(即払い)の契約だったから命拾いした」イザベルが淡々と口にして、ルークも頷いた。
『狐』老グラハムだけが事情を知ったようにニヤニヤとしていた。立ち直ったマギーが、ハンカチで鼻を嚙みながら、大交易市の途中だったのがいかにも不味い、とニナに説明する。
「幾つかの隊商や牧者衆、鉱夫団なんかも、急いで出て言っただろう?
連中、ズール通貨の暴落前に、近隣の市や都市で物資を買い込むよ」ニナがほむほむと頷いていると、マギーちゃんは言葉を続けた。
「その後に軍が痛手を受けたなんて報告が出回ってみなさい。実際以上に通貨は暴落して、長期的にボディブローですわよ?」やや錯乱気味のマギーだが、言いたいことはニナも分かった。
つまり、ズール圏及び近隣の経済圏で、ズール通貨はしばらく値崩れして購買力が低下することになる。為替レートの回復が何時かは分からない。二、三か月後か。半年か、或いは二年後。五年後と言う事もあり得るし、下落したままに固定されてしまうこともあるだろう。逆に手持ち通貨を慎重に分散させていた『狐』老人などは、だから、ホクホクとしてズール市の物産を買い漁る算段を立てているようだ。都市通貨が戻るまで、しばらくは諸々を買い叩けるだろう。明暗がはっきり分かれた二人の行商人を眺めながら、「……商人ってのはなぁ」『狐』の護衛であるハロルド・コッズォが首を振った。
「密輸同盟は動かないの?」とのニナの囁きに、やっと冷静さを取り戻したマギーちゃんは首を振った。マギーはニナにだけ、そっと説明してくれた。
自由都市ズールにおける最大勢力――密輸同盟は、高度に訓練された二個中隊か。もしかしたら大隊規模の兵団を抱えている。これはほぼ確実に豪商の私兵を含めた都市軍を上回る戦力だが、彼らが都市防衛に動くことは恐らくないと予想されていた。なぜなら、密輸同盟は他の都市にも巨大な拠点を保持しており、自由都市ズールが失陥しようとも、痛手ではあっても致命傷ではないからだ。そして、高度に訓練された軍団は、黄昏の世において至上の財産であった。
大都市の正規軍ともなれば、サイボーグもいれば、強化人間も混ざっている。
そして密輸同盟の兵士の質は、都市兵を上回り、一部装備においては隔絶すらしている。マギーちゃんより確実に強いと言える戦士は、都市軍に三名か、もしかして五名。六人はいない。しかし、密輸同盟の幹部には、両手の指の数でも足りない程度にはいる。勿論、偉いからと言って強いとは限らないが、強ければ、確実に偉い。狡猾な密輸同盟の戦士であれば、大半が下士官の役割もこなせるだろう。
財産を失った傭兵団や貴族、騎士団は何時か、復興するかもしれないが、軍団を失って復興することはあり得ない。王侯や将軍が熟練兵や下士官を失うことは、銀行や商会、隊商などにおいて腕利きの番頭や手代たちを失うことに等しいのだ。例え、都市そのものを失ってもいつかは取り戻せるかも知れない。しかし、軍団を失っては、都市を取り戻す希望も、財産や生命の安全保障も担保できなくなる。
だから密輸同盟は、例えズールが失陥しようとも兵団の保全を選ぶのだ。戦略的思考においてある意味、同類である者たちならば、誰もがそれをよく知っている。むしろ密輸同盟が都市防衛に方針を切ったら、マギーも代表の正気を疑っただろう。
マギーちゃんは、ため息を吐いた。
「……結局は、暴力かな。まったく、わたしも兵団が欲しいわい。小隊とか中隊とか贅沢言わない。よく訓練された一次戦装備の6人でいいから」何気なく贅沢なことをぼやいたのだった。一介の行商人としては、かなり大それた高望みで、誰もが冗談と受け取ったに違いない。現に『狐』は珍しく愉快そうに笑い、イザベルは少し真顔でマギーを見つめたが、薄く微笑んだニナだけは知っていた。
傑物とは言えないまでも、マギーは相応に人物である。未来を語る時、滅多にマギーは冗談を口にしない。その癖、言葉にした目標の殆んどを達成してきた。小さな兵団も、それを養える商いも、それくらいの野望であれば、マギーならば、いずれ達成するに違いない。
……時間さえ与えられれば。この危険な黄昏の時代を、生き延びる事さえできれば。
※※※※
空は血のように赤く染まっていた。下町の路傍に見上げたエマ・デイヴィスは緊張した表情で、スンスンと鼻を鳴らし、空気の匂いを嗅いだ。
(……懐かしい匂いがする。戦争の匂い)
街路を行き交う住人たちの表情は強張って、恐怖と緊張を孕んでいる。如何に強固な都市防壁に守られているとは言え、数千からの屍者の群れが押し寄せてくる。周囲の野営地を飲み込めば、屍者の数は万を越えかねない。
自由都市ズールは、曠野の地における文明の要であり、他所の地方と結ぶ交易の結節点でもあった。ズールに比肩か、凌駕すると評されていた西部の工房都市が、商業都市連合にほぼ帰属した現在は、曠野最大の都市とも見做されている。万が一にも失陥すれば、死都と化した自由都市を中心に、ズール圏の農村や小居留地も甚大な被害を被るに違いない。そして、殆んどの住人たちには逃げられる場所など無いのだ。
しかし、この期に及んでも都市軍の数個小隊が【東】門付近に配置されていた。略奪者徒党やランツクネヒト団が妙な動きを見せないか、警戒しているのだ。下町や商業地区にも民兵や自警団が街路の哨戒に当たっている。暴動を警戒しているらしい。
そして市内の警備が手薄になったが故に窃盗や強盗、拉致に強姦などの犯罪も頻発している。例え、隣接する地区に屍者の大群が押し寄せていようとも、一部の住人は略奪する好機をけして逃がしはしない。
下町における守備隊の展開も手薄であり、自警団も中途半端な戦力しか所有していない。加えて貧民窟の住人は、ポレシャ圏の労働者や貧農よりも貧しく、遥かに惨めな生活を送っていた。自由都市ズールはポレシャ市よりも貧富の差が大きい。失うべき財産も希望もなにひとつ持っていない一部貧民にとって、市内の警戒の甘さは蠢動する絶好の機会であり、そして貧民窟より押し寄せてきた数百の暴徒に対処するのは自警団だけでは不可能だった。
下町に居を構える中途半端に裕福な商人の家屋が紅蓮の炎を吹き上げている。放火によるものだ。中から真っ先に飛び出してきた男が両手に抱えた絹を王侯の衣装のように身体に巻き付け、手には紙幣を掴み取り、頭には金銀のサークレットを被っている。美しい家具や壺、食料品の袋を抱えた男女が次々と飛び出してくるし、黄昏の時代に残された貴重な分厚い本を炎へと焚きつけにして笑っている子供たちもいた。妻子か、奴隷か。召使いかは分からない。浚った若い裸の女の尻を抱えながら、通りを駆け抜けていく逞しい男もいた。血塗れで倒れているのは、主人の商人だろう。失陥寸前の何処の土地でも見られる、珍しくもない光景だった。
ズール西南の街道は、起伏の大きい山岳を貫くほぼ一本道の山径である為、屍者の群れの進路はほぼ限定されている。幾つもの前触れが襲来する現状、騎馬斥候やレンジャーであろうとも、偵察の遂行は難しい。騎馬斥候やレンジャーが細かく前哨を張り、屍者の群れを早期に感知しようと試みても、地形の制約と複数の前触れの存在が、偵察網をかき乱す要因となっていた。一本道の山径は自然の防衛線としては有利だが、同時に屍者の戦力も集中するだろう。都市軍と傭兵隊の構築した分厚い陣形がどれだけ持ちこたえられるかが、都市の行方を左右するとエマ・デイヴィスは見ていた。
ミリーが怯えたように震えていた。屍者の群れは、曠野を旅する者にとって考え得る最大の恐怖で、過去の恐怖を想起したのだろうか。ポレシャ公邸は、自由都市の北辺に位置する。西門からも東門からも近い土地で、屍者も群れに侵入された場合、真っ先に脅威に曝されると同時に、もう一つ門からは逃れやすい立地に位置している。
南の下町や貧民窟などは、すぐには侵攻されないだろうが、両門が抑えられた場合、都市からの脱出は絶望的にも思える。ただ、一方で、漸減しながらの市街戦で屍者の群れをせん滅してのけた居留地も少なくない。ポレシャ公邸に移動すべきだろうか。それとも都市の奥深くに身を顰めるか。他の脱出路はあるのか?
エマ・デイヴィスは単なる風来坊で、自由都市に有力な知己もいなければ、警備隊に顔が利くような人間でもない。飛び交っている風聞のどれが正しいかも判断が付かない。独り身なら、すぐに脱出を選んだ。だが、ミリーがいた。
比較的に安全な商業地区を見物に出かけたはずが、時ならぬ屍者の襲来を前に、ミリーを見つけるのに時間がかかった。混乱の中、合流した時には、既に街路の各所にバリケードが構築され、武装した住人たちが陣取っている。身分証が無ければ通行できず、下手をすれば、背負ったライフルを徴発されかねない。
下町と貧民窟の境の、住人の少なそうな一帯。頑丈そうな廃屋を見つけ、三階の奥になんとか昇って、息を顰める。不気味なサイレンが狂気のように鳴り響いていた。震えているミリーを抱きしめたエマは、後込め式ライフルに紙薬莢と雷管を装填する。カンマーラーダーは、良いライフルだった。口径は小さいが、装填が早くて精度が高い。黒色火薬の紙薬莢を用いるが、不発も滅多にない。
この場所なら、少数であれば対処できる。弾薬が尽きるまでは戦って、それから最後の二発は……自分たちに使うことになるだろうか?
ミリーを守れるように、とセトとアヌビス、ラー、イシスと知る限りの神に祈りを捧げた。とは言え、屍者や奴隷商、変異獣や略奪者たちの前に失陥したあらゆる都市のあらゆる親や軍人たちも、同じように祈ったには違いないのだ。