日没後の『赤い蜘蛛』亭は、珍しく閉店しているようだ。時刻は深夜に近い、訪れる客ももはやおらず、窓ガラスにはカーテンが締まっている。
真っ暗な店内では、ぜいぜいと耳障りな呼吸音が繰り返されている。
屠殺寸前の豚のような喘鳴が己の喉から洩れてると気づいたマルコは、 眼球を必死に動かして、そっと店の様子を伺った。
女たちと客、従業員らは、地下の酒蔵に閉じ込められている。
そして女衒たちは、どいつもこいつも力なく座席に崩れ落ちていた。
喉をかき切られ、或いは、後方から心臓を一刺し。五、六人もいた暴力に慣れた与太者たちが、ろくに抵抗する間もなく、殆んど一方的に殺戮されていた。
僅かに頭目格の男女が生かされているのは、聞くことがあるからだろう。
(こいつらは、何者だ。誰の逆鱗に触れた?)
酒場の店主マルコは頭の中で必死に考えるも、答えは一向に出てこない。
恐ろしく殺しに慣れている。普通のチンピラでは断じてない。
カンテラの明かりが消えた薄暗い闇の内部、黒尽くめの装束の数人が音も気配もさせずに佇んでいる。背後からマルコの喉元にナイフの刃を当て、誰かが囁いた。
「これから、幾つか質問をする。よく考えて応えろ。理解したなら、肯け」
マルコは素直に肯いた。
「レニ、と言う女を知っているか?」
「し、知らん。本当だ」喉に刃が食い込む感覚に、マルコは目の玉が飛び出しそうなほどに脅えていた。睾丸が収縮する。汗がびっしょりと顔面全体を濡らした。
「嘘をついてるな?」
「……き、聞き覚えはない。た、助けて」とマルコは涙を零しながら呻いた。
「お前の手下がここ数日、付け回していた」別の男、或いは女か。低くくぐもった声の問いかけに「や、奴らは……しょ、賞金首」呻いたマルコは、震える指で壁の手配書を指さした。
カンテラで照らし出された賞金首の手配書を眺めて、黒尽くめの一人が『牧者ヘレン』の手配書を壁から剥がした。
「頼む。わしは関係ない。
金を払う。金庫の中に4000ある。ぜ、全部持って行っていい。高い酒も……」
マルコは必死に懇願した。「なんでも、持って行っていい。だから、命だけは……」
◆◆◆◆
自由都市ズールの人口は、市民と正規居住者を合わせておよそ五千人強。
文明の崩壊した黄昏の時代。人の希薄な曠野において五千と言う膨大な数は、測れ知れない力を有している。これに職を求める自由労働者、近隣集落や農村などの流動人口、工房を構えずに渡り歩く職工や職人集団、商売などで来訪した隊商など長期滞在者を含めれば万にも迫るだろう。都邑ズールの人口は、近隣の大型居留地ポレシャ市の六~八倍と見られているが、抱える経済圏と交易や商工業、そして領域国家間の狭間に位置しての密貿易に拠って生み出される富の膨大さは、ポレシャの十倍でも比肩する所ではない。そしてその肥沃な富の果実に惹かれ、群がる無法者や徒党の数も、また一介の市とは比較にならないものであった。
ズールに割拠する徒党は、数知れない。泡のように生まれては消えていく群小の徒党を含めれば数えることすら難しいが、不思議なことに総数はそれほどに変わらない。放浪民や
もちろん、旅籠や酒場に官憲に目溢しされる程度の賭博場や売春宿経営、金貸しなど合法かつ手堅い商売にも進出しようとしては、地区を仕切る商会や豪商、貴族などの既存勢力の用心棒や私兵とも鎬《しのぎ》を削っている。ここに各ギルドや労働
ズールの都邑と勢力圏は想像もつかないほどに広大だが、裏路地の街角から外郭地区の小屋のひとつ、農村部の片隅に至るまでもが、誰かしらの縄張りとなっている。合法であれ、非合法であれ、狡猾で抜け目のないズール人どもは己の財産や権力を増やす機会を見逃すことはない。都市の人間たちは根っからの拝金主義者であり、無知で無邪気な田舎者や旅人が訪れるとたちまちのうちに食い物にしてしまうのだ。そうして毒牙に掛かって金を巻き上げられた後も、幸運にもおのれの自由の身を保てたものの選択肢は二つ。一つは這う這うの体でズールから立ち去るか、或いは鉄片が磁力に浸されたかのようにあっという間に都市の価値観に染まってしまうかのどちらかである。
時々、まるで魂の突然変異かのように、極まれだが都における貧困と富の不均衡を解決しようと考える貴族や富裕層が出現する。既得権益層に阻まれて改革は大抵、とん挫するのだが、影響を残した法律や慣習も幾つかはあって、 通貨発行権における決定権は、数多の受益者に広汎、かつ入念に権限が分散されており、私益の為にインフレを起こすこともデフレを起こす事も出来なくなっている。ズールの通貨価値がいわば、神の見えざる手である市場にゆだねられた形であるが、しかし、これは急激な為替相場の変動時において、当局が有効な対策が取り得ない状況にも繋がっていた。
――――
さて、放浪の遊牧氏族であった『
元より『
おおよそが順調に運んでいる『
※※※※
廃市街にも見える一角の崩れかけた建物や瓦礫の隙間に、ぽっかりと空き地が残されている。侘しくも族長の為に割り当てられた大天幕は、モンゴルのような壮大なものではなく、せいぜい一部屋を少し越えるほどの大きさに、帆布のような厚手の織物を幾重にも重ね、風雨を防ぐだけの簡素な造りではあった。
風に揺れる布の継ぎ目からは、補修のための革紐や異なる色合いの布片が覗いている。柱代わりに用いられているのも拾ってきた廃材の梁で、かろうじて形を保っている。デン王国の壮麗な王族用天幕は勿論、かつての
しかし、『
勿論、『
氏族の者たちは勤勉に働いている。蓄えも充分で利子も払えるが、それにはようやく女子供や老人、そして下層の召使や従僕たちに廻せた衣服に加え、食事までも古くて安い豆に戻す必要があった。ルキウスは、帳簿を何度も眺めているが、金が何処からか湧いてくることはない。なるようにしかならないのは、分かっている。この時、族長《ニウヴ》ルキウスは、略奪を生業とする遊牧民や部族の者らの動機を頭ではなく腹の底で理解した。
それでも曠野の豪商たちとの約束を違えるのは危険だった。連中を侮ってはならない。『
金を借りた豪商たち――特にルカリのガズー・ルーは端倪すべからざる人物として知られている。数々の略奪者《レイダー》徒党や有力な傭兵会社とも繋がっており、一都市に過ぎないズール貴族や豪商は愚か、或いは商会連すら上回る戦力を動かしうる権力者と噂されている。
あくまで噂――おのれを恐れさせるために豪商が流した風評かも知れないが、根も葉もない、と言う事はない。それに近い事実は、多分にあるのではないか?商業都市同盟においてルカリは取るに足らぬ小都市であり、ガズー・ルーも、評議員に名を連ねることすら許されぬ小物に過ぎないのはこの際、置いておく。相対的に『
「……なるほど、俺は追い詰められているな。こういう時か。短絡的に縄張りを締め付けて、金を吸い上げればいいと考えるのは」視野が狭くなっていると自覚し、ルキウスは目を閉じた。
裏社会の徒党だけでなく、貴族やら議会が搾取をやり過ぎて、住人から反抗される切っ掛けも、きっと恐らくは、ほんの僅かな、あと少しの金なのだろう。
だが、無理をする局面ではない。今までに返済が滞ったこともない。
支払いを少し減らして貰えるように、手紙を送るべきか。
借金は勿論、利子さえ負けはしないだろうが、しかし、支払いが減れば、元金の返済も減り、それだけ多くの返済を支払うことになる。返済期間が十年から十二年かそこらに延びるだけだ。貸主たちにとっては悪い話ではない。
いや、連中に弱みは見せたくない、と思い直し、ルキウスは僅かな無理を氏族に負わせることにした。
西の豪商たちに対する屈辱感と、認めたくはない畏怖に悩み、微かな苛立ちと迷いに戸惑いながらも、兎も角も、氏族の独立と自尊を最優先させる。
負担を強いるのは望むところではないが、次の宴の際に、財務内容に触れて一席ぶっておいた方がいいか。書類を机に置き、瞼を揉みながら、重い……重くなった溜息を洩らした。
まったく、少年の時分には、族長《ニウヴ》と言うのは、もう少し華やかで危険な仕事だと思い込んでいた。草原や荒野を馬で駆け、数百の家畜の群れを大河に導き、牧草地を巡って合戦に赴く戦士らしい生きざまで、氏族の為に命を懸ける冒険の日々―――それが現実には書類とにらみ合い、日々の金勘定。曠野の豪商やら、都市の役人に頭を下げて折衝をする日々だ。おまけに氏族の有力者たちは、おのれの民や生業を抱えて離さず、好き勝手な要求ばかりする。
疲れた様相を見せているルキウスも、気が抜けていたのか。寝台に寝そべっていたレニがいつの間にか、背後から抱き着いてくると書類を覗き込んでいた。
「うわぁ」記された金額を見て、恐れ戦いている。
仕方ない。人を食わせるには、それだけ金が掛かる。百人を一日食べさせるだけでも、まともな食事を手配すれば、五百都市通貨。一か月で15000都市通貨が必要になる。豆や燕麦、雑穀の粥で誤魔化しても、五千通貨。夕食か、朝食のどちらかを自力で都合して貰い、日一度に配給を減らせば二千通貨。塩を振った豆を二日に一度、配給するだけでも、年に一万通貨は必要となる。食費だけでも途方もない金額が消える。薪や住処、水代などを全て除いて、だ。
「……それでも、返せる金額だ。十年は掛かるがな」諦観を込めた嘆息を洩らしつつも、ルキウスははっきりと言った。それから、振り返って恋人の肩に手を廻す。
「族長《ニウヴ》夫人になっても、贅沢はさせてやれそうにないな」
「……無理だって分かってるよ」重たい口調でレニが言うも、「贅沢が?それとも結婚か?」ルキウスはクックッと笑ってから、寝台の傍らに置いた書類に目をやった。
「昨晩にコルがな。家系図をでっちあげる為の資料を持ってきた」と告げる。
「コル……あの人は恐いな」レニの言葉。
「あいつは誰でも睨みつけてるように見える。気にするな」慰めたルキウス。
「消えた名族の末裔にして……名族と言っても、ちょっと馬や羊を持っていた裕福な一族程度だが。お前の母方だか、父方だかを調べたら、実際にいくつか名士と血が繋がった」ルキウスは事もなげにそう告げた。
一瞬、沈黙してから、レニがぎこちなく笑った。
「若さま。無理がある。 あたいは、ずっと卑しい召使いの家系だよ」昔の言葉遣いに戻って、レニはかすれ声で囁きを洩らした。
ルキウスはレニを猫の子のように抱きかかえると、「不思議でもない。六代遡れば、六十四人。一人、二人は、郷士くらいはいるものさ」髪の匂いを嗅ぎながら、何でもないように囁きかけた。
「族長夫人になっても、まあ、文句はつかない程度の名だが、それで十分だ」言ってから、「書類をみて、覚えておけ。お前の先祖だ」とルキウスは告げる。
「……それは族長の命令?」レニがルキウスの顔に手を伸ばしながら、尋ねかけると「族長の命だぞ。女」ルキウスが笑いながら応じた。高度文明社会の末裔として文化の残り香を残した人々だが、時々は敢えて古代や中世の人間のような問答に戯れることもある。
「あまり貴族やら、なにやらにすると、何処から生き残りが文句を付けてくるか分からん」差し出された書類を受け取って「前から言っておいたけど、片付けておきたい仕事がひとつあるの」レニは穏やかに微笑んだ。
「片付けたら、幾らか手数料も貰えるから、それが終わってからでいいかな」