ポレシャ人の小さな旅隊は、道なき道を北へと進んでいた。一行は、十二人。五頭の羊。それに若干の荷を積んだ毛長牛が四頭。旅人としては、かなりの大所帯だろう。だが、時折は、もっと大人数の長い列ともすれ違った。羊を連れた牧者や遊牧民とすれ違う際には、角笛を吹き鳴らし、互いの群れが混ざらぬように羊を抑え、距離を取ってすれ違うなど気を揉ませた。
羊のうち、一頭は成体で、残りは一~二歳の若羊。まだ好奇心が旺盛で悪戯好きだが、先頭に立つ牧者のジーナ・
風は冷たく乾いていたが、陽光が思ったよりも強く照りつけていた。自由都市ズール一帯はやや海抜の高い台地に築かれている。農耕や牧畜に影響を与えるほどの標高ではないが、南北に緩やかに起伏した台地は、遠望すれば鯨波のように大地を分断していた。
古来より人が往来し、定住してきたズールの台地は、外敵の侵入を防ぐ役割もまた果たしてきた。南北へと続く道すじは、なだらかな崖を挟んで赤い平野部を見下ろしている。起伏のない緩やかな平野部は見通しがよく、霞む小川は陽光に煌めき、砂塵が風に舞っている。
疎らに緑が茂りながらも、小さな廃屋や廃墟が点在するのみで夜になっても人の営みである明かりは殆んど見えない。遠く、崩れた石垣の傍らを屍者が徘徊し、草に覆われた屋根の上には、夜な夜な噛獣《バイター》が遠吠えしている。平野は、無主地であり、また無法の地として、恐れを知らぬ無法者《アウトロー》どもが秘密の砦を構えて堅く縄張りを守っている。略奪者《レイダー》の兵団が徘徊し、鎧狼や変異熊、屍熊や巨大蠍のような凶暴な怪物が這い出ては、ズール圏に侵入して旅人や村落を襲撃する日もある。時には、大胆な冒険者たちや隊商が平野の横断を試みるものの、定住を試みる農民や開拓者たちが絶えて久しかった。
見知らぬ牧者衆が羊の群れを連れ、西の平野へと降りて草を食ませている光景が目に入った。
「なんとも大胆不敵な奴ら」とイザベル・ミラーが感心したように呟いた。よそ者で土地の事情を知らないのか。それとも敢えて侵入したのか。日が落ちれば、恐るべきグールの集団が地の底の地下鉄遺構より這い出て、略奪者《レイダー》の斥候部隊さえ餌食にする呪われた土地も、しかし、旅慣れた牧者どもにとって典型的な荒野でしかないのか。
都市を南北に結ぶ幹道でありながら、しかし、道なき道にも思えるのは、地面が固い台地だからか。都市の近くでは、街道沿いを見失う恐れはなかった。左手には崖が続き、右手には起伏のある丘陵が連なっていた。道筋には定期的に道標石が設置されており、時折、大きな家畜の群れや隊商、旅人の集団とすれ違っても、充分にすれ違えるだけの広い幹道だった。
自由都市ズールから南北に延びた幹道には、徒歩の旅人がおよそ半日で進める距離ごとに旅籠が設けられている。
公用旅籠の分厚い木扉には鉄板も打ち付けられ、窓には格子。石造りの旅籠は、まるで砦のような佇まいを思わせた。外壁を囲うように粗末だが濠まで築かれ、辺境の前哨地にも近い。いや、実際に砦として機能していると経験豊かな旅人たちは知っている。経営者は大抵、地元の有力な農民や馬借の顔役などであり、旅籠を建てる際には、自由都市の銀行から多額の融資と援助を受けていることが多い。
正午が近づいてきたが、乾いた風が熱気を和らげ、気温は思ったほど上がっていない。街道沿いを進みながら、一時間当たり10分の小休止。予定された経路をほぼ想定通りの時刻に旅籠に到着。井戸の使用料も想定内に収まった。時々、別の隊商や旅隊が水を使い過ぎたために、別の水源地まで節約するも、常に想定内の変動に収まった。
「マギーは賢い」とニナは感心する仕切りだった。口にすると、「いらぬ苦労を買ってる」と狐のグラハムの徒弟ロニめは鼻で笑った。
「自分で隊商を編成する際に、役に立つじゃないか」ニナは切り返した。
「君だって学ぶチャンスだぜ」付け加えれば、ロニは狐のグラハム・バートンに困ったように「お師さま」と視線をくれた。しかし、すぐさま「じぶんで選べ」と突き放されてる。グラハム・バートンの徒弟の教育は、マギーとは些か異なっている。どちらが優れているかは、まだ分からない。
そのマギーは、小まめに皆の調子を聞いて回っていた。人数が増えれば増える程、一人でも体調を崩した際に、遅れる恐れが生じやすくなる。気候はやや乾燥気味でほんのりと暑い。正午でも気温はさほど上がるまいが、日差しがやや強かった。「旅籠が近い筈だ」呟いたマギーは、日差しの強くなる二時間ほどを休憩すると決めた。
もっと歩けそうだが、とルーク・アンダーソンなどは呟いていたが、不満と言うほどでもなかった。最年少のガイ少年も含め、旅慣れた者たちで構成されている旅隊だから、もっと先に進めるだろうが、マギーは無理をするつもりはなかった。
できるだけ総員の体調を高めに保っておく方が、怪物や屍者との遭遇、或いは偶発的な事故が起きても対処しやすい筈と説明して、ともかくも皆がそれなりに納得してくれたように見えた。
双方の意見にともに利点がある。旅には万事、金が掛かる。特に都市圏では休憩を増やせば、それだけ費用が掛かる。故に貧しくなくとも、つい先を急ぎがちになるのだが、経験豊富な旅人マギーの旅程は無難な選択で、特に遅れている訳でもない。
旅籠で二時間から三時間ほどの休養を取る。家畜の世話をする。身体を休めておく。間食や甘いものと共にお茶を取って、水分補給する。小銭を払って、安全なトイレでゆっくりと気持ちを休める。それぞれの持ち金と嗜好に合わせ、各々が散っていった。旅籠では、一時間ごとに鐘が鳴る。ロビーには大きな柱時計が設置されており、流れ職人や猟師、馬車の御者に
打ち合わせをしている鉱夫衆や農民たちは、これからズールへと向かうのか。鉱石や夏野菜の相場を気にしていた。柱や壁に寄りかかった毛皮服の馬借たちが旅人の連れた馬や牛などを値踏みしている。財布が乏しい
酒場では、新しい仲間を募る冒険者や
知己を見つけたグラハム『狐』バートンと用心棒ハロルド・コッゾが酒場に向かう中、ニナと罪のない言い争いをしていたロニが決め手の一言を放った。
「お師さまの方が明らかに大きく稼いだよ」
「ううむ、こいつめ」ニナはやや悔しげに唸った。
用事を思いついた体で、食事処で食事を取っているマギーの元へと逃げ帰る。旅人としてのマギーにただ一つ欠点があるとしたら、それは燃費の悪さだった。今も並々の水差しから冷たい水を注ぎつつパンを毟り、山盛りにされた豆をフライパンから食べている。ニナの三倍はあるだろう。
石造りの壁に囲まれた旅籠は、まるで小さな町だ。料理人たちも複数いて、異なる料理をそれぞれの値段で出している。チーズにはやや食傷気味だったニナに、マギーは干し魚を出してくれた。互いに、赤ワインを一杯だけ注文し、地図を出しながら、午後の経路を相談する。
周囲の席には行商人の姿も目立ったが、老若男女含めてマギーほど仕立ての良い装いをした同業者は殆んど見かけなかった。古参の行商や割のいい銅や薬草などを扱う行商人でも仕立てが古かったり、何処か綻びているのに、マギーのジャケットは丁寧な繕いで痛みも少なく、大店の旦那衆や隊商主にもそう見劣りはしなかった。長身も合わせて、とにかくも、マギーの存在感は強かった。それがいい事かは、場合に拠るだろうけれど。駆け出しの若造やら農閑期の兼業と思しき半農の露天商を含め、ちらほらと視線を送ってきては、何やら囁き合う行商人が少なくない。
或いは、若くして見慣れぬ隊商を率いているように見えたからか。それなら狐のグラハムも目立って当然だが、爺さん。狡猾にも質素な服に帽子を目深く被り、入り際にマギーにぺこりと頭を下げていた。盗賊が狙うなら、金持ちの隊商主と言う訳で、本当に狡賢い爺さんだと呆れるほどだった。
席に着いたニナは、件のグラハム『狐』バートンの狡猾さに文句をつけるも、「確かにグラハム・バートンは大した人だ。あれだけ稼げる人は中々にいない」マギーはむしろ褒め称えた。
「マギーなら、やろうと思えば同じくらい稼げないかな?」
「……どうかな?或いは、一生あれほどには稼げないかも知れない」少しだけ考えてから、あっさりマギーは言った。
「中々に価値のある商品、薬品や銅のインゴット、毛皮に薬草、香辛料などに絞って運んでいる。あれくらい価値ある品種の売り手に食い込むには、どれほどの時間がかかるだろう。いや、時間だけ与えられても難しいかも」マギーは淡々と告げている。
百余もいるポレシャ圏の行商人たちをマギーはごぼう抜きした―――ように見えていたから少し衝撃だった。店持ちや二代、三代重ねた行商人にも負けないほどに稼いでいる。この先も商売を拡大するに違いないと無邪気に信じ込んでいただけに、届かないかも、との発言にニナは意表を突かれもした。
ただ考えてみれば、マギーも隊商で経歴《キャリア》を積み、培った知識と伝手を辿って取引先を開拓した。人生の礎があってこそ今の立場と商いを築き上げたが、これ以上は易々とはいくまい、と結論するのも妥当に思えなくもない。
それでも勝手に期待して勝手に少し意気消沈したニナが軽く呻いてると、「お金は大事だね。もっとも重要なリソースのひとつだ」とマギーは慰めるように笑った。
「人それぞれに比重は違う。人に拠っては命と同じくらいに重んじている。ただ、わたしは、こうして大事な人や友人と話し合う時間を優先してもいいとも思ってる」ワイングラスを廻しながら、マギーは首を傾げて微笑むと、穏やかな優しい声で嫌なことを告げてきた。
「あと、どれくらい一緒にいられるか。曠野では何が起こるか分からないから」
マギーの育て方は、グラハム『狐』バートンとは、また異なっている。何時、自分が死んでも替わりが務まるよう、ニナに知識や思考を詰め込んでくる。
マギーの死を否応なく意識させる一方、乗っ取ろうと思えば商いを乗っ取れるほどに手の内を明かしながら、時にニナにさえ恐れるような、或いは推し測るような冷たい目を向けてくる時もある。マギーの昏い目が恐ろしかったし、嫌だった。もっと単純な関係だけで良いのに、と思うも、マギーの胸のうちには病的な猜疑心の影が巣食っているのか。或いは、過去に受けた裏切りや仲間の死が、胸のうちにねじれた気質を形作ったのではないかと僅かな恐れを抱く瞬間もニナにはあった。
食事を終えたマギーとニナは、軽食を持って厩へと向かった。くじ引きで敗北したイザベル・ミラーとガイ少年が、家畜と荷物を見張っていた。一時間半で交替だぞ、とロニやニナに釘を刺してくる。イザベルは戦えるし、大人と扱えなくもない年齢だが、まだ少女としての扱いを受け入れたようだ。ミリーは見張りを除外されてる。『牧者・ヘレン』からは目が離せないからだ。
元賞金稼ぎのマギーが、昔取った杵柄から助言をして、エマ・デイヴィスは手配書とポレシャの委任状を旅籠の者に見せた。ヘレンが逃げた際には警告してもらい、見張りの手伝いに小僧も一人貸してもらっていた。旅籠の人間が護送中の法執行官に手を貸すのはよくある慣例で、何処まで頼れるかは分からないが、予め手配しておくことで幾らか安全も確保しやすくなる。
「あいつら、飯食べたんかな?」豆料理を口に運びながら、イザベル・ミラーは首を傾げて妙な心配をしていた。
それに指名手配犯にも食事をさせない訳にはいかない。言われてみれば、とニナはマギーと顔を見合わせ、三人分の食事を持って行ってやる事にした。もし、食事済みで余るならマギーが処分すればいいや。
旅籠が気を利かせて用意した個室にニナが食事を持っていくと、(多分に護送中の指名手配犯を他の客と混ぜたくなかっただけだろうが)エマ・デイヴィスはむっつりと沈黙し、『牧者ヘレン』を皮肉っぽく笑っている。ミリーは、部屋の隅で俯いていた。
「……父さんはやりかねないと思う」ミリーの妙な呟きに、『牧者ヘレン』が肩を竦め、エマがヘレンを睨みつけた。漂う緊張感に戸惑いながらも、ニナが豆料理の皿とパンを差し出すと「ともかく、食事にしよう」疲れた様子のエマが顔を拭いながらそう言った。
※※※※
雄大に聳え立つズール都市防壁の東門を出ると、荒れ果てた地平が彼方に広がっていた。都市防壁の突き出した梁には、穏やかな風に見せしめの鉄籠が揺れており、干からびた強盗犯が太陽を憎むように鉄格子にしがみつき、鳥がその死肉を啄んでいた。
城門傍らに設けられた詰所から、哨兵が氷のように冷たい眼差しで通り過ぎる者たちを監視していた。時折、新参と思しき入植者の一団が呼び止められ、厳しく質疑応答されている。安住の地を探し求める者は曠野に尽きることはないが、今はいかにも時期がよろしくない。
『浮浪罪』と言う法律違反がズールにはある。正規の居住権を所持せず、住所や住民票に登録をされてないよそ者が都市内で浮浪となるのを防ぐ為の法律で、普段は安価な労働力としての兼ね合いで大目に見られる一方、都市が籠城戦や防衛戦に移行したり、物資や食料の不足が懸念された場合、即時に厳格に適用され、摘発された放浪民は容赦なく都市防壁の外へ追放される。
今現在、金の無い放浪民たちは都市に入るのを避けていた。戒厳令下と言うほどではないが、警吏の取り締まりが常より厳しい傾向を見せている。
都市生活には万事、金が掛かる。罰金や地下の冷たい牢獄の暮らしは、余力が乏しい放浪者を容赦なく追い詰める。今は、外郭地区やら近隣の農村地帯に滞在して仕事を探している者も多いだろう。郊外や田園の日雇い仕事は、賃金と寝床や食べ物が半々の現物支給も多いが、農場で働けば少なくとも餓えはしない。生きるに厳しいとしても、だが、それは中世や古代の人々にとって人生がそうであったように、黄昏の世の旅人にとっても当たり前の日常でもあった。
本質的には、ランツクネヒトも同類だ。無宿人《ノークォーター》、自由労働者、
一口に放浪民とは言え、侮れぬ勢力を持つ大規模集団も幾つかは知られている。広域の牧草地を所有する牧者衆や遊牧民に、街道に根付いた傭兵団。或いは複数の村々を支配して税や朝貢を取り立てる無法者《アウトロー》の砦など、国とは言わずとも一帯の統治者の如く振舞い、古き血筋の大名・貴族どもや都市とも渡り合う成り上がりの綺羅星たち。
ヒルダも、かつては野心を滾らせた。徒党は小さい。十人足らずだ。うだつの上がらぬ日々を送りながら、剣を頼りに成り上がりを志した時期もあったが、時間切れになった。栄達と言う道は、そうした名もなき者たちの骸で舗装されているものだ。そして己も名も無きもので終わろうとしている。赤茶けた地面を踏みながら、ヒルダは小さく自嘲の笑みを浮かべた。
最近、それなりに成功をしてみせた大手徒党に『
多少の感心をしつつ、雇ってもらえないかと時々、族長《ニウヴ》やら陛下《ムーテ》の天幕へと出入りして、ご機嫌伺いをしていた。塒なり、寝床に一部屋でも一棟でも貸し与えて貰えれば、放浪の傭兵徒党には随分と助かる。ヒルダがいなくなった後の事も考えれば、今のうちに手下どもに根城のひとつも残してやりたかった。
手下たちの屯っている一角では、廃屋の影に焚火で鼠や蜥蜴の肉を焼きながら、数人の若い女たちが半裸に近い姿で寛いでいたが、ヒルダを見て近くにいたリジィが立ち上がった。
「ヒルダ……先刻、半端仕事でも貰えないかって『
「族長《ニウヴ》ルキウスの直属の戦士が、ヴェックを呼びつけていました。ヴェックも妙に焦った様子で……ついさっきです」
「早耳のヴェックが?」ヒルダの怪訝そうな問いかけにリジィは真剣な表情で頷いた。ヴェックは、自由都市に根付いている
ヒルダは、ヴェックの面構えを思い出した。強かでふてぶてしい浮浪者《ホーボー》の頭目が焦りもあらわに駆けつける。妙な話だが、歴戦の嗅覚に妙に訴えかけるものがあった。
「何かあったかも知れないね」考え込んだヒルダだが、すぐに結論を出した。カレンとリジィを見つめながら「『