ニナは孤独な娘だった。衣服とは言えぬ襤褸を着込み、朽ち果てた町の廃墟に独りで暮らしている。
静寂に包まれた無人の【住宅街】の一角、崩れかけた二階建て家屋の屋上に小さな芋畑を作って細々と生き延びていた。
隣近所の裏庭だったり屋根が壊れた家屋の外から見えない部屋に育ちやすい果樹や根菜、玉ねぎを植え、或いはネズミ捕りの罠を仕掛けて栗鼠や小鳥など小動物の肉なども獲っている。
肥料にしている黒土は主に近所の公園跡から取ってくるが、その際には棲息している変異獣《ミュータント》に見つからないよう、特に細心の注意を払っていた。
公園に棲む四足歩行の変異獣《ミュータント》は、同種では比較的に小柄で細い手足を持つ灰色の怪物で、げっ歯類に似た痩せ顔に不快な臭気を纏っていた。
生きている人間を襲う事が少ないことから、恐らくは腐肉食動物《スカベンジャー》と推測していたが、それでも鋭い嗅覚と素早い動きを持った侮れない怪物で、万が一、襲われた際は小柄な体を活かしてあらかじめ定めた抜け穴を通り抜け、ロッカーなど鉄の廃材で通り道を塞ぐことでニナは追跡を振り切ってきた。
住宅街は多分無人だった。他に住人は見当たらない。多分と推測が入り混じるのは時々、町中から風に乗って呻き声や歩く音が響いてくるからだが、ニナが目にした限りでは、物音の十中八九が徘徊するゾンビや見慣れぬ恐ろしげな変異獣《ミュータント》の鳴き声で、人間が長期的に暮らしてる痕跡は、ニナ自身のものを除けば一度として発見した事がなかった。
かと言って、ニナが世界で唯一生き残った人間という訳でもない。住宅地から展望できる距離に罅割れたコンクリートの道路が通っていて、危険な略奪者《レイダー》の一党やら、或いは厄介そうな放浪者《ワンダラー》の一団やらが通り抜けていくことがあった。
いずれにせよ、そんな時にはゾンビや変異獣《ミュータント》に対するのと同様、見つからないよう息を潜めながら望まぬ来訪者たちをやり過ごしてきていた。
僅かに残された居留地を除けば、巷は剥き出しの暴力が支配する無法の曠野だった。賊徒《バンディット》や略奪者《レイダー》は言うまでもなく、一見して優しげに見える旅の親子連れとて、見知らぬものに対して友好的に振舞うとは限らなかった。曠野では誰もが生きる為に足掻いていた。ニナが廃墟でひとり暮らしている無力な子供と知れば、豹変してその乏しい持ち物さえ奪おうとしても不思議はない。
略奪者《レイダー》の一団によって鎖に繋がれた哀れな連中は、襤褸めいた装束からするにきっと別の廃墟で暮らす住人に違いない。それどころか、時には廃墟の民や放浪者《ワンダラー》と思しき一団が逃げ惑う他の放浪者《ワンダラー》や家族連れの旅人を狩り立てて数珠つなぎに縛った挙句、何処かへと連れ去る光景も幾度か目にしている。虜囚たちは奴隷として酷使されるのだろうか、或いは忌むべき生贄や人喰いの餌食としてもっとおぞましい最後を遂げるのかもしれない。
とは言え、街道を行き交う者たちが必ずしも邪悪な輩とも限らない。
行き倒れの旅人を手当てし、薬と食料を与えて立ち去った隊商《キャラバン》もいたし、獰猛な変異獣《ミュータント》に追われる見ず知らずの家族を命懸けで守った放浪者《ワンダラー》の奮戦も、近隣の背の高い建物の屋上から、その視力のいい目でニナはきっちりと一部始終を見届けていた。
生前の姉が言ってたように、善良な人間がいれば悪人もいる。ニナにとっての問題は、どうやって見分けるべきかだろう。
【住宅街】と言うちっぽけな縄張りからでさえ、年に2~3度は人狩りや襲撃の光景を目にする。広大無辺な曠野であれば、どれほどに弱肉強食の光景が繰り広げられているかは想像に難くない。
一方で人が誰かを助けている姿は生涯に2度しか遭遇していない。つまり曠野で期待できる善悪の比率は、悪100に対して善6~7程度なのだろうか、などと考えてから、ニナはくすと笑った。
愚かしい計算だった。賊徒であれば同じ人物が何度も縄張りで襲撃を行うだろうし、かと言って善行を行った商人や放浪者らも、異なる局面では悪辣に振舞う事を求められるかもしれない。善人も時に悪の誘惑に駆られ、また悪人が気まぐれに善行を施すこともあるのが人間だろう。
ニナの行動範囲は狭い。外の世界のことを何も知らない。生まれてこの方、半日で一巡できる程度の広さしかない【住宅街】から出たことがなかった。
【住宅街】とてゾンビや変異獣《ミュータント》が徘徊し、見慣れぬ
頑丈そうな寝室のドアに瓦礫や家具を積み重ねて作ったシェルターの奥まで入り込めば、例えびくびく怯え、バリケードが破られませんようにと祈りながらにしても、少なくとも眠りに就くことは出来るのだ。
曠野ではそうはいかない。外界にはゾンビや変異獣《ミュータント》、略奪者《レイダー》や追い詰められた難民、放浪者たちが群れ成して彷徨っている。
略奪者《レイダー》や盗賊《バンディット》は、曠野でもっとも危険な存在だった。拳銃やサブマシンガン、ショットガンなどの銃器で武装し、弾薬も豊富に所持している彼らと遭遇してしまった場合、状況は殆んど絶望的と言っていい。
放浪者《ワンダラー》も、かなり危険な存在だった。曠野を彷徨う放浪者《ワンダラー》たちは、敵味方定かではなく、生きる為になんでもする者も少なからずいた。彼らは、変異獣《ミュータント》や盗賊《バンディット》などの危険に対処する為、ほぼ確実に武装し、大抵は徒党を組んでいる。
放浪者《ワンダラー》たちの主たる武器は手製のパイプ銃や安物の再生弾、バットや鉄パイプ、錆びたブレードなどで略奪者《レイダー》などに比べれば貧弱な武装だが、それでも危険な存在に違いはない。
ゾンビの群れは、殆どが数体から十数体で構成されている。大半は
変異獣《ミュータント》に関してはそれこそ千差万別で、地面の下を泳ぐ地下鉄のような巨大ミミズから、銃弾を弾く硬質の皮膚を持った人喰い類人猿。犠牲者を取り込んで記憶や知識まで融合する山のような不死身の肉の塊など実《まこと》しやかに悪夢めいた伝説が囁かれているが、ニナを殺すには、公園のスカベンジャー一匹で充分だろう。
ライフルを持った成人男性でさえ、そんなスカベンジャーに不意を突かれて殺される事がある。
大前提としてニナは弱い。勿論、32口径や9ミリの拳銃を所持していれば、人間は大抵の怪物に勝てるが、残念ながらニナの手持ちと言ったら玩具みたいな手槍くらいのものだ。これは罠に掛かった鼠や栗鼠を仕留めるには便利だが、ちょっと
つまり、略奪者《レイダー》や盗賊《バンディット》に遭遇したら、一巻の終わりとなる。変異獣《ミュータント》とあったらほぼ死ぬ。ゾンビ【
兎に角、ゾンビは噛まれたら多分アウトだし、引っ掛かれても感染するかも知れないので、繰り返すが戦いたくない。そもそも延々、追って来られてもニナは非力過ぎて対処できない。
【住宅街】の外に広がる茫漠たる大地。黄ばんだ不毛の曠野を眺めながら、ニナはほんの時々、外の世界はどんなところだろうかと想像する。
防壁に守られた居留地や食料の豊富な農園に憧れはするが、想像するに留めて、実際に出かける事はない。
迂闊に曠野に踏み込んで、敵対的な存在と鉢合《エンカウント》わせた瞬間、ニナは詰む。
ニナよりずっと強かった姉が、腰を抜かした妹を守ろうとしてゾンビと戦い、あっさりと食い殺されている。
そもそもの話、ニナは外の居留地の名も勿論、何処にあるかさえ知らない。確たる手がかりを一つも持たずに外界に出ても死ぬだけだろう。そもそも水や食料にも大して余裕などない。だから、きっと、外界に漠然とした憧れを抱きながら、ニナは廃墟の片隅で細々と暮らすしかない。
裏手の庭には、家族の墓がある。ごくまれに季節の花を見つけた時は、必ず供えている。
一番、新しい墓はゾンビに立ち向かって食い殺された姉の為に作った。走るのが得意だった癖に逃げようとせずに、間近に走るゾンビが出た途端、震えあがった役立たずの妹を見捨てないで死んでしまった。死体は多分、今頃、近くの国道辺りでも彷徨っているだろうか。
巨大鼠《ジャイアントラット》やら野生動物や変異獣《ミュータント》の入ってこれない場所に設置した小さな畑を手入れし、小動物が掛かっていないか罠を見回り、たまに裏庭の墓前に花を供えて一日を終える。何時まで続くかは分からないが、そうしてニナは日々を送っていた。
その日の午後、ニナは惰眠を貪っていた。頑丈な扉を備えた二階奥の寝室は、窓も板きれで塞いであるし、屋上への出入り口には蓋がしつらえてある。ゾンビや変異獣《ミュータント》やら怪物たちが侵入を試みたとしても、破る際には大きな音で住人へと知らせてくれるし、分厚い木製の板が別の建物へ逃げるだけの時間も稼げる安心安全な仕組みとなっている。
仮に木製の扉を短時間で木っ端微塵にしてしまうような大型の変異獣《ミュータント》が襲ってきても、その場合は到底、逃げ切れるとも思えないのでどちらにせよ問題はない。
そうして夢も見ずに熟睡していたニナだが、妙な胸騒ぎを覚えて目を見開いた。
柔らかなマットレスから小型の肉食獣を思わせるしなやかな動作で音もなく上半身を跳ね起こすと、瞬きもせず周囲を見回し、アドレナリンを分泌しながら耳をそばだてる。まず匂いを嗅ぐ。普段と変わらない。ただの埃っぽい乾燥した匂い。
屍を食す変異獣《ミュータント》の悪臭も、ゾンビの死臭も感じ取れない。
部屋内の空気の流れにも異常は見て取れない。窓の隙間から洩れた光に照らされた埃が、舞うように揺れているのは、ニナが跳ね起きたからだが此れは仕方ない。
音。分からない。何かを聞いたような気もする。保留。
皮膚感覚。視覚。異常は感じ取れない。近くに接敵はしていない。
壁や扉、窓が破られた兆候は感じ取れない。
十秒間、動かずに待つ。階下には動きはない。微かな音もしない。
異常は、なかった。
本能はそう告げている。
念の為に、理性で脳裏で警戒すべきポイントを思い返してみる。
それらも異常はない。少なくとも、我が家になにかが侵入した可能性はかなり低い。しかし、ゾンビは物音を立てずに何時間でも、何日でも佇み続ける。獣のように手を床に付きながら無音で這うと、ニナは壁に開いた小さな穴をそっと覗き込む。廊下を見渡せる位置に鏡の欠片が置いてある。この時間帯に差し込む陽光で廊下は影が多く、よく見えない。鏡の置き場所をもっと工夫しておけばよかった。
ニナは宝物箱から手鏡(近所の廃屋で姉と冒険中に見つけた)を取り出した。
用心深くそっと差し出して、視界を確認する。廊下には誰もいない。階段前のバリケードには異常はない。
9割安全。と確認して、やっとニナは止めていた呼吸を吐いた。
しかし、心臓が強く脈打っている。なにかが起こっている。
「……胸がドキドキしてる。なんだろ」
小声で独り言を囁いた。独り言は、孤独な少女《ニナ》の癖となっていた。
廊下へとゆっくり出る。階段上に留まったまま、そうっと頭だけ出して一階を覗き込むと素早く視線を左右へと走らせた。室内の微かな違和感を探す。通り道に設置した棒切れや細い紐、窓の下に踏めば音を立てるガラスをばら撒いた床。金網で編んだ籠の罠。空気の匂いと流れ。僅かな温度や湿度の違い。明確な差違は感じ取れなかった。
侵入されていないのか、それとも痕跡を感じ取れないのか。
野生動物には及ばないが、ニナの感覚はそれなりに鋭い。怪物に囲まれながら廃墟で一人、生き延びてきた日々が五感を鋭く研ぎ澄ませてくれた。
異常がないと判断すると、階段から顔を引っ込めたニナは、屋上へと昇ることにした。
梯子に足を掛けた姿勢のまま、ニナは器用に屋上への蓋《ハッチ》の留め金を外した。
蓋《ハッチ》を開くと、流れ込んできた冷たい空気が少女の鼻先に触れる。
すん、と鼻を啜って空気の匂いを嗅いだ。ゾンビの死臭と腐肉食性の変異獣《ミュータント》の悪臭が微かに入り混じった冷たい曠野の風に、乾いた破裂音が僅かに耳に届いた。
「……銃声。間違いない」
伏せた姿勢を維持したまま、ニナは屋上の貯水槽へと這い寄ると、寄り掛かってじっと耳を澄ませた。
再びの破裂音。それも連続して鳴り響いていた
「……別の銃声……また、最初と同じ銃声」
他の建物に遮られ、曠野の全景を一望する事は適わない。
目に映る範囲の地平には、銃火は確認できない。
文明崩壊と共に工業地帯は壊滅し、動力(電気と石油)が失われ、流通も寸断された。今の時代、弾薬はかなりの貴重品となっている。幾ばくかの技術と知識が継承されていようとも、生産手段が手工業時代のそれまで衰退していては如何ともしようがない。
「多分、西」
指を軽く噛みながら、ニナは考え込む。
他人との交流がないため、弾薬の詳しい相場など知らない。知らないが、食料や奴隷の取引で通貨の一種として用いられる光景は目にしていた。だから、よほどに切羽詰まらなければ、こんなに後先考えずに連続して発砲はしない、はずだ。多分、そう。
複数種類の銃声が、かなり激しく乱射されている。武装した隊商《キャラバン》が変異獣《ミュータント》、或いは放射能で凶暴化した野犬の
連続して発砲していた乾いた短い銃声に、長く響くライフル弾の発砲音が重なり、連射していた短い発砲音が途絶えた。
撃ちあいだと判断する。連射していた小型銃の射手を、ライフルの持ち主が仕留めたのだろう。ここ数年にない激しい争いが【住宅街】の近くで繰り広げられているようだ。
「だとしたら……なにか、いいものを拾えるかもしれない」
右目に丸めた指を当てて太陽を遮光し、ニナは彼方の曠野へと目を凝らすが、相変わらず銃火は見えず、ただ銃声が鳴り響いているだけだった。
小型銃の発砲音が届く距離。それほど遠くないとは思うが。危険を冒す価値はあるだろうか?