下層地区の登録労働者として、かなり例外的に保安官助手に任命されたマギーちゃんは、しかし、一部市民からの評判が芳しくなかった。
所詮、有事の際の
担当地区――そう、下層地区の市民や正規居住者たちである。矛盾するようであるが、市民や正規居住者の全員が、市民街区や門前町、或いは中町での生活水準を支えうる収入を得られる訳でもない。次男次女以降に財産が回らないこともあれば、息子や娘に家を譲り、老後の引退生活に町外れを選ぶ親もいる。
一部の不評を、マギーは気にしない。普段から見張りや自警団と誼を通じて、怪しげなよそ者が入ってくれば、塒《ねぐら》や定宿について調べ上げつつ、軽い窃盗や売春、恐喝などについては放置することも多い。手が回らない。そこまでの給料は貰ってないと言うのが、マギーの言い訳だが、小さな犯罪を見逃す代わり、話を聞き込み、滅多にないにしろ、時に強引に情報を吸い上げることもあった。
暴力は滅多に振るわない。小物の犯罪者でも、メンツを潰すと危ういからだ。時には、後先考えずに報復してくるかもしれない。
下層の法執行官があまりに仕事熱心だと大抵、長生きはできない。踏み込み過ぎずとも、かなり危険な稼業ではある。一部の破落戸からは、既に怨みを買っているだろう。だから、自警団に手柄を譲りもするし、日常的な警戒も欠かせない。
その代わりに強盗や誘拐、暴行、強姦などが起きると大抵、半日もしないうちに容疑者を連行してくる。殺人は滅多に起きない。高価な時計や銀食器が盗まれると短時間で取り返してくる。曠野の地の元賞金稼ぎには、何処か仄暗い気配が付き纏っている。有能なのは疑いないが、裏社会と通じてるのではないか――そう嫌悪する向きもあるが、現実には下層地区の凶悪事件の発生率は、マギーが任命されてから低く抑えられていた。
なにも起きない。なにも起こさない――分かる人物は分かっている。嫌う人物は、何をしようとも嫌ってくる。境界にいる者たちについては、賢明なら時間が経てば理解するだろう。マギーちゃんは分からずや共のご機嫌を取る為、無駄な心労を重ねるような思考の持ち主ではなかった。
苦情を入れてくる連中も、本気ではあるまいとマギーちゃんは見做している。市民や正規居住者でありながら、下層地区に暮らす連中なんて端からさほどの人物ではない。市民権なり、正規居住権だけは引き継いだものの、しかし、現実に割良い仕事や稼ぎ口に有り付けず、生活費やら交友関係の出費を抑える為、町外れでも新興住宅一帯へと身を寄せている地域は、零落した市民や居住者の吹き溜まりだ。
確かに最近、町外れ地区も随分と栄えてきて、住みやすくなってきている。
比較的に形の保たれた廃屋などに手を入れ、修繕した建物の貸し部屋にそれなりの暮らしを送っている市民や正規居住者も少なくないのだが、着衣は上等に見えても解《ほつ》れの目立つ着古しであり、購入した衣服や小間物に関しても散々、値切った上に支払いが年末まで遅れたりと、散々な相手であった。
家賃も安く、隣人も同じような境遇ばかりの界隈に引っ越してきた零落市民ときたら、当初は保安官助手マギーや自警団幹部やらと地区の有力者を御用聞きに呼びつけては、ああだ、こうだと五月蠅く注文してきたものだ。連中、上等な衣服や食料ばかりを頼む癖に、金払いも悪くて値切ってくるとくれば、マギーちゃんもすっかりうんざりしてしまった。保安官キャシディやスタンフィールド氏などに話を聞けば、相手にする必要もない連中だとのお墨付きを貰ったので、最近のマギーは敬して遠ざけるように適当にいなしていた。
無視できる立場のマギーはともかく、下層地区の薪売りや野菜を届ける農民、乳売りの牧者らにとって、小口注文でも支払いの遅れが重なれば、生活が傾きかねない。かと言って、こまめに催促すると逃げ回るし、その癖に新手の注文は回してくるので、どういうつもりなのかマギーちゃんも理解に苦しむものだ。
マギーとニナは、だから、あまり貧しい市民階級を相手にしない。自由農民や農場主、市民相手なら手元不如意で一時の支払いが遅れても、それほどの問題はない。
貧しい市民や正規居住者には見栄っ張りも多く、生活水準を落としたがらない割に金がないので、ひどい時には請求書を踏み倒そうとする。
上品そうな老婦人が衣装の支払いを忘れた振りをした時には、啞然としたものだ。
貴族や騎士相手の商売よりはましだが(……かつての雇い主の冒険商人オーがどれほど連中に泣かされたか)町の市民だって、切羽詰まれば中々に意地汚く腹黒く振舞うものだ。
落ちぶれた市民や正規居住者たちの暮らす元廃屋の薄暗い路地には、昼前から薪や炭の匂いが立ち込めていた。軒先では簡素な調理器具である
大型建造物や形を保った頑丈な廃墟を修繕して、新たな住人たちの居住に耐えるよう壁や屋根の穴を塞ぎ、柱などを補強して集合住宅《アパルトメント》とした代物で、中には落ちぶれた名家の末裔やら、仕事を引退した老人世代。賭博で身を持ち崩して勘当された富農の子弟らが零落しつつも、それぞれの生活を送っていた。
庭先の
建て直され、修繕された廃屋の二階の一室。文字通りの一部屋に一家族が暮らしている。中世からヴィクトリア時代に掛けてと同様、貧民には二段ベッドや雑魚寝の一角が
立派な髭を蓄えた紳士がスーツを着て椅子に座っている。本棚には数冊の本。食卓には立派な陶器のさらに冷えた粥が入って蓋をされている。水差しの水には、柑橘類の薄く切った皮が浮かんでいる。没落した暮らしを送っていても、客前の作法だけは崩さないようだ。
「旦那様、心苦しいのですがお支払いの方が――」辞を低くしたマギーはぼそぼそとグレイ氏に告げた。
行商人としてのマギーは時々、グレイ氏の為にボトルワインを用立てる。ジンやリキュールほど高価ではないが、都市産のパックワインやラムより上等な代物で、労働者の日当の3~4日分にも匹敵する値段であった。常飲する訳ではない。昔からの知己を来客として招く際、グレイ氏は高価な酒を用意する。それを見栄と取るか、矜持と取るかは人に寄るだろうが、グレイ氏は一括では支払えずに二か月、三か月と掛けて律儀に支払いを行う。
肯いたグレイ氏が棚から居留地紙幣を取り出した。出来れば、都市通貨で支払ってもらいたいとの旨は告げているが、どうにも工面できないのだろう。
紙幣は丁寧に折り揃えられていた。ほんのわずか躊躇してから、グレイ氏が一枚ずつ数え始める。隣のニナから冷笑の気配が漂ってきたので、マギーが睨みつけると、少女は無言で目を伏せた。まだ若いからか。賢いが冷酷な部分があって、マギーは危惧している。とは言え、ニナの年齢の頃には、マギーも己だけは違うと信じて、弱者を嘲る気持ちがあった。数え終えた居留地紙幣を、グレイ氏は丁寧に揃えて差し出した。指先の動きだけは、昔のままの紳士のそれだ。
零落市民でも、役立たずや無能ばかりとは限らない。事情は人それぞれで、中には相応のよんどころない事情があったり、災厄によって財産を失った人もいる。グレイ氏は、所有する農地が巨大蟻襲撃によって失われ、残った財産の大半を作男《ファームハンド》や召使いたちに手当てした元農場主だから、マギーも敬意を払っているが、それはそれとして支払いはしてもらわねばならない。
今のグレイ氏は、市内の倉庫の事務職で喰い繋いでいる。娘さんは、上層の老婦人の邸宅で働き、長兄は農村地帯で他所の地所の作男となっていた。人手の足りない時だけの浮浪農民や雑役夫ではなく、長期契約の作男《ファームハンド》――きついが一人前の男の仕事だ。勤勉な利け者なので、いずれは小屋住み農になれるだろうし、もしかしたら小作人にもなれるかも知れない。正式な結婚もできる身分だ。だが、流石に一代でそれ以上には成れまい。
マギーも昔、グレイ氏には多少、世話になった。東の湖への水汲みや森林で木材を工面する際、グレイ氏の営む農場は、常に木こりや水汲みの女子供たちに休憩場所を用意してくれた。
かつて立派な紳士だった人が、おのれの責に寄らずに零落した。金の工面に苦労しているのは見ていれば分かる。好感を抱いていた人物に支払いを催促するのは、いつだって心苦しい。支払いは遅れたことはないが、とマギーとて(……どうしたものか)と対応には苦慮する部分があった。
いまでも紳士然と振舞おうとしているのにはマギーは好感を抱くが、気位ばかり高いと、悪く言う野菜売りの農民や水売りの
怠惰や浪費で財産を失った者ほどに自尊心は肥大するのか。他者の軽侮に敏感で、腹の底で馬鹿にすると意外とバレたりする。なのでそれはそれでストレスが溜まる。立派な人物にも、無能な金食い虫にも、できるだけ接触せずに、謹厳実直に対処するのが一番であった。
グレイ氏が慎重に二回、数え終わった。受け取った現金を、マギーは腰の鞄へと仕舞い込んだ。グレイ氏は静かに髭を撫でている。
マギーの腰には幾つものポーチがぶら下がっており、各々に銅貨や銀貨、高額紙幣が詰まっている。常に千程度の現金は持ち歩いているのだが、金を持っているにも関わらず、マギーはグレイ氏に対して辞を低くして対応している。ニナなど、それが面白くないとみえて、露骨に反発する時があるので――流石に今は空気を読んで、丁稚娘に徹しているが。ひやひやする時もあった。
「では、御用がありましたら、また伺いますので……」マギーが一礼すると、髭を撫でていたグレイ氏がため息を漏らした。
何かを言いよどむように少し躊躇ってから、「ドレスなどを扱っていると聞いたがね。若い娘のドレスだが」そう尋ねてきた。一瞬、困惑を見せたマギーだが「もうじき、夏至祭ですからね」とすぐに合点したようにうなずいた。
ポレシャ市自体は、巨大蟻襲撃の爪痕からも立ち上がりつつあった。遊牧民相手の戦争も短期間で勝利を収め、農村地帯を荒らしていた強盗団や家畜泥棒もほぼ一掃している。市の経済と治安は息を吹き返し、数年ぶりに大規模な夏至の祭りが行われる見通しも立っていた。
6月21日前後の夜が今年の夏至となる。一年で最も昼が長い日だ。おそらくは一生の縁を結ぶことがもっとも多い日でもある。
夏至は、太陽の力が最高潮に達する日とされており、特に冷涼な欧州の多くの地域で、火が祭りの中心となっている。大きな篝火を焚いて太陽を礼賛し、焚火を飛び越えることで健康や幸運を授かると、古来より信じられてきた。北欧では、ミッドサマーとして花や草で飾った柱を中心に踊る習慣なども見られる。家畜を煙にくぐらせて魔除けにする風習なども、古代多神教時代より伝わるもので、これらの伝統は後に欧州世界がやや排他的な風潮の一神教に染まってからも、一掃されることはなかった。
年頃の娘を持つ家庭では、夏至祭が近づくにつれて頭を悩ませる。夏至の祭りは、農業にとって豊穣を願う重要な祭祀であると同時に、若い男女にとっては異性と出会う、結婚と恋愛の祭りでもあった。若者たちは、男女で森へと向かっては花冠を作り、踊り、将来を誓い合う。普段は堅い父親たちでさえ、夏至の夜ばかりは多少のことには目を瞑るのは、母親との出会いと思い出の為だろうか。
もっとも、誓約の全てが実を結ぶわけではない。夏至の夜の約束は、翌朝になれば風に流れてしまうこともある。それでも、翌日になると、いくつもの家で真面目な話し合いが始まり、正式な婚約へと進められることも少なくない。
だからこそ、若い娘を持つ家では、夏至の日の為にできるだけ見栄えのする衣装を用意する。取り分け、すでに相手が決まっている娘となればなおさらだ。
祭りの夜にどのような姿で現れるかは、その娘の家の体面をも示す。
みすぼらしい格好をさせる訳にもいかず、親は無理をしてでもそれなりの衣装を整えようとする。新しいドレスを仕立てられる家は少ないが、せめて色の良い布を用い、少しでも晴れやかに見えるよう工夫するのが常である。
夏至祭の装いは、時に若い娘の一生を左右する。その為、夏至が近づくと服飾を扱う者は忙しくなる。古着を仕立て直したり、色を染め直したりして間に合わせるとしても、娘たちの晴れ着を整えようと、仕立て屋や古着商のところへ客が押しかける。
グレイ氏が娘のドレスを求めているのも、まさにそうした事情によるものだろう。
「……みすぼらしい格好だけは、させたくなくてな」と言うグレイ氏に、マギーはノートを差し出した。幾つかのドレスのスケッチが描かれており、値段なども記されている。
「ええ、と。値段は、比較的に新古品などのもので、実際には古着が多いので多少、安くなります」とマギーが告げると、グレイ氏は静かに瞑目した。
それからノートを捲り、「あれの母親が着ていたのに似ている」と一つのドレスを指さした。
「こちらは三百五十ですが、よろしいでしょうか」本来、買い物する際には、先に値段を尋ねるべきだが、不器用な紳士として値段交渉しないグレイ氏にマギーは値段を明示した。
うん、と頷いたグレイ氏に「幾つか現物を持ってきますが、早い方がよいでしょう。では、明日にでも」と明日の昼時、と時間を決めてマギーとニナはグレイ氏の部屋を辞した。
ニナが廊下を歩きながら、口を開いた。「マギー、あのドレスの仕入れ値だけど……」怒っている気配だ。
「分かってる。利益は出てる」とマギーが宥める。
「運搬費に手間賃を入れたら、赤字だよ。何故、グレイ氏だけに丁寧に対応するの?それなら、他の貧乏市民にも同じようにするべきではないの?」ニナが辛辣な口調で言った。
「好き嫌いだよ。好き嫌いだ。私は、あの人が好きなんだ。性的にではないよ?」とマギーは言った。
ニナには、マギーより鋭いところがある。いずれは人物になると期待していた。
だが、若い。人柄の良い相手と付き合うことで、人生の風味が少し豊かになる感覚は、どうしたってまだ理解できない年齢だった。
ニナが不満げに唸った。二人きりの物陰に来ると立ち止まって、「マネーisパワー!」叫ぶなり、腕に噛みついてきた。不満があると噛んでくるのだ。