戦利品を入れる為のザックを背負い、紐を調節して動きやすいようにフィットさせる。豚と花のアップリケを縫い付けたキャンバス製。やや重量があるが丈夫で扱いやすい逸品で、自分が死んだら誰かに拾ってもらいたいと思う程度には思い入れがあった。
外出する前、まずは普段使用している逃走経路を手順通りに確認した。小さな穴や裏の通路、走りやすい塀の上も崩れてないか視認する。視界内のゾンビは動きが鈍く、変異獣《ミュータント》たちは公園でのんびりとしている。仕留めたばかりと思しき、巨大鼠《ジャイアントラット》の死体が転がっているので、今日明日は大人しく公園で過ごしているだろう。
(よし、準備完了)
確認してから【住宅街】の西区画へと向かう。片方のグループは、どうやら既に敗走を開始しているようだ。鳴り響く銃声が単調なリズム、かつ一方的なものへと変化していた。
ライフルの音も、暫く前から途絶えている。持ち主は、きっと劣勢の側の要だったのだろう。それまでは互いに様子を伺い合う感じにリズミカルに銃声が鳴り響いていたものが、ライフルの発射音が聞こえなくなった途端、単調な銃声が散発的に鳴り響くようになった。一気に趨勢が傾いたと見て、おおよそ間違いない。
(優勢な側が発砲を控えている。銃弾を節約しているんだ)
小さな舌で唇を湿らせ、ニナは状況を推察しようとする。
(つまり、手強い戦闘要員は、もう排除されてしまったのかな)
怒鳴り声に悲鳴が入り混じった戦闘音が、乾いた風に乗って徐々に近づいてきている。
敗走した側の徒党が、追跡を振り切ろうと【住宅街】へと逃げ込んできたようだ。
追われる者たちが、少しでも命長らえようと、ゾンビや変異獣《ミュータント》の巣食った廃墟へ逃げ込むのも、曠野で幾度となく目にしたお決まりの結末であった。
ニナは素早く周囲を見回した。予め目星をつけておいた住宅街の西の外れに近い建物に、警戒しながらも足を踏み入れる。
勿論、探査済みで構造を把握した建物ではあるが、とは言え何時の間にやら徘徊する巨大鼠《ジャイアントラット》や巨大蟻、変異獣《ミュータント》などが巣食ってないとも限らない。
廃墟では油断すれば、人は容易く死ぬ。特に子供は。
【住宅街】へと遠征してくる
【住宅街】にもまだ物資が見つかりそうな区画は残っているが、ベテランの
大したものも無いだろう廃墟に足を踏み入れ、食器やら金属のがらくたを見つけて喜んでいた次の瞬間、建物に巣食った巨大鼠《ジャイアントラット》の群れやゾンビに襲われて呆気ない程、簡単に命を落とすこともあった。
あの笑顔が凍り付いて、泣きそうになった表情に変わる瞬間を見るのは、たまらない。
(……厭なこと思い出したな。用心を怠るな。あたし)
視界は常に広く持つ。午後の陽光が照らしている埃っぽい廊下を殆んど足音を立てずに進んでいく。何度か往来して、怪物の潜んでそうな場所や侵入できそうな窓の位置は、頭と肉体に叩き込んである。神経を張り詰め、様子を伺いながら慎重に、しかし、可能な限り敏捷に屋上へと続く階段をニナは昇っていった。
屋外に出ると身を伏せた姿勢を維持しつつ、屋上の縁《へり》へとにじり寄って偵察する。
敗走している一党は、追われながらも、なお交戦を続けていた。
必死に走りながら、武器を装填しては振り返っては撃つものの、殆んどは外れて土煙を上げるだけだった。
稀に命中した時は苦痛の悲鳴が上がるものの、追跡者たちの動きを一瞬鈍らせるだけで倒れる者はいない。
追われている者たちの武装を目にして、ニナは苦い表情を浮かべる。
(えぇ……無理だよ。あんなのじゃ)
鉄パイプにゴムを加工してのスリングショットに片手用のクロスボウピストル。小柄なフードの逃亡者など、使いようのない短い鉄パイプを後生大事に握りしめていた。追い剥ぎや野犬の数頭くらいは追い払えるかもしれないが、大勢を足止めするには、あからさまに威力が足りない。
もっとマシな武器を持てばいいのに、或いは、戦闘要員が倒れてしまったか、弾薬が尽きたか。あれでは、追っ手に対する牽制にもならない。
ニナが息を呑んで見つめる先、傷ついた追跡者は怒りの叫びを上げて発砲する。手製のパイプ銃はやはり精度がよろしくないのか。そちらも外れたが、コンクリートブロックの塀には浅く弾痕が刻まれる。
間近を銃弾が掠めた逃亡者の顔色は蒼白で、恐怖に強張っている。目が血走り、口の端から泡が吹き出している者もいた。
「これは……逃げ切れないかな」
俯瞰して眺めるも、どうにもよろしくない流れだった。【住宅街】を逃げ惑う生き残りだが、地理に不案内な上、追う者の方がずっと数が多い。
無論、放浪者《ワンダラー》たちとて【住宅街】には不慣れだが、彼らは単純に逃亡者の跡を追えばいいだけだ。
追われているうちの幾人かは、見た覚えのある顔だった。ニナの記憶が確かなら、近くを往来する隊商《キャラバン》の一員だったはずだ。普通に真っ当な隊商《キャラバン》で、【住宅街】近くの道路跡で野営していた姿を見かけている。
ニナも多少は状況が見えてきた。どうやら街道を行く隊商《キャラバン》が襲撃されたとみてまず間違いない。
襲った側はここら辺では見慣れぬ顔が多かった。着古したデニムやダンガリーのシャツに擦り切れた半ズボン、簡素な服装はいずれも旅塵に塗れてる。
手にしているのが粗末なパイプ銃や凶悪な鉄棍。精度の低い粗悪な手製弾薬を使っているのだろう。時折の不発に罵り声を上げている。装備と装束から見るに専業の略奪者《レイダー》ではなく、何処にでもいる喰い詰めた放浪者《ワンダラー》に違いない。
放浪者《ワンダラー》たちにとっても、隊商《キャラバン》はそこら辺の旅人や農民たちよりはずっと手強い相手の筈だが、よほど巧みに襲撃を運んだのか。いまや隊商《キャラバン》の生き残りたちは、必死に逃げ惑うばかりだった。
「あの隊商《キャラバン》。壊滅したのか」ニナはぽつりと呟いた。
隊商《キャラバン》の頭目は、屈強な白髪の老人だった。ライフルを背負った古強者と言った風情の持ち主で、ピンと伸びた背筋で辺りを睥睨する姿は、いかにも一角の人物の風格を漂わせていた。
あれほどの人物でも悪党にやられて死んでしまうという事実にニナは衝撃を受けていた。
隊商《キャラバン》は比較的に小規模で装備はバラバラであったが、統率が取れており、なにより老人は腕利きで、盗賊《バンディット》や変異獣《ミュータント》の襲撃も難なく退けていた。だが、固定された隊商《キャラバン》の顔ぶれは十人足らずで、対する放浪者の集団は倍近くもいると思えた。
隊長を除けば、装備も劣っている。隊商《キャラバン》が無防備な訳ではない。零細の行商人たちとて、曠野を行くのに最低限の武装は持っている。
ただ、彼らは、商売に時間を費やし、生活の為に働き、財産を積荷に変えている。対して、身一つで曠野を彷徨う放浪者《ワンダラー》にとって、武器こそがほぼ唯一の財産であり、縋るよすがであった。当然に武器の扱いにも習熟している。放浪者《ワンダラー》が恐れられる所以《ゆえん》だった。
ニナは苦い思いでため息を吐いた。
最初から相手を殺すつもりで襲ってきた数に勝る集団に、不意を突かれ、動揺した隊商《キャラバン》が負けることは……あるか。あるだろう。曠野では一寸先に闇が待ち構えている。誰《だれ》もが……経験豊富な隊商《キャラバン》でさえ、陥穽に陥って壊滅しうる。
老人の隊商《キャラバン》一党は、けして悪そうな者たちではなかった。
排水路跡に潜んで覗き見ていただけだが、曠野で天幕を張り、焚火を囲んでの団欒には憧れもした。徒弟らしい子供たちも十分な食事を与えられ、理不尽に殴られる様子もなかった。話しかけてみたいとも思ったが、別の隊商《キャラバン》が不用意に近寄った旅人を撃ち殺した光景を目にした事もあり、遂に話しかけず仕舞いに終わっていた。
兎に角、無法の荒野でも真っ当な生き方を守ってきた人間たちが、踏みにじられていい筈はないとニナは思った。だが、現実には踏みにじられている。
やだな、と、仕方ない、という怒りと諦念の入り混じった気持ちが同時に湧いてきて、冷静さを取り戻そうと為、ニナは数秒だけ顔を伏せた。
隊商《キャラバン》の生き残りは四人か五人。多くても六人くらいか。
追われている面々は、今となってはバラバラに散って個々が廃墟の住宅街を逃げ惑っている。確かに下手に纏まっているよりもその方が逃げ延びる機会に恵まれるかも知れない。
例え、変異獣《ミュータント》やゾンビが徘徊する廃墟の町で、凶暴な放浪者《ワンダラー》に追われているとしても、運さえあれば。生きて逃げ落ちて、再起を図って欲しかった。
逃げられたら、いい。祈るような気持ちのニナの目と鼻の先の街路で、ばらばらに逃げていた隊商《キャラバン》の生き残り。中年の行商人が袋小路へと追い詰められた。獣めいた放浪者《ワンダラー》たちは、いたぶる様に残酷に殴りつけている。
「やめろ!止めてくれ!」
放浪者《ワンダラー》が銃を使わないのは、貴重な弾薬を節約するためだろうか。鉄の鎖を叩きつけられ、行商人は動きの鈍った処を袋叩きにされて横転した。
拳を握りしめたものの、非力な少女に過ぎないニナに助ける力はない。
最後に一声、誰かの名前らしき呻きを漏らして行商人が動かなくなった。
放浪者《ワンダラー》たちは、男性の背負い袋に群がって戦利品を漁っていた。
(あの人はもう駄目だな……ひどい)
通りを挟んだ廃屋の玄関前でも、追い詰められた若い女商人が叫んでいた。
「やられるものか!お前たちなんかに!生きて帰るんだからあ!」叫びながら、六尺棒を振り回して死に物狂いで抵抗していたが、彼女を囲んでいる放浪者《ワンダラー》たちもほぼ若者と言っていい年齢で、活力に溢れていた。
此方も鈍器で体中を殴られ、どんどん弱っていくと遂に倒れた。
「……おがぁさぁん」
血を吐き出しながら痙攣した女商人の、奇妙に間延びした悲痛な呻き声に、ニナは顔を苦しげに歪めた。
(此方も……もう二人やられた)
奇妙な事だが、女商人の洩らした末期の声に、彼女の荷を嬉々として取り上げていた放浪者《ワンダラー》の若者が幾人か、動きを止めた。
まるで、そこで初めて血を流して倒れているのが、自分たちと変わらない若く美しい娘なのだという事に気づいたかのように若者たちは動揺した様相で、後ろ暗そうに顔を見合わせるが、それでも犠牲者の荷から麺麭《パン》を見つけると、我先へと口に運んでいる。
(なんだ、あいつら。良心の呵責や後悔なんか見せるなよ。自分で殺した癖に)
腹立たしくなったニナは、しかし、商人娘の悲惨な末期から視線を外し、屋根から別の家の屋根へと身軽な猫のように飛び移って、他の生き残りを探し始めた。
白フードを被った小柄な商人がうろちょろしていたと思ったが、今は見当たらない。
(逃げた……のかな?生き残ってるといいけど)
所詮、ニナは廃墟暮らしの小娘に過ぎない。逃げ惑う被害者たちになにか手助けしてやれる訳もない。武器もなければ技能も持たず、罠の知識も知らず材料もない。非力な小娘が迂闊に手を出しても、犠牲者が一人増えるのがオチだった。
(わたしに何かできるとも思わないけど。せめて拳銃でもあれば。いや、下手に手出しをしたら、逆に悲惨な目に遭うか)
年相応の少女として犠牲者たちに哀惜の念を抱く一方、危険な環境で生き延びてきた生存者としてのニナは、こうなってくると何かを拾える望みも薄いかな、とも損得勘定を弾いてもいた。
略奪者《レイダー》や盗賊《バンディット》が捨て置くような代物でも、拠点も生産技術も持たない放浪者《ワンダラー》にとっては、充分な価値があるものだ。
連中、食べ物や武器、弾薬は勿論、衣服に紙の本、ブリキの食器に至るまで、価値の在りそうな戦利品から食べ残しまで、根こそぎ持ち去るに違いない。
(ナイフとか、ダクトテープ一巻きとか贅沢は言わないから。食べ物ひとつや薪の一切れでも有り難いんだけど、連中はなにも残さないだろうな。こうなると、そろそろ家に戻った方がいいかも。胸糞悪いし)
建物の屋上にしゃがみ込み、膝に頬杖をついた姿勢で、ニナは【住宅地】の中心部へと視線を向けた。目立たぬよう屋上の設置物である貯水槽を背に、灰色の襤褸装束と合わせて、傍目には背景と溶け合って視認し難い筈だ。
隊商の生き残りが二人。今も手近な街路でまだ必死に逃げ回っている。
一人は、複数名に追われてながらも羚羊のように走り続けている女性。
もう一人は、やや年長の少女だろうか。此方も二~三人に追われているようだ。
(……二人とも女か)
あの隊商《キャラバン》の男たちであれば、女子供を守ろうと先に死んでいったとしても不思議はない。
(ああ、もう……真っ当な人間ばかり早く死んじゃう。嫌な世の中)
逃走劇を視線で追いながら、ニナは静かに考え込んだ。
交流などなに一つ持たず、一方通行ではあったが、ニナは隊商《キャラバン》の人々に好感を抱いていた。惨い最期を迎えていい人々ではないとも思う。
とは言え、助けるには大きな危険が伴う。
下手を打てば、今日、見知らぬ他人の為に命を落とすかもしれない。それを納得できるか?
ニナは頷いた。
「よし、助けられるか試してみよう」退屈な日々に少しの冒険心でスパイスを、だ。
間違いなく、無用な危険を犯そうとしている。しかし、周囲の状況は把握しておいて損はない。それに生存者を無視して今日を生き長らえたとしても、どの道、崩壊世界で長生きは期待できない。人はいずれ死ぬ。
(追うとしたら、どちらを追うか……)少し考えて、走り回っている女性に決める。まだ体力のありそうな彼女なら、逃げ延びるチャンスが生まれるかもしれない。或いは捕まった場面を目にするかもしれないが、助ける機会が生じるや可能性もあった。どう転ぶにせよ、ニナは非力な少女に過ぎない。介入するのであれば極力、素早く、そして慎重に振舞わなければならない。
瓦礫の影から廃屋の影へ。放浪者《ワンダラー》たちの視界に入らぬよう立ち回りながら、ニナは逃走する女性に並走した。
「いい動きしてるな」
廃墟暮らしの少女《ニナ》が、思わず感嘆の吐息を漏らした。
【住宅街】には塀や建物が崩れて通行困難となった道も多いが、隊商《キャラバン》の女性は彷徨うゾンビの傍らを駆け抜け、壁が崩れた廃屋を敏捷に潜り抜け、障害物を飛び越えて、追っ手の追随を許さない。
しかし、追跡劇とは由来、追いかける方が有利なものだ。放浪者《ワンダラー》たちも追いつこうと必死であり、生存者の女性の俊足を以てして、なお完全に振り切るには至っていなかった。
「逃がすんじゃないよ!いいジャケットだ。とッ捕まえれば美味いもんが鱈腹《たらふく》喰えるよ!」
追撃者たちが見失いかける度に先頭を走る中年女がざんばらの髪を振り乱し、後ろの仲間に発破をかけていた。
「お袋!深追い!一人で深追いしすぎ!」
女を追う放浪者《ワンダラー》の一人が叫びを上げ、傍らの仲間は喘ぎながら歩調を緩めている。
悪漢たちの足取りが鈍っている。逃げる女性に追いつけそうな放浪者《ワンダラー》は、辛うじて『お袋』だけのようだ。
(……これなら、本当に逃げ切れるかも)
微かに微笑みを浮かべたニナは、此処まで温存していた脚力を惜しみなく発揮して、廃屋の屋根から屋根へと区画を一気に突っ切った。
(チャンスが来たら、逃げ切れる道まで案内しよう。でも、私が前に出ても、あの人、信用してくれるかな?)