いまだ正午を幾らか過ぎた時にも拘らず、モンドの酒場は、薄暗さに包まれていた。明り取りの窓や換気口は、奇妙な形状をしており、狭くて数も少ない。
いずれも顔の位置ではなく胸の当たりに位置し、煉瓦や漆喰、セメントで狭く円形に成形され、鉄格子も嵌められている。廃市街と居留地の狭間にある酒場では、共通して見られる特徴だ。
壁を這いずり忍び込んで来る変異獣だの、
明かりは卓上の僅かな蠟燭。壁には松明が揺らめき、天井に空いた丸い穴よりも、微かな自然光が差し込んでもいる。上階への出入りは、いずれもその穴より巻き上げられそうな縄梯子で、と徹底されていた。三階も別の区画と区切られ、四階から縄梯子を卸さねば、他の部屋とは往来も出来ぬ。或いは、屋上か。
酒場で多数の素早い屍者が発して抑えられぬ時、或いは屍者や変異獣がなだれ込んできた時など、各々が上階の部屋に逃げ込んで縄梯子を巻き上げれば、幾人かは生き残れよう。しばらくは。
奇妙な形状をした店構えにもかかわらず、客から不満の声は上がらない。廃墟に潜む悍ましい気配を店主も客も、誰も彼もが本能的に感じ取っているのか。人目につきにくい隠れ家のような外観も、文明の領域を外れた場所では人間は自然と息を潜めて過ごすものだと、教えられずとも理解しているからかもしれない。あるいは、子供の頃に寝物語や親の叱責の中で聞かされた、廃墟の奥から這い出る悪夢のような屍巨人の逸話が、いつの間にやら心の奥底に刻まれ、過剰な恐れを抱かせているのかもしれない。
勿論、あくまで伝説に過ぎない。ポレシャ圏の廃墟にそんな怪物は存在せず、ズール領域の廃墟も同様である。
※※※※
モンドの酒場は、外から一瞥した印象をいい意味で裏切り、狭い入口からは想像ができない程に奥行きが広かった。
縄梯子を用いなければ入れない廃ビル二階の酒場など、狭い扉からのこじんまりとした一室と思わせて、内部は壁をぶち抜いて古いテナントを繋げたのか。十数人。いや、三十人近くの客たちが薄明りの空間に、仲間たちと思い思いに屯しつつも、歩き回る余裕がある程の広がりを見せていた。
セメントの壁や天井には、階段をハンマーで叩き壊した痕跡がくっきり残っている。内壁には穴が開けられ、後から取り付けられたと思しき分厚い木の扉には、鉄格子の覗き窓が付いていた。奥の部屋へ続く木の扉も、今は開け放たれている。カウンターの内側には扉や縄梯子、鍵束がぶら下がっており、いざという時には壁に掛けられたポンプアクション式ショットガンで応戦しつつ、勝ち目がなければ扉の奥なり、天井へと逃げ込んで、縄梯子を引き上げる算段なのだろう。その『いざ』とは、屍者や変異獣が押し寄せてくるか、強盗団が踏み込んで来た時などだ。
数年ぶりに訪れた村や居留地、荒野の旅籠や酒場が廃れていたり、破壊されていたりするのは、べつに珍しい話でもなかった。
そう、滅びる村など珍しくもないのだ。町や村を追われた職人や農民の一家が、食うや食わずの浮浪者や乞食に転落し、老人や弱い女子供は死に。そうして、また家と畑、仕事と家族を失った者たちが放浪者となり――――滅びの円環がいつまでも巡り続けている。蛮族やら、賊徒やらの小規模な襲撃に付き合いきれなくなった領主が、領地外縁の貧しい村々に見切りを付けて放置しようとも。税を納めてきた村人の幾人かが連れ去られて奴隷に転落しようとも、殆んどの領地貴族にとっては何程の事でもない。まあ、今となってはどうでもいいことだ。
薄暗い床を他の客に触れる事もなく、旅人の女は、酒場の奥へと進んだ。冷涼な曠野の地とは言え、初夏の気温に汗や垢めいた饐えた異臭が微かに漂ってくる。
一瞥すれば、浮かび上がる人影は、浮浪者《ホーボー》や
浅黒い肌の男は、手にした杯に目を落とした。初見の酒場で怪しげな酒を口にする気にはなれず水を頼んだが、あの親父。酒に関して中々、目利きのようだ。或いは酒を頼んでも良かったか。
目的の男、ペペは程なくして見つかった。窓の光も届かない薄暗い片隅、蝋燭の明かりの下でサイコロ賭博で暇を潰している労務者や放浪者の輪から、少し外れて座っていた。カップのエールを啜りながら、周囲の光景を静かに眺めている。穏やかそうな眼と、少し大きな鼻が赤く染まっているところを除けば、何処にでもいる二十代後半から三十代半ばの平凡な男。聞いた通りの、しかし、あまりに目立たぬ風貌に一見して探し人かと迷うも、旅人の女が南方諸邦で見せられた似顔絵と瓜二つではあった。左腕に鉄の安い腕輪を嵌め込んでおり、小さなヘルメスの翼の入れ墨が彫られている。
相棒とチラと視線を交わして、頷くこともなく、旅人の女はペペの隣に座り込んだ。荷運びの男ぺぺは、ぼんやりとサイコロ賭博の光景を眺めて微笑んでいた。放浪民の男女たちが革と鉱石を取引している傍らで、放浪鉱夫や牧者衆の幼い子らが鼠の串焼きを口にしながら、何がおかしいのかケタケタと笑っていた。クレヨンやチョークでセメントの床に落書きをしている子もいる。
旅人たちは、柱を背に寄り掛かった。何処でも見かけられる、疲れ切って身を休める貧しい放浪者のように。荷だけは用心深く抱え込みながら、杯の水を舐めるように大事に味わっている。傍らに見慣れぬ旅人の女が座っても、ペペは僅かに身動ぎしただけで反応は鈍かった。旅人は囁くように符丁を投げかけた。
「南十字星からの旅人だよ。青いムクドリは、あるかい?」
どこか薄ぼんやりとした表情のまま、ペペはしばらく反応を見せなかった。
外れたかな、と旅人の女が疑念を抱きかけた時、ペペは低く小さく、歌うような口調で「……青いムクドリか。北極星を探さずにどこに行く気だ?」と返してきた。
……情報屋が用心深いのはいい事だ。
「白い鼠と共にオーロラを目指すよ」明後日の方向を眺めながら最後の符丁を囁いた旅人は、初めて目線を荷運びの男へと向けた。
「やあ、ペペ。初めまして。ジルカです」
呑気そうに欠伸を噛み殺して「……なにを知りたいね?」ペペは、ぽつりとつぶやいた。
「もう一人いる。話は、揃ってからにしていいかな」ジルカが囁くとペペは眠たげな眼を向けてきた。
「言いたいことは分かるよ。でも、そいつに市中の情報を拾ってくるように頼んでいる」ジルカの物言いを吟味して了承したのか。
「なるほど。なら、待とう」とペペは低く囁いて頷いた。
※※※※
町外れ地区の裏通り。曠野へと続く北門から表通りへと入り、三差路を折れて、さらに幾度か道を曲がると、マギーたちが暮らす敷地が見えてくる。崩壊前には近隣に鉄道施設が設けられており、近場にトンネルや地下連絡路なども走っていたが、言うまでもなく屍者や変異獣、凶暴化した感染型変異者の巣窟と化しており、随分と昔に大部分を土嚢や瓦礫など積んで封鎖されていた。
ごく一部の生きたトンネルを通り抜けると、マギーの敷地が見えてくる。野犬や巨大蟻が時たま。数年に一度は入り込んでくる区画だが、比較的に安全な場所とされて、公示地価も設定されているほどだ。
或いは、屍者や変異獣と思しき呻きが夜の闇に近隣に響き渡り、遠目の廃屋に彷徨う影を見掛けようとも――虚ろな廃墟領域にしろ、闇深き地下世界にしろ、
昼食はリゾットだ。保存食として備蓄してる米や麦、堅パンをローテーションして食べている。トマトのソースをベースに最近、入手しやすくなったチーズと山羊乳を入れて、焚いた米も入れて煮込んである。やはり安く入るキャベツと人参は、寒暖に強く丈夫な作物で、下町でも各家庭の傍の小さな畑で彼方此方で作られている。
小さな灰色の天幕暮らしなのに、裏庭には立派な家庭菜園なんてところも結構、見当たるものだ。近年、山羊や鶏など買う家も増えてきているのは居留地の畜産業が巨大蟻によって壊滅寸前に至った為、価格統制や大手の競争力が崩壊し、土地の広さに余裕があり、湖への遠征で森林地帯の肥沃な土を持ち帰れる下層地区や外地区の人々の間で、小口の畜産が一気に増えたのだろう。
最近、とみに話題となっているのが人参税・キャベツ税の話で、人々は新税が増えるかも知れないと恐れ戦きながらも、議会の動向を注視している。収穫の十分の一を納めるかどうか。とは言え、食べるにギリギリの一家も少なくないので、小口の菜園には今まで通り免除だろうと言う意見が大勢を占めていた。
そもそも、誰が徴税官をやるかである。民衆の嫌われ者。命の危険のある仕事を引き受ける者がいるだろうか。今でさえ、代々、特定の一家に押し付けられているのに。機能してる自由民主制のポレシャ市では、定期的に査察が入り、役人は私腹を肥やすことも出来ない。つまり貴族領や露骨な商業都市。硬直した独裁制、官僚制のような旨味は、殆んどないのだ。
「だから、マギーも断った。新参議の髭じいの奴、罠を仕掛けてきたんだよ。
髭じいに、息子さんがやったらどうですか?って勧めたら、そんな汚れ仕事をやらせられるか!だって。人に勧めといて、小ずるい爺だね」ジョージアの隣に座ったニナは、スケッチを描いていた。
ジョージアを挟んだ席にはリリーが座っていて、ニコニコしながら食事を取っていた。土嚢を積んだ高所にはリジィが陣取っている。パンを毟りながら、今も敷地に出入りできる路地や、周囲の廃屋に警戒の眼差しを走らせていた。
「ジョージアさんも気を付けた方がいいよ。勿論、ポレシャ市で徴税官は成り手がないけど、そうじゃなくて髭じいは油断できない奴です」裏事情を暴露しつつ、ニナはスケッチをジョージアに見せた。
「もう少し、頬骨は高いな。目つきは鋭い。そう、そんな感じ」ジョージアは時々、のぞき込んで似顔絵を修正してくる。
料理人であるリリーは見ない。仲間たちの危険な仕事については、知らない方がいいだろうから。ただ、ジョージアの隣に座って時々、物憂げな視線を向けていた。ジョーニアは安心させるように穏やかな笑みを返してる。
赤泥のジルカの似顔絵を描きつつ、ニナは気になった事を尋ねた。
「この人、南の地では名の知れた人なんだよね?」
「かなりね」とジョージア。
「顔と名前が売れて、裏家業で怨みを買って……良く生き延びてる」
ニナが低く囁くと「顔を知ってるのは、それほど多くないが。用心深い奴だよ」ジョージアも頷いた。
「背後があるのかしらん?それとも……この人だけど、連れていた仲間は二人?」ニナが確認するようにジョージアに尋ねると「おう」と返答が来た。
「この人に、女の仲間は?」ニナは淡々と尋ねた。
「いるよ」とジョージア。
「背丈は似ている?」ニナは重ねて尋ねた。
「いや、あんまり似てないな。若い褐色の肌をした娘だ」
「……そっか」肯いたニナが最後に筆を走らせてから、頷いて「さて、出来た。こんなもの?」
そっと見せた似顔絵に、ジョージアは満足そうに頷いている。
「おう、似ている。似ている。貰っていいかな。参事たちに見せておきたい」
ニナは微かに首を傾げてから「待って。もう一枚、模写するから」ページをめくって、急ぎ筆を走らせている。
もう一枚を手にして、描き始めた絵を見、ジョージアが戸惑ったように目を瞬いた。頬の入れ墨を消し、禿げ頭にしたジルカが描かれている。
「なんで禿にするの……いや、そうか」勝手に得心したジョージアに、ニナは頷いた。
「髪型の先入観を無くしました。
素を描いておく。素の骨格と容貌を。多分に変装するかも知れない」ニナの説明にジョージアは無言で顎を撫でている。
「或いは、本人ではなく、部下こそが変装して、替え玉とかね。
この人が目の前にいる、と法執行官がそんな風に安心していると、その隙に浚われる……なんてこともあるかも知れない」
「仲間がジルカに、か。全然、似てないぜ」とジョージアの断言に、しかし、ニナは首を振るう。
「仲間が二人と限らない。敢えて二人だけ見せ、思考を誘導されたかも」
「なるほど。いや、続けてくれ」片目を閉じたジョージアが、軽く舌打ちした。
「別動隊が別ルートから入ってきている可能性もある。
一見、無関係の流しの楽士とか、芸人とか、行商とか。お祭りだから、色々と。
それに、この人自身が言ったように別口の賞金稼ぎもいるかも知れない」とニナの言に「……確かにな。他に仲間がいてもおかしくない」とジョージアも苦笑を浮かべた。
「別口は、動揺を誘う為のブラフかも知れないけれど。
考えすぎでもいいよ。思いついたことを後で仲間に共有しておこう。
警戒し過ぎると、コストが上昇するけどね」ニナがつらつら述べると
「まあ、末恐ろしい子だ」苦笑を浮かべたジョージアが呟いた。
―――――
唐突に、リジィが見張り台から降りた。「便所」一言だけ告げて、何故か敷地のトイレではなく、裏手の廃屋へと廻っていくリジィの背中を、ニナは何も言わずに見送った。
敷地から見えにくい廃屋裏手へと回ったリジィは、すぐに駆け出した。
猫のように身を屈め、足音も低く、小さく、子供のような瞬発力で瓦礫や狭い狭間を通り抜けると、マギーの敷地を一望できる廃屋の裏手へとたどり着いた。
人の気配があった。微かに感じた。何かが動いた。屍者や、変異獣かもしれない。
上等。人間、何時かは死ぬものだ。リジィは、死へと繋がりそうな近接戦闘を恐れていない。条件付けに近いほどまでに、隊長《ハウプトマン》ヒルダに仕込まれた。
ランツクネヒトのリジィは四六時中、カッツバルゲル。猫の喧嘩と呼ばれる小剣を背負っている。両手でも片手でも使えるが、特に狭路での乱戦には最高に使える。
今も胸当て。至近でなければ、銃弾を弾ける。その下には、安手で中古だが、防弾、防刃繊維の服や布切れを巻きつけている。奇妙な服装だ。
曠野に蔓延る弱装弾や黒色火薬なら、頭以外は簡単に死なない。
すげぇ銃を持ってたら?ぶっ殺される!
だけど屋内なら?剣でいい勝負できるかも!
カッツバルゲルを抜き身に、中に誰が居ようと確保するか。最悪、ぶっ殺す。
二人なら、一人が口を利ければいい。
三人くらいいたら?最低、一人はぶっ殺す。
マギーは近所に定期的にでかいパンを配っている。隣人連中が知らせてくる。
だから、あれだ。知らない顔で、こっちを見張ってるのは、よそ者だ。
階段を駆け上り、廃屋三階へと踏み込んだ。と、そこには猫の縫いぐるみを手にしたみすぼらしい少女が立ち尽くしている。
踏み込んできたリジィに驚愕の表情を浮かべて、凍り付いたように縮こまっていた。リジィは呆気に取られ、ついでガリガリと指で頭を掻き、「親にここらには近づくなと言われなかったか!」怒鳴りつけると、少女は脅えも露にびくんと身体を震わせた。涙目でフルフルと首を振るってる少女が、密偵と言う可能性も幾らかはある。
だけど、今は低い。だから、見逃す。
ため息を漏らしたリジィは、舌打ちして踵を返した。