夏至祭の当日、花弁が穏やかな風に舞っていた。
華やいだと言うべきか。ポレシャ市内に漂う空気までもが、和んでいるように見えた。
建物の窓や扉に裏庭や野の花――主に紫や赤、白のルピナスやポピーが紐で結ばれ、道行く娘たちはゼラニウムなども混ぜて衣装の腰帯や胸紐、髪に飾り付けている。伊達男や若い男も連れ合う女に合わせて花を身に着け、子供はタンポポで飾られている。他にも人通りの多い人家や天幕には色とりどりの布や旗、見える場所に美しい壺や陶器の皿、漆器や絵画なども祭りの回廊を彩っていた。多くの花を都合できた娘たちは、花冠を被っている。ルピナスやポピーを着けたがるおしゃまな少女が親や兄姉に窘められて、渋々とタンポポを髪に差し込んでいる光景も見られた。
野の花も在るところには咲いている。水汲みキャラバンに随行して道すがらの森で草花を採取する花摘み娘や薬草取りもいて、季節の花が小作人や作男、自由労働者に売れるほどにポレシャ一帯は豊かな土地なのだ。それでも、曠野に花を採りに行くのは勇気がいる。人より足速い屍者など早々にはおらねど、噛まれれば恐ろしい死を免れない。
ポレシャ圏――それも、ポレシャ市と近隣農村を結ぶ街道周辺に限っての話だが、野犬や巨大蟻、屍者が彷徨っているのが見落とされることは殆んどない。
哨戒線が設けられてる上、市の警備隊や村々の自警団。雇われの銃士に狩人《ハンター》、レンジャーが定期的に見まわっているからだ。
仮に忍び込んだ野犬や屍者、巨大蟻に追われても、村や居留地の土塁近くまで走って逃げ込めば見張りたちが火縄銃や弓にクロスボウで打ち倒してくれる。
警戒すべきは、足の速い大型変異獣や熊ぐらいか。それも滅多に出るものではないが。人々は危険と折り合って暮らしており、曠野を歩く時は、最低でもこん棒やナイフは携えている。投石器やスリングショットを持つものもいれば、纏まった人数がいれば野犬くらいは追い払える。兎に角、花を摘むのは命懸けではないし、屍者や変異獣、狼が彷徨う東の森の奥まで踏みこむ訳ではない。点在する里山や小さな森、近くの牧草地にも、それなりの草花とて咲いている。
野を歩き回っては、ベリーや野生の玉ねぎ、根菜類に茸などを採取して食事の足しにしたり、市場で売る自由農民や羊飼い、牧者衆に馬借の姿も珍しくはない。職業柄、野歩きが得意な者たちは、季節によっては花を摘んで市で売り、または、花売りに卸しもする。しかし、野原に花を採りに行くにも、易々と摘めるものではない。野犬や巨大蟻、巨大鼠やコヨーテなどに襲われて怪我をしたり、命を落とす女子供もいるのだ。だから、身を飾る草花を調達できなかった娘や控えめにせざるを得なかった装いの者も多かった。
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ポレシャ市の祭りは夏至から公的に三日間。余韻も含めれば五日から一週間ほど続く。本来、祭りのクライマックスに夏至を合わせるのが普通ではあるが、急に再開が決まった準備期間と集団農作業の日程との兼ね合い。それに夏至に、帰還や来訪が見込まれる牧者衆や鉱夫団、木こり団の面々も楽しめるよう、今年は夏至から三日間と定められた。
ポレシャ市でも有力な市民や農場主は、やはり家同士の付き合いによってある程度の婚約が定まる例も少なくないが正規居住者や自由農民くらいの立場であれば、本人の自由意思や裁量が将来を大きく左右してくれる。職人から定職持ちの労働者、小作人の一家だと、ある程度はしっかりした家と性格なら、さほど五月蠅いことは言われない。
土地を持たない小屋住み農や作男、日雇いの労働者などになると家それぞれで、家長が口を出すこともあれば、子供たちが己で相手を見つける事もある。ただし、夏至の祭りに恋人や配偶者探しをする余裕があるのは、定まった住居を持つなど、貧しくとも安定した暮らしをしている層が多い。
稼いでいても安宿で雑魚寝したり、廃屋で適当に寝泊まりしている行商人や
もっとも一夜限りの恋人を、或いは刹那の夢を求めて参加する若い男もいて毎年、幾人かは真面目に恋人を探していた娘が引っかかり、父親や兄、親戚がショットガン。或いはマスケットを持ち出してきて、相手の男が責任を取る羽目に陥ったりもする。
廃市街や外地区、或いは廃墟に隠れ住む廃墟生活者にさえも、幾らかの酒や食べ物の配給が振舞われていた。巨大蟻や巨大鼠、或いは小型変異獣や屍者が間近を彷徨っている廃墟地区でも、浅瀬には隠れ暮らしている人もいる。
いつ死ぬかも分からない環境に暮らし、一日たりと気を抜かない方がいいと考えて参加しない廃墟生活者もいようが、子供らには行かせて配給も受け取っている。
だから普段、市に対して距離を保っている未登録の労働者や廃墟生活者などでも、貰うものは貰い、祭りの期間中は騒動を引き起こさないように身を慎んでいた。
ポレシャ市は、こうしたハレの日に油断を誘って、密入国した流れ者や無法者を捕らえる策略を仕掛けたりはしないが、さすがに抗争など引き起した者らには容赦しない。穏当な統治とも言えるし、やや甘いとも言えた。ともかくも、この日ばかりは、穏やかな気配が廃市街までも包み込んでいた。
勿論、各地区の境界や要所などでの警備は怠りなく、自警団や民兵、武装した徒党が警戒に当たっていた。こうした祭りの日に乗じた外敵や怪物の侵入で滅んだ居留地なども、枚挙に暇がない。
それでも三日間も続くならば、警備に当たる民兵の面々も交替で祭りを楽しむことが出来る。民兵隊司令官ヘルナル大尉は、部下に対してやや厳格、かつ狷介な性格を見せるが、若いものたちにとって大事な出会いと告白の場となる夏至祭りにも出勤を命じるほどには無慈悲ではなかった。或いは、常通りの勤務体制《シフト》を命じたが、他の幹部なり身内なりに窘められたのかも知れない。
前日までは浮き浮きしていたエヴァンス保安官が、誰も誘いに来ずに今年も机で沈み込んでいた。町の軍事的英雄ともなれば古い洋画ではモテモテだったはずが、しり込みしたのか、誰一人として声を掛けてこない。文明崩壊前に比べてガッツのある男が減っているのか。それとも洋画は洋画で現実には難しい立場なのか。
保安官事務所の勇敢な馬鹿が主催するトトカルチョでは、今年も恋人ができないが優勢だった。若い女性で結構、美人だが、勤務は激しく、まともな同年代の男は既にくっついている。残る相手は、目下や年下、やもめになる。保安官が町を守って亡くなった先代保安官に惚れていたのはよく知られた話で、比べられるだろうし、娘を心配しているご両親が健在で、軽く付き合っただけでも結婚させられそうだとも噂にはなっていた。
※※※※
晴れ渡る空の下、マギーたちは敷地の一角に立つ布屋根に入り込んで、日差しを避けていた。
櫛と髪結い棒を口に加えたマギーは、器用に指を動かしながら徒弟たちの髪を整え、花とリボンを編みこんでいる。
「出来た」と鏡を差し出すと、まずますの反応。
「わぁ」と晴着に装飾品を施したおのれの姿を見、徒弟トリスは満更でもなさそうな笑顔を浮かべていた。
部下でも、仲のいい同僚でも、こうして髪や装いを飾るのがマギーの趣味――或いは癖だ。収入と時間にゆとりを取り戻しつつある現状、かつての癖も復活しつつある。悪癖ではない、と本人は思っている。
余裕があるなら相手の趣味を聞くマギーだが、廃屋に天幕、泥小屋、帆布や木製家屋が点在する町外れの住人には、猫耳徒弟の欲しがるヘビメタやら、単眼徒弟が望んだゴシック調ドレスなどは手に入らない。少なくとも、今はまだ。
廃屋に囲まれた木板と帆布の家屋の生活。高所に立って見渡せば、廃墟と荒地が続く荒廃した地平が果てしなく広がっている。もしかしたら明日、居留地が滅びるかも知れないし、いきなり誰かが死ぬかもしれない。曠野の地は、常に突然の破滅と隣り合わせではあるけれども例え、仮初でも、落ち着いた時間を過ごせる日々は悪くない。
状況にもよるが、賢い人間であれば―――或いは、共同体を率いる立場であれば、時間と共に備えと蓄えを増やせよう。しかし、マギーには無理だ。けして凡庸ではないが、尋常の範疇に留まっている。もし、閃きに恵まれ、運も味方してくれれば、ポレシャ市でも自由都市ズールでも、それなりの財を築けるかも知れない。
町商人か、運が良ければ小さな隊商持ち。最良でやはり小規模な商会主。だが、そこまでだ。おのれの器では、そこから先は登れないとマギーは見切っている。
猫耳のココの髪を弄りながら「まあ、運に恵まれればね」とマギーは独りごとのように穏やかに呟いた。ココが耳をぴくりと動かしている。
裸一貫から、それ以上に成り上がるには、単なる幸運や賢明さ以上のものが必要なのだ。それでも一介の行商人が思い描く未来としては、野心的を通り越して夢物語に違いない。
行商が町商人に至るには、いくつもの壁を越える必要があった。市民権か、正規居住権の有無。土地と店舗の購入。日々の仕入先と顧客からの信頼など、その壁も一つではない。一つ一つは小さくても生涯に渡って同じ壁を幾度も乗り越え続けなければならない。時間も大きく取られる。行商人や隊商、交易商のように自由気儘には動けなくなってしまう。
雇われ隊商頭の地位は、若手の行商人にとっては大出世だ。利益と人脈、信頼を得られる。現実的には、元手も地盤も持たない若者にとっての出世の最高峰だろう。おのれの荷も運んだり、稼ぎから取り分を貰えるようになれば、それ以上を望むものは殆んどいなくなる。
マギーは地区でも有望な若手商人と見做されているが、それでも、店を構えて上手くいくとは限らない。まして隊商を編成したい。いずれは商会を立ち上げるなどと語れば、身の程も知らぬと嘲笑を浴びせられるのが関の山だ。一言で言えば格が足りない。だから語らない。心無い嘲弄は、運や気力を損なうからだ。
しかし、マギーはそれに届きうると確信していた。店を構えたり、小さな隊商を組む程度なら、やろうと思えばすぐにでも手が届く――二万都市通貨と言う収入は、それを可能とするだけの金額だった。ただ、安定して利益を上げる取引相手や信頼できる人員が揃ってない現状、店や隊商を持っても、さほど意味が無いからやらない――つまりは、機が熟していないと見ていた。
そして仮に小さな商会を持つに至ったとしても、破滅の壁は越えられない。怪物や賊が押し寄せてきた時――町が滅びに瀕した際、他人より少しは抗える。だが、それ以上の出世も、権力も、マギーには想像もつかなかった。
だが、それが肝要なのだ。凡人であればこそ、無意味ではない。変異獣や屍者が、略奪者や傭兵団がなだれ込んできた時、居留地でさえ滅びる時、抗い、生き延びる為の備えと蓄積を。もしかしたら、滅びの運命に立ち向かえるかもしれない力を得る為に。
ココの髪の手入れを終える。あとは好きな色のリボンを選ばせて、軽く耳の傍を飾り付ける。青のリボンを選んだココが、鏡を見て機嫌良さそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
おめかし済みのニナは、軽く跳ねるように一人で踊ったりしている。町中に友人がいるので、既に出歩く約束も交わしているのだろう。
徒弟トリスや猫耳ココは、廃市街から引っ張ってきた人材なので、地区にはあまり友人がいない。多分、二人組で廻るのだろうと推測したマギー。
「へい、リジィ」と雇用してる用心棒を呼んだ。
「わたしはいいよ!」小柄な女ランツクネヒトは、手をパタパタと振って断ってきた。照れているのか、怖気づいてるようにも見えた。
ランツクネヒトと言っても、一兵卒のリジィだ。騎士や貴族ではなく、多分に農民――それも喰えない貧農の娘だったのだろう。お洒落に憧れる者もいれば、縁がないと思い定める者もいる。どうやら、後者のようだが。
「祭りは明日や明後日もある。気が変わったら言いなよ」そのうちにお洒落させたいと思いつつ、マギーは了解した。
料理人のリリーは、椅子に座って落ち着かない様子で胸に手を当てていた。時々、手鏡を見ては、唇に紅を薄く塗っていた。
ジョージアの非番は三日目だが、見回り時間に会いに来ると言っていた。
なんとも中世的ないい加減さだが、マギーも見て見ぬ振りをするつもりだ。
ジーナ・エクルストンは、マギーと一緒に留守番をすると言い張っている。さて、徒弟たちは、良い異性と巡り合えるだろうか。
日々の積み重ねは大事だが、今日のマギーはそれほど張り詰めてはいない。祭日は楽しむべきだと考えている。マギーも、間断なく緊張を維持できるほどの超人ではない。徒弟や仲間たちにも人生を楽しんで欲しい。怠りなく備えていようとも、世には苦痛も絶望もありふれていた。むしろ、いつ命尽きるか分からないからこそ、仲間を大事にしているのかも知れない。勿論、保護すべき姫さま一行と、それを狙う刺客・赤泥のジルカのことを忘れていないが、身内の生活と幸せこそがマギーにとって何よりも大切なことだった。
――――
気前のいい親方マギーに日当とは別の小遣いを貰った徒弟トリスと猫耳ココは、着飾って夏至祭中の地区を歩いていた。
警戒は皆無ではないけれど、いささか気は抜いている。何といっても人口が数千の町なら、スリや引ったくりと言った泥棒や浮浪児も、おおよそは割れているものだ。連中だって滅多なことでは、地区の顔役である武器商人の手代に手を出したりはしない。人ごみの中、休校だったために燥いで子犬らと路地を駆け回っている子供たちを見かけた。泥まみれで野生動物染みているが、あれでむしろ、子供を学校に通わせてる労働者や
道中、着飾った娘とすれ違ったが、つい先年まで邪悪な哄笑を響かせながら、うんこや泥団子を敵に投げていた姿をトリスも覚えている。辻の露店で働いてる青年が、その時の喧嘩相手だ。互いにギョッとして顔を逸らしていた。
青空学校は一律ではない。四則演算くらいは親から習うが、それ以降を学ぶため、大人になって学校に通う人も少なくない。トリスも、猫耳ココも、初等教育以上のものを学ぶ為、今でも時々は学校に通って教科書を見せてもらっている。
しかし、同じ時期に学校に通っていた思い出はやはり別格だ。それを共有していた同年配が働きつつ、連れ合いを探す年齢に差し掛かっている。勿論、いまだに遊びに夢中なものもいる。高度文明の残滓が見られる社会はやはり単純ではなく、三十や五十に差し掛かっても、玩具を集めている者もいる。
親方は、なんと青空学校に通う学費と暇も与えてくれていた。
全くありがたい。勿論、トリスも、ココも、徒弟として商売の手伝いもしているし、時にはクロスボウや火縄銃《マッチロック》、燧石銃《フリントロック》などを担いで屍者や野犬、コヨーテに巨大蟻と言った怪物や野生動物の駆除に駆り出される日もあるのだが、地図を参考に後を付いて回り、一方的に射撃して仕留めるだけの仕事だ。簡単に過ぎて、戦わされると言う感じではない。同じような駆除で命懸けになってる連中もいるのだから、指揮官の違いと言うのは大きい。
兎も角、かなりの仕事を任せられてる。手代並みに――うん、手伝い小僧や小娘ではなく、整備や帳簿、一部の売買など正規の店員並みの仕事をしているし、それに相応しい賃金も貰っている。
それも週給である。日当ではない。つまり、トリスも猫耳ココも定職にありついてるのだ。日々、日雇い仕事を探すのに時間を費やしたり、仕事の見つからない日や時期を持て余すことがない。
可愛がられているのは分かるし、やや厳しいが押しつけもない。打てば響くように話を聞いてくれる。理解が速く、間違えた時に修正する為に、わざと間違えます。などと言って、会話の訓練をしたりもする。よく分からないが、そもそも滅多に間違えないのだが。極稀な間違いも、すぐに修正してくれる。とにかくトリスは、親方に付いていけば万事、大丈夫だと信じて――信仰していた。心酔かも知れない。
親方マギーは時々、昔話をしてくれる。猫耳ココは聞かずに寝てしまうが、トリスは熱心に耳を傾けていた。『わたしの師匠のオーも、まったく死にそうな人間ではなかったが、無宿人たちの待ち伏せで命を落としてしまった』淡々と語る。トリスは親方マギーがいなくなったら、なんて考えたくない。
多分、親方は、トリスの依存を見抜いていた。『独り立ちできるくらいの収入を与えてやりたいが。しろって事ではないよ。しかし、私もまずは自分の財布を厚くしたいしなぁ』と笑っていた。万が一は誰にでもある。
「親方の力にはなりたいねぇ」と相棒の猫耳ココとも話し合うが、二人とも単なる平凡な徒弟に過ぎない。
凄いのだ。行商人として稼ぎながら、保安官助手の仕事もしている。空き缶や空き瓶、鉄屑、その他の廃材《スクラップ》を雑貨屋に売りながら、注文された木材や帆布、ブルーシートやアスファルト、ポリスチレンなども調達して市に納めている。武器に服飾、化粧品や装飾品の販売。羊皮紙手形(商用私鋳銭)の製造。食料を安く調達するし、酒や菓子、医療品まで販売している。一つ一つがトリスに出来ない仕事を幾つも重ねて、大抵の行商の倍か、もっと稼いでいる。
相棒はニナだ。『私に何かあったら、ニナに』と親方マギーは言っている。
ニナは親方の思考に付いていってる。
トリスもココも、ニナのことは好きだ。お姉ちゃん分として頼れる人だとも思ってる。だけど、親方マギーに対するように全幅の信頼を預けられるかと言うと、そこまでは否だった。親方マギーは、替えが効かない。どんな組織や関係でも、そう言う人物はいるものだ。徒弟トリスにとって親方マギーは偶像で、同時に侮れない人物だと思っていた。
高い能力を示しつつ、おのれに考える力を付けさせようとしている。盲目的ではなく、判断できる徒弟にとっては、だからこそ信頼に値する。
「万事、親方に付いていく所存」とトリスが囁くと「大変、賢い」と猫耳が囁いた。
※※※※
ポレシャ市は、曠野における南方諸地方との玄関口の一つであり、有数の穀倉地帯として繁栄を謳歌しているが、そうした大型の交易商業市でさえも物々交換の割合はいまだに大きかった。通貨が信用できないか、或いは、現物の方が価値があるなど、現物での日当や商取引の支払いが行われることは多い。
「……現金払い?麦では払えない?」数枚のガルダ銀貨を受け取った女職人は、難しい表情で眺めていたが。両替屋まで指定されつつも「まあ、いいさ。爺さんの紹介だからね」胸ポケットに仕舞い込んで、亡命者一行の暮らす空き地に出入口を設置し始めた。古びた木製の玄関をどこからか荷車で運んでくると、路地への地面に杭を打ち込んで、再び組み立てている。
祭りにあまり興味を示さない者もいる。ポレシャ市の税は人頭税程度でかなり軽いが、つまりは、特に手に職付けた者ならば、それなり以上に食べていける。
なら、あまり他人と関わらずに、似たような日々を繰り返すことを望むものも出る。ミルカも、一定以上に豊かな社会に見られる、風変わりな職人だった。悪人ではない。ただ、孤独を好んで、寡黙で不愛想だ。おのれの仕事には打ち込むので、仕事先からの評判は悪くない。
ガルダのお姫さまは、天幕の奥で寝台に寝転びつつ、路地の向こうの表通りや、廃屋を越えて響いてくる人々のざわめきに耳を傾けていた。
「なんとも楽しげな声じゃな。ここまで響いてくるわ」
女大工のミルカは、淡々と作業に没頭している。単調だがリズムの良い作業音と、時折の笑い声や穏やかなざわめきが奇妙に調和して大層、聞き心地が良かった。
単独での作業なのは、関わる人間は少ない方が喋られる噂も少なくなるからだと、パオロ参事は告げていた。職人娘のミルカは、見るからに口が堅い。と言うか、寡黙で殆んど喋らない。友人も少ないかも知れない。
「庶民が良く笑う国は、いい国じゃろうな」姫さまの呟きに、爺やがお茶を入れながら、頷いた。
奥の天幕には、姫と爺やだけだ。兵士の一人は、隣の天幕に今も寝込んでおり、浅手の一人と女兵士は、隻腕の
保安官助手のマギーは、それなりの茶葉まで差し入れてくれた。本業は行商人だそうで、相当稼いでいると市の参事は語っていた。そのパオロ老人もまた、雑貨店が本業であると言っていた。差し入れの幾らかは、参事と保安官助手の私財からの持ち出しだが、近現代以前の時代にそうであるように、貧富の差が激しい
ガルダ人の姫さまと亡命者一行は、戦争難民。それも亡国の後継者でもあった。ポレシャ市ほどの大型居留地にとっても厄介な存在であり、場合によっては災厄をもたらしかねない。だから、詳細を知る者は少ない。パオロ・ジャッコーニ参事と、彼が信頼している同僚が二、三人。それに保安官助手と議会衛兵だけだ。通常の――やや、重要な亡命者として手続きを行い、手続きを誤魔化して最良の天幕住宅を配給しつつ、後は私費を割いて面倒を見てくれている。
「パオロ参事は信じていいだろう」と姫さまは、気だるげに感謝を込めて短くなった髪に触れた。亡父が手紙をやり取りしていた自由都市ズールの商会連幹部に問い合わせの手紙を送ったそうだが、返答が来るまでは半月ほど見なければならないそうだ。随分と気の長い話だが、ガルダ領主が預けていた財産などあれば、そこから代金を支払う約束で、生活費を貸して貰っている。だが、遠く離れた南方は、人口千に満たない小封土の預託など、あっても大した金額ではあるまい。つまり、パオロ参事。十中八九は踏み倒されるとみつつも、理由を付けて面倒を見てくれているのだ。
身を起こした姫さまは、お茶に口を付けた。
「よい茶葉だ。あのマギーにも礼を言わねばな」呟いた時、「あの保安官助手ですが……あまり頼りにしない方がよろしいかと」老僕が水を差した。
姫さまは静かに考え込みながら、問いたげな視線を老僕へと返した。
「買収、或いは裏切りを警戒しているのか?わたしが未熟なだけかも知れぬが、胡散臭さや嘘偽りの匂いは感じ取れなかった」姫さまのその言葉に対して、老人は苦笑を浮かべて、首を横に振った。
「いいえ。わたしも、誠実な人間だと言う印象を受けました。
落ち着いた声には翳りが無く、言ってることも正しい。
仕事には忠実でしょう。裏切りに関しては、さほど警戒しないでもよろしいかと」
爺やの言葉に、今度は姫さまが微笑みを浮かべた。
「出会ったばかりの者を随分と信じる」
爺やが穏やかな笑みで返答した。
「此方を冷静に観察していました。商人の目、或いは切れ者の傭兵隊長の目です。
どれだけの戦力を投入するか、雇い主がどれだけの支払いを出来るか、値踏みしている目です。彼らは裏切りませんが、見切りはします」
姫さまは首を傾げて、じっと守り役の爺やを見つめた。
「商業共和都市の軍人や議員を信じすぎてはなりません。姫さま。
契約は守りますが、封建世界の人間とは人種が異なっています
保安官助手やパオロ参事は親切ですが、職業倫理と都市への忠誠は、しばしば個人的な友誼を上回ります」領内の政務や商業取引を取り仕切ってきた老執事は、主人に忠告した。それは個人の誠実さや忠誠心、あるいは薄情や親切云々の差ではなく、心の有りようや常識の土台――生まれ育った価値観を醸成する文化の違いへの示唆であった。
「忠誠より公的な責務を優先するのが、彼ら彼女らの文明の流儀です。封建世界では、有終の美として語られる忠誠の美徳も、彼らには沈む船に最後まで乗る愚行にしか見えないかも知れません。どうか、ご留意ください」文明崩壊後の世界とは言え、異なる世界の考え方も当然に知れ渡っている。が、それでも完全に理解できているとは言い難い。爺やの言葉に、姫さまも静かに頷いた。
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