往時の羊毛通りは、曠野の各地から商人が絶え間なく訪れて賑わっていたものだが、ここ数年は羊毛仲買業の店がほとんど開店休業で、人影もまばらになり、すっかりと寂れてしまっていた。店主や従業員たちも他所に働きに出たり、或いは昼のうちから酒場に入り浸っていてくだを巻いており、どことなく退廃した雰囲気すら漂っている。
小麦畑と羊毛の生産は、ポレシャが小さな町であった頃からの主要産業である。食料や天然資源が乏しい黄昏の時代、いまだにポレシャ市の大きな収入を占めてはいるが、しかし、羊毛業に関しては、巨大蟻の侵攻によって家畜数が激減して以降、未だに立て直せずにいた。
かつて、肥沃な土壌と地下の水源を抱え、いち早く発展したポレシャ市は、近隣一帯に羊毛を供給していたのだが、弱り目に祟り目と言うべきか。加えて、近隣居留地と契約した牧者衆や牧童、農村の羊飼い。放浪牧者に遊牧民らがポレシャ市の見回り切れない牧草地へ勝手に羊たちを放っている為、さらに回復が遅れていた。野良牧童のハック団、カフ牧者衆などがそれである。
だが、一世紀以上を野獣や巨大蟻、屍者を駆逐し、放牧地を管理し、牧草の種を蒔き、放牧地を育ててきたのはポレシャ市の羊飼いや牧者衆なのだ。小競り合いが頻発している情勢ではあるが、妥協はできない。羊飼いの家系も、牧者衆や羊毛仲買人も納得しない。市のリソースが他に廻されても窮状を耐え忍んできたのは、一時の我慢をすることで、いずれ牧畜と羊毛の販売が立ち直ると約束されたからだ。それを後回しにされた挙句、折れてくれと言われたら、市内が割れて内戦が起きかねない。
ならば、縄張りを荒らす他の居留地や農村、勝手に踏み込んできた部族や遊牧氏族と延々と小競り合いを続ける方がまだましだ。血が流れなければ羊飼いや牧者衆も、仲買人らも納得しない。己たちで血を流すと言うのであれば、市としても後には引けなかった。
これがポレシャ市の言い分で、しかし、持ち主が居なかった牧草地目当てに羊を増やしてしまった他所の連中が、今さら大人しく退く訳もない。かと言って市民軍や傭兵隊を投入してしまえば、本当の戦争になる。勝てなくはない。そうするべきだ、と言う強硬な意見も一部には在りつつも、そこまでは出来ないと苦心して決着を図ろうとする者たちもいる。だが、連中だけなら抑え込めても、ポレシャが他の勢力と敵対した際に背中を刺されたらどうすると危惧を抱いている者たちもいて、それも杞憂《きゆう》とは言い切れない。
今は、互いに主張をぶつけ合い、小競り合いしつつ、妥協点を探っている状況であった。情勢がどう転ぶかは、誰にも分からない。なあなあで新たな境界が敷かれるかもしれないし、いずれかの居留地が滅びるかも知れない。ポレシャが優勢とは言え、複数の勢力が手を結べば、情勢はどう転ぶかも不明だった。時間が経てばたつほど、その可能性は高くなると強硬派は見ている。そして、そうなれば、互いにもはや後戻りはできなくなるからこそ、今すぐに開戦すべきだと主張していた。なにより、ポレシャに義理立てして、放牧地に手出しせず、また大人しく返還した居留地もある。忠実な友人や味方が馬鹿を見るのは危険だ。ポレシャ圏が崩れかねない。
ポレシャと対立する居留地の筆頭は近隣スージの町。次いでやや離れた悪徳のトラン市、そして街道の宿場町ミトなどだが、スージにもポレシャ市民の親戚もいれば、そこからやってきた労働者。移住してきた者らもいるのだ。しかし、その線で妥協工作を仕掛けてくる相手側の政治家もおり、それに反発する市内の商工業者や参事もいる。そして、トラン市も何らかの工作を仕掛けてくるかも知れない。これが現状、ポレシャの羊毛業とポレシャの契約牧者衆が置かれている状況であった。
『羊毛通りの裏にある喫茶店のロールケーキは、絶品なんだ。帰ったら食べに行こう』何時かの約束だった。
市民街区は、羊毛通りの裏手には小さな喫茶店が佇んでいる。少し懐に余裕のある層や働き者の娘さんに評判いい店で、ニナは幾人かの知己と一緒に、いつか訪れる約束をしていた。今日はイザベル・ミラーと『路地裏の王女さま』、そして護衛の少年――いや、そろそろ青年か。と共に四人で来店している。
席に座って待っていると、メイド服を着た初老の婦人が注文を取りに来る。
ニコニコしているお婆ちゃんだが、よく見れば顔見知りによく似ているのでニナは「メイお婆ちゃ……あ、メイさんだ?」と首を傾げた。
「メイお婆さんでいいのよ」とメイド姿のお婆ちゃん。
此処で働いているのよ。ほほ、と穏やかに笑った。
「ええと」と戸惑いを見せるニナに対して、「お友だちの店なの。この年でも雇ってくれるのって有難いわ」穏やかに微笑んでいる。可愛いお婆ちゃんだ。性格が良く、穏やかでマギーが友人付き合いしてるのもよく分かる。
「ロールケーキを四つ。紅茶と珈琲を二つずつね?」メイお婆ちゃんが注文を確認してきたが「はい……あ、いや。ケーキは、五つ。それにシードルをフルートグラスで三つ」イザベル・ミラーが訂正を入れた。
「あら、もう一人、来るのかしら?」首を傾げるメイお婆ちゃん。
「一緒に来ると約束した友人がいたんです。
これなくなったけれど……」ニナは静かに告げた。
「分かったわ。
ロールケーキを五つ。それに紅茶二に珈琲二つ。シードル三でよろしいですね」察してくれたか。なにも言わずにメイお婆ちゃんが最終確認をして、程なくケーキと四つのカップ、それに三つのグラスが運ばれてくる。
ニナは、林檎のシードルのグラスを掲げた。
「ロニに」と告げる。
「友に。それにエマにも」イザベル・ミラーが応じ、シードルを飲み干した。
空席にロールケーキがおかれ、シードルが静かに泡を立てている。
「此処には、友人たちと来る約束をしてた。もう会えないが」と硝子窓の外を眺めながらニナが呟き、イザベル・ミラーが肯いた。王女さまも、寡黙な青年も黙して語らない。なんとなく流れで四人で来た。約束だけが残る。黄昏の時代、誰もが一度は似たような経験をしている。
一口食べて王女さまが目を瞠った。美味しかったらしい。
全員が沈黙し、静かにロールケーキを食べ続ける。
この喫茶店。店員数が少なくて材料も入手しづらい為、予約待ちでもある。とは言え、富裕層や稼いでいる娘さん主体なので、そこまで込み合う程でもないが、曠野で砂糖は、基本的にやや高価で貴重な代物だ。
ポレシャ市で砂糖を生産しているのは、甜菜畑と小さな製糖機械(工場は愚か、設備と言うほどの規模ですらない)を所有しているモーデュソン家くらいである。
ほぼ専売の免許状を所有しており、公売価格はさほど高くないが、闇で砂糖を販売している農家や交易商もいる。とは言え、闇価格が公売価格より高い為にそれほどに売れずに、逆に利益は出ていない。規模でモーデュソン家には及ばないゆえの高値であり、品薄を埋めるが故の闇砂糖に過ぎない為、それほど取り締まりも激しくない。
モーデュソン家も程々に稼いでるが巨利と言う感じではない。なにより古い家系でありながら、ガライ家などと同様、市政に積極的に参加しているのでそれほど危険視されてない。
一方では、独立の勢力を保ちながら貢献せず、かつ市内に権益を拡大しようとする名家もあって、面倒な相手だとマギーは愚痴っていたが、ニナは別に危機感を抱いていない。一介の
「新しい友人を紹介してくれる?」路地裏の王女さまが口を開いた。
「此方は、イザベル・ミラー」と牧者衆イザベルを示しながらニナが告げた。
「ご高名はかねがね」王女さまが優雅な動作で一礼する。イザベル・ミラーはサドラン牛の買い付けで名を挙げた若い牧者だ。護衛の青年も、口にクリームをつけたまま、じっと観察していた。
「こちらは路地裏の王女さま」とニナはイザベルに対して、王女を紹介する。
「初めまして。お噂は、ニナより常々」イザベルが返礼する。
「そして私はニナ・モイラ。若妻です。奥さんはマギー」ニナは自己紹介したが、「なに言ってんだ?」奇妙にもイザベル・ミラーが首を傾げた。
「気にしないでいいのだわ。病気なのよ」路地裏の王女が囁いた。
「見てよ。身分証。ほら。ちゃんと姓がモイラになってる」愛した人と結ばれたニナは、自信満々で提示した。結婚した証である。
「うん、そうか」イザベル・ミラーは優しい目で見つめてきた。
「むむ、なんだ?その目。
イザベルが振られたのを慰めてやる会なのに」ニナが唸りつつ抗議すると「振られてないぞな。もし」訛り丸出しでイザベルは訂正した。
※※※※
マギーが自宅に戻ると、用心棒のリジィがやってきて「グレイ家のキャスリーンさんが来てるぜ。お客さんだろ」とぶっきらぼうに告げました。
「振られてしまいました」告げたのは、グレイ氏の娘さんでした。ほろ苦い笑みを湛えて、肩を竦めています。
行商人マギーは、服飾職人でもあります。あらかじめ告知していた営業時間の終わりギリギリに現れたとは言え、お客――それも付き合いのあるうら若い女性の為に、マギーは旅に出る直前でしたが、出発を少々、延期して話を聞くことにしました。
マギーは、人への好悪がはっきりしている性格です。元々、好意を持った女性からの頼み事には、つい足を止めてしまいます。もっとも元賞金稼ぎで傭兵隊長の経歴から、状況によっては好きな相手でも殺す時はあっさりと殺してしまいますが。融通が利くのは自分が主体の少数の徒歩で、予定も決まり切ってない旅だからです。
「残念ですが、半ばは予想していたことです。我が家は没落しましたから」ミス・グレイの言に「まったく、見る価値のない男もいるものです」と腹を立てつつマギーは首を振りました。
「ですが、お嬢さんなら、すぐに良い相手が見つかるでしょう。
ドレスも払い戻しいたしましょうか?」マギーの言い分にランツクネヒトのリジィが「おい」と雇い主の背中を肘でつついてきた。リジィは、元は村娘である。
「なんだよ? 」鬱陶しそうなマギーの言葉に「親切のつもりか?いや、つもりなんだろうな」リジィはため息を漏らした。
「まずいか?」とマギーはジーナ・エクルストンを見るが「お金は大事ですよね」
首を傾げてる。
「振られたばかりだぞ。そういう所が……いや、お前たちの実年齢と噂からして、餓鬼の頃から賞金稼ぎだったろうし」リジィが呟いている。
「……互いに十歳の頃から婚約してたんですけどね。
結婚は家と家の契約でもあります。婚約者にとっては、価値がなくなったと言う事でしょう」苦笑を浮かべたミス・グレイ。
「次の相手には、もっと良い別のドレスを用立ていたしますよ」請け負うマギーに「そこまでして貰っていいんですか?季節の品と言い、負担を掛けているばかり……」とミス・グレイが言いかけてマギーは遮った。
「今はわたしの方がお金があります。立場の変化は付き合いづらいと思うかも知れませんが、卑屈にならないでください」マギーの言にミス・グレイは瞬きした。
「貴女が、通りすがった顔見知りや旅人たちに振舞ってくれたお茶の味を覚えています。確かに元値でお売りする品もありますが、御父上との会話はわたしにとっても貴重な時間です」マギーは吶々と語った。
真顔で聞いていたミス・グレイがポロリと涙を零した。
「昔、我が家にお金を借りてた人と会いました。嘲られたばかりで。ごめんなさい。取り乱しました」ハンカチで目尻を素早く拭う。
マギーは、おのれの頬に指をあてて少し考え込んでから「過去を忘れ、今と明日だけを見ている者の方が確かに成功しやすいかも知れません。でも、お父様の生き方に心打たれ、或いは助けられた者の為にも、堂々と胸を張るべきです」そう断言された、ミス・グレイはクスリと笑って「はい」と頷いた。
※※※※
ポレシャ市の窯場では素焼きの皿や小鉢、調理用の壺。それに大型の水壺などが日々、焼かれていた。粘土や土を調達し、薪や炭などを受け取って、出来れば薪や炭を節約できる夏の間に作り貯めておく。他所の町の窯場では妙薬などを用いた陶器の皿やカップを模索したり、生産しているようだが、ポレシャ圏では日常品の需要が大きいうえ、窯場には原材料と燃料が市から安く卸されている為、これまでは手堅く商売するだけで充分に廻っていたのだ。
夏至祭の二日目。朝から夕刻に掛けて、町外れ地区の焼き場は三組の客人の来訪を受けた。まずは午前中、保安官助手のマギーと
正午にやってきたのは、市の契約牧者衆の長老ダニエル老人と連れのミラー老人。これも自分の娘っ子たちが徒弟らに揶揄われたと言う事で多少の抗議をしていった。流石に二組目と言う事で、親方も頭を下げてから、これはちょっとまずいかな。仕事終わりに徒弟共に説教しなけりゃな、と考えた。
三組目は、パオロ・ジャッコーニ参事と市の役人だった。かなり険しい表情を浮かべており、近くの食堂に呼ばれた。長い話になりそうだと思ったが、実際には短く済んだ。交易商人たちや行商人たちに何かしたかと尋ねられただけだ。それから、あちらが値上げを匂わせてきたと言われ、粘土や土、それに燃料の公売価格を三倍ほど上げると通告された。それだけだ。流石に抗議し、値段については交渉の余地が残ったが元々、強いのは市の方だ。倍でもそれなりの痛手だが、致命傷ではない。普通に買うよりは幾らか安い。だから、親方も吞み込まざるを得ないと見ている。此処に至っては、流石に最初の二組は警告だとも悟っていた。
常の仕事仕舞いの時間より随分と早く、親方は皆を集めた。
早仕舞いか。今日も祭りに出られると燥いでいる徒弟らや苦笑する職工らを前に、親方は苦み走った表情で一同を見回してから、「セス」と徒弟の一人を呼んだ。
「はい。親方」戸惑いつつも前に出てくるセスに頷いた親方は、ざわついている二十人近くの者らをその場に残し、二人きりで話すのでついて来いと命じた。
これは異例の対応だ。何故なら年長の職工や纏め役には年季が入って腕が良く、顔が広いものも幾人かはいたからで、親方は職人頭たちから選ばれた代表者に過ぎず、こんな扱いをすれば同輩たちから降ろされかねなかったからだ。だが、この時の親方は皆にどう説明するかで頭が一杯でそこまで心が回らず、また降ろされるなら、いっそ降ろされた方がいいと思うほどに苦しい立場に追い詰められていた。
流石に呼び止める者もおり、立ち止まった親方は、まずは幾人かの職人の纏め役を先に呼んだ。少し離れた廃屋の物陰で話し合い、時に怒鳴り声が聞こえてくる中、セスは他の職工見習いたちの好機の視線を浴びながら、じっとりと汗を掻いていた。
「よう、セス。お前なにしたんだ?」仲間の見習いが馴れ馴れしく話しかけてくるも「分からん」セスは落ち着かない様子で、首を振った。
しばらくして再び、セスは呼ばれた。上役の職人頭と班長も勝手についてきた。廃屋の裏手に踏み込むと、職人頭たちが一斉に視線を向けてきた。
「あの、親方。俺、仕事はきちんとやってます。手ぇ、抜いたことは……」セスの言い分を「ああ。お前はよくやってるよ」親方は手を振って遮った。
「まず、座れ」と目の前の丸太の切り株を指示した。
かなり深刻な雰囲気だった。怒った時の親方は怒鳴ったり、殴るからだ。それが怒りを見せるでもなく、沈んだ様子で椅子を進めてきた。
「おい、俺たちの席はねえのか」セスの職人頭が口を出し、「なら。戻ってくれ。聞かねえでいい」別の熟練職人が堅い口調で告げた。額に青筋を浮かべた職人頭が睨みかけるが、熟練職人は強張った表情を浮かべたまま相手にもしない。異様な雰囲気だった。
「お前、モイラさんのところの娘になにか言ったか」親方は性急に問いかけてきた。
「モイラ」問われたセスは少し考えてから、それが地区の武器商人の徒弟の娘だと思い出して頷いた。
「ああ、あれ。でも、軽くからかっただけです」
セスは大げさなとでも言いたげに笑ってみせた。だが、問題は相手の受け取り方だ。見習いの愚かさを憐れむでもなく、親方は再び手を振って言い訳を止めた。
「モイラが保安官助手だってのは知ってるか?」親方が静かに問いかけても、セスは何故か、へらへらと笑みを浮かべていた。「はい、ええ」
「町に資材持ち込んでる交易商や行商たちの一人だってのもか」親方が重ねると「あ、あの……」やっと状況が呑み込めたのか。セスの笑みが強張った。
「今朝がた。モイラ保安官助手と『陛下』が連れ立ってやってきたのは知ってるか。
世間話を切り出してきた。窯場は立派だ。若い衆はとても元気いい。最近はそんな活気のある話をよく耳にする。私たちのような、ささやかな商いをしている者など……って具合にな」
褒められたとでも勘違いしたのか。間抜けな笑顔を浮かべたままのセスに親方は一瞬、拳を握りしめたが、ため息を漏らして首を振った。
「意味が分からんって顔をしているから、説明してやる。
連中はこう言ってる。お前らは、俺たちより上になったつもりか。
お前のところの若い衆はそう振舞ってるぞ、と釘を刺しにきたわけだな」
けっ、と吐き捨てたのはセスの親方だ。
「おい。娘っ子が揶揄われたくらいのことで文句言いに来たのをお前さん。そんな深刻に……」
「口を挟むな」先刻とは別の職人頭が、真剣な声で遮った。
「違うんですよ。親方……」強張った表情で言い訳を口にするセスだが、親方は陰気な視線を低い声で吶々と糾弾してくる。
「イザベル・ミラーも、ニナ・モイラも、そこら辺の娘じゃない。
女同士でやるのか、と聞いたらしいな。かなり長々と、しつこく嘲弄し続けたそうじゃないか」
「そんなことは。あの女……よくも」セスが怒りの色を浮かべるが「これは、昼にやってきたミラー老から聞かされた。牧者衆のダニエル長老も一緒だった」親方の物言いに年長の職人衆は顔色を変えた。
「牧者衆……」「イザベル・ミラーか。ミラー家の……」囁き合う顔色は宜しくない。職人団は荒っぽいが、牧者衆は殺し合いに慣れている。変異獣や狼、屍者と対峙し、戦争の時には市民軍の一翼を担っている。連中と揉めるのは避けたい。
「今は肝心な時期だ。分かるか」夕暮れを眺めて、親方は低く独り言のように言った。
セスの顔は蒼白だ。心臓が嫌な感じに跳ねたのか。どっと脂汗を吹いている。
「はい。分かります。お、俺。謝ってきます!イザベル・ミラーとニナ・モイラに!
揶揄って悪かったって!」
親方は口元を掌で抑えていた。何かを考え込んでいたが。
「ジャッコーニ参事に、土と粘土、燃料の値上げを通告された」ひどく厳しい表情のまま親方が告げると、セスはヒュッと息を呑んだ。沈黙が舞い降りた。
「……幾らだ」誰かが強張った声で尋ね、親方が口を開いた。数字を聞かされて呻吟し、在る者は激昂した。
「ふざけてる」
「そんな話が通るかよ」
「いっそ、ストライキしてやろうか。俺たちが居なけりゃ焼き物に困るだろうよ」職人たちの怒り混じりの笑顔に交わされる声を聞きながら、窯場の親方も力なく笑った。
「……ストライキしてもいいと言われた。それに、いい話も三つあるとさ」
「……三つ。聞かせろ」比較的に冷静を保っている職人頭の一人が尋ねた。
「マルグリット・モイラは、市に資材を持ち込んでる行商人の一人だ。
で、隊商や行商人たちが市への資材の値上げを匂わせてきたそうだ。
長年、付き合いのあった自分たちを取るか、焼き場の乱暴共を守るか」親方の言葉に、職人が顔を顰めた。
「……それがいい話か?」
「ひとつは、参事さんが頭を下げて、時間の猶予を貰ったそうだ。で、二つ目は、窯場の地代を取るつもりはないそうだ。今のところはな」親方が力なく言った。
「なんだ、そりゃ」呆れたような声に「今のところは、か」乾いた笑い声。
「三つ目は、他にも職人たちがいるから、もう一つ大きな窯場を作るかも知れないとさ。今のところは、まだ予算が集まっていないが」
沈黙が。暖かな夏の夕暮れの中、今度こそ張り詰めた冷たい沈黙が舞い降りた。
「セスぅ」セスを睨む若手班長の目は血走っていた。
ヒッと小さく悲鳴を洩らしたセスは助けを求める様、周囲に視線を走らせたが、友好的な視線は、一つもない。冷え切っていた。
「止めろ。遅かれ早かれだ」親方が班長の腕を掴んだ。
「手回しが良すぎる。多分、ジャッコーニ爺さんの独断ですらない。元々、口実を探してたんだ」親方の穏やかとすら言える声に「だけど!」と班長が悲痛に叫びをあげた。
「止めろと、言った」絞り出すような親方の声に、班長は膝から崩れ落ちると、地面を叩いて慟哭した。
「若い連中の跳ね上がりは、かなりの噂になっているとさ。
窯場衆がどうなるかは、おれの判断次第だと」親方の視線に熟練の職人たちはため息を洩らし、或いは呻いて天を仰いだ。
「連中を。連中たちを。若い見習いに言って聞かせなかった俺たちの責任でもある」
「みじけぇ夢だったなぁ」誰かがため息を吐き、ついで乾いた笑い声を上げた。
「セス。分かるな。お前は、もう置いておけない」親方が項垂れている見習いに語り掛けた。
セスは、軽率な若者だが、悪人ではない。軽口を叩いただけのつもりだろう。しかし、大きな市町で有力者の身内を公然と侮辱するのは、村娘を揶揄うのとは訳が違う。見えない力学が働いており、相手も面子を抱えている。誰にとっても取り返しが付かない。親方も、窯場衆も、これからそれを学ばなければならない。
「お、俺は……」呻いている見習いに、親方は頷きかけて「家の事情は知ってるがな」懐から革袋を取り出した。
「持っていけ。今日までの給料と、それに幾らかの旅費が入っている」
セスの職人頭も懐の財布から銀貨と大きな銅貨を数枚取り出して、「こいつもな」と手渡してきた。
「日没前。他の連中が部屋に戻るより早く、荷物を纏めて下の子を連れて離れろ」親方の言い方は厳しく、セスに反駁の余地を与えなかった。
「さっさと行け。これから他の奴に説明しないとならん。他の連中が何をどうするか分からん」ある種の脅しであったかも知れない。親方にとって、セスは既に切り捨てた対象なのだろう。
「きょ、今日までお世話になりました」震えながらセスは言うと、革袋を握りしめ、借りてる部屋に向かって走り出した。もはや、仲間に対して別れを告げる事さえできない。少しでも早く荷物を纏め、まだ幼い家族を連れて部屋を出ないと成らなかった。だけど、どこに……当てはなかった。
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セス「なにもそんな……。俺は軽い気持ちで」
ニナ「なにもそんな……。私は軽い気持ちで」
一応、ザマァになるのかな。
オナニーを見つかって痛めつけられたと誤魔化したら戦争始まった人や、道に迷ったらやられたと思われて戦争始まった兵士よりマシだろうけど、気持ちを考えると背筋が凍っていそうだ。