夕食の時間である。スープの入った鍋を火に掛ける。肉団子に味噌、バター、ラードを放り込んでたっぷりのキャベツ。人参の切れはしに芋。
猫耳ココは、お皿をちんちんとスプーンで叩いている。お前もなんか手伝いなさいよ、とトリスが言うと、にゃがにゃがとなんか抗議してきた。
多分、適当に鳴いただけだ。
蒸したパン――庶民のパンは基本的に保存食で非常に硬いか、あまり旨くないライムギパンなどが多い――を蒸篭から取り出して、切ったものを皿に乗せた。パンでも、粥《ポリッジ》でも、煮込んだリゾット、ライス、パスタでもいいのだが、定期的にローテーションしてる。親方と仲間と徒弟でみんな、好みが割れてるので仕方ない。
塩漬けの豚肉を箱から取り出し、切り裂いて熱したフライパンに乗せる。親方は稼いでいる方の行商人だが、さすがに冷蔵庫はまだ持っていない。買えるけれど、ランニング・コストが高いそうだ。氷を買う金額で、どの程度の小遣いやら食べ物に換算できるかを説明されたので不満はない。
もっと安く、質の良い氷が手に入る伝手が見つかれば。そして値上げしないのなら買っても良いとは言っていた。或いは、冬の名残残る春先だけは、安くなった氷を買ってもいいかも知れないとも。
食えるのは有難いことだ。火を囲みながら毎日二食か、三食。少し胃がもたれるときは二食と軽食で済ませたりする。昔だったら、絶対に食えるだけ食う。栄養状態が過不足なく良いなら、時に軽くするか、偶に抜いたほうが不思議と体調が良くなる。
トリスの個人的な体質かも知れないので、一般化するのも良くないかもだが、貧困層から抜け出したばかりの労働者で、そこに引っ掛かっているものも多い。
近所でも、
入手できる食べ物が少ない頃の最適が、環境が変わって負荷となる。食べ物に限らず、本質を考える習慣を身に着けておきたい。
皿にリゾットがよそわれる。香ばしい豚肉が大皿に盛られた。薄く切った豚肉だが、一人当たりに三、四切れ。肉団子もある。パンを手に取る者もいる。豪勢な食事にも、しかし、トリスは心ここにあらずで考え込んでいた。
今日はルーと知り合った。旅芸人一座の雑用の子だ。娼婦の見習いでもある。
旅芸人には、珍しい話ではないと、中世の本や小説で読んだ。学校や図書館では本を読める。黄昏の世も似たようなものだ。少しマシなくらいか。いや、百人の軍隊が勝てない怪物やら屍者の群れが地を彷徨っているのだ。今の世界の方が酷いかも。
娼婦なんか止めなよ、と言えるほど親しい訳でもない。本人が嫌がってるのかも分からん。世の中には好きでやってる者や、金を貯めたいものもいるからだ。
生きるための糧が少し足りないだけなら、半月くらいの援助に、生活の足しになる程度の内職や仕事を紹介すれば、何とか自足できるだろう。地区の顔役がそうやって知人を助けるのを一度か二度は見た。親方マギーがトリスやココを拾ったのも、きっと似たような系譜だ。
直接の知り合いではないが、酒場の姉さんが女の子を拾って面倒見るのだって慈善と言えなくない。でも搾取なのかもしれない。部屋を宛がわれて給料も貰えるし、身体を売るのが嫌なら食料品店の店員や女給でもいいのだから。
色街や通りにも、まともなヒモや女衒もいれば、搾取の激しいものもいる。ただ、女の取り分は多いが時に殴る者もいれば、優しいが金を殆んど取り上げる者もいる。それは優しいのかな?まあ、その娘は、「本当は彼は優しいの!」って言ってたが。共依存にゃーとココは笑ってた。そこは本当に当たり外れだ。
信念か、宗教かは分からないが、全部取り締まろうとする保安官補や自警団員もいる。保護と搾取、宗教と法、治安、商売、愛情と支配、相互依存――自由居留地だから、外地区や廃市街の愚連隊ですら、本当に色々な考え方の人間や派閥があって鬩ぎあってるのだ。
悩ましい。下手に手を出していいのか。生活を立て直せるような仕事となると、煙突掃除か?ポレシャ市では、あまり長く推奨される仕事ではない。都市の煙突掃除には、肺を病んで亡くなる少年少女も多いと耳にしている。
或いは、便所の汲み取りかな。稼げる仕事だが……うーむ。ルーは華奢だ。
大体、仕事を紹介してくれと言われた訳でもないのに。
曠野の暮らしでは、その日その日を凌げればいいと言う訳ではない。長く厳しい冬を越えなければならない。簡易宿泊所に泊まれるだけの金があればいいが、なければ食料と薪を持ち寄って、冬越えの為の避難所で暮らす事になる。春から秋は、冬越えの為の備蓄の季節でもある。相当の余剰を貯め込まなければならないのだ。いや、旅芸人のルーは、南の温暖な土地に渡ればいいか。それにしたって……
セシリア――亡命ガルダ人一行の事と言い、考える事が多すぎる。
親方が残していった銅の保安官バッジも重過ぎた。トリスは、十代半ばの変異者に過ぎないのだ。
いや、親方経由で地区のまとめ役の人や老参事とも顔繫ぎされ始めてるのは、大人たちから期待はされているのだろうが。徒弟トリスはため息を漏らした。食事を取ろうとフォークを動かし、気づいた。大皿の豚肉がない。隣で猫耳ココが頬を膨らませて咀嚼している。
「お、お前……お前」喘いでいるトリスの目の前で、猫耳ココは大皿の最後の肉をごくりと呑み込み、ゲップまでしてみせると、満足げに、んなー、と舌舐めずりした。
――――
食事が終わると、就寝までは一同は思い思いに過ごし始める。
トリスと猫耳ココは、取っ組み合っていた。打撃や目潰し、喉締めなどはないが、結構、真剣にぶつかり合っては、相手の腕を取り、足を掛けて、投げたり、関節を決めようとしている。「このっ!このっ!」「にゃが!にゃうううー」
騒音を他所に、武器を手入れしたニナは、黒色火薬を入れた革袋の状態を確かめてから、地区と近隣廃墟帯を網羅した地図を広げて、なにかを考え込んでいる。
親方マギーやニナは、普段から洩らして問題ない考えや計画を周囲の人間に説明している。廃市街やら外地区で屍者の五体、十体を仕留めておけば、地区も幾らかは安全になる。狭い路地に潜り込んでいる屍者や廃墟に佇んでいる屍者もいようが、取りあえず、目立つところの屍者の群れを十、二十と片付けてしまえば、仮に居住区になだれ込んで屍者の群れが拡大しようが、合流しないだけでも被害は抑えられる。
或いは百体、二百体と屍者や巨大蟻、変異獣など掃討していれば、何時の日か、廃墟帯が薄まって廃市街へ。廃市街の建物を取り返して、外地区へ――行政区分として昇格する時だって訪れるかも知れない。人が往来し、或いは居住できるようになるのだ。
利益としては薄い。漠然とやっているだけだ。地区を独り占めできる訳でも、名義を示す訳でもない。勝ち目が見えてきたら、抜け目のない奴がいずれ名乗り出てきて、手柄を独り占めし、名を残そうとするだろう。戦ってきた人間としては腹立たしいが、それも現実だ。実際に利益になりそうな程に形が出来てくる頃には、落としどころを考えるべきだろう。名声でも、それ相応の価値はある。利用の仕方が分かっていればだが。ただ、それはそれとして名声を弱さや妥協の言い訳にするべきではないし、かと言って、他者に利用された時に必ずしも噛みつけばいい訳でもあるまい。
用心棒の女ランツクネヒトのリジィも、机を覗き込んでいた。地図を指さしてなにかを囁き、ニナがそれに答えている。リジィも、随分と馴染んできている。
明日の仕込みを終えた料理番リリーは、歯を磨きながら、食材の入った樽を覗き込んで数を数えている。明日の仕込みを考えているのだろうか。
息を整えているトリスは(……びっくりするほどいい生活っすね)と省みてしみじみと思った。食べ物に困らず、金がある。火と寝床に困らない。怪物に警戒せずに済む。順調な楽しき日々が、この先、ずっと続くとは限らないにしても、今くらいは無邪気に浸っていてもいいだろう。勿論、油断はしない。或いは、今こそ人生で最良の時期かもしれないし、将来、零落れた時にこの日を懐かしく夢見ながら眠りに就くかも知れないが。
小屋はまだ小さく、壁や窓も一部未完成で、七人が並んで寝る分にはかなり手狭だが、それでも随分と広がってきている。木材に僅かだが金網や鉄筋、鉛管を仕込んだ家の壁はそこそこに頑丈で、変異獣や屍者の体当たりにも耐えられるだろう。多分。
プラスチック板や木材、厚手の帆布を用いた屋根も、大抵の風雨を凌いでくれる。
恐怖せずに眠れる夜が着々と近づいてきている。安全な部屋での眠りは、どんな感覚だろうか。それはきっと、生まれて初めて味わう心地よさに違いない。
親方マギーとニナが稼いでおり、トリスと猫耳ココが徒弟。ジーナ・エクルストンとリジィが用心棒の位置づけにある。と言っても、ジーナ・
親方は、稼いでいる。だけど、これ以上、仲間や徒弟を増やすつもりかは分からない。養える限界がある。ルーを紹介したって気にいるとも限らないし、ルーが望んでいるも限らない。色々と、徒弟の分を越えているだろうとトリスは自戒した。
歯を磨き、毛布の上に寝転んで眠ると、すぐに眩い光が瞼に差し込んだ。
眠りの深さに夢も見ず、いつの間にやら朝方である。
二日連続ではしゃぎ過ぎたらしい。
夏至祭の最終日が訪れてしまった。楽しかった連休もお終いである。
昨晩の残り物で朝食を済ませた徒弟トリスと猫耳ココは早速、遊びに出ることにした。ニナは何かノートを付けており、用心棒リジィは首を振りながら「子供の無限の活力……」などと呟いている。料理番リリーは毛布に包まりながら、寝言を呟いている。
街路を駆け抜ける。早朝五時は早起きに思えるが、明かりのない下層地区の人々は夜の十時には寝込んでいるのだ。外地区だと見張りを残すし、廃市街となると、むしろ夜は不寝番し、明け方から昼まで寝る者たちが一定数いる。小集落や天幕だけの部落、小村落などでは怪物や野生動物などに備え、誰かしらが起きていなければならない。例え、共同体を囲む石壁や木柵があっても、巨大鼠や野犬の群れが入り込むかも知れない。そして巨大蟻や屍者の群れ、複数の変異獣などが嗅ぎ付けないよう祈りながら、日々を生きるのだ。
そう言えば、徒弟トリスは遠吠えを――それが野犬やコヨーテであろうと、或いは変異獣の不気味な咆哮や屍者の呻き、それに狼の恐ろしい叫びであっても―――彼方であれば殆んど脅えることは無くなっていた。
猫耳ココは、まだ耳を伏せて緊張するが、しかし、親方に率いられて屍者や怪物、野生動物を幾度となく狩るうち、恐怖は抑制できる程度になってきている。間引いていれば、外地区や防壁を突破して敷地までやってくることは殆んどないと思えた。
かつては数匹の巨大鼠も、屍者の群れも、同じ質量の恐怖であったが、今は数十匹から百匹の屍者の群れの方が恐いと優先順位の道理が形作られたのは、自力救済できる武装を持ったからに違いない。
親方マギーの稼ぎと武装、そして弾薬を仕入れる都市との伝手は、町外れ地区では指折りである。或いは、職人や店持ち商人の暮らす中町を含めても、五指に入るかも知れない。それでも、門前町や市民街区には親方以上の稼ぎと伝手を持つものもいようし、親方も所詮は新参の成り上がりに過ぎない。蓄えた資産だけであれば、外地区や農村部にも、もっと豊かな者たちが幾人もいよう。逆に言えば、ほんの数年で迫った親方マギーは間違いなく相応の人物ではあるが。
トリスも属する親方の徒党は七人だが、中町や門前町にも十人近い徒弟や店員を養っている店主や職人頭はいるのだ。町外れにだって、
それでも十年足らずで七人の徒党であり、近所の家族には大きなパンを配給し、気の利く浮浪者《ホーボー》たちに小遣いをやって手懐けている。徒弟たちにも賃金を払い、飯を喰わせている。親方は、大したものだ。
廃市街の浮浪徒党みたいに腹を空かせた連中かき集めて、なんとか生き延びてるのとは訳が違う。廃市街や外地区の浮浪児たちは得てして、いつかは大商人になりたいやら、大きな徒党の頭になるやらの野心を抱いているものだが、成れる筈もない。トリスはおのれで稼いで初めて、親方マギーや商人、職人の頭たちの凄さが理解できた。
だから、親方マギーに拾われたのは幸運だと徒弟トリスは理解している。道を歩きながら、廃屋の入り口で朝から飲んだくれている浮浪者《ホーボー》たちの一人と視線が合い、頷き合った。親方マギーの手のものだ。何かしらあったら、知らせてくれる手はずになっている。もしかしたら、他の浮浪者《ホーボー》にも商人や職人の頭。或いは、司法関係者のために働いている者もいるかも知れない。都市と言うのは、網の目のように何重にも人の伝手と繋がりが張り巡らされた蜘蛛の巣なのだ。
(……果たして封建領域からやってきた赤泥のジルカに、自由居留地圏の都市の仕組みが理解できるかな?)親方マギーは、同業の賞金稼ぎである赤泥のジルカを過度に警戒しているようだが、徒弟トリスはそれほど恐れてはいない。或いは慢心しているのかも知れないが。幼い頃から警戒心を持ちながら廃市街で生まれ育ったトリスは嗅覚に自信を持っていた。よそ者は匂いが違うのだ。
遊技の出店で遊ぶ前に写真屋馬車の停まった空き地へと向かった。
「17番の引換券ですね」と頷いた巡業写真屋がファイルから三枚の写真を出してくる。にゃ!と半金の支払いを済ませた猫耳ココが写真を受け取った。
白黒写真であればポレシャ市でも撮影できるが、巡業写真屋のそれは色が付いている。覗き込んだ徒弟トリスも猫耳ココも、出来に満足して頷きつつ、三人で撮った写真を仕舞い込みながら「次はいつの季節に来るんだい?」巡業写真屋に尋ねてみる。
「そうだね。来年も祭りがあるなら、来年の今頃……」頷きつつ、「まだ、数日はいますよ。お友だちがいるなら、一緒にいらっしゃってください!」巡業写真屋はそう売り込んできた。
「みんなで写真を撮りたいものだけど」徒弟たちの好む肩掛け鞄に写真を仕舞い込みながら、徒弟トリスは囁いた。
なー。隣を歩きながら、猫耳ココも相槌を打つ。
「とり、ま。セシリアに写真を届けに行こう。喜んでくれるといいけれど」
町の何処からか、曲が流れてくる。廃屋から突き出た布の屋根の下。樽の水に凍りが浮かんでいた。硝石を持っている氷屋が、町外れまで出張ってきたのか。
冷たい水を飲みたい。靴を売ってる店がある。接着剤で直している。大きなミシンで縫っている傍らを馬が曳く荷車が通り抜けていった。
穏やかな光景だが、価値のある品や食べ物の屋台の傍にこん棒や六尺棒を抱えた男たちが――時には女が侍っている。紙で書かれた見本だけが軒先に出されて、品は奥の箱に入れてある店もあった。町が大きくなり、栄えるのは良いことだけではない。
引き付けられるよそ者のうちには悪党も混ざっているし、金が増えれば、盗みだけでも暮らせる余地も出る。影に潜む者たちも当然に生まれ、増え始めるのだ。
遠く銃声が響いてくる。廃屋の連なる彼方を眺めてみた。
空は晴れ渡っていた。早朝からいい天気だ。
トリスは片腕を抑え、伸びをしながら「子供の頃には、きっと二十歳になるまで生きられないと思っていたよ」
今はのんびりした日々を送っている。
なーご。隣で猫耳が低く唸ったので
「分かってる。油断は禁物だ」徒弟トリスは、単眼を細めて笑った。