スーパーマーケットの割れたショーウィンドウ。往時には服飾品で着飾れていたマネキンの影に紛れながら、二人はそっと店舗横合いのアーケードへと抜けた。
お姉さんの足取りはややぎこちない。放浪者《ワンダラー》の『お袋』に掴まれた足がどす黒い痣となっている。強烈に締め上げられた痺れがまだ残っているが、骨に異常が感じられないのは不幸中の幸いと言うべきか。『お袋』の中肉中背の体躯からは信じ難い程の膂力であった。短時間で仕留めていなければ、逆にお姉さんこそ身体をバラバラに引き裂かれていたかも知れない。
入り口から横手に伸びたアーケードの物陰で少女が立ち止まり、静かにするよう合図を送ってきた。
(停止しろ……静かに)
右手を横に出して掌を立てる。次いで人差し指を一本指す。誤解しようのない手信号に、お姉さんも頷いた。
正面入り口の方角では、いまだに放浪者《ワンダラー》たちが、ゾンビや変異獣《ミュータント》とやり合っているようで、怒鳴り声や悲鳴に入り混じって時折、銃声までも響いてくる。とは言え、いかに銃があろうが、粗雑なパイプライフルに低威力の手製弾薬。敏捷な変異獣《ミュータント》や痛みを感じないゾンビに囲まれた状況では、なにが出来ようはずもない。逃げる以外に生き延びる方法は無いだろう。
少女たちの見渡す限り、街路に動く影は見当たらない。周辺からは、変異獣《ミュータント》も姿を消している。
「今だよ、行こう」そう囁いた少女の背中を、随分と冷静だな、と感心した眼差しでお姉さんは眺めていた。
スーパーマーケット裏手へと続くアーケードを慎重に歩きながら少女は時折、放置された車体や瓦礫の残骸に隠れては、辺りの様子を伺ってみる。
静寂に包まれたアーケード街に、怪物の気配は感じられない。
一気に駆け抜けた方がいいのだろうか。或いは、普段通りに慎重に進むべきか。
悩んでいる少女は、実際のところ、見た目ほどに平然としていた訳ではない。
恐い。本当は物凄い恐かった。叫び出して蹲りたいほどビクビクしていた。何故なら、あまり知らない経路《ルート》だから。地形を把握していないと言う事は恐ろしい。おまけに一本道で逃げ道も作ってない。大型変異獣《ミュータント》が出てきたら、即死間違いなしだった。
他人の命も預かっていると思うとなおさら、頭が働かない。判断が付かないので、普段通りの行動を惰性で選択。足音を抑えて、かつ早歩きで進むことにする。
殆んど無言のまま、スーパーマーケットの角まで到達した二人は、そっと店舗の裏手をのぞき込んだ。
搬入口として使用されていた裏口は駐車場も兼ねており、小さな倉庫の横に錆びたトラックが停車している。
素早く左右に視線を走らせた少女が、倉庫入り口をうろちょろする普通サイズの鼠に気づいた。
「見て。鼠がいる」と少女の囁き。
「それが?」
「小動物がいるなら、変異獣《ミュータント》は多分、いない」
「多分?」と首を傾げるお姉さん。
「多分」と少女が頷いた。
話すほどに不安が深まるなぁ、と埒もない会話を交えつつ、スーパーマーケット裏手の搬入口に廻った二人。少女が駐車場の隅を指さした。
隣接する廃屋2階の窓から縄梯子がぶら下げられており、昇れるようになっていた。
「……ふむん、準備がいいこと」
多分、彼方此方に抜け穴や移動経路が用意してあるんだろうな、とお姉さんは感心を隠さない。
先に昇った少女は、一旦立ち止まり、慎重に窓から屋内を伺っている。
一見、安全なように思えても、廃屋は壁に穴が開いたり、窓が破れて変異獣《ミュータント》やらゾンビやらが入り込んでいる事がある。廃墟での行動には常々、用心が怠れない。
少女が頷いて窓から入り込むと、お姉さんを手招きした。
「これなら、生きて帰れるかな?」と縄梯子に手を掛けながらお姉さんはそう安堵の吐息を漏らした。
廃屋から隣接した屋根の上へ、また窓から廃屋を抜けて、屋根から屋根へ。
キャットウォークのように渡り歩きながら、しかし、二人の足取りは遅々として進まなかった。何故なら、道案内を買って出たはずの少女が、折に触れては立ち止まっては幾度も鼻を鳴らし、それまで進んでいた道を後戻りすると思いきや、今度は岐路でじっと石のように動かなくなってしまうからだ。
廃墟の歩き方を知らないお姉さんから見ても、僅かな距離を進むだけにかほどの時間が掛かるとなると到底、町を出られるとは考えられなかった。
(……大丈夫なのかな)
お姉さんの胸中に、若干の不安と不信が湧いてきていた。なんなら、まだ少女を信じ切った訳ではない。何か目論見があるのでは、と、お姉さんの疑わしげな視線を感じ取ったのか。少女は振り返って何かを言いたげに手をパタパタさせたり、地平に浮かぶ太陽を睨んでは難しげに唸っていたのだが、遂に困った顔で告げてきた。
「……普段の通り道が使えない」
途方に暮れた様子で頭を搔いてる少女に、お姉さんは首を傾げて地面の道路を指さした。路傍の案内板の付近見取り図には、真下の道路が町の外まで続いてるとの情報がしっかりと描かれている。
お姉さんの疑問に、しかし、少女は苦い表情で首を振って告げる。
「そこの建物の角を曲がると巨大鼠《ジャイアントラット》がうろついてる」
「……巨大鼠《ジャイアントラット》」
少し考えてから、お姉さんは地面へと降りた。道中、そこらの瓦礫から引っ張り出した鉄パイプを携えている。
少女は一瞬、制止しようとも思ったが、お姉さんが自分で決めたことなら仕方ないと考え直し、苛立っている猫のように耳の後ろをまた掻いた。
実際のところ、廃墟には確実に安全な移動
結局は、相対的な基準でしかない。
他の道よりは多分、安全だと思う。多分、危険ではないか。と勘と経験で選んでいくしかない。ひどく曖昧な選択肢にも思えるが、怪物に脅かされながら暮らす廃墟では、誰にも安全は保障できない。怪物の出やすい場所でも抜け穴や頑丈な扉、垂らした縄など逃げ道を確保していれば、比較的に安全な場所となるし、逆に逃げ場のない一本道などは滅多に怪物が出なくても、可能な限りは足を踏み入れたくはない。
一言では説明しきれない知識と経験の蓄積《ノウハウ》と、勘と思考力の兼ね合いで進路を決めてきたが、特に騒がしい現状においては完全に読み切れたとの自信もない。
だから、或いは、お姉さんが選んだ直通ルートが正解で、其の儘あっさりと町の外へと出れるかも知れない。殊更、少女の忠告を軽視した訳ではない。何より、掛かっているのもお姉さん自身の命と人生だった。
「気を付けてね。9ミリ弾を3発撃ち込まれても怯まないで
それでも一応の忠告を送ったが、お姉さんは自信ありげに軽く頷き返して歩き出した。
「ズールの居留地では、巨大鼠《ジャイアントラット》のから揚げが売ってる。久しぶりに食べたくなった」
やや緊張した面持ちのお姉さんだが、それなりの成算は見込んでいる。巨大鼠はさほど危険な怪物ではない。体躯が大型化した分、動きからも機敏さが失われており、武装した大人なら牙にさえ留意すればさほど対処は難しくないのだ。
最悪、躱して逃げてしまっても構わない。
実際、巨大鼠は、各地の居留地で貴重なたんぱく源として重宝されている。群れでなければ、如何様にも対処できるだろう。
確かに3発も銃弾を喰らって、なお逆襲して人を嚙み殺すとは尋常な鼠ではあるまいが、とは言え、所詮は鼠。
9ミリと言っても、粗雑な拳銃から発射される安価な再生弾は、随分と威力が低下している。冶金技術が劣悪な為、小さな工房製の拳銃などは壊れないよう、大概は弱装弾を用いている。為に9ミリでありながら、下手をすれば22口径弾にも劣るような豆鉄砲も存在している。件の
無論、22口径とて人を殺せるが、野生動物を相手に急所を外せば仕留められずとも無理はない……それも本当に鼠がいれば、の話だけれど。
などと蘊蓄を頭に思い浮かべながら建物の角を曲がったお姉さんだが、通りには特に動くものは見当たらない。所々に見通しの悪い瓦礫が転がっているのは気になるが、取りあえずは脅威になりそうな怪物など影も形もない。
(留守にしてる?……それとも)
安堵の吐息を吐きかけたお姉さんの背後に重たい音がして、素早く振り返れば、そこには人の子供にほぼ匹敵する体躯の巨大鼠が蹲っていた。
「おう……ちょっと予想外の大きさ」
空から降ってきた。もとい、廃屋の2階から飛び降りてきた化け物みたいな巨大鼠は、無毛の肌に無数の抉れた傷口が刻まれており、顔面は半分潰れているにも係わらず、獰猛さを失っていなかった。
ちなみにお姉さんが見たことがある居留地の巨大鼠は精々、野良犬と同程度の大きさで、百戦錬磨の風格を纏った巨大鼠との遭遇は予想もしてなかった。
「勝てるかなぁ、これ」愚痴りながら、お姉さんは鉄パイプを構えた。
屋根の上に残った少女は、お姉さんの無事を祈った。
記憶に残る限りでは、巨大鼠《ジャイアントラット》を撃った9ミリは、かなり鋭い発射音だったから、純正のパラベラム弾かなにかだと思う。
ベレッタのパラベラム弾3発も耐えるような、あんな怪物相手に勝てるかなぁ、と思いを馳せつつも、お姉さんも只者ではないのでいけるのではないかと期待してもいる。独力で脱出できるようならそれに越したことはないのだ。
「まあ、成るようになる。成るようにしかならない」
呟きながら背嚢からロープを取り出し、朽ちたアンテナの土台へとしっかりと結び付けた。雑貨屋で見つけたロープだが、こうして移動する為の縄や梯子などを、少女は【住宅街】の彼方此方へと仕掛けてある。
「これで通り道が一つ増えた。万が一、お姉さんが逃げ帰ってきても、屋根に昇ることもできる、と」
噂をすれば影。少女が呟いた瞬間、街路を曲がったお姉さんが疾走して駆け込んでくるのが見えた。
お姉さんの背後からは、獰猛な巨大鼠。キイキイと怒り狂った鳴き声を上げながら追いかけてくる。巨大な齧歯が、まるでナイフのように鈍く輝いていた。
慌ててロープを垂らすと駆け寄ってきたお姉さん。死に物狂いでロープを昇り始めるが、やたらと滑った。
「あれ?このロープ?登攀用じゃない?」つい焦った声を漏らす少女。
大人の体重を支えるにも十分な太さから、つい登攀用と考えたが、もしかしたら別用途のロープかも知れない。加えて、コブもまだ結んでいない。
「このロープ、思い切り引っ張っても大丈夫?」
巨大鼠の牙を躱しながら、お姉さんが叫ぶように問いかけてきた。
「コンクリの出っ張りに結んである」少女が応えると、お姉さんは手にロープを巻き付け、振り子の要領で壁を走り始めた。
相変わらずの運動神経で壁を駆け上って来たので、肩口を掴んで引き上げるのを手伝う。
這い上ってきたお姉さんは、ゼイゼイと荒い息を吐きながら、
「……だ、駄目だった」死にそうな声で呟いた。
「べ、別のルートはないかな?」
案内人の少女は首を傾げながら、無言でお姉さんを見つめた。
やや冷たさが含まれ始めた少女の視線に、見捨てられる寸前の気配を勝手に感じ取ったお姉さんは悟った。
「……通り道以外はこんな感じ?」
案内人が無言で頷いた。
入ってきた西側は多分、悪党の放浪者《ワンダラー》たちが待ち伏せている。他の経路《ルート》は、怪物がうろついている。
「なるほど」嬉しいお知らせに、お姉さんが天を仰いだ。
「変異獣《ミュータント》たちが盛んに動き回っている。普段、見ない大型の
苦い表情を浮かべながら、少女が説明した。
お姉さんは、少し考え込んでから尋ねた。
「それはまずいの?」
「凄く。ええと、まず日没までに町を出るのも難しい。
まず、夜を越せるように安全な場所を探さないと」
事此処に至り、お姉さんは専門家の忠告に従う事にした。
「心当たりはあるかな?」
少女が口ごもった。
無論、心当たりがなければ、廃墟では生きてはいけない。
しかし、見知らぬ相手に隠れ家。或いは自宅を教えるのは、少女にとっても躊躇われた。
貴重な食料や綺麗な水、外の世界でも多少の価値がありそうな食器や本などが蓄えた自宅に、力では到底、敵いそうにない相手を案内するのは、あまりいい考えとは思えなかった。
お姉さんは荷を失ったばかりの行商人である。かなり善良寄りと思える人ではあるが、聖人と言う程に出来た性格とも思えない。魔が差すという事は、誰にでもあるのだ。
とは言え、中途半端な隠れ家に案内しても、無事に夜を越えられるかは分からなかった。変異獣《ミュータント》は、かなり活発に動き回っている。高く長い遠吠えの頻度や発している匂いの微かな変化、足音の数に異様に早いリズムで駆け回ってることから、かなり強く警戒態勢なのだと推測できた。
駆け回ってる変異獣《ミュータント》に刺激を受けたのか。野犬やらも遠吠えを繰り返している。大勢の人間が入り込んで発砲し、騒ぎ立てた余波が【住宅街】のかなりの範囲の野生動物にまで波及していた。
遠く曠野の彼方で赤く揺れる太陽が地平線に近づいている。廃屋の屋根の上に昇った少女が、風の匂いを嗅いでから眉をしかめた。
「良くない臭いがする……日が暮れるまで、もう時間がない」
変異獣《ミュータント》が興奮する中、あと二時間足らずで日没となる。
そうして日が落ちた以降、廃墟は日中と別の世界へと変わり果てる。
闇で活性化する類の
少女の知る限り、【住宅街】を訪れる手練の密猟者《ストーカー》や廃墟探索者《スカベンジャー》たちは、危険地帯に潜る際には必ずしと言ってもいい程、廃墟の中にデポを兼ねた避難用のシェルターを設置する。
古強者《ベテラン》たちは、日没前には出来るだけ町外れに構えた拠点《ベース》へと撤退し、間に合わない場合にのみ、板や家具のバリケードで補強したシェルターで夜を明かすのだ。
対して、生中《なまなか》な密猟者《ストーカー》やら廃墟漁り《スカベンジャー》たちは、隠ぺいが雑なシェルターを作ったり、甚だしきは街路でキャンプを張る者たちさえいる有様だった。
武器を揃え、見張りをおいても、しかし、夜の廃墟は基本的に、人が属すべき領域ではない。幸運に恵まれて生き残る連中もいることはいるが、愚か者の末路は大概悲惨なものだった。
音もなく歩み寄ってくるゾンビの群れや巨大蟻に何時の間にか、十重二十重に囲まれたり、
少女は値踏みする眼差しでお姉さんを眺めた。それからため息を深くついた。
(一人きりにしたら……下手すると、廃墟に飲み込まれちゃうよね)
下手をすると、だ。少女は十数人の
現状、かなり危険ではあるが、絶対的な死地ではない。
【住宅街】では、時に熟練の密猟者《ストーカー》や廃墟探索者《スカベンジャー》さえ命を落とす。が、どう見ても素人同然の徒党が、危険領域に足を踏み入れながら、普通に生還する事例も、かなりの頻度で起こりうるのだった。
もっとも、幸運とて何時までもは続かない。学ばなければ、そうした生還者も、何時かは運が尽きることになるのだが。
兎に角、お姉さんは、かなり運動神経が良く、なんなら一人でも抜けられそうなのが、判断の難しい処だった。半々以上で脱出できそうでもある。
常ならば、南区画に足を踏み入れなければ、早々に命を落とすような事はないが(あくまで用心深く振舞えばだが)、何十発もの発砲音と動き回っていた人間たちの気配で、変異獣《ミュータント》は気が立っているし、ゾンビにも妙な刺激が与えられて普段のセオリーが通用する状況ではなくなっていた。
(うーん、分からん。私が助けたことが、良い方向に転んでくれるといいんだけど)
一度、助けた以上、見捨てるのも気分的によろしくない。加えて、助けてよかったと思える相手なら、尚更だった。
「今から町の外に出るのは、ちょっと難しそう。なんで、よければ私の家に案内するけど……」
少女は結局、そう提案した。お姉さんが豹変して襲ってきたら、その時は自分に人を見る目がなかったという事だ。
お姉さんが頷くと、二人は進路を変更して町の中心に、少女の家へと向かって歩き出した。骨組みだけが辛うじて残った廃屋から庭先へ出、そして塀を乗り越え、屋根に昇って恐る恐ると歩きながら、お姉さんは時折、興味深そうに窓の内側をのぞき込んだりしていたが、街路に数十匹のゾンビが塊で蠢いているのを目にした時は、流石に顔色を蒼白にしていた。