自由都市ズールのベトン防壁が、重く圧し掛かるように聳えている。近くを歩くほどに重圧感を覚えてしまうのは、心に疚しいところがあるからか。
夕暮れ時にズール郊外を歩くのは自殺行為だが、厳重に守られた幾つかの外部地区に限ってのみ、陽が沈んでも人々は盛んに出入りしていた。ルガリエ地区がそうであるし、歓楽街フーバ地区もその一つだ。地区の酒場や売春宿には、見るからに胡乱な輩たちが出入りしている。
無宿人《ノークォーター》や無法者《アウトロー》が誰憚ることなく通りを闊歩している。薄絹を纏った娼婦が窓辺にしなだれかかりながら、千鳥足の商人や鉱夫たちに声を掛ける。暇を持て余した都市貴族の子女に女衒や薬の売人が絡み、薄暗い陰では、主人の噂を売りに来た召使いや商家の手代が盗賊の斥候たちとズールでお馴染みの密談を交わしている。廃墟の奥では乞食や浮浪者《ホーボー》が火を囲んでおり、変異鼠が猫を咥えて路地の彼方へと消えていった。酒場には賭博師に賞金稼ぎ、情報屋を兼ねた案内人などが出入りする他、小粒の密輸業者も屯している。
フーバ地区は、自由都市ズールの不夜城のひとつだ。もっとも松明やドラム缶の炎、ランタンに明滅する豆電球の滲んだ光が夜の闇と交錯しつつ、泡のように微かに浮かぶ儚い小地区に過ぎない。繁華街に踏み込んだマギーは、すん、と鼻を鳴らした。安酒と香水の甘い香りが通りにまで漂ってきている。獣の匂いに油、肉を焼く煙、汗と体臭、刺激的な薬の匂い。ジーナ・
影となった部分には、なにが潜んでいるかも分からない。時折は、怪物が地区へと忍び込む。変異獣や屍者に突然、襲われたら大抵の人間は、死を免れ得ない。意味があるかは分からないが、わだかまる夜の闇を警戒しつつ、曲がる細い路地を通り抜け、袋小路へと踏み込んだ。
屋台の上に品物が並んでいる。互いにメモに価格を書き、値段が折り合った幾つかを購入して袋へと入れた。それからまた別の店へと向かう前に、もう少し掘り出し物を探してみる。一度で会計を済まさず区切っているのは、近代以前の会計と同じく、品目が多いと計算が難しくなるためだ。自由都市ズールにおける関税も市場の使用料も、大半の品目はさほどではない。ただ、それでも中には節約したいと考えて地下トンネルを活用したり、壁の外で取引する者たちもいる。要するに灰色の免税品。一応は合法の範囲に留まっている安い品々がマギーの目当てだった。
歓楽街フーバのもう一つの顔が闇の市場だ。密輸市や盗品を扱う店が彼方此方の半地下や路地奥に佇み、密輸業者たちと取引できるとも囁かれていた。元傭兵で賞金稼ぎとしてマギーも多少、密輸業者のやり口は知っている。蛇の道は蛇。食い詰めた時期や、ルガリエで顧客に依頼された銃の部品を探す際など、幾らかは密輸品を調達したが、しかし、それ以上には踏み込むつもりはなかった。今のところは。
フーバには、密輸品が――言い方を変えれば、非合法の品がかなりの量、流通している。その一部は、官憲が手出しを面倒くさがる品――ありふれた雑貨や食材、日用品の類だった。今扱っている品と殆んど変わらず、幾らかは楽に稼げる。
金の為に小さな法を破るべきか、否か。胸中に迷いが生じている。手を出すとしても、酒や煙草、布、砂糖など、比重のごく一部だ。塩に手を出すつもりもない。
兵隊や役人の姿も見掛ける。闇の品と密輸品は紙一重。農民やら庶民が誰でもやる程度の税逃れの品を扱うだけに留め、本格的な密輸品には手を出さない。法の裏を搔くような取引を続けていれば、踏み越えるつもりがなくても、何時しか、法と犯罪の境界が徐々に曖昧になっていくものだ。
夜の闇を切り裂いて、幾度かの銃声が聞こえた。最初は、単発。それが終わらずに数発の銃声が連続して響き、やがて同時に数発、数十発の銃声が闇夜の彼方から鳴り響いた。どうやら、余程に強力な怪物か、さもなくば複数の変異獣なりに襲撃を受けているらしい。これほどの銃声、野生動物では無かろう。また市内で警報も鐘の音も鳴っていないので、屍者が内部に発生したのでもなさそうだ。
店から、店へ。街路を歩いている最中、何時しか東の空が白み始めていた。どうやら、夜が明けたようだ。マギーは、疲れた表情で細巻きを咥え、火を付けた。紫煙を燻らしてから、ジーナ・
仕入れた品は、お決まりの廃品の類に地元産ビールや手製煙草。釘や縄の他、板材など若干の資材。工業用接着剤にダクトテープ。他には電子部品やワインも目に入る。工具の類は、貴重であっても盗品の疑いがあるので手は出さない。利益は精々、八十都市通貨。百都市通貨――普通の労働者の一週間分の賃金にも及ばないが、行商に来るたびに闇市の品を仕入れれば、それなりの金額に届く。一晩を寝ずに歩き回るだけの価値があるか否かは難しい所だ。
瓦礫に腰掛けて、黎明の地平を眺める。曠野に生きる者たちの人生は、推測の積み重ねで出来ている。多分、大丈夫だ。多分、勝てる。多分、死なない。マギーも密輸業者ではない。いまはまだ灰色よりの白い領域に生きている。もう少し踏み込んでも大丈夫だ、多分。しかし、都市城門に首を飾られる密輸業者たちとて、灰色の領域から徐々に深みに踏み込んでいったに違いないのだ。
※※※※
ポレシャ市に帰還したマギーは、家に手を入れた。具体的に言うと、二つ目の玄関を備え付けた。廃市街――いや、より奥深い廃墟領域の物件から、
扉を持ち帰った
瞬間、空気が冷えた。ニナとジーナ・
「違う!待て!現物払いできないかって聞こうと思っただけだ!」
『イカレてやがる』と用心棒リジィが首を振りながら、乱暴な口調で音もなく罵った。唇の形だけで、仲間に向かっての発言に誰ともなく微かに肯いた。
女の子が繕うようにマギーに向かって喋り出した。「あんた、資材を扱ってるだろ?板材や釘の支払いは受けられないか?」
「条件次第かな」マギーも咎めずに頷いた。これが略奪者《レイダー》とか無法者《アウトロー》とかの、暴力を商売道具にしてる集団相手なら条件を付けるところだが、本当に躊躇いなく殺し合いに踏み込む若者集団相手だと、ビジネスに徹してさっさと打ち切りたい。傭兵団にしろ、略奪者《レイダー》などにしろ、暴力を道具とする武装集団なら損得勘定の土台は同じで、一定の交渉や戦力均衡が通用するが、未熟な武装集団は全くの予測不能で怖い。少女の時分にはある意味、同類だったマギーやジーナ・
「お前らは、ちょっと離れてろ。はーなーれーろー!話が拗れる!」少女の指示に不満げにしつつも、
「すみません」とリーダーの女の子がまず謝ってきた。危険物どもを背景にしての優位の謝罪ではなく、本当に恐縮し、消耗しているように見えた。少なくともマギーには。
「本当に馬鹿ども。町に慣れてなくて。これじゃ、長生きできない」ひどく若い
マギーは卸値でもなく、かといってそれほど利益が出るわけでもない値段をつけて、報酬相当の釘や板材を渡した。この連中にあまり深く関わりたくないが、かと言って、市内の相場で売るのでは、マギーから買う意味もない。他の客には安くしているのに差をつけすぎるのもよろしくなかった。しかし、あまり安くするとまた来られてしまう。悩ましかった。
燧石銃《フリントロック》の弱点が出た。燧石銃《フリントロック》は悪い武器ではない。距離と遮蔽を取って撃ち合えば、ネイルガンやクロスボウ、エアライフルにも力負けはしないし、人数いれば装填速度も補える。なにより二十発、三十発の弾薬をすぐに買える。だが、即応にはどうしたって弱い。黒色火薬には若干の腐食性がある為、普段からの装填は避けがちであるし、装弾状態の火薬はいささか湿気やすい。装填してないマスケットは、ただの棒切れだ。
あそこで手斧や小剣を引き抜いて、マギーやリジィは手練だ。実際には、コートは防弾、防刃仕様だし、リジィの胸甲も弱い銃弾は弾ける。動き回って戦えば、マギー一人で相手の二、三人は打ち倒せる自信はあった。
(もう少し即応出来る火器が必要か、やはり)マギーは思いつつも、一人分の拳銃や弾薬を得ても意味が薄い。部下たちに任せて人数分の拳銃と弾薬を集めるか?時間的コストを掛けてもいいが、己の目で確かめておきたい。いや、破滅的事態が起きないことを願いながら、比較的にまともな拳銃を得られるよう、土台を固めるべきか。
そこまで考えてから、ふとおかしくなって、マギーは笑い声を上げた。部下たちがギョッとした顔で見てくる。「いや、いい武器だよ。燧石銃《フリントロック》」くつくつと笑いながら、マスケットを手に取って撫でる。
「この間までは火縄銃で、やっと全員分揃えたのにもう不満を抱いてる」仲間たちを見ながらほほ笑むと、頷き返してくる。
偉くなったものだ。拳銃を揃えるか、なんて考えたけど飛び過ぎた。必要性は認めるが、今すぐ飛びつくような話でもない。物事を焦るべき状況でもない。今の収支《キャッシュフロー》でも多少の即効性があり、常備出来るアプローチも一つか、二つ思いついている。例えば、比較的に依存性が低い戦闘用鎮痛剤なども、幾らかの金があれば伝手を作れる。徒党分なら普通に仕入れられる。とは言え、戦闘用鎮痛剤は、麻薬の類には違いないので、管理は慎重にしなければなるまい。身内から中毒者は出したくない。
新しい扉は、裏手に備え付ける。扉の片面に屍者や変異獣が押し寄せても、反対側から脱出できる。もっとも、都合よく少数が襲ってきた場合に限れば、ではあるが。反対側の扉には、少数しか回り込んでないなら、運が良ければ脱出できる程度の備えでしかない。古い扉の方も、そのうち分厚い木製扉へと付け替える予定だが、怪物が襲来している状況では、どの程度の意味があるのか。マギーにも分からない。だけど、それは、曠野に生きる人々の誰もが同じなのだろう。
窓には分厚い木戸を取り付けて、寒さの厳しい冬には藁や煉瓦で塞いでしまう。もうすぐ秋が訪れる。冬が近づくにつれて街道の怪物や野生動物の動きは活発化する。正確に言えば、警備隊が動きを鈍らせるため、間引きの頻度が減るのだ。ともあれ、マギーとニナ、ジーナ・E《エクルストン》、隻眼のリリー、用心棒リジィ、徒弟トリスに猫耳ココ。七人がゆったり寝転べる小屋ができあがった。寝返りを打つくらいの余裕もある。そして今年は、これで十分だ。大きくするとしても、来年以降の話になる。
古来より、家屋とは人生のゆとりや財産、成功を目に見える形で示す象徴の際たるものだ。人の心には嫉妬がある。マギーはそれを恐れている。黄昏の時代に、突然大きな家を建てるのは危険だ。たとえ表面化しなくても、負の感情は積み重なっていく。潜在的な敵が生まれるのは避けられなくても、小さな嫉妬の方がまだましに違いない
少しだけ大きくなった家の中を徒弟トリスと猫耳ココが駆け回っていた。
「わぁおお!」「うにゃあああ!ふにゃあああ!なーご!」引っ越したばかりの飼い猫が、新しい縄張りを確認してるかのように四方八方を見て回りながら、両手を上げて雄たけびを上げたり、窓や扉から出たり入ったり、屋根に昇って、はしゃいでいる。
マギーはそれを許した。泥の小屋とは違う。板材を用いた壁と屋根の頑丈さは、乱暴な扱いに耐えられる。壊れたら直せばいい。避難経路から逃げ出す予行演習にもなっている。遊びに見えて、生き残るための動作になっているのは、悲しい習性かも知れない。腕組みしながら二人を眺め、後方お姉さん面で苦笑を浮かべているニナも、ほんの一、二年前に家が大きくなり始めた頃には「うひぃいい!」と叫んでいたことをマギーは覚えていた。越冬さえも出来そうな大きな家で、籠れば怪物とも戦える拠点だ。七人が眠れるし、食べ物や薪の備蓄もある。今は野ざらしの木箱や棚で外に置いてあるが、来年は家をもう少し大きくし、屋内に物資や調理鍋を備蓄できるようにしたいものだ。
「マギーは、商いの天才ですね」ジーナ・
「お前は、また褒めすぎる」とマギーが軽く窘めるも「一介の風来坊から、大きな家を建てられる奴がどれだけいます?」と言ってきた。
本気で言ってるから嬉しくもあり、厄介でもある。
「乞食同然から豪商になったような奴だって、いるだろう」マギーの言葉に「そりゃ郷土史に載るような人物に比べたら……ですけど。天才でしょう」自説は曲げない。
「安い天才だなぁ」マギーもくつくつと笑った。
「マギーが多少、馬鹿なことしても付いていくつもりでしたけど、なにもかも上手いっちゃうから嬉しくて頭おかしくなりそうです」ジーナ・
視線を合わせると、目だけで微笑んでいる。ジーナ・
マギーは密輸業者になるつもりはないが、関税逃れの密輸品を扱うくらいであれば、摘発は避けられるし、幾らを稼げるかの目算も付いていた。
今のところ、やる気はない。端から関税を避けた合法の品を門外で扱っている程度だが、結構、馬鹿にならない稼ぎになるのだ。少しだけ誘惑を感じてしまい「参ったなぁ」と低く呟いた。
遠く夏の雲が流れていく。夏は瞬く間に過ぎ去り、もうじき秋が訪れようとしていた。曠野の秋は、氷点下にまで下がる。そろそろ薪が必要になるだろう。冬支度を始めなければならない。
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八月下旬_22914都市通貨
稼ぎ口+
・闇市の品を扱うようになった!