十月下旬に入った頃に、マギーの所持金は、二万五千を越えた。
この間の支払いの三千は別としてである。数年の間、中々に一万、二万の壁を越えられずに足踏みしていた。それが二万を越えた途端、伸び始めて二万五千に到達した。来年には、三万。或いは四万に手が届きそうだ。もっとも、ポレシャ市と自由都市ズールには、収入を把握されていそうなので、徴税吏への警戒も必要だろう。
マギーの収益の大半が、その二つの町から上げたものだからだ。
必要な工具や武装を揃え、伝手と流通を作り、技能を習った。必要な経費はおおよそ払い終わったと見ていい。勿論、家や武装にも限りはない。投資だってしておくべきだろう。卵を一つの篭に詰めるべきではないが、この時代に安全な投資先も少ない。
(……三千あれば、ランツクネヒトを護衛で一人雇えるな)
細い葉巻の紫煙をくゆらせながら、マギーは考え込んだ。四千か、五千出せば、腕利きの護衛を増やせる計算だ。だけど、それは重みだ。年俸は重たい。十数人を雇用している商会は大したものだ。特に、仕事や生産力、資源も少ない中世や近世に近い社会での生業の重さは、高度資本主義社会での雇用とは比較にならない。
室内は暖かい。生欠伸を噛み殺した。暖炉では盛んに炎が燃え盛っている。
市民街区の友人、スタンフィールド氏の邸宅の応接間だ。マギーは、ニナと護衛にリジィを連れてきている。保安官のキャシディ・エヴァンスもいた。応接間で何時もの面々とTRPGをしている。毎回、女騎士をやってるのだが、ダイスだと運に恵まれない。現実での強運の揺り返しだろうかと、マギーは訝しんでいる。
冬が近づくにつれて、市民と裕福な正規居住者以外のオタク仲間の顔ぶれは、段々と減ってきている。きっと間違いなく、他の遊びのグループも同じだろう。冬支度と冬ごもりに忙しく駆け回っているか。部屋に閉じこもって、そちらはそちらで近くの仲間と楽しんでいるのだろう。
マギーは、氷点下でも歩き回れる防寒服と良い服を持っている。十月中。もしかしたら、十一月でも、市内なら動き回れる。まだ、自由都市ズールとの行商で往来しているが、丘陵を越える際には、段々と用心が必要になってきた。飢えた野犬やコヨーテ、狼や巨大蟻と遭遇するかも知れない。最近、外を出歩く時は、三人組に燧石銃《フリントロック》で武装しているが、それでも足りないとマギーは思っている。勿論、極めて用心しているが、危険はいつ、誰に降りかかるかも分からない。
※※※※
スタンフィールド氏の邸宅は、趣味がいい。古い煉瓦の暖炉の上には、陶器や銀の花瓶が飾られ、横合いには、クリムトの『接吻』の模写が飾られている。
マギーは、モネやミレーなどの素朴な絵の方が普通に好みだが、最近入手したゴッホの『大工の仕事場と洗濯場』の模写は、手放そうか、本当に悩んだ。ろくに飾れる場所がないので泣く泣く良さそうな農場主に売ったが、今でも未練がましくうじうじと後悔している。邸宅自体なら5万か、8万出せば買えるだろうが、館に醸し出されている時間の重みは得難いものだ。
(……こういう家は作れないな。欲しい訳ではないが。いや、欲しくはあるが、それほど優先順位は高くない。ただ、子孫に引き継げるなら、こういう家はいい)と感心している。ただ、マギーが成功して豪邸を買えても、飾られるのは素焼きの壺やミレーの絵。それに侍風の兜や刀に、騎士の鎧、ライフルの類だろう。壁際には、測量済みの地図や、怪物の頭蓋骨が飾られ、大成功したら、レールガンやレーザーライフルが並ぶかもしれない。想像の中ですら、おのれの文化的素養の欠落にガッカリしつつも、マギーは眼前の人物を眺めた。
市民スタンフィールド氏は、両替商を営んでおり、マギーは稼いだ金のかなりの部分を預けている。ポレシャ市ほどの大きな町でも、庶民向けの銀行は存在していない。多くの銀行が庶民を相手取るようになったのは、18世紀末の北米が端緒だろうか。それ以前の時代、一部の例外を除けば、銀行は商人の預け入れや有力者の預託、為替などを主たるビジネスとして庶民や小口の商いは営んでいなかった。マンパワーと手間暇《コスト》の利益率の問題だ。貧富の差が縮小し、庶民層に金銭が廻って稼げる時代になるまで、銀行にとって小口の口座を維持、管理する意味合いが薄かったのだ。
景気が良いポレシャでは、いずれ庶民向けの両替商や貯蓄銀行が増えるかも知れない。もっとも富の格差の縮小が、必ずしもいい結果をもたらすとも限らない。強力な外国資本が存在している場合、国内格差の縮小の美名の下、分配を的確に行う地方資産家層が庶民に転落し、外資だけが富を吸い上げる仕組みを作ることもある。ポレシャ市も、自由都市に対して経済を防衛しつつ、より脆弱な町に対しては権益を争っている。弱肉強食の掟は、銃や剣を用いた領域だけに限らないのだ。
安心して金を預けられる先や相手がいるかどうかは、庶民が身代を大きくするに際して、かなり大事な違いであった。両替商キャロル・スタンフィールドがどれほどの金銭を所有しているかは、マギーも知らない。ただ、今回、人手を雇うのに三千の金をポンと出してきた。スタンフィールドという男は、信用するに足る男だ。一万かそれくらいの金を預けるならば。
マギーと対面に腰かけたそのスタンフィールド氏は、チェス盤を眺めながら、うんうんと唸っていた。「今回、僕も金を出したんだけど……都市で雇った人員はいつ頃、到着するのかな?手紙に拠ると、予定より少し遅れているんだよね」
「動員に少し手間取りましたが、そろそろ先発隊が到着しますよ」チェス板を睨みながら、考え込んでいたマギーも中断してから、用心棒リジィに視線を向けた。
「三日後だ」と一緒に手配したリジィが言ったので、「だそうです」と再びチェス盤を睨みつけ、ポーンを一つ、動かした。
とリジィが「ああ、なにやってるんだ?そこのナイトを動かせばチェックだろ」余計な口を叩いた。
「余計な事を言わないでください。考えながら、打っているんですから!」マギーが怒ると、リジィは首を振って「ひどいへぼ将棋だ。意味のない手も動く、こんな下手な打ち手は見たことがない」とか言いながら離れていった。
「一人頭で三百と冬越えの拠点に薪と食料。報酬だけ受け取って、踏み倒されないかな?」とスタンフィールド氏。
「契約の仲介にマーカス・ダウエルを挟みました。ご存じの通り、ズールにおける賞金稼ぎ組合の重鎮です。手数料は10%。ただし、成功報酬ですが」
「まったく、金ばかり掛かるね」言ったスタンフィールド氏が、倒れたおのれのポーンを眺めながら「ポーンを雇いなおしていい?」と聞いてきた。
「お金払うなら」マギーが言うと、卓上に置いた銀貨を一枚、場の中央に動かしてポーンを復活させた。
「こちらのポーンを、ふむ」マギーが、またポーンを動かした。
「相手のキングが見えないんだけど……どれか分からんのだけど、どうするかな」スタンフィールド氏が悩ましげに告げると、マギーは相手の駒に手を伸ばして、勝手に動かした。
「例えば、ルークをこう切り込む、と。呼応して、王を守ろうと陣形が崩れる」言いながら呟いて、おのれの駒を動かす。
「……王が見えなくても、陣形の崩れが居場所を教えてくれる、か」スタンフィールド氏は唸った。
やがて、これ以上、動かしようなくなったチェス盤を眺めながら、二人はしばらくゲームの余韻に身を委ねて、静かに沈黙していた。
「今回、掛けた金だけど、何も起こらないかも知れないんだよね」スタンフィールド氏が呟いた。
「その場合、全部、無駄金に終わりますね」マギーの言に「そうなればいい。一番いいのは、全部、ムダ金に終わる事だよ」スタンフィールド氏は穏やかに呟いた。
スタンフィールド氏が立ち上がり、冷蔵庫から林檎のジュースをコップに注いだ。マギーにも勧めてきたので、氷と共にありがたくいただいた。
「わたしとしては、早めに決着を付けたいところです」と告げながら、マギーは額を揉んだ。頭の奥に鈍い疼痛を覚えていた。多分、市内に情報の穴がある。ずっと以前から、見えない穴が。盗賊ギルドか、その他の結社かは分からない。
案外、市民層に犯罪王モリアーティー氏が紛れているかも知れない。他国の工作員の可能性もある。今回、相手も人を集めれば、それを基点として動線が見えてくるだろうか。いや、幾つかの犯罪は、それぞれが頭の切れる別の犯罪者や盗賊団の仕業と言う可能性もある。見えない敵を相手に、想定に想定を重ねて、積み上げ続けている。読みが外れる可能性もある。何時も胃が痛くなる。
まったく何故、流れ者がこんなにも仕事を任せられるのだろうか。
※※※※
十月も終わりに差し掛かっていた。マギーちゃんは行商人として働きつつ、保安官補としても地区を動き回っていた。標的は、阿片の密売である。温暖な南方で生産されたものが、旅人や隊商によって持ち込まれて市内に流通していると保安官事務所は見ていた。流行っているとまではいかないが、販売者は見逃すわけにはいかない。とは言え、阿片は市内の薬局でも売ってるし、下層地区の保安官補では市民層には手が届かない。だからと言って、筋は曲げない。
害として、覚醒剤はさらに大きい。こちらはマクロード副保安官が執念深く追っているようだが、中々に手がかりが掴めないでいる。富裕層や軍人が汚染される前に捕まえたいが、中々に尻尾を出さないそうで、しかし、マギーも詳しい話は聞かされていない。抗争中の牧者衆や危険な森に踏み込む木こり党。武装鉱夫団、
常に使えるものではありがたみが無くなる。だから、時々、無料チケットを廻している。他に楽しみがあれば、人は薬物には溺れにくくなる。抑止の決め手にはならないが、覚せい剤の快楽と欲求を相対化させてしまう訳だ。選挙で選ばれた一部参事は、遊技施設を改装して、料金を上げようと主張している。そうすれば、さらに稼げるそうだ。今のところ、名家の参事たちがその意見を抑え込んでいたが。
保安官補という役職には、偶に嫌な役目も回ってくる。人を疑うのが、法執行官の仕事とも言える。片足のジゼルは、若い娘で、マギーがポレシャ市に来た頃からの知り合いだった。立ち話をしたり、時には日雇い仕事の後に茶飲み話を楽しんだ日もある。マギーが日雇いから離れた今は、顔を合わせることも滅多になくなったが、道ですれ違った時には挨拶くらいは交わしている。
義足のジゼルは、あまり働いている印象はなかった。にも拘わらず、三年ほど少しだけ羽振りが良かった。羽振りと言っても、偶に外食したり、良い酒を一杯ほど嗜む程度で派手に浪費する訳でもないが、微かな違和感はずっと覚えていた。恋人や家族から援助を受けているのか、あるいは体を売っているかとも疑ったが、そうした素振りもなかった。友人を疑うのは胸が痛むことだが、よほど親しい相手でなければ、マギーは私情を切り離せる。
冬が近づき、ジゼルがそこそこの簡易宿泊所に予約を入れた。十一月から二月まで冬の四か月間だ。マギーは、ローランズ副保安官――帳簿を見るのと物資の仕入れに長けた人物で、市内の料金や相場にも詳しく、他人の生活ぶりから矛盾点を見つけることを得意としていた――にジゼルについて報告し、明らかに見た目以上の収入があると概算した上司から一応の捜索令状を受け取った。勿論、後で報告するとの約束済みである。
ジゼルが足早に冬の街路を進んでいた。十月の終わりとなるとポレシャ一帯は、ほぼ冬の入り口に差し掛かる。路傍や路地の天幕でも、簡素な代物は殆んど姿を消し、毛布や木板、段ボールにビニールやニスを塗った大きな代物だけが人の気配を漂わせている。泥と粘土の家も小さな家は、無人の侘しさを漂わせていた。街路でも廃屋の屋根の下、炎を焚いて鍋や水を温めているものもいれば、火を囲んで暖を取っている者たちも見掛けるが、いずれも厚着に衣替えしている。ジゼルは、さほどいい服は着ていない。金回りの良さを誤魔化す偽装なのか。厚着が移動を妨げるのか。それとも真実、金に余裕がないのかは、マギーにはまだ判断は付かない。
マギーとその一党は、それとなく街路の物陰で伏せていた。
すでに地区の高所と監視、事前の尾行によって随分と以前からジゼルの行動範囲を観察している。地図と突き合わせれば、確実に基点を絞り込めた。地区の外れに近い街路で、客らしい男と待ち合わせている。ジゼルはやや離れた木箱の物陰から慎重に男を観察していた。それから小さな建物の半地下窓へと身を屈めて降りていき、しばらくして小さな包みを抱えて出てくる。
ひょこひょことびっこを引きながら、それでも意外と早い動きで通りに出る。人通りのある場所の物陰で金を受け取り、品を受け渡した――ように見えた。
(決まりかな?)マギーは頷いて、支給されているリボルバー拳銃に手を掛けた。
「……ジゼル」声を掛けるとジゼルは跳ね上がった。強張った表情でマギーを見ると、「ああ、畜生」諦めたように天を仰いだ。ニナとジーナ・
マギーは瓶を開けて中身の匂いを嗅ぎ、一口だけ口中に含んでから地面に吐き出した。
「密造酒《ムーンシャイン》か」吐き捨てたマギーの口調は苦い。ジゼルの顧客には、阿片を使ってると思しき者が複数いたのだが、確かに誰も彼もが酔っ払いも兼ねていた。両方、買ってる客が数人かいれば、売人を読み間違える事もある。諦めたように俯いてるジゼルを連れて、半地下の建物に、まず小柄なニナが窓から潜り込んだ。
ニナが戻ってくると「マギー。密造酒だよ」ブリキの薬缶とエールの大瓶が転がっていると報告してきた。ジゼルは安物のエールを更に蒸留し、税金を払わずに売っていただけだ。
「……あたしはどうなる」とジゼルが掠れた声で尋ねてきた。
「判事のところに……反省文と禁固、罰金で済むだろう。しかし、醸造装置は没収だな」マギーが言うと「……畜生」再び呻いたジゼルがすすり泣いた。ジゼルの体と収入では、醸造の機械を作るのに相当、苦労した筈だ。
市内で酒を作っていたのは法律違反ではあるが、生きる為の仕事を自業自得と断じるような面の皮の厚さは、マギーにはなかった。ジゼルの足では、郊外を拠点にするのも難しい。
「……同じものを作ってやるよ」マギーが頭を掻きながら告げると「……本当?」ジゼルが顔を上げた。涙は嘘ではないが、曠野の住人の立ち直りは早い。めそめそだけしていたら、生き残れない。
「出来るまでは、面倒も見てやるよ」マギーは面倒くさそうに告げてから「ただ、商業許可証も取れ。また、見つけたら厄介だからな」そう付け加えた。
ニナと共に保安官事務所に赴いて「密造酒でした」と報告するのは気が重かった。
ローランズ副保安官は「そんな事だろうと思ってたよ」と頷き、「いや、君を馬鹿にした訳じゃない。ただ、売人どもは中々に尻尾を見せないからね」と言い訳した。
「ジゼルの面倒は、しばらくこっちで見ますよ」と告げると、ローランズ副保安官は頷いた。結局、マギーは、冬も近いのに余計な人員を抱え込む事になったが、仕方ない。保安官事務所を出ると、既に夕暮れも近くなっていた。辺りが闇に落ちる前に自宅に戻ろうと街路を急ぎ足で進む最中、ニナがどうするのか尋ねてくる。
「ただ飯を食わせる訳じゃないよ」とマギーは言うも、「でも、ジゼル。なにが出来るんだろうね」ニナは呟いた。
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