いなくなった筈の姉の声で、起床を促された。
「ニナ……起きて」
頬に柔らかな唇の感触を覚えると同時で、少女の耳元に声が優しく囁いた。夢かも知れない。幻聴でも構わない。ただ姉が起こしてくれたと信じようと思った。
あの世に見守るなんて都合のいい幻想で脳の錯覚だとしても、今は起きるべきだ、とうつらうつらとしていた意識を急速に覚醒させていく。
知覚できない領域にあるのか、錯覚なのかは分からない。ただ、人の魂が不滅であればいいのにと少女は思う。
いまだに人が見通せない昏い夜の帳に包まれながら、空気の匂いが変わっているのには、目を覚ましてすぐに気づいた。湿気の少ない柔らかな朝の匂いは、暗い夜の空気と明確に味が違う。鼻をスンスンと鳴らして、少女は念入りに確認してみる。獣の匂いは殆んど混じっていない。
近くに脅威は感じ取れない。存在しないとまでは断言できないのが残念だが、そこそこには頼れる少女の嗅覚だった。
視覚ほどに鮮明ではないけれど一方、鋭敏に嗅覚を研ぎ澄ますことで、時間に制約されずにかなりの痕跡を辿ることが出来た。
嗅覚は、時に視覚以上の情報を与えてくれる。
ゾンビが通過した後の空間だけ見ても何も分からないが、嗅覚であれば十分ほど前に5体から8体が通ったなど感じ取れる時もある。ただし、屋外で風が強かったり、対象が風下にいるとすぐ近くにいても気づかない例もあるので、あまり頼りに出来るわけでもない。
意識は目覚めて来たけど、体はまだ動かさない。周囲の空気はいまだ冷たく、体を急に動かすよりも、もぞもぞさせることで少しずつ暖まっていくのを楽しんでみる。
「んふー」
冷え切った体を動かせば、関節や筋肉を傷めるかも知れない。全身に血が通うようにお姉さんの体温を楽しみながら手足を動いしてると、お姉さんが勘違いしたのか。抱き寄せてから頭を撫でてくれた。
「空気の匂いが変わってきた。もうすぐ夜が明けるよ」
「……うん」少女の囁きに、眠たげな声で返答してくる。
「あのね。十分に日が昇ってから動いた方がいいと思う。
急に動かすと体に毒だし、どのみち今日は危ないもの」
大型の変異獣《ミュータント》は、日没後に行動していることが多いのだ。
油断してると昼に遭遇しかねないのが嫌らしい処ではあるのだが。
「ふんふん」先を促して来る。どこか寝ぼけたような声だった。薄いカバーに包まり、寒さに耐えながらうつらうつらと舟をこいでいたお姉さんだから、いまだ意識が半分ほど眠っているのかも知れない。
心地よいので、少女も沈黙して今は抱きしめられておく事にした。お姉さんも、そのうち、しっかりと目も覚めるだろう。何より少女自身が頭の芯に重たく伸し掛かる疲労を覚えている。例え、浅い居眠りでも、休める時に少しでも休んでおけば、この後に動きやすくなると言うものだ。
あと一時間もしないうちに、東の空に浮かぶ雲が茜色に染まり始める。夜の終わりが見えてきた。絡みつく寒さにも闇の帳にも、もう怯えは抱かなかった。
どうやら家には、生きて帰れそうだと思った。そこから先は分からないにしても。
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放浪者《ワンダラー》の生活というものは、ひどく辛いものだ。
集落を失ってからのガルフも、ほとんど心休まった覚えがない。大きな居留地では、警備兵や保安官たちに人間の屑扱いを受ける。かといって、数軒の家屋が寄り集まったような小さな集落や部落などでは、ひどく警戒されて近づくだけで撃たれる事もあった。
身を休めるのに小さな廃屋を転々としても、人が住みつかない場所には大抵、理由があった。略奪者《レイダー》や怪物の縄張りに近い。水の便利が悪いなど。
曠野で放浪をしながら時折、奇特な農民や旅人と物資を交換するのが関の山だった。
交易商や隊商《キャラバン》が集まるような大きな町の市でも、足元を見られ、商品を売ってもらえない事もある。結局、取引できるのは同じような放浪者《ワンダラー》たちが集まる貧民窟の闇市や、奴隷商人などが取り仕切る
胡散臭い密輸業者や盗賊《シーフ》、略奪者《レイダー》に野盗《バンディット》、海賊、奴隷商人、乞食に傭兵などありとあらゆる人間の屑が集まるような悪徳の掃きだめで、元は農民だったガルフは幾度となく騙され、或いは踏みにじられたが幸い、命だけは奪われることがなかった。
世界中から悪党の集まるそんな場所には、色々な噂が集まってくるものだ。
(……大胆不敵なオーか)
そう、文字通りの豪胆な行動で知られた、ちょっとは知られた曠野の英雄の一人だった。
返り討ちで仲間を殺された野盗《バンディット》が、酒を飲みながらあしざまにオーを罵っていた。農村を襲撃しての人狩りを邪魔された奴隷商人が賞金を懸けていたのも知っていたが、ガルフはオー爺さんの首を無法都市へと持ち込む気にはなれなかった。
奴隷商の撃退を聞いた時に、快哉を叫んだ身としては、そこまで恥知らずにはなれない。
(てめえの餓鬼共には、大胆不敵なオーのようになれなんて言っておきながら、身勝手な野郎だ。俺も)
鬱屈した思いを抱きながら、ガルフたちは焚火を眺めていた。
曠野に直接、毛織物を敷いただけの寝床だが、放浪の旅では、それも贅沢な寝床だった。毛長牛の毛織物は、地面の熱をよく遮断してくれる。
周囲の放浪者たちには、地面に直接寝転んでいるものも多かった。こんな時代には、毛布さえも財貨としての価値を持っている。大量生産時代からは、考えられない価値の変遷だろう。ガルフは自分の仲間たち全員に毛布を持たせていたが、他の徒党では、特に老いた者や若衆などが粗略な扱いをされているようで、羽織るものさえ持たずに火に当たっている姿も見掛けられた。
徒党で死んだ者たちの荷は、毛布も含めて仲間が回収していた。財産を荷にまとめて旅するのが放浪者《ワンダラー》の習慣だった。
唇を青くして震えている者もいたが、死んだ仲間の毛布を貸そうとは考えない。毛布も、遺された家族に届けるべき大事な財産だ。なんだかんだごねて返そうとはしないような連中に貸すつもりはなかった。
放浪者《ワンダラー》の大半は、人間の屑でしかない。自身も含めて、ガルフはそれをよく知っている。少しでも信頼できる者など、滅多に会えるものではなかった。
火を眺めているガルフたちの元へと足早に駆け寄ってきたのは、見知った顔の放浪者《ワンダラー》ディンだった。
「ガルフ。少しまずい雰囲気だ。朝飯で揉めている」苦い表情でそう告げる。
寝床から身を起こしたガルフは、面倒くさそうにディンに手を振った。
「飯くらい好きに喰わせてやれ」
夜明け前とは言え、周囲はいまだ薄闇に包まれていた。とは言え、放浪者《ワンダラー》たちも廃墟の傍で寝入るほどには神経は太くないようで一晩中、辺りからざわめきが伝わってきている。
ガルフの素っ気ない態度を受けたディンだが、顰め面しつつも言葉を続けた。
「何頭か捕まえた駄獣がいただろ。毛長牛だ。連中、捌こうとしてるぜ」
「……なんだと」
ガルフの顔色が変わった。
「何人かがケチをつけてな。分け前を寄越せとよ。全員じゃないが。
一頭は、もう喰われちまったかもしれねえ。残りも肉にして取り分けようと」
舌打ちしたガルフは、傍らにいたジョゴへ目配せした。
一方のディンは、不機嫌そうな表情で言葉を続けていた。
「少しまずいかも知れねえ。連中、すぐ分け前を寄越さないのにも不満垂れてたしよ。肉を食い尽くしたら、その後はこっちに来て……」
ガルフは、集めた放浪者《ワンダラー》を完全に掌握している訳ではない。止めるにしても、元からのガルフの手下は十人足らず。
仮に古い顔見知りの何人かがあてに出来ても、残りの方が人数が多かった。
「手助けは出来ねえ。悪く思わねえでくれよ。俺たちは……」
「分かった。なんとかするさ。知らせてくれただけでありがたい」
ディンの肩を軽く叩いて労うと、ガルフは足早に歩きだした。
背後では、ジョゴが寝入っていた仲間を起こして嘯いていた。
「起きろ。もしかしたら、嫌な夜になるかも知れないぜ」
燃え盛る炎を取り囲んで、放浪者《ワンダラー》たちがガツガツと焼けた肉を貪っていた。火の中央では、鉄の網に掛けられた分厚い肉の切り身が脂を垂らして焼けていた。
「美味え」
噛みしめた口元から垂れた脂さえ惜しく、放浪者《ワンダラー》が指で拭って舐めとった。積み荷だった塩と大蒜《ガーリック》をたっぷりと使って、贅沢に味付けされている。塩にも事欠く放浪者生活で普段、口に入るのは筋張った野犬や鼠の肉くらいのものだ。
「世の中には、こんな美味いものがあるんだなぁ」
てらてらと脂で濡れた口元を袖で拭うと、残っている駄獣《けながうし》たちを物欲しげに眺めていた。
(……確かに良くねえ雲行きだな、これは)
毛長牛、それも駄獣をこなせるような頑強な成体は一財産の価値がある。売るにしても、自分らで使役するにしても、貴重な戦利品を食肉なんぞに潰すつもりはガルフには毛頭なかった。が、寄せ集めた放浪者《ワンダラー》なんてものは到底、言って聞くような連中でもない。
さて、どうしたものか。と顎を撫でながら歩み寄ったガルフだが、なるようにしかならない。
(ええい、ままよ)
大股で放浪者《ワンダラー》たちに歩み寄りながら、ガルフは出来るかぎり陽気な声で語りかけた。
「よう。飯はどうだ」
円陣に割り込みながら、人懐こい笑みを浮かべて隣に座った。
「牛一頭じゃ足りねえ。残りも平らげられそうだぜ」
ねめつけるような視線を送ってくる放浪者《ワンダラー》の言葉を気にした様子も見せずに、ガルフは闊達に笑った。
「よく味わえよ。一匹1200クレジットの肉だ」
通商ギルド発行のクレジットには、多少なりの信用があった。少なくとも、そこら辺の町や村が発行してる独立貨幣のように、いきなり無価値な紙屑に変わる恐れは小さい。
「1200?嘘だろ」思わず小さく叫んだ若い放浪者《ワンダラー》に、ガルフは注釈を垂れる。
「牛は荷を運べるし、乳も出す。糞は燃料になる。無駄になる処のない生き物だ。人間さまよりよっぽど上等な値が付くというわけさ」
「俺の妹が売られたときは300だったぜ」と若い放浪者《ワンダラー》。
「俺もさ。奴隷に売られた弟に喰わせてやりたかったなぁ」
居もしない弟を思ってしみじみ頷いたガルフが、顔を上げて一同を見回した。
「で、此処にいる奴に一つ聞きてえが、毛長牛を潰すか?
無法都市《ジグラット》にもっていっても、1000にはなるだろうぜ。そこらの闇市じゃ精々600と言ったところだろうが。肉にしてもいいが、その分、取り分は減るなあ」
相手の要求を否定せず、しかし、条件を付けることでガルフは放浪者《ワンダラー》たちと対話して、交渉する余地を作り出した。
「肉と金のどっちがいいんだ?」ガルフが一同に問いかけた。
「両方さ」冷ややかな声で返したのは、まだ若い、怜悧な目つきの放浪者《ワンダラー》のジョエルだった。
「そいつは通らねえな。ジョエル。そいつは通らねえ」
ガルフは獰猛な笑みを浮かべながら、若い放浪者《ワンダラー》へと向き直った。
「通らねえのは、おめえの言い分だよ。ガルフ」
ハンサムな容貌にこちらも穏やかな笑みをたたえて、ジョエルは言葉を続けた。
「牛は全部てめえらの取り分。ちっと不公平じゃねえかと皆、考えたのよ。
俺たちにも分け前を回すべきじゃねえか?それが公平っていうもんよ」
「よく口が回るぜ。ジョエル」ガルフはせせら笑った。
ジョエルは数人の手下を持つ若い放浪者《ワンダラー》だが、部下は少数。襲撃の時もろくに戦わず、にぎやかしにしかならなかった。クーロや老ミロシュと言った、人数を連れた頭目たちは今のところ、様子見に廻っているようだった。
「一番危険な正面を請け負う。代わりに牛は俺たちだと決めただろう。
大胆不敵なオーとやり合う前には、あんなに静かだったのによ。
牛が欲しかったなら、どうしてやり合う前に提案してくれなかったんだい?」
ガルフの優しささえ含んだ穏やかな口調での当て擦りに、ジョエルの頬が怒りに染まった。が、すぐに余裕めいた態度を取り戻すと、若い放浪者《ワンダラー》は残酷な嘲笑を浮かべた。
「ああ、てめえらは一番、危険な正面を請け負ったなぁ。ガルフよ。
五人も死んで、俺たちにえばり散らせる立場かよ?よく考えた方がいいぜ。ええ、ガルフの兄いよ!」
嘲りを含んだジョエルの口ぶりに、ガルフも冷たい視線を返した。
「引く気はねえようだな。ジョエル!」
ジョエルの手下たちが一斉に銃を構え、ガルフの手下たちも狙いを定める。
銃を取り出したジョエルの手下たちに立ちはだかり、扇動に同調しそうな連中にも見えるようにガルフは上着をはだけた。
「動くんじゃねえ!ダイナマイトだぜぃ!」
服に張り付けたのは手榴弾《グレネード》だが、見た目で区別がつくものでもない。敵も、味方も、その場にいる全員が動きを止めた。
「死にたくないなら、銃はやめておきな。全員、吹っ飛ぶぜ!」
我関せずの態度だったクーロが舌打ちし、侍らせた少年少女の肩を抱きながら一部始終を面白そうに眺めていた老ミロシュも慌てて腰を上げているのを横目で意地悪く楽しみながら、ガルフは若き放浪者《ワンダラー》へと啖呵を切った。
「ジョエル!こうなったからには、ケリをつける方法は一つだ!分かってるな!」
ガルフの部下が刃物を二つ取り出して、地面へと投げた。
「好きな方を取りな!お前が勝てば、要求通りに牛をくれてやる!
まさか、逃げたりはするめえ」
「お頭の一対一だ!」ガルフの手下たちが快哉を叫ぶ
「逃げるんじゃねえぞ!ジョエル!」合わせるようにディンが野次を飛ばした。
追い詰められたジョエルは、誰か味方になる者がいないかと周囲を見回してみたが、先刻までジョエルの言葉に同調していた者たちも含めて、誰もが面白そうににやにや笑いを浮かべるか、或いは冷ややかな目でジョエルを見つめるだけだった。
ジョエルの仲間たちも、ガルフの部下に銃口を突き付けられている。
地面に突き刺さった刃物が、炎の照り返しを受けて鈍く輝いていた。
「……畜生め」
毛長牛をせしめる寸前の状況から、命懸けの立場へと追い詰められた。が、まだ好機《チャンス》がない訳でもない。ガルフは草臥れた中年男で、見た目からしてジョエルの倍は年を喰っている。
「切り刻んでやるよ、
ガルフを憎々しげに睨んだジョエルが刃物を拾い上げ、蒼白となった表情に凄絶な笑みを浮かべた。
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空が徐々に明け白んでくる。夜が明けた、夜を越えたというべきか。
「朝だね」少女はぽつりと囁いた。
「朝だよ」密着していたお姉さんから応えがあった。
まだ肌寒さが残っているが、震えは大分、収まってきた。
「……もう一度確認ね。急に動くのは。冷たい空気で筋肉が冷えてる。もうちょっと暖まってから動こう」
変異獣《ミュータント》は、闇に潜んで動くことが多い。だから、助かった。少なくとも、今しばらくは。多分。
お姉さんと一緒に屋根の落ちにくい場所へと移動すると、少女は目を閉じた。心地よい眠気が体の奥から這い上ってくる。夜の間、殆んど眠っていない。頭の奥に疼痛が残っている。
それでも眠りの誘惑に抗い、体を小刻みに動かして固く強張った四肢を解していく。筋やアキレス腱などをぐりぐりと捻り、回転させ、ついでにお姉さんの背中も摩った。
廃屋から見回せる階段下や道路、庭先と順に視線を走らせると、門内に巨大鼠《ジャイアントラット》の死体が転がっているのに気づいた。どうやら夜のうちに庭先に入り込んで、何かに襲われたようだ。首を半ば食いちぎられている。二人が屋根の上で過ごしていた時に音も立てずに仕留めていた。大型の変異獣《ミュータント》だろうか。【住宅街】には、少女も知らない怪物が潜んでいる。冷汗が噴き出て、少女は周囲を見回した。
廃墟において、人は必ずしも狩人ではなく食物連鎖の一部を為す一種族に過ぎない。状況によっては、特に武装をしていない人間など容易く餌食へと転ずる。
身体も大分、解《ほぐ》れたと判断した少女は、ゆっくりと縄を下りた。視界の範囲内で動くものはいない。最大限の警戒をしつつ、可能な限りは視界を遮れるよう遮蔽を取って、素早く歩を進める。
最大の視界を維持しつつ、可能なだけの遮蔽も取るのは、実際には不可能に近かった。警戒していればどうしても動きは遅くなり、歩を速めれば警戒は雑になる。視野を広く取れる位置は、他所からの視線に捕捉されるし、遮蔽を取れる場所は視界も狭くなる。
廃墟に絶対はなく、どれほど警戒しても、襲われる時は襲われる。
頭痛と緊張感を抱え、それでも最大限の警戒をしつつ、少女は庭先へと足を踏み入れた。
しゃがみこんで、巨大鼠《ジャイアントラット》の死骸を手早く確かめる。首筋に巨大な噛み傷が残されていた。首は半ば千切れている。
辺りを彷徨っているゾンビ。それも
背後のお姉さんは庭でストレッチをしている。命懸けで準備運動をしているのは滑稽だが、廃墟で足が攣ったりしたら文字通り命に係わる。
滑稽で惨めな状況だが、大抵の人間なんてそんなものだ。少女は苦笑した。
命の危険のない生活を送る人間は、どう毎日を生きてるのだろう。出来れば、一度は、そんな上等な人間になってみたいものだ。
さあ、行こう。傍にお姉さんもいる。台無しにする訳にはいかない。深呼吸を二度、三度繰り返して、「行こう」とお姉さんに促した。
「正面の道路を突っ切って、左の……一つ聞くけど、体重は何キロ?」
「72かな。キロで」とお姉さん。180に近い長身としては、控えめだろうか。
「ぎりぎり行けるか。道路を突っ切って、正面左側の民家に上がります。其処までいけば、家まで後、ちょっと」
お姉さんが無言でうなずいたので、少女は続けて手順を説明する。
「右の曲がり角に一体、ゾンビがいるけど静かに歩けば気づかれない
わたしが先に行く。道路を渡り切ったら、同じルートで」
行こうとした少女を、お姉さんが腕を掴んで止めた。
「気を付けてね」
少女は瞬きすると、お姉さんの顔をじっと見つめた。
それから改めて気づいて、疑問を口にする。
「……あのね。南へ抜けるんでもいいんだよね」
「うん」
「でも、南は怪物が多くて危険で、東なら抜けられるんだ。西や北でもいいけど。
西南が目的地だけど、西は放浪者《あいつら》がうろついてるし、東に抜けて、南へと回り込む?」
実際のところ、お姉さんには任せる以外に手はないのだが、人慣れない少女も会話が一杯一杯になってる。
「そう、か。お願いします」
「はい」嬉しそうにうなずいて、少女は音を立てずに道路に踏み出した。
お姉さんも、他の仲間が気になると言えば気になる。とは言え、隊商《キャラバン》に加わって日が浅いので、薄情かも知れないと思いつつも悲しみは薄かった。
それよりも安堵の念の方が強いが、まだ生き延びられるかは分からない。
庭先から歩道へと顔だけ出して、手早く左右を確認。背後に振り向くと道路を挟んだ家屋を指さしてから、対面の家屋へと足音を立てず、そっと駆け込んだ。お姉さんが続いた。幸いと、ゾンビは反応が鈍く、離れた位置で佇んでいるか、遠くをふらふらと彷徨っているだけだった。
背嚢から鏡を取り出すと、扉をそっと開け、中を覗いた。壁のしっかりと残った家屋に踏み込む際は、常に鏡で内部を確認する。家屋に二人で入り、扉をできるだけ静かに閉める。緊張で、お腹が痛い。馬鹿みたいだけど、うんこしたくなる。屋内は暗く、窓から差し込んでる自然光だけが室内を照らしている。
荒れ果てた屋内。室内が荒らされているのは、【住宅街】で比較的に安全な領域を探索した
お姉さんを待たせて先行し、辺りの部屋と階段を素早く確認。多分、何もいない。お姉さんに頷いてから、そっと二階へと進んだ。
息遣いが荒い。自分の心臓の音が聞こえそうだった。奥の部屋へと進む。途中の部屋の扉から、何も飛び出してきませんように、と少女は祈った。十中八九は大丈夫と思いつつも、普段使わない経路《ルート》を進む時は、いつも緊張で気が狂いそうになる。
背後を歩くお姉さんの足音がやけに大きく響いた。恐怖で、足が止まりそうになる。奥の部屋の半開きにしておいた扉を潜る。扉を開ける時は一々緊張を覚える。何故って、ゾンビや変異獣《ミュータント》が窓を破って中に入り込んでいたことがあったから。
窓が破られた痕跡を見つけた瞬間は、心臓に悪くて死にそうになる。
幸いだけど、鉢合わせた事はない。隠れ家で休もうとして
そっと足を踏み入れる。埃を被った古い寝台《ベッド》に大きな窓。なにも変わりはない。ほうっと安堵の吐息を漏らして、お姉さんを招いた。
扉を閉めてから、建て付けの悪い窓を開き、隣家の窓へと続いている渡り廊下を確認。お姉さんに出るように告げてから、そっと扉を僅かに開いて、自分も屋根へと出た。
音の出る作業、時間の掛かる作業をする時は、背後から怪物に襲われないよう扉を閉める。一々煩雑だが、少しでも助かる確率を日常の動作で維持しておくのが少女の習い性となっている。幾ら安全を確保しようが死ぬときは死ぬのだと頭の片隅にこびりついてもいるが、何でもやれるだけはやっておくつもりだった。
渡り廊下を歩いて突き当りの民家まで進むと、梯子があった。
梯子を登った途端に頭を齧られるかも知れない。廃墟ではよくある死に方。ヘルメット欲しいな。びくびくしながら、梯子を登って民家の屋根へと登った。
眼前に土手があり、上に沿って高架橋が続いている。高架下は金網で、人影が蠢いている。うめき声からしてゾンビ。大方は
ここまで来れば、家まであと一歩、と帰宅寸前で、お姉さんへの説明が足りないことに少女は気づいた。
「あのね、一旦、家に寄るけどいいかな。いろいろと準備もあるし、休まないと」
「うん、ありがたいね」
少女は微笑むと、気を取り直して一階の屋根へと降り、次いで地面へと飛び降りた。お姉さんも続いたが、体重を受け止めた屋根は、不満を言うようにみしみしと軋んだ。
身体を伏せた姿勢で土手に沿って少し歩き、高架橋の非常階段で立ち止まって、見上げる。
「……ゾンビがいないといいんだけど」
高架下を彷徨うゾンビの群れに気づかれないよう、出来るだけ音を立てずに階段を昇ると放置された自動車が延々と続く高架橋の気配を確かめる。
特に怪物がいるような気配はなかったが、姿勢を低くして隠れながら、自動車を縫うように移動して対面の車線の非常階段へとたどり着く。そこで少女は真正面の二階建ての家屋を指さすと、隣のお姉さんにそっと囁いた。
「わたしの家だよ」