やがて九月が訪れた。季節は秋。色々と日々を積み重ねながら、住めば都、とまでは言わないが、セシリアも随分とポレシャ市に慣れた頃だった。居住している【町外れ】地区は、名に反して案外、治安が良い。逆に自治地区と呼ばれる一帯は行政区画の外であり、必要なければ入り込まない方がいい。確かに空気感が異なっていた。
とは言え、自由労働者や
ただ、トリスと猫耳ココ――いや、トリスだろう。街路を彷徨う浮浪児たちと出くわした際には、微妙な緊張感を孕んでいた。トリスは言葉少なに『昔馴染みだ』と口にしたが、子供の頃に多少の因縁があったのだろうか。
「浮浪児から親方に拾い上げられて、いい生活している。目障りなんだろうね。嫉妬だけかは分からないが」トリスが苛立ち紛れにそう告げると「いずれ絡んでくるかね」猫耳ココが言ったので、セシリアは驚愕した。にゃー、とか、なーご以外にまともに喋れたんだ。ともかく、総じていえば、ポレシャ下層地区は安全とも言い切れないが、危険との距離感を掴みながらであれば、暮らしていけないこともない街だった。
大麦の粥に焼いた根菜と芋、キャベツをのせると、汁を掛けて腹に掻き込む。小動物の肉が付くこともある。粥ではなくパンの日もあるが、これが毎日の食事で、セシリアは元々、農民の娘であるので粗食にも耐えられる。
そしてこれは取り立てて粗食でもない。兵士の皆と、騎士の
問題は、姫さまだ。好物は白パンにリエット――豚肉と脂、塩を煮込んで使ったペーストである――が当然、三か月くらい食べてない。塩漬け魚のスープも、ポタージュも食べてない。揚げ物は、油も脂も貴重品なので口に入らない。鳥のパテも、ミートパイも、林檎やナッツのパイも食べていない。勿論、姫さまも普段は粥やパンにチーズなどのやや裕福な農民と同じくらいの食事だったが、領地持ち身分の娘として肉は多かった。週に一日はパテの日であったし、月一くらいは林檎パイを口にしてた。それと湿原諸邦では安い食材である魚を毎日のように食べていた。
僅かな量を口にした姫は、早めに食事を終えると立ち上がり、おのれの天幕へと戻ってしまった。同じ広さの天幕二つが、女子四名と男子四名で別れている。身分で言えば、姫と同じ部屋に侍女のイサラ、老執事ヨハン、そして侍女見習いのセシリアとすべきかもしれないが、姫と同室に執事が寝泊まりするのも、紅一点の女兵士イブリンを男性兵士たちと同じ部屋にするのも憚られた。なので、兵士たちとヨハンが同居している。
食事量は乏しいが、食事は日に二回。それに数度の間食を取るのが黄昏の時代の慣習だ。姫も時々、ビスケットなど摘まんでいるので、偶に食欲が湧かないとしてもそれほど心配はされない。ただセシリアはここ最近、姫の食事量が少しだけ少ないのが気にかかっていたので、立ち上がって後を追いかけた。侍女のイサラは女兵士イブリンと人数分の食事を作っているので忙しくて気づいてはいないようだ。そして、誰もそうだが、慣れぬ土地と環境に気疲れしている。
セシリアが天幕に入ると、寝台に腰かけた姫さまが憂鬱そうにため息をついていた。「セシリアか」と手招きしてくる。侍女見習いがしずしずと歩み寄ると、姫さまは抱きしめてきた。それから肩に顔を埋め、「言ってはならぬぞ」と囁いた。
「アーシアは、肉が喰いたい。だが、口にすれば、者どもは無理して持ってくるかもしれぬ」姫さまの言葉に、セシリアは頷いた。
「なんとか安定を保った生活に、アーシアの我が儘で崩すわけにもいかぬ。だから、此処だけの話だな」
主の気慰みになるかは分からないが、セシリアは耳に挟んだ噂をアーシアに伝えてみた。「市中の噂では、湖での養殖が試験的に始まったとか……水キャラバンが、浅瀬の一部を使った養殖を始めたそうです」セシリアの言葉に、ほう、と姫さまは興味を示した。
「東の湖では元々、魚が採れるらしいですけど、船を持った地元漁民たちが独占してるらしく……上手くいくかは分かりませんが」言葉を続ける侍女見習いに頷きながら「魚も食べたいな。魚醤を掛けた焼き魚。いや、煮込みでもいい。湿原諸邦の養殖池のやり方を教えたら。いや、私たちが作るべきかな。商売をどうすればいいのか」考え込みながら呟いたアーシアが「父上が生きていたら、商いなどとんでもないと怒るかも知れぬな」クスクスと笑った。
※※※※
自由居留地圏と湿原諸邦では、価値観が些か異なっている。資源と生産、物流の限られた世界における貧困は、工業化社会での貧富の差とは根本的に意味合いを異としている。誰かに富が偏れば、他の誰が飢える時代。人々が生きる為の食料や資源を、注意深く分配する必要がある社会においては、無秩序な富の集中は悪と見做されたし、公正に分配する役割を求められる貴族が商いに手を出すのは忌避されて然るべき道理でもあった。簡単に言えば、信用型通貨が無尽蔵に発行される以前、生産力の限られていた時代には、金銭や金貸しは穢れているとの風潮にも確かに一理あるのだ。
土壌の痩せた自由居留地圏で商業が発達した理由については分からない。或いは、行商人たちが小規模な流通として稼働し続けなければ、共同体が生き続けるのも難しい土地であるが故、商業的な自由を尊び、尊重する方向に文化や思想、制度が発達したのだろうか。
湿原諸邦は、生産力や資源を共同体で維持するために、富の集中や貴族の商業活動を警戒し、公正な貴族が尊敬される一方、金銭的な儲けを嫌う者たちがいる。対する自由居留地圏は、痩せた土地ゆえに流通が生命線となり、商業の自由を尊重する為、金銭的な成功者が称賛される風潮が生まれたのかもしれない。
「……あくまで仮説だが」久しぶりに会って話した保安官補は、セシリアとの雑談でそんな考えを口にした。道を歩いている途中でも、なにかを思いついたらしく、よく分からないことをぶつぶつと呟きだしている。
(……この人、独り言多いな。変人です)とセシリアは思った。
セシリアから変人認定されたとも露知らず、ガルダ人たちの住居を訪れた保安官補は、手土産に鶏を三羽担いでいた。首のない鶏たちは、鼬に襲われたものらしい。知り合いの農民に買ってくれと泣きつかれたそうだが、別に取り立てては安くならなかった。経済的観念の発達した自由居留地圏の人間らしく、相場と価格に関してぶつぶつと呟きながらも、保安官補の差し入れは非常に喜ばれた。
姫さまがさりげなく眺めてきたので、セシリアも小さく首を横に振った。
「偶然ですね。お肉、食べたかったので嬉しいです。ありがとうございます」姫さまの代わりにお礼を言っておいた。
手土産の鶏は歓迎された。保安官補は、ついでにパックワインも取り出した。「この赤《ワイン》は安物ですが、料理に使うならそれほど悪くありません。冷えてきているので、夜に暖めて飲むのもいいでしょう」料理酒に使うと知った
「感謝しよう」喜ばしげな隻腕の騎士に対して、保安官補は苦笑を浮かべていたが「さて、ところでセシリア嬢を少し借りていいですか?」セシリアの肩を掴みながらの発言に、老執事が考え込んでから頷いた。
保安官補は、天幕が置かれた空き地の隅にセシリアを手招きした。
内緒話をするのかと思いきや「此処だ。よく覚えておいて」と小さな声で囁いてから、「ついてきたまえ」とセシリアの肩を優しく叩くと、外の街路に向かって歩き出した。
「これから話すことは秘密にして欲しい」街路――秋になって人出が少しだけ減ってきている自由市場を歩きながら、保安官補は囁いた。
「なら、わたしに明かさない方がよろしいかと存じます」後ろを歩いているセシリアだが、保安官補は185cm近い長身。歩幅に差があって追いかけるのも大変だった。
「何故なら命令されたら、話さざるを得ない立場だから」と少し歩調を落とした保安官補は頷いていた。
セシリアが誰に忠誠を誓っていて、どのような義務を負っているかを理解しての問答を交わしつつ、保安官補は「秘密は知る者が少ないほど良い。しかし、意志の疎通はしておくべきだ」と囁いた。
「ヨハン老人もそれほど愚か者ではない」と告げる保安官補の瞳は温度を感じさせない冷たさで、碌な話ではないかも、とセシリアは直感した。
自由市場から天幕住居を挟んだ裏手の廃屋は、行政地区に属していて、人が引っ越してきて手入れをしている。文明崩壊前に建てられた頑丈な建造物で、金を持った保安官補が買い取り、修繕の手を入れた。セシリアが知るのはそれだけだ。
大回りしないと辿り着かない三階か、四階建ての大きな建物にたどり着くには、途中で土嚢と木柵を組んでの門もある辻番を越えなければならない。夜間は自由な往来も制限されて、例えば怪物が侵入したり、屍者が発生しても、少なくとも短時間は食い止められるだけの備えが為されている。相手が少数であればだが――
「おるかね」保安官補が建物の扉を叩くと、住人が出てきて頷いた。保安官補は、内部に踏み込むと、セシリアを案内してくれた。
引っ越してきた住人は、ジャッコーニ参事の知り合いである若い民兵と恋人。その友人が三階と四階に生活しており、三人とも紙薬莢の後装式ライフルを所持していた。銃眼から裏手の家へ迫る路地や、周囲の低い廃屋は狙い撃ち出来た。家の一階、二階も親方マギーが手を入れており、牧者一家が引っ越してくる予定だ。口は堅く、そして事情も知っている者たちだそうだ。保安官は一階の台所を抜けると裏口から、細道に出た。そこは丁度、ガルダ人たちの天幕が建てられている空き地へと通じている小路で見た目が頑丈な壁は、実際には押すだけであっさりと崩れそうな仕掛けになっている。
セシリアが絶句していると、しかし、保安官補は「赤泥のジルカはこれくらい見抜いているかも知れない」とやや憂鬱そうに告げる。何故ならば、ジルカが狙っていた高額の賞金首たちは有力な切れ者が多く、当然にこれくらいの備えは思いつくであろうし、しかも、そう言った高額賞金首の悉くを取ってきたからだ。
裏手の住人が味方だと知っているのはセシリアだけだ。姫さまにも老執事にも知らせるなと言われている。知る者は少ないほどよい。そして、いざと言う時、君が逃がすのだ、と囁かれた。そこまで度胸や忠誠心があるか、どうか。セシリアには自信もなかった。
ガルダ人たちの居場所は今のところ、漏れてないと推測されている。役人の誰かを買収しても、秘匿要項の一文字で簡単には閲覧できない書類に出鱈目の住所が書かれている。張り付けてはいないので、確実とは言い切れないも、ジルカの手の者が前もって調べれば、近くに暮らす住人たちが妙な連中を見たと教えてくれる。手は打っていると、保安官補は語ってくれた。
保安官補は、今日までガルダ人たちを慎重に観察していた。そしてセシリアが一応、使えるだろうと判断を下したらしい。
(参ったな……重たい)思いつつ帰還するとその日の夕食後、老執事にさりげなく不意打ちされた。
「保安官補と、なにを話したね?」
「ご命令とあれば、お話いたしますが、秘密は知る者が少ないほどよいかと愚考いたします」頭の中で組み立てていたうちから、無難な言葉を返すと、ふむん、と顎を撫でながら「その類の話であったか」と老執事が肯いた。
「然るべき時がくれば、ご命令いただければお話いたしますが。現状……」セシリアの言い分を手で遮り、「分かった。聞かないでおこう。セシリアも命令あるまで、口にしてはならん」屈みこんでそう囁いた。
命令権者には従うが、しかし、自分から秘密を漏らすこともしない。小姓らしい立ち回りではあったが、許容された。老執事も穏やかに頷いてくれたので、セシリアはほっとして「承知いたしました」恭しく頷いた。
※※※※
秋に入ると、夜は氷点下にまで冷え込んだ。日中でも十度以下にも拘らず、近所のおじさんなどが薄着で「今年は暖かくて過ごしやすい、去年は酷かった」などと話していた。死ぬ。死んでしまう。街路から、まずは小さな天幕や路傍で眠る者たちの姿が消えた。粘土と土で作られた家や木造の掘っ建て小屋からも、小さな家から引っ越す人々が徐々に増えている。冬越えの時期が訪れつつあった。貧しい人々が、大きな廃屋に薪と食料を持ち寄って集まり、三月の春まで寒さを耐え凌ぐのだと言う。
厚着と毛布を纏い、火を焚いても、夜明け前には肌寒さで目が覚める。思いつけることは全て思いつき、出来ることは全てしたと自惚れていようとも苦しい環境に陥れば、身体は簡単に意志を裏切りそうになる。
南方の冬は此処まで厳しくはない。曠野の冬は、越えられずに死ぬ子も少なくないと耳にしていたが、想像はあくまで想像だった。歯を震わせながら、セシリアは時々、死を意識した。トリスや猫耳ココも友人を幾人か亡くしているそうだ。
二人はセシリアが辛そうになると、当初はあっさりと身銭を切って暖かい茶を奢ってくれた。セシリアは勿体ないと思ったが、そのうちに普通に買うようになった。無理をしたら、元も子も無いと学んだ。秋と冬は金が掛かる季節と考えるべきだ。そうしてトリスやココと一緒に屋台の仕事を手伝い続けている。秋も深まれば、他の仕事はあっという間に少なくなった。だから、月に二度か、三度。売り切れるまで門前町で火に当たりながらの店番は、楽で性に合ってる仕事だ。
売り上げである二百とか、三百の都市通貨が――或いは、市の小麦兌換紙幣や、門前町の銅貨が、どの程度の価値を持っているかはセシリアとて理解している。
利益率はおよそ5分の一。それでも徒弟がそれだけの金額をやり取りするのは、普通は店舗持ちの町商人の商いだ。屋台商人には滅多におらず、露天商では皆無だろう。保安官補は、思っていたよりもずっと賢い。セシリアには見抜けなかった。その保安官補が警戒しているジルカも、警戒してし過ぎることは無いだろう。
秋や冬は営業時間が短くなる。どの露天商や屋台商人も早めに閉める。営業時間が長いのは、町商人の大店だけだ。何故ならば、気候も厳しくなれば、秋口から冬には困窮するものも出始める。食い詰めたもののうちには、徴税人を襲うほどの愚か者も出るほどだ。猫耳ココやトリスも屋台を早めに閉めるとセシリアと共に帰路に付いた。その日の売り上げを小さな金庫に仕舞い、大事そうに鞄に入れてから、それでも燧石銃《フリントロック》を手元に携えたまま、驢馬の引く荷車に揺られつつ、下層地区に付くまでは警戒怠りなく、陰気に沈黙を保っている。厳しい季節だ。灰色の雲が冬の空を低く覆い尽くしている日も多かった。