遠雷の音、雪の音、風の音、雨の音、遠吠え、銃声、警報の鐘、押し殺した息、密かな足音、物陰、視界を遮る遮蔽物、夕暮れと影。そして夜の闇。
巻き毛のルーにとって恐ろしいもの。恐怖の匂いを纏うもの。空腹と寒さ、暴力と痛みを伴う記憶、死の気配を漂わせるもの。ルーは考えない訳ではない。山羊娘にとって、皮膚と耳と鼻で感じ取る世界の比重が、普人の割合より大きいだけだ。
ルーは、放浪の旅芸人一座に属している。ジャグリングをして客を呼び、薬草やお守りを売るのを生業としているが、あまり器用ではない。口も下手だ。大したおひねりも貰えない。旅芸人の一座にいる不器用な子だが、捨てられなかった。座長に溜めた食事代と寝床代のツケは返したい。漂泊民《ジプシー》の魔女お婆さんも、薬を安く売ってくれる。
路地裏で暮らした日々の記憶がある。一座が仲間を見捨てずとも、黄昏の大地を旅していれば、どうしたってトラブルに巻き込まれる時節も訪れる。滞在していた居留地が武装集団や略奪者《レイダー》に襲撃されたり、街道で屍者の群れに遭遇してしまう。参加していた大きな旅隊《キャラバン》が盗賊団やら蛮族やらに襲われて団員がばらばらに散ってしまう。
やはり仲間と逸れた旅人たちと臨時の旅仲間を組んで、元の仲間を探しながら、あちらの街、こちらの村と彷徨って噂や伝言を探したり、伝言を残したり、その間に元の仲間を見つけたお兄さんお姉さんが離れて行ったり、元の仲間たちと合流したり、人数が増えてきたら分裂したりと。時々、賞金稼ぎや町の兵隊に盗賊の一団と間違われて、旅券を見せながら、必死で言い訳したこともある。知り合いの兵隊さんがいれば、助かりもする。知ってる旅人が勘違いされたか。吊るされてる光景も見たことがあった。
廃屋や廃村の納屋に忍び込んで寝たこともある。屋根裏まで態々昇っても、嗅ぎ付けた屍者に追い詰められて、屋根裏で震えた日もあった。
メェメェと鳴いてたら偶々、親切なレンジャーたちが屍者の掃討に訪れて、偶然に助かった。ルーの一座は壊滅したことはない。黄昏の世だって、流石に滅多に壊滅するものでもない。でも、壊滅した同業者や徒党の幌馬車が転がってるのを街道に見たこともあって、知り合いもいたから、ンメェーと鳴いた。
路上生活や放浪の経験があれば、いい記憶ばかりではない。寒いことや腹が減るのも辛いし、理不尽に殴られた時もあった。雨が降れば濡れるし、雪が降れば凍える。風が吹けば、足音が聞き取れなくなる。芸人一座と言っても、地域でばらばらに散って稼ぐ時もあるから、ルーが稼げない日も、食べられない日も出てくる。誰かと組んでも、あまりお客も呼べないし、ルーの仕入れた薬もあまり売れない。油と薬草を煎じた膏薬を作るけれど、売れないのでいつも仲間に使っている。
保安官補が……ええと、使用人に雇ってくれたんだろうか。召使いではないと思う。料理人の助手かもしれない。農場の召使いは地位が低くて、食事と寝床の他は、僅かな駄賃しか貰えない。でも、貴族や町の富裕層の召使いだと、雇い主によってかなりいい扱いを受ける人も多いと聞いてた。一言では、言い切れない。保安官補をなんと呼べばいいんだろう。「ご主人」で良いのかな。それとも「親方さん」かな。
寝る時は、小屋でみんなで眠る。少し狭いけど、外に雪や雨が降っていても暖かい。ストーブの近くで寝ていい。冷えてくると誰かが起きて薪を突っ込む。炭団子も金属の皿で燃えている。寝る時は、油の有るカンテラは消してある。火事が恐いから。不寝番は、まだいない。来年は、家を大きくするとか言ってた。でも、それは大変なことだから、ルーは本気にはしなかった。
毎日、水を買ってきて運ぶ。ルーと料理番のリリー、トリスと猫耳ココ。四人に時々、セシリアとか。他の誰かが一緒に付いて来る。水壺は5リットルくらい入る。皆が飲み水に困らない。貯めた雨水や雪で顔や体を洗う。黒色火薬と鉛の円弾で水キャラバンに支払っている。配達してもらうよりも、取りに行く方が安い。時々、ニナとジーナ・
水を運ぶ以外にも、仕事は幾つかあった。芋や人参の皮むきなど料理の下拵えをしたり、薄いパンを焼いたり、スープを作る。後は、掃除したり、土嚢を運んだり、ゴミ捨てをする。後は、汲み取りを頼みに行ったりする使い走りもする。どれもこれも辛くもなんともない仕事で、休憩も沢山あった。なんと言っても、嫌な人や恐い人、殴る人、意地悪な人がいない。勿論、一座にも沢山はいないけど、少しはいるから、鈍臭いルーには、それだけですごく過ごしやすい。
そうしてルーは食べ物に困らない身分になった。毎日、食べられるのはとてもありがたい。清潔で暖かい上着を貰った。寒さに震える野宿も、野犬や屍者、巨大蟻に脅えて眠る夜もない。下着も三日ごとに替えるし、週に一度はお湯で揉み洗いしている。私物入れを貰って、ルーと書かれた木箱が並んでいる。文字もリリーが教えてくれてる。学校に誘われたけど、少し恐いから止めておいた。
石鹸も余るほど在った。売り物だそうだ。暖かいお湯を使い放題で、身体を定期的に洗う。ルーを座らせて、リリーが後ろから頭を洗ってくれた。魂が抜け出るかと思った。とろんとなる。浴場へも連れて行ってもらって、ルーは多分、生まれて初めてお風呂に入った。あんまり心地よいのでメェー、メェーと鳴いた。お腹が変に鳴ってトイレにも駆け込んだ。泡だらけのルーを上からぬるま湯を掛けて洗い流してくれた。
いいことばっかりでも無かった。街路の大きな木扉を見て、金持ちの家と勘違いしたのかも知れない。時々、町の――顔見知りではない、よそ者の貧しい放浪者――浮浪者《ホーボー》や乞食が門前で待ち構えていて、椀を差し出しながら、食べ物を強請《ねだ》ってくる。睨むでもなく、ただ落ち窪んだ瞳と歯の抜けた口で、じっと見つめながら懇願してくる。恐いと思った。ただの料理の手伝いなのに。狼狽して、メエメエと鳴いてしまったら、慌てて逃げていった。気の毒したかもしれない。燧石銃《フリントロック》を背負ったり、担い銃しながら土嚢の後ろを歩き回るリジィやニナ、ジーナ・
今までルーも、ルーの身内も、盗まれるほどの価値があるものは持ち合わせなかった。芸人一座の家畜や幌馬車は高価だが、奪う事は出来ても盗むことは出来ない。服装も仕立てるのにお金は懸かったけれど、売っても大した価値にはならない。今は違う。何百枚もの銅貨や銀貨。それに一本で五十とか、百とかの価値を持つ蒸留酒や高い煙草が木箱で保存されている。ラジオの値段だって、ルーには想像もつかない。だから、みんなが警戒している。
保安官補とニナ、ジーナ・
「日々の暮らしを保つことも戦いなんですよ。同じくらい大事です」と保安官補が言うと、「ええ、同じかなぁ?」とジーナ・
「剣の達人になっても、撃たれたら死ぬよなぁ」用心棒リジィが身も蓋もないことを言って、「そのうち、もう少しだけマシな銃に手が届きます。少しだけね」と保安官補が笑っていた。ルーは少しだけ恐れを感じた。身を守る為、町の外で略奪者《レイダー》や盗賊団《バンディッツ》、屍者や変異獣とも戦うだろうし、そして家の近くで盗みに入ったものたちにも容赦はしないのだろう。
貧しい生活に、時に食べ物を盗むものもいる。常に飢えと隣合わせの世界には新しい形の道徳が生まれる。そこでは貧しい少年らの間に、手先の器用なもの、素早く抜け目ない者は称賛される。時に、善と悪の境界は曖昧になり、特に反転する。仲間に食べ物を分け与える者は、英雄となる。盗賊たちの小さな社会は、彼方此方の居留地に根を張っている。善良なものもいれば、悪辣な盗賊もいる。仲間を養うために殺傷を躊躇わない凶賊もいる。高貴な義賊もいるらしい。富を得てからも被害者意識が抜けず、他者を傷つけ続けて、結局は全て喪うものもいる。浮浪者《ホーボー》や乞食たち、そして一部の放浪者らは、盗賊の社会と否応なしに近づいている。漂泊民や旅芸人たちもある意味で、彼らの身内だ。本人は盗みをしないでも、噂を流す事もある。どこそこの農民は親切にしてくれた。逆に私刑に掛けた者の名らも囁かれる。
時々、ルーと同じくらいの浮浪児がゴミを漁りに来るし、赤ん坊を連れたお母さんが食べ物を乞いに来る。トリスや猫耳ココが教えてくれるには、市民街区や門前の食べ残しは、もう古参の乞食や浮浪者の縄張りになってるそうだ。そして用心棒リジィは、子連れの放浪者にパンと乳の入った瓶を押し付けながらも「失せろ」と追い払っていた。その夜、ルーは、ただ哀しくて恐くて丸まった。抱きしめたリリーは、切無げなため息を洩らしながら「きりがないんやね」と囁いた。答えが出ないこともあるのだろう。
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寄る辺ない放浪者――貧しい旅人や浮浪者《ホーボー》たちは、よく三日も飯を喰ってない、などと口にする。大抵は、薄いスープや捕まえた野鼠の串焼き。小さなパンくらいは口にしているが、まともな食事を取ってない、くらいの意味合いだ。辛うじて喰い繋いでいるが、人らしい食事からは遠い。居留地と居留地の街道を空腹に苦しみながら、何とか粗食で喰い繋ぎ、農村にたどり着けば、親切な農民に食事を与えてもらう事もあれば、簡単な仕事を引き換えに食事と寝床に有りつけることもある。勿論、行き倒れてしまうものもいる。
放浪生活に、どうしたって空腹は付き物だ。まともなご飯を食べられない。でも、驚いたことに、人は生きていけるのだ。放浪者や貧民でも、あまり飢えて死なない。時々死ぬけど。だけど、生き続ける日々には、死ぬほどではない空腹がずっと続く。一日、二日ではない。何週間も続く。あまり食べられない時期をずっと生き続ける。それでも、ルーは恵まれていた。一座で面倒を見てもらっていたし、食べ物が手に入らない時には、蒸かした芋を分け合った。
貧しい生活とは、纏わり続ける飢えだ。飢餓ではない。空腹を少し誤魔化し続けての日々が延々と続いてくる。ルーは、腹が減ると草を食べていた。お腹が減ると、身体が重くなる。集中力も落ちて、常に食べ物のことばかり頭に思い浮かぶ。バターの池に浮かぶパンの船とお肉のお城の夢を見る時もある。
保安官補は、どうだろうか。皆より良いものを食べてる。肉の数切れなどだが。
ルーは、小さな町で働いたこともあった。工房や露天商の雑用をすれば、親方との距離が近い分、幾ら稼いでいるかもなんとなく分かる。徒弟の労働と引き換えの食べ物と寝床、僅かな賃金は何処も変わらない。薪や食べ物を多めに買うのは、実はそんなに大きな負担にならない。火や寝床は分け合えるし、食べ物を温める薪もそんなに変わらない。だから、大きいのは賃金だ。
保安官補は普段、一度も怒鳴らないし叫ばない。なのに口を開くと皆が静まり返って耳を傾ける。質疑応答はするから、恐れられてはない。気前はいい。トリスやココに大人の露天商くらいの賃金を払っている。少し、恐い。こうした大人を形容する言葉を、ルーはまだ知らない。まあ、いいものを食べさせてくれる。でも、目つきも鋭い。頼りがいのある大人に分類した。
リリーと、後はトリスや猫耳ココと一緒に水や薪を運んだり、時々はセシリアも一緒で野菜や肉、牛乳や羊乳、チーズやバターを買ってくる。ニナが一緒に来る時もあるけど、ルーとはあまり喋らない。話が全然、合わなかったので恐くなった。ニナにも「話が全然かみ合わないな」と言われた。時々、いる意地悪さんみたいに虐めるのではないか、とルーは脅えたが、「まあ、いい。気に入ったなら、暫くいなさい」と言って離れていった。石鹸を大浴場に運んだ時はニナも運んできて、友人だと言う人と楽しげに談笑していた。そんなに年齢は変わらない筈だけど、大人びた感じがする。
買い出しや少し土嚢を詰んだり、料理の手伝いをして、洗い物をして、週の終わりに駄賃を貰う。食べ物と寝床を貰って、お金を貰えるからまったく悪くない。火の傍で眠れる。やな人がいないし、飢えの不安も薄い。楽な日々だ。
食事には、やっぱり美味しい日と少し外れの日がある。傷んだと言う程でもないけど、少し古い野菜を買って煮込み料理にすると、新鮮な野菜ほどには美味しくない。でも、悪くはない。塩味も効いてるし沢山、食べられる。食後には林檎が配られたりもする。取っておいてもいい。後は、食べ物を買ってもいい。
土嚢裏の木の棚に並んでいる蒸留酒やワイン。チョコレートとか林檎、キャラメルなんかを元値と売値の真ん中くらいで売ってくれる。トリスや猫耳ココは、お菓子を買っていたし、用心棒リジィは蒸留酒をスキットルに移し替えて、胸ポケットに入れていた。しかし、ルーは時々、貰う林檎で充分に幸せだ。
時々は、リリーのお供で農村の方に買い出しに向かう。かぶらや芋、人参、玉ねぎにキャベツなどを袋に入れて、持ち帰る。十人近くいるし、リリーの恋人の大きな男の人も食べに来るのですぐに無くなる。顔が傷だらけだけど笑うと愛嬌のある人で、ルーは一目で好きになった。リリーは幸せな奥さんになると思った。
郊外の草原地帯に赴いて羊飼いたちに会った時は、保安官補たちも同行した。というよりは、リリーとルーがお供で、バターやチーズ、乳などを貰って驢馬の荷車に乗せた。地区内でお金を払うと、驢馬も荷車も借りて、御者の仕事も頼めるのだ。羊たちも寄ってきたし、牧羊犬にも舐められた。群がられたルーは困って、メェーと鳴いた。牧者の子供たちもいて草を差し出されたので、食べた。保安官補たちは、天幕に入って随分と長く、色々と話していたようだ。保安官補が連れてきた来た数人の男女とライフルを持った牧者たちが集まって、地図を眺めながら打ち合わせをしていた。銀貨や銅貨の袋も手渡して、最後は握手をしていた。遠かったので、なにをしていたかまでは分からない。
時々、馬車に載せてもらう。隣でリリーが歌ってくれると、とても嬉しくて山羊の尻尾がピンとなる。あんまり幸せで、嘘みたいに思える。もうお腹が空くことも、喉が渇く事もない。ルーは、ルーの皿を貰った。焼き立てのパンと羊の炙り肉と人参とかぶら、玉ねぎに鶏肉のシチュー。それに暖めた乳に蜂蜜とお酒を少し入れた飲み物。最初の食事の時、あんまりのご馳走だったからガツガツと食べてしまった。他のみんなは行儀が良かった。気づいて恥ずかしくなって俯いたら、トリスが肩を抱きしめて頭を寄せてきた。誰も責めなかった。
荷車に揺られながら、街路を歩いている見すぼらしい旅人や放浪者とすれ違うたび、一緒に歩いている自分の幻想が顔を上げて見つめてくるような気がした。安定した日々に不安を感じているのか。もう一度、放浪に戻る未来を暗示しているのか。夢なんかじゃないかな、と不安に襲われる時もあった。