冬が訪れた。十一月は、土地によっては秋とも見做されているが、緯度が高い曠野では冬に属している。今年は例年に比しても比較的に暖冬で、地区の庶民も着膨れした姿を見せつつも、街に出ては立ち話などしており、彼方此方から陽気な笑い声や子供たちの歓声、犬や猫、鵞鳥の鳴き声などが路地に響いていた。
先年、曠野は数十年に一度の大寒波に襲われた。日中ですら出歩く人影が乏しく、街路からもひと気が殆んど失せていたが、今年は路傍や辻々に日雇い仕事や物売りに励んでいる者も幾らかは見掛けられた。時たま、響いてくる銃声は彷徨う屍者への狙撃や、或いは野犬たちへの威嚇射撃だろう。先年の寒波では、住民たちも家や避難所に籠りながら、防壁の向こう側から響いてくる屍者たちの呻きに脅えていたものだ。
ルーは分厚い手袋に小鍋の入った布鞄を抱えながら、トトと軽い足音を立てて、路地を駆け抜けていた。ポレシャの町外れ地区は基本的に安全だが、運が悪ければ、ごく少数の巨大鼠やら変異モグラ、モールラット、働き蟻などに遭遇することも有り得る。一部の怪物らは、地面を掘り進んで木柵を倒したり、穴から居住区内に顔を出してくるのだ。春から秋に掛けては防柵が仕事を果たし、周囲で自警団たちも見回りしてくれるのだが、冬の間は人の目も薄くなり、飼われてる番犬たちも鼻が鈍く、さぼりがちになる。とは言え、怪物もむやみやたらに出没するものでもなく、大抵は単独か、多くても二、三匹。発見が早ければ、対処もそう難しくない。槍やこん棒を持った大人の住人が倍も集まって、石も投げつければ、怪我人ひとり出さずに撃退することも充分に可能だ。
巨大鼠や野犬、モールラットの類は、数が襲ってくる訳でもなければ、一匹一匹が手に負えない強さでもなく、絶望的な繁殖力を持っている訳でもない。つまりは生態系の範疇に収まっていると同時に、狡猾な野生動物らしく常に縄張りを広げようと長い鼻先を突っ込んできては、人間の隙を見つけて薄暗い廃屋やら空き地に蔓延り、畑を荒らしまわってくる。
巨大蟻を除けば、総じて居留地や村落が滅ぼされるような圧力ではないものの、老人や女子供にとっては――時に武装した大人の男女にとっても厄介な存在であり、身近な日常の脅威として延々と付き合い続けなければならない相手ではあった。油断すれば、空き家などを巣にして居着き、すぐに繁殖し始める。つまりは狼や熊、栗鼠に鼠、白アリと言った害獣の延長でもある。そして曠野の多くの人間は、そうした害獣や怪物らに必ずしも無傷で対処できる程度の武装や人数でさえ持ち合わせていない。
屍者や中型変異獣は確かに恐ろしく、巨大な群れを成した際には大きな町すら滅ぼしかねない脅威ともなるが、通常は、極少数で徘徊しているものが大半であり、警備らも最優先で対処する為、町中暮らしだと意外と目にする機会は少ない。特に変異獣はそれなりにいるにも拘らず、接触する機会はさほど多くない。巨大鼠やら野犬、働き蟻は違う。曠野から市内の物陰、果樹園の茂み、地下下水道、暗渠、トンネルなど何処にでも蔓延っているこれらは厄介な隣人であると同時に貧民たちにとって重要な蛋白質でもあり、また時には赤子や幼子、家畜やペットを襲う危険で日常的な害獣であった。
風が吹いた瞬間、巻き毛のルーは、くちん、くちんと、とくしゃみを繰り返した。乾燥した冬の空気に泥道は乾いていた。外の曠野からは埃っぽい風も吹きつけてくる。貰ったハンケチで鼻を吹いてから、肩掛け鞄に仕舞い込む。道行く人々が、腰にこん棒や鉄パイプ、或いは背中に手槍を背負っているのに対し、ルーは何も持ってない。鞄の奥に果物ナイフが入っているが、とても働き蟻やら野犬に立ち向かえる代物でもない。雇い主たちからは、フリントロックの短銃か、小型のクロスボウピストルを貸し与えてもいいと言われたが、ルーは断った。使いこなせる気もしないし、人を傷つけられる勇気もないからだ。
旅芸人のフェルトン一座が野営している空き地へとやってくると何故か、天幕が以前よりも少なくなっていた。フェルトン一座の幌馬車は停まっているけれど、ひと気もない。不安そうに見回した山羊娘のルーが、すっかり心細くなってメェメェと鳴いていると、残っていた天幕が開いて、白い息を吐きながら団長が顔を出した。
「やあ、お前さんか。外は寒いだろう。おはいりなさい」
天幕を開きつつ、椅子に腰かけた団長と会計士が小さな囲炉裏で暖を取りながら、手を擦っている。
「地区の外れに、屋根はいくらか破れてるけど大きな建物があってね。天幕を建てていいとさ。でも、白雪、あの子がもう冬の巣を作っちまったよ。どうするかね」団長の言う『白雪』とは、一座に属している大きな蜘蛛の名前だ。
「白雪なら大丈夫でしょうよ」
眼鏡を掛けた会計係が何かを言うが、大きな雪蜘蛛を見つめて団長は首を振った。
「あたしたちだけって訳にはいかんでしょう。あれで寂しがり屋だし、音楽が好きだからついてきたんだよね。取りあえず、一緒に建物を見に行こうよ。気に入ってくれるなら一緒に移ろう」
天幕に招かれたので入ると、ルーは一緒に火に当たった。互いの近況などをぽつぽつと話してるうち、山羊娘が大事そうに抱えている小鍋に気づくと団長が笑った。「キキにかね?今、外に働きに出てるが、もう時期に戻ってくるよ」と教えてくれた。
「今の時期はもう寒いからね。働くのも暖かい昼の間だけさ」ルーが肯いていると、胃袋が大きく音を立てて鳴った。赤面した会計係が眼鏡を直しながら「ん、む」と咳払いしている。ルーは、小鍋を眺めてからそれを火の上に置いて、メェーと鳴いた。
煮立った小鍋には、カボチャや芋、蕪が浮かんでいる。肉団子の脂が染み渡り、乳やチーズに浮かび上がっていた。大きなパンも取り出して、小さなナイフで少し不器用に切っていった。『友達に食べさせてやりたい』と言ったルーに料理番のリリーが持たせてくれたものだ。
「おう、随分とご馳走だ。いいのかね?」団長が尋ねると、頷いたルーはお椀によそって差し出した。
「では、ご相伴にあずかりますよ。ああ、ありがたい」会計係が眼鏡を曇らせながら受け取って、口を付けた。
「随分と可愛がられてるんだね。ホッとした」団長もシチュウに口を付けてから、頷いた。「でも、良かったよ。お前さんみたいないい子は、幸せにならないと駄目だからね」
リリー製のシチュウを一杯だけ食べた会計係が「うむ、旨かった。あとはキキに取っといてやらんと」眼鏡を拭きながら頷くと、団長へ視線を向けた。
「そうだ、団長。例の話だがルーにも注意しといた方がいいんじゃないのかね。大丈夫だとは思うが、知らんよりは耳に入れておいた方がいい」
チビチビと惜しむようにシチュウを食べていたフェルトン団長が「ううむ」と難しい表情で肯きを返し、ルーに向き直った。
漂う不穏な空気に山羊娘が不安そうに見上げると、「ピーターのことだよ」と団長が口を開いた。ピーターは乱暴なので、ルーは身を少し竦ませた。
「あいつめ、なにやら良くない仲間に入ったようでね。漂泊民《ジプシー》やら不良
「此処には顔を出しませんが、町中で顔を合わせた時に、良くない仕事に誘ってるようです」と会計係が補足した。
「なんでも大きな仕事があるとかで、人手を集めてる」苦々しげな団長の言にルーは首を傾げた。
「……人探しとか言ってたな。合法の仕事とは言ってたが怪しいものだよ。うちの子らには乗らないように言ってるんだが、ピーターめ。中々、羽振りがいいようで、さて」
火に当たりながら、ルーは俯いた。特に深い考えがある訳でもないが考え込んだ。なにも思い浮かばなかった。そうしてるうち、外から人の帰ってきた足音が聞こえてきた。
「おっと、キキたちが帰ってきたかな」団長が立ち上がりながら、ルーの頭を撫でた。「ピーターが、お前さんを誘うとは思わんが、なにか言ってきたら、あたしに言いなさい」団長の親切な言葉にルーはコクリと頷いた。
※※※※
放浪者や貧しい庶民にとって、野生動物や怪物に脅かされない生活は、見果てぬ夢だ。新聞や段ボールの家、毛布や帆布の天幕では、怪物や野生動物が出没する環境では安心して眠れない。泥と粘土で作られた小さな掘っ建て小屋でさえ、働き者の庶民にとっての一生の家だが、屍者や巨大蟻に囲まれては長くは持たない。だから、人々は小さな集落や部落でも転がり込もうとするし、頑丈な大型構造物に根差した共同体と出会えば、金や労働力など何かしらの対価を差し出して置いてもらおうと交渉する。
さもなくば廃墟に隠れ潜むか、急ごしらえの天幕で毎日、脅えながら暮らすしかない。安全な大きな町で――例え、その近隣の自治地区であろうと――暮らせるのは、それだけで贅沢なことだ。物資が集まってくるとか、食料が買えるなどの利便性だけではない。
安全な暮らしには、幾つもの条件が必要となる。まずは広くて頑丈な家を見つけ、維持しなければならない。誰でも欲しがるから、曠野では住居を守る為の武力も必要となる。町中であれば――治安のいい大きな町であれば、課せられる税にもよるが、大きな家の持ち主になるとは、人生の上がりに等しい。しかし、居留地でもあまり治安の良くない外との境界区であれば、家の壁だけでは足りないかも知れない。怪物や野生動物と戦う武器も集める必要があるのだが、弓矢やクロスボウ、銃には金が掛かる。かと言って、こん棒や鉄パイプ、投石器だけでは変異獣や屍者、巨大蟻相手にはいずれ手負い、死人が出てしまうだろう。生涯を守るのであれば、注意力や反射神経ではなく数学の問題となる。最低でも、それなりの威力の弓と矢を維持できる財力なり、収入が必要となる。
頑丈で大きな家と武器、収入に伝手を持ち、後は複数名の仲間がいれば望ましい。たった一人で十体の屍者や巨大蟻に立ち向かうのは飛び道具あっても難事であるし、変異獣の五体も出没したら、相当に上手く立ち回るか、運がないと八つ裂きにされてしまう。しかし、こちらに二、三人の訓練された信頼できる仲間と銃なりクロスボウなりあれば、負担も危険も段違いに軽減されるし、五名かそれ以上もいれば、一方的に作業のように怪物や野生動物を駆逐できるかもしれない。
とは言え、数が増えれば、生活の負担も大きくなる。五人分の水や食料、薪。衣服に毛布、糞尿の処理だってしなければならない。娯楽も必要になる。金も掛かる。だから、自由労働者や小作人、放浪者が怪物や野生動物、賊と対峙できるマスケットやクロスボウを揃えるのは実際、中々に難しかった。どうしたって安価で扱いも簡単な短弓や軽クロスボウ、投石杖や手槍に落ち着いてしまうし、維持負担の軽いそれらに慣れて習熟すれば、弱い怪物やら、より優位の武器ともある程度だが渡り合える。より強力なマスケットや中型クロスボウに買い替えようと言う意欲だって、どうしても乏しくなってしまうものだ。
買い揃えるのと同等以上に大変なのが、矢玉の補充だ。クロスボウですら高価で強力な大型となるほどにボルトも高価となる。マスケットも質のいい黒色火薬に口径ぴったりの鉛の円弾を日常的に消耗するとなれば、家計への負担も大きい。働き者の自由農民の一家さえ身に余るほどだ。だから護身用に二丁、三丁を買い揃えていても、実際の使用については控えめな土地持ち農民なども多い。銃の扱いに慣れている傭兵団や無法者が恐れられる理由であり、大規模居留地の市民軍や警備隊が賊に恐れられる由縁だ。
人々は常に恐怖を抱えながら暮らしている。脅かされないで暮らせる庶民はいない。いたら、庶民ではない。放浪民と定住民を問わず、安全は実力者だけの特権であり、傭兵団や狩人、或いは牧者や武装鉱夫。職工団などの武装徒党でも、身は守れても豊かに暮らせるとは限らない。ごく一部の上澄み――運と実力を兼ね備えたものたちだけが、或いは日々の天幕暮らしから、大きな家に食事に困らず、野犬や巨大蟻、或いはそれ以上の野生動物や怪物に対処し、快適に暮らせるだけの成り上がりを為せるかも知れない。
隻足のジゼルは、逆立ちしても無理だと理解している。恐ろしく高い壁を幾つ越えればいいか、想像もつかない。目の前で細い葉巻から紫煙を燻らせているマギーは、古い馴染の友人だ。確か、六年か、七年くらいの付き合いになる。出会った時には
マギーは頭がいい。何時も、余計な付き合いをしなかった。特定の卸商人と付き合いを深めれば、特典が生まれる代わりに取引先を変えられなくなる。切れば、怨みが生じる。マギーは誰とも深い付き合いを避けて、数年を様子見に徹した。常人に出来る事ではない。相手が取り込もうとしても、巧みに距離を取った。当時は、それほど腕のいい行商でもなく、そして女色で腕の立つ変人だったから、誰も無理強いはしなかった。そうして数年を雌伏しながら、マギーは市民街区の雑貨屋に品を持ち込むようになった。勿論、大した値では売れないが、購買力が大きく、在庫を引き取れる。伝手が広い。多量の品を持ち込める伝手があれば、一択だ。殆んどの行商人には利益が薄いが、マギーは土産を持ち込んで仲を深めながら、必要な品を聞き取り、徐々に信頼を勝ち取っていった。
(……マギーは何時、一線を越えた?)ジゼルは思い返してみる。
相も変わらずの貧乏暮らしをしながら、しかし、マギーは、日々を楽しく過ごしてもいるようにも見えた。金を掛けるところを間違えずに締めるべきは締めて徐々に金を貯め、元手が増えれば、ある程度までは商いも大きくなる。マギーは上手くやった。一つ、二つであれば、上手くやったで済む。やることなすこと、何もかもが冗長性を持ちながら、長期的視野に基づいて上手く行われている。かと言って、日々をないがしろにしない。失敗しても辛抱強く、より巧みにやり直した。
見倣えるものでもなかった。ジゼルも、後から振り返ってようやく気づいたからだ。或いは、他人の嫉妬を買わないように巧みに欺瞞していたのか。その程度は計算していても不思議ではない。日々の変化があまりにも小さかったから、いつの間にやら土地を買い、徒弟を持ち、用心棒を抱えて武器も扱い、気づけば地区の有力者に成り上がっていた。或いは、運にも恵まれていたかも知れないが、用心深さと計画性に関しては舌を巻くしかない。
土嚢に守られた小屋に戦える娘たちが六人と人数分の燧石銃《フリントロック》。荒くれたちの徒党も、そう軽々しくは喧嘩を売ろうとはしない。破落戸やら浮浪徒党が食い物にしようにも、マギーは市民や牧者衆と付き合いがあり、保安官補の地位を持っている。それに命懸けの戦いになるだろう。
「なあ、徒党に加えてくれよ。絶対に役に立つからさ」言いながら、ジゼルは書類を広げた。静かに聞いているマギーの前で、酒の原材料や仕入れ、販売価格や見積もりについて一覧にし、食費や家賃を指し示して利益になると書類を提出してプレゼンを訥々と語った。「この足だ。盗人は捕まえられない。破落戸に絡まれたらショバ代も取られる。あんたの身内にして貰ったら……」言いかけたジゼルは沈黙した。マギーが手で押し留めていたからだ。
「身内にも色々とある、ジゼル」マギーは淡々と言った。駄目かしらん、と思いつつ、ジゼルは唇の端を舐めた。マギーは言葉を続ける。
「言わば、庇護と奉仕の契約。家賃と日々の食事代として、ジゼルは酒を売って金を稼ぐ。売り上げが足りない場合。怪我や病気。或いは機械の故障などで稼げなかった月でも、ジゼルを養う。小遣いとして一定額を与える。そして売り上げが一定額を越えた場合、一本当たりに利益を折半する」机の上の書類に視線を走らせながら、行商人マギーは難しい表情でジゼルをじっと見つめた。
「君が予想以上に怠けものだったら時、わたしも怒りを覚えるだろうか。売り上げが増えた時、君も不満を抱くかもな。予想外の状況も起きるかも知れん」肩を竦めてから「まあ、いいさ。契約に文句がなければ、サインしたまえ」と書類を差し出してきた。
ペンを取ってサインを行う。公的な書類ではない。マギーとジゼルの間の私的な契約書で、未来図に過ぎない。だが、兎も角もジゼルは安堵を覚えていた。
(これで飢える日は無くなる)目を閉じて、ため息を深々と洩らした。