ポレシャの商人マルグリット・モイラは、時たま、近隣の貧しい家庭にパンを配っていた。これはマギーに限った行為ではなく、地区の顔役となりつつある『陛下』やホテル経営者のベンソン兄妹。他にも簡易宿泊所を持っている地区有力者などは度々、近隣の
町外れ地区は、名称とは裏腹に結構、景気が良いので慈善に頼らなければ飢えて死ぬという住人こそ少なかったが、しかし、
元々、慈善は地区の有力者に珍しくなかったが、看板を張るという文化は、卑しい出自と噂されているベンソン兄妹が始めたものである。顔を顰めて張らない篤志家もいる一方、近所で僅かに食料を配った小金持ちがそのたびに看板を張って、長年続けてきた人物の慈善を塗り替えてしまう事例も起きた。人の記憶とは案外、曖昧な物で勿論、騙されないものも多かったが、一握りの者の尊敬なり、名誉なりを得られるなら、なりふり構わずに名声を欲する我利我利亡者も少数にしろ出てくるものだ。
町外れ地区は、ポレシャの正規の行政区画であるが、隣接する幾つかの地区も、近年は景気が良くなったのか。有力者の慈善を行うは珍しい話でもなくなっていた。勿論、外地区の胡散臭い成り上がり者たちが一握りの者に恩恵を与えようが毎年、幾人もが冬を越えられずに倒れるし、廃市街ではいまだに薪や食べ物に余裕などはないものの、これらの地区には数百から恐らく千近い人々が暮らしている。逆に言えば、ポレシャ市は、曲がりなりにも正規の住民と登録労働者、それにモグリの入植者を合わせて二千近い人々の口を兎に角も喰わせ続けていた。
当たり前だが、市が責任をもって養うのは行政区画と曲がりなりにも市の影響力を受け入れている外地区だけに限られており、その他の廃市街や廃墟区画においては、公的な福祉もなければ、篤志家も見当たらない。それでもポレシャは、比較的に善良寄りの統治機構と見做されていて、古くから存在している廃市街の住人や名簿に登録しに来た廃墟生活者には、若干の支援を行う事もあった。例え、それが雀の涙ほどの物資であっても、長い付き合いからおおよその必要量を換算し、必要な時節に薪や食料、毛布など差し入れることで多少にしろ、寒さや飢えの被害を抑えていたし、独立不羈を謳う廃市街の住人たちにしろ、より古く強力で、一応は公正に振舞う市当局を上位機構として不承不承にしろ認めていた。資源と生産の限られる黄昏の時代、公平に言って、ポレシャ市は、まずまず善政を行っていた。
ただ一つ、市の支援が届かない存在があるとしたら、それは当局に存在を認知されず、また住人たちも存在を巧みに隠して、市に接触しない様に振舞っていた者たちだろう。ポレシャ市の役人たちも、善政を行っている自負があったからこそ、数家族規模を越えながら存在を悟らせない共同体がいるとは想定していなかった。叛乱を起こす者など居ないと言う市当局の前提と思い込みは、逆に隠れた者たちを粘り深く追跡するような暴君めいた猜疑と執念深さに関しては欠けさせていた。
マギーはけして無能ではないけれど、時間的にも、思考力にもリソースの限界は存在していたし、他所の居留地で痛めつけられた放浪者たちが、ポレシャ市を信用する気になれずに慎重に距離を取っていたとは、流石に想像の埒を越えていた。
偶々、巨大蟻と寒波で大勢の難民が流れ着き、偶々、初年度の隙間で連絡に不備が生じ、偶々、赤泥のジルカが住み着いて現地の住人たちを手懐けた。
精々、十戸ほどの開拓村とマギーが想像していた赤煙突の町に、百人単位の入植者たちが住み着いており、ジルカが動員した手勢と投じた資金が、マギーの想定を上回ったのは、もう運が悪かったとしか言いようがない。
近くの高い建物を昇って、双眼鏡で確認すれば、確かに未知の兵団が北の出入り口を突破し、地区内へと侵入をし始めていた。自警団には到底止められない勢いで、自由市方面へと向かっている。どうやら、姫君の居場所に相応のあたりを付けておいたらしい。自警団員たちは臆病にも。或いは、賢明にもあっさりと退却して建物や詰め所へと避難し、敵襲来の鐘が盛んに打ち鳴らされ始めていた。
予期せぬ状況に陥るのは、戦場では偶にある事だ。それにマギーにとって想定を越えてはいたが、全くの予想外と言う訳ではなかった。仮にもマルグリット・モイラは百戦錬磨。運が悪いからと言って嘆いたり、茫然自失することもなく、ため息を吐いただけですぐに手を打った。
「ジーナ、狼煙を上げて」準備していた札を躊躇なく切った。
「マギー、もう夕方だよ。狼煙は……」ニナが言いかけて、しかし「分かってる」とマギーは頷いた。
「どれを?」ジーナ・
「全部?」確認を押してくる腹心に「全部。郊外も、救援要請も。ただし、まずは一番と二番。それに郊外から」
肯いて階段を降りていくジーナ・
「ニナ。伝令。姫さまにすぐに退避するようにと。それとリジィは、防衛の指揮を執って」マギーの言葉に、仲間たちが散っていった。
路地から銃声が響いてくる。きっと盗賊と勘違いした住人やら浮浪傭兵、無宿人《ノークォーター》などが侵入者たちと撃ち合っているのだろう。
「……どうなるかな。狼煙が届かないかも知れない。それにしてもなんだよ、もう」 建物上階の窓際で屈みこんだマギーは、そうぼやいたが、夜になって浸透されるよりは遥かにマシだと思いなおした。そして日没後に分散しての浸透攻撃を行わない以上、やはり練度は高くはないとも推測する。ならば、必ずしも攻める方が有利とは限るまい。
※※※※
銃声が響き渡る中、リリス探偵――ジルカは、身を低くして街路を進んでいた。
窓から恐る恐る覗き込んでくる者たちや冬にも拘らず、出入り口が布の小さな小屋で暮らしている一家など路傍の住人たちが様子を窺ってくるのを「顔を出すな!盗賊じゃない!賞金稼ぎの採りものだ!」呼びかけながら進んでいくが、なんの得もないのに五十人からの武装した集団に銃を撃ちかけてくる頭のおかしい人間も結構いる。
土嚢まで積まれた頑丈な建物に立て籠った一団が「くたばれ!盗賊ども!」「今日は死ぬにはいい日だ!」口々に叫びながら、マスケットやクロスボウを撃ちかけてきて通行の阻害をしてくれた。
「やめろ!俺たちは賞金稼ぎだ!公務の執行中だ!町の連中に危害は加えない」説得を呼びかけるが、「そうかよ!俺たちはデザートレンジャーだ!」言い返してくる。まるで聞き入れない。
小さな小屋で毛布を被りながら子供を抱きしめている母親などに当たらぬよう下がらせながら、兎も角も当初の予定を変更したり、抜け道を探しながら進んでいくしかない。
あらかじめ、町に潜入させておいた抜け目のない漂泊民《ジプシー》や金で雇った浮浪児らが辻や抜け道で待ち受けては、先導をしてくれる。突発的な戦闘や銃撃を避けながら、駆け足や早歩きで地区内の街路を突き進むも、屋上から撃ちかけてくる者がいる。大半がマスケットやクロスボウだが、他所の街よりも随分と武装度が高い。
反撃しようとする仲間を抑えながら「撃つな!賞金稼ぎだ!撃つな!」手を振りながら訴えると、人影が消えた。呼吸は荒い。走りながら、叫んだ。乾燥した空気に喉も乾いた。兎も角も目標が暮らしていると目される空き地の天幕へと急いだ。
北門を守る自警団は案外、あっさりと引いてくれた。当初は通す!通さない!の押し問答を躱したが、強引に突き進むも戦闘には陥らず、今は街路を駆けまわって住人たちに顔を出さないように警告して廻っている。勿論、銃を構えているし、今だって剣呑な視線を向けてきている。時間と共に、彼方は他の地区からの応援が駆けつけてくるだろう。時間は、ジルカたちの敵だ。
自由居留地圏の町の抵抗の強さはまったく想定外だったが、それでも時間配分も損耗も、予定の範囲内に留まっている。
「ウロボロスも打つ手はないだろうな」楽しげに仲間の一人が告げた。伝手を使って呼び寄せた黒騎士でもなければ、現地で雇った無宿人《ノークォーター》でもない。
勿論、一山いくらの
敵の抵抗がもう少し強いと予想していた。しかし、損耗が殆んどない。残酷なようだが、もう少し脱落すると考えていたのだ。このままでは六十人に一万二千を支払うことになりそうだ。先頭集団のすぐ背後には、黒騎士や無宿人《ノークォーター》、浮浪傭兵に牧童や部族などの混成集団が付いてきていた。今回の一件の主力となる戦闘部隊で、他は賑やかしの数合わせでしかない。
「この先の角だぜ!姉さん!自由通りに金を持った綺麗な姉ちゃんが暮らしてるんだ!」浮浪児の少女が飛び上がって案内してくれる。
「親切な人でさ。林檎くれた」そんなことを口にする。どうやら、ガルダのアーシア姫は優しい性格の持ち主らしい。
「そんな恩人を売るのかい?」と余計なことを漂泊民《ジプシー》の一人が口にする。
「だって食わなくちゃア、嘘だもの」少女が顔を歪めて泣きそうに笑った。それから真っ先に曲がり角を抜けて、直後。数発の銃声が響き、襤褸雑巾のようになった少女が街路に倒れ込んだ。一緒に曲がった逸れ牧者や部族、牧童なども呻きながら、逃げたり、反撃しようとするも「放てェ!」次の斉射で全員が動かなくなった。
マシンガンを構えた無宿人らが顔だけでそっと角を覗き込み「土嚢陣地!」と叫んだ。マシンガンで、しかし、慎重に反撃を行うも、敵の銃火は衰えない。
舌打ちしたジルカも、前へと歩き出した。曲がり角をそっと覗き込めば、確かに街路には土嚢と木箱、荷車が詰まれている。短時間で展開しやすい強固な陣地。だが、こんな陣地の報告は為されてなかった。襲撃に備えて、あらかじめ、資材を備蓄していたに違いない。なんとも用意周到なことだが、悪い話ばかりではない。どうやら本命らしい。
相手をマスケットと見、発砲直後に突っ込んだ浮浪傭兵らの数人がもんどりうって倒れた。幾人かは向こうへとたどり着いた。銃声が鳴り響くも、白煙でよく見えない。
「敵と遭遇。護衛かな」ジルカは後方に叫んだ。
「大した人数はいない筈」仲間のベスが叫ぶも、「雇い主が間違えるのも、よくある事さね」ジルカは肩を竦めた。
無宿人《ノークォーター》たちは派手な銃器を好むが、しかし、得てして大した弾数は所持していない。高性能な銃器ほど弾薬を入手しづらいものだ。加えて、黒騎士やらと比較すれば、白兵にはそれほど習熟していない。つまり、雇用した場合、強力だが瞬間的な火力しか期待できない。短期決戦を好む性情を持っている。切り札に取っておくべきか。
いや、今は切るべきだ。とジルカは決断した。
自由市場の夜警たちは飛び上がって逃げたし、自警団員たちは退却しながら様子を見ている。だが、より強力な民兵隊や市民軍が出動してくる前に抑えなければならない。短時間で突破しなければならない。
「突入しな。姫を押さえたら四千だよ」ジルカが檄を飛ばすと「おう!おう!」と戦闘部隊の面々が気勢を上げて、前に出てきた。こちら側の浮浪傭兵らに無宿人、黒騎士まで投入して一気に押し切ろうとするも、「殺せ!」叫んだ敵兵らの抵抗は恐ろしく頑強だった。土嚢を詰んで、出入り口や近辺の建物を固く守っている様相だ。
血塗れに腕を抑えた浮浪傭兵が、よろめきながら戻ってくると、首を振った。近接に持ち込むも、槍や小剣、それに長剣を振るって抵抗してくるとの報告にジルカは絶句した。
「ランツクネヒト!数は二十人以上!黒地に黄金麦穂のポレシャ旗!」
※※※※
ポレシャの旗を掲げながら駆けつけてきた男女の一団は、当初は自由労働者にも見えたが、あらかじめ空き地近くの街路に積まれていた資材を手際よく運び出してすみやかに街路に陣地を構築し、同時に着替え始めて、互いに手伝いながら胸甲を付けて鉄兜を被れば、たちまちに鮮やかな戦装束のランツクネヒトの一団がそこに出現した。保安官補の手配によって、かねてより地区近くの頑丈な建物に配置されていたランツクネヒトたちは、速やかな展開しながら陣地に布陣し、堅く守りを固める。
「始まりましたな」執事の老人が、絹服の娘へと囁きかけた。空き地の奥の椅子に腰かけた娘は、強張った表情で肯いた。
目の前では銃声が幾度となく響き渡り、剣劇や怒号が飛び交っている。槍や長剣が目まぐるしく煌めき、血の飛沫や断末魔の叫びが路地を圧していた。数の振りは否めず、三、四名が脱落したランツクネヒトたちは、空き地にまで後退したもののなおも粘り強く戦っていたし、ついで空き地の背後に面した建物から、練達の射手たちが賞金稼ぎたちを狙い撃ちし始めた。少なくとも三人。発砲は絞っているものの相当な精度のライフル。音からしても精度からしても、間違いなくマスケットではない。恐らくはボルトアクション。これに路地を固く守るランツクネヒトが二十名近くもいる。
賞金稼ぎたちは恐ろしい人数であったが、保安官補の手配も尋常ではなく、賞金稼ぎ側は少なくとも、ランツクネヒトの被害の倍以上が死傷したに違いない。
夕暮れの日差しの中、ランツクネヒトがふらつきながら水瓶に歩み寄って倒れた。血が地面へと広がる。賞金稼ぎ側は、もっと甚大な被害を受けているだろう。リボルバーを持った無宿人《ノークォーター》の腕が切り落とされて、路地に転がっている。折れた槍が背に突き刺さった部族の女戦士が、壁にしがみ付いてこと切れていた。赤い血が夕陽を受けて、燃えるように煌めいていた。
二度の突撃を撃退し、ランツクネヒトは奮戦していた。しかし、さすがに数の差ばかりはいかんともしがたく、じりじりと押されてもいた。三度目の突入が始まり、今度は
「アーシア・オブ・ガルダ!」姫君の名を呼ぶ声が賞金稼ぎの奥から響いてくる。ランツクネヒトの隊列が崩れ始めたのを見、逃げ場のない状況に陥落は時間の問題と見て取ったか。娘が立ち上がると、空き地の隅に歩み寄った。壁を手で押すと、奇怪にも頑丈なはずの煉瓦の壁が嘘のようにたわみ、音を立てて崩れて抜け道が出現した。
怒りの叫びを上げた賞金稼ぎたちへと振り返った娘が冷ややかに微笑み、優雅に一礼してから、身を翻して抜け道へと姿を消した。老執事と女衛兵が娘を追い、侍女が目に包帯を巻いた兵士を連れて後に続いた。
「手下に戦わせて、てめぇは逃げる気か!」詰め寄ってきた女賞金稼ぎの前に、「ここは通さぬ」隻腕の騎士が立ちはだかった。失われた手には、しかし、鋼の義腕が備えられており、先端は分厚い刃が備わっていた。
危険なほどの速度と膂力の打ち込みをランツクネヒトの鋭鋒を潜り抜けたジルカ側の太った黒騎士が辛うじて受け止める。
「グスタフ!」賞金稼ぎの女が叫ぶのを背後に聞きながら「リリス!行け!」黒騎士が叫んだ。
「助かる!」隻腕の騎士の前を駆け抜ける賞金稼ぎの背に、「報酬は弾めよ!」肥満した騎士が陽気な声を掛けた。