マギーの家は、だから徒弟や身内が同居する住まいとして、かなり快適な類に属していた。些か手狭にせよ、安全で暖かく、床もしっかりと高く、雪解け水も入り込まない。床下の断熱材としてポリスチレンが敷かれ、さらに板張りされてニスも塗られている。ささくれが足に刺さることもない。素晴らしい廃屋を見つけたり、家主から良い部屋を借りたなどの幸運な例外を除けば、元
曠野に家を建てる際、特に雪解け水は、もっとも厄介な悩みの為だ。雨も、雪も、それ単独なら防げるが、壁に面した雪解け水は、相当に床を高くしておく必要がある。壁際だけでも高くしておかないと、段ボールハウスなどの簡易壁では、床に面した地面から室内へと水がしみ込んできてしまう。だから、天幕などは高いところに建てるし、粘土や土壁、段ボールの家などは、定期的に壁を作り替えたりもする。
出来れば、床周りには土だけではなく、煉瓦と漆喰も後で積み上げておいた方が望ましい。壁のカレンダーには様々な工事予定や必要資材の計算が記されていたが、同時に皆から増築も求められていた。増築するには、まず移動式の屋根を作って大きく広げ、それから晴れの続く日を見繕い、壁も外して移動させる。さらには床周りも防水しなければならない。眠れる部屋にするなら、さらにポリスチレンと板張りが必要だし、釘も必要だ。新しい囲炉裏も必要になるし、薪の消費量も増えるだろう。徒弟たちも寝台を欲しがっている。マギーだけが寝椅子を使っていては、不満も溜まる。兎に角、まずは家を大きくする。その為の設計図が壁に掛けられており、要望ある人は書面にして提出、などと壁に追記されてある。
通常、かなり裕福な庶民――行商人や屋台持ち、職工に土地持ち農民などでも、家を維持するのがやっとなのは、建築資材が貴重とまではいわないが、大量には入手しづらいからだ。庶民は手持ちの金にそれほど余裕がない。資材の購入は大抵、先払いで何時手に入るかも分からない。手に入っても必要量とは限らず、劣化したり、盗まれてしまうかも知れない。だから、大抵は在りもので妥協するし、どうしたって現状維持が優先される。小さな居留地では、新しい住居が増えるのも珍しい。さほど頑丈ではない家でも生存できるような壁に守られた町でも、大半が粘土壁の小さな藁ぶき小屋や布に段ボールの天幕ばかりとなる。
一から家屋を建てるのは、ジョージアには無理だ。収入の問題だけではない。数年先の未来を信じられない。収入と支出を計算しながら土地を買い、根気よく天幕小屋を大きくし、徒弟を養い、土嚢を積んだ敷地に、頑丈な煙突付きの小屋を建てる。殺伐とした生き様を晒していたマギーの、一体なにがそれだけの営みを続けさせているのか。
「あいつ、組織化とか段取りに優れているなぁ」分からないことは置いて、ジョージアはおのれが不得意な領域に素直に感心してみせた。「俺にはない能力だ」なんてぼやいてるいると、リリーは「ジョージアはんのええところは、うちが知ってます」と囁いてきた。
微笑みを交わし、二人で食事に出掛ける。市民街区や中町に出かけるのは億劫に過ぎた。乗合馬車なども不定期で、殆んどない時期だ。だから、地区で店を探すとなるも、リリーよりも美味しい食事を作る場所など殆んど見当たらない。ジョージアがそんなことを言うと、リリーはくすくすと笑った。
冬の日に二人で街路を歩いた。そんな事だけでも無性に楽しかった。結局、地区の出入り口近くで、旅人やら隊商向けの飯どころへと入った。何時もの店で、今の時期は開店休業状態だが、旨い食材を取り揃えている。季節で値段は変動する。冬は最高に高いが、リリーもジョージアも気にしなかった。壁際のテーブル席に案内される。足元には古びたが清潔な絨毯。落ち付いた木造りの壁。浮彫装飾の丸窓には、厚紙が張られており外の光を取り入れている。窓は外開きではない。内側から閉められるのは、外に野生動物やら怪物、特に屍者が出るのを警戒してだろう。
彫刻は欠落し、絨毯は色褪せている。廃墟で拾い集めた品なのだろうか。壁には、マスケット銃と槍が飾られていた。残骸を拾って、それでも店主は誇らしげに美しい場所を作っている。かつての世界はどれほどに美しかったのだろう。何故、人間は壊してしまったのだろう。(俺たちにはふさわしい街さ)ジョージアは笑った。
テーブルに蝋燭がつけられた。鳥の香草焼き。芋と人参のグラッセ。ソースはワインと胡椒、バターは分かるが、それ以上は分からない。醤油だろうか。
食事をしていると、店のボーイが少し外に出た。暫くして、ヴァイオリンを持った旅芸人――フェルトン一座の座長を連れて戻ってくる。顔見知りの座長は、ジョージアを見て目を瞠ったが、なにも言わずにヴァイオリンを構えると演奏をし始めた。
ジョージアも驚き、それから苦笑を浮かべると立ち上がった。
「踊ろう」ジョージアが誘うとリリーは躊躇を見せた。
「でも、うちは……踊った事なんて」
「大丈夫、リードする」腕を差し伸ばすと、信じて手を取った。
「夢みたいです」リリーが胸元で囁いた。「夢じゃないさ」
リリーが身を委ねながら、そっと目を閉じた。ヴァイオリンが静かに奏でられ続けている。料理人がカウンターで肘を付きながら、聞き入っていた。古びた店のテーブルに蝋燭が揺れていた。外には荒野が広がり、屍者や変異獣が彷徨っている。冬の曇天は覆いかぶさり、冷気が通りを吹き抜けていた。
まだ、肌は重ねない。結婚するまでは、とリリーの気持ちをジョージアも受け入れていた。ランタンの光が揺れていた。
高めの店に、冬の客は少ない。通りを挟んだ反対側には、簡易宿泊所に隣接した安酒場があり、十リットルのエールを格安で飲める。それなりに金の有る庶民層が利用しているのだろう。陽気な笑い声や吠えるような歌声がここまで響いてくる。
テーブルに座り、互いの過去を話した。その時にフェルトンも昔の知り合いだと紹介する。コートを脱いでいるフェルトンは、「初めまして、美しいお嬢さん」とやや草臥れたタキシード姿で恭しく一礼してきた。実際は一度、マギーの家で招かれた座長と会っているけれど、リリーは「初めまして」と頷いた。相手の間違いを指摘しても意味がないし、きちんと面識を持ち合ったのは、今日が初めてだからだ。眼帯をした女なんて沢山いるもの。
口に出来る話もあれば、出来ない話。しない話もあった。互いにそれほど口数の多い方ではない。訥々と語っているうちに沈黙が訪れた。ジョージアが目を伏せると、リリーが掌で触れてきた。「なにか、悩んでおるん?」囁くような言葉。ジョージアは周囲を一瞥し、口元を近づけて囁くように「マギーのことだ」
「……マギー?」友人の名を呟いたリリー。別の女の話、とは受け取らなかったようだ。
「この間の仕事の延長だ。今、難しい敵を相手にしている」悩んだようにジョージアは告げた。
「そんな強い相手なんですの?」とリリー。
「手強い」と断言したジョージアが「死手《デスハンズ》のグレアム」掠れるような声で名を告げた。
「昔の俺の同僚だもの」ジョージアの言葉が響き渡ると、店の隅で暖かな茶を振舞われていたフェルトンが奇妙に身動ぎをし「……グレアム坊や、か」と静かに囁いた。
ジョージアの父ウルススは、かつて巡回
「あんな綺麗な人は、中々にいなかったよ」フェルトン座長が懐かしむように遠くを見た。ジョアンナの美貌の為に夫婦は非業の最後を遂げることになったのだが、その地の領主マクガイア兄弟は、中々に趣味の悪いアイディアマンだった。孤児や奴隷を集めて、死をすれすれの教練を叩き込んだ。死を恐れず、使い捨てに出来る精兵を造ろうと考えたのだ。手強い敵へと投入され、兵士をできるだけ多く道連れにし、かつ、裏切ったとしても、さほど痛手とはならない程度の力量と装備を併せ持った若き精兵たちは【
その為に呼び寄せられたのが【黒犬】と呼ばれる男――父ウルススを殺した傭兵ジュドーであり、母ジョアンナを監禁して犯し、自殺まで追い込んだ男だ。名も知らない弟か、妹かは、母の自死の切っ掛けとなったジョージアを憎んでいるだろうか。まったく恐ろしい事を考える連中だったが、マグガイア兄弟をして領地の拡大は遅々として進まなかった。群小の領土の領主たちの誰一人として、一筋縄でいかない相手だったからだ。
【
馴染んだ村娘が刺客で毒殺された者もいる。裏切りの書簡がマクガイア兄弟に知られて、内応を受けていた敵陣営に逃げ出した者もいた。そもそもその裏切りの書簡自体が、でっち上げだったのだから、相手の役者が一枚上だったのだろう。孤児だと思っていたのが、慈善卿と呼ばれる貴族に身内の妹を探し出され、遠来の地に去るよう金を受け取って逃げたものもいた。結局、マクガイア兄弟は、孤児たちの精鋭部隊を切り捨てた。金と手間を掛けた割に、あっさりと対策されたからだ。密かにやるべきだったな。と笑いながら、怪物どもは、今も別の悪だくみを目論んでいるのだろう。
布巾でコップ磨きをしていた店主にも、興味を惹かれる話ではあるのだろう。耳を傾けていたが、俺が聴いてていいのかな。と言う顔もしている。
「隠すような話でもないさ。別に他人に言って周る人でもないだろう」すると肩を竦めて、店主は無言でコップ磨きに戻った。ジョージアは身の程を知り過ぎるほどに知っている。ただの土豪や旗騎士《バナレット》。英雄譚では端役にも成れない無名の小領主たちの誰もが、一筋縄ではいかない一角の男たちや女であり、幾らかは苦戦したにしろ、超人的な鍛錬を積んだはずの【
リリーは泣いていた。「酷すぎるわ」ジョージアに抱き着いた。「俺の為に泣いてくれるのは、もうリリーさんだけだ」涙を拭いながらジョージアがそう言うと、座長が涙を浮かべながら、自分を指さしていた。それを見て、ジョージアは笑い、リリーも笑い、店主も笑った。
「ジルカはその時、マクガイア兄弟に使われていた。いや、多分、連携していた漂泊民の隊商にいた少女だった。幼馴染だよ」ジョージアの言に、リリーは疲れた表情で首を振るう。
「びっくりしたねぇ。あのジルカが赤泥の名を継いでね」フェルトン座長がため息を漏らした。
「グレアム……さんが、そんなに強いんなら。それでセシリアちゃんたちを狙っておるなら……マギーは勝てるやろか?」不安そうなリリーの言。
「分からない」ジョージアは首を振った。グレアムは手練だが、マギーも只者ではない。どちらにせよ、容易い勝負にはならないだろう。二人ともの手腕を知るジョージアにしてからが、強者同士の戦いに予想は付かなかった。
※※※※
騎士道華やかなりし中世欧州の世。農村に生まれ育った農民の大半は、生涯を通じて生まれた村から一日以上離れた土地へ赴くことが無かったとも言われている。
しかし、逆に言えば、殆んどの農民が生まれ故郷を失うことなく、一生涯を終える事の出来た時代とも言えるのではないかと、マギーなどは思うのだ。
曠野の旅は、過酷である。ほんの一日を旅するのに命懸けにならざるを得ない。
ポレシャ市とズール都の間を、通算で百度以上は往来したが、何時も命懸けであった。噂の収集と偵察は常に欠かさないが、集中力と体力、時間に限りがあるから、どうしてたって時々は隙間が生じる。逃げられない瞬間――逢魔が時に、備えが足らず、相手の戦力が明白に上回っていたら恐らく死ぬだろう。とは言え、都市間の街道筋や近場の丘陵地帯だ。盗賊団以外なら、いずれは対処できると密かに確信していた。時間と共に武装や練度、人数は向上している。破滅の来訪と力の蓄積のどちらが早いかは、マギーにも分からない。
他の商人連中も、相応に手を打っているのだろうか。或いは、南周りの関所を持つ土豪たちと免税交渉を行っている者らや、マギーに想像の付かない搦手を使ってる者もいるかもしれない。安全な壁の内側から貪欲に搾取や寄生を目論む者もいるだろうし、まだ真っ当な取引を望む者もいるだろう。前者もまた、盗賊たちとは別の形の脅威であるし、競争相手も少なくない。
それでも、盗賊や変異獣の目撃証言に経路は変えるし、屍者や巨大蟻を見かけて迂回する時もあった。野犬や狼、熊の噂があれば、他のよく顔を見かける旅人たちとつるむ。野生動物や一部の変異獣も、大勢で行動すれば襲ってこない。屍者や巨大蟻、少数の変異獣くらいなら、身を伏せてやり過ごす時もあれば、他の旅人と力を合わせて戦う状況もあった。時に、囮の噂が流されたり、盗賊団や蛮族、追いはぎの手先や密偵が混じっていることもあるが――捕まって身代金を払う時もあれば、蛮族や追いはぎ相手に血路を切り開いた経験もあった。手に負えない乱戦では、他の旅人が戦ってる合間に逃げたりもする。裏切りではない。契約をした時は全力を尽くすし、また仲間と一時的な同行者は違う。旅人たちは、窮地でそれぞれの判断と運を問われる。
少数の時が有利な状況もある。盗賊や変異獣に襲われるよりは、巨大蟻や屍者の目撃された場所を突っ切る方がマシだろうか。変異獣も外骨格が弱い銃弾くらい弾く装甲狼から、大口の豚みたいな見た目の奴まで多種多様だが、大抵は人より足が速くて手ごわい相手だ。勝てそうもない大群に襲われた時は、旅人の旅隊もばらばらに散って逃げる。運の悪い奴が喰われる。足が速くて運のいい奴が生き残る。全力疾走なら、追いつかれるにしても多少、拮抗出来なくもないから、常に地図は見ながら逃げ込める旅籠の位置も確認している。分からない。常に不確定要素は絡んでくる。
巨大な装甲狼を遠目に見かければ、死に物狂いで逃げたりする時もあった。傭兵時代のマギーちゃんが、勝てるか分からないと好敵手視していた冒険団が装甲狼の
多分、今年、最後の旅になるだろう。零下十度の気温の中、ゆっくりとした歩調で冬の丘陵地帯を日中のうちに踏破した。昨年の大寒波より随分と暖かかったから、防寒具の性能を試せた。問題はない。一時間の歩く距離や地図での位置確認。途中で汗を拭くための休息は特に入念に行った。
ジーナ・
冷たい風が吹きつける中、自由都市ズールの城門に近づいていった。城門へと続く街路の路傍では、後ろ手に縛られた黒装束の男たちが柱に吊るされて揺れていた。よく見れば、女もいる。【私は密輸業者です】と書いた看板を胸に吊るしていた。
マギーは鼻を鳴らした。吊るされてるのは【密輸同盟】の構成員ではない。
連中は国境を跨いだ超国家的な結社で、その密輸が差すのは領域国家を越えた中継貿易だ。連中の城塞の軍事力と権力・財力がズール総軍を遥かに上回っている――歯牙にも掛けていないのは、公然の秘密であろう。そして【密輸同盟】は、都市相手の密輸には興味を示さず、その倉庫保管料は自由都市ズールを潤している。
妙な言い方になるが、目の前の連中は、真っ当な木っ端密輸業者であり、これは中小の同業者へと向けた警告でもあるのだ。マギーちゃんは今のところ、大丈夫だ。防壁の外で取引される灰色の免税品しか扱っていない。とは言え、今回処刑された連中に関しては、後で調べておいた方がよかろう。大抵の法執行官――凡庸な役人は、常に手元の権限拡大の為、いろいろな理屈を捻り出す人種だ。マギーちゃんもポレシャ市で時々、同種の誘惑に駆られるように。