焼け跡が刻まれた館の大広間には、男と女の淫臭、そして恐怖の気配が充満していた。大テーブルには豚や鵞鳥の丸焼き、鳩のパテ、鹿肉のロースト、燻製ハムにチーズ、無花果、樽から注がれた葡萄酒が所狭しと並べられ、食い荒らされていた。
床や壁際では、屈強な男たちの一団と若い女たちが裸で媾っている。黒騎士たちと、征服されたガルダの地の女たちだ。見目好い女が揃っている。村娘や運の悪い旅人もいれば、高貴な生まれの娘たちに押し入った神殿や修道院からかどわかされた娘たちもいた。黒騎士たちが父親や夫を切り殺し、馬蹄に踏み躙り、銃殺して奪い取った戦利品。より取り見取りに抱き、飽きれば売る。売られないように必死に媚びる娘もいれば、何の反応も見せない娘もいた。
一際、強靭な肉体を持った偉丈夫が中央に座していた。汁の滴る分厚い肉を食いちぎり、咀嚼している。背丈はそれほどでもないが、肉体の厚さが尋常ではない。古木を思わせるほどに首と腕が太く、胴回りには無数の傷跡がまだら模様の如くに刻まれていた。酌をしている女の表情は恐怖に拠るものか、強張っていた。傍らには暴君の機嫌を損ねたか。首をへし折られた女の死体が床に無残に転がっている。
男が食事の手を止めた。「鼠か」吐き捨てるように言うと、「旦那、おひさしゅうございます」灰色のフードが柱の陰でくぐもった笑みを洩らした。酒瓶を持っていた女が息を呑み、瓶を取り落とした。そこに居たことにまるで気づいてなかったからだ。
「雇い主殿からの書簡です」灰色のフードが手紙を差し出した。粗相に脅える女を他所に、屈強の男はひったくる様にして奪い取り、暖炉の炎に翳す、と「ジルカめ!大言壮語吐きながら、失敗しおったわ!」呵々大笑する。
太い腕で女を抱き寄せながら「喜べ。お前たちの主、アーシアはまだ逃げ延びてるようだ。命冥加な事よ」獰猛に牙を剥いた。
「ひ、姫さまが……」ガルダ人の娘が呟いた。
「うん?嬉しくないのか?」男が問いかけると、強張った女の表情が無理に笑みを浮かべた。「ど、どうか、お手柔らかに……」
「そうだな。アーシアは小娘だと聞いている。優しくしてやらねばな」笑いながら突き飛ばした。
「ハーケン!コルム!」男が怒声を上げた。
「はい!団長!」捕虜の女たちを弄っていた男たちが立ち上がった。
「出立の準備をしろ!目的地はポレシャ市!アーシアがいる!」
「遠出になりますなぁ」と一人が言い、もう一人はポレシャと聞いて心当たりがあったのか。「すると、相手はスネイクバイトですか」呟いてから、「いい女だと聞いてますぜ」ニヤリと笑った。
「それに保安官のキャシディ・エヴァンスも、美人だそうだ」「丁度、いい。南の女どもは喰い飽きたな」部下たちは口々に言い合った。
男が荒々しく廊下を歩きだすと、「しかし、雇い主殿。えらく小娘ひとりに執着していますな」付いてきたコルムが肩を竦める。
今は自室としている領主の部屋で机の上に広げた古文書を一瞥すると、「アーシア・オブ・ガルダは鍵だ」男は獰猛に笑った。
「鍵ですかい?」とハーケン。
「ガルダ歴代の遺産のな。アーシアを手に入れたものが、その鍵も手に入れる」と頭目の返答に、ハーケンとコルムは目を合わせた。
「……すると」
「いいや。勿論、任務は果たすさ。アーシアは望み通り、雇い主に引き渡すとも」団長の解答に、勿体ねぇ、と呟く二人の部下だが、男は言葉をつづけた。
「だが、別に鍵として使ってから引き渡したとしても、契約を破った事にはなるまいよ」頭目の法的解釈に、再び顔を見合わせた二人の部下が獰猛な笑みを浮かべ、気の利いた冗談でも聞いたように笑い始めた。
※※※※
議事堂に入ってきた議長は、時計を一瞥してから、参議たちを見まわした。
「諸君、些か時間が押している。まずは昨年までの寒波で痛手を受けた農場と農村、そして自由農民たちへの貸し付けについて話そう」そう宣言すると、ざわつく中を書類を取り出して読み上げ始める。「大手農場に対しては貸付と、中小には援助で。我々の庇護下にある自由農民には減税の嘆願が……」
「市長!いや、議長!」先刻まで亡命者問題を追及していた髭爺が発言を遮ったが、直後、シエル・ガライがかなり強く咳払いした。髭爺が睨み返すも「それと我々の小作人も」横合いでは市民参事の一人が、議長に向かって淡々と注文を付けてくる。
シエルは隣席の人物。農村の参事らと耳打ちし合いながら、露骨に不快そうに議長とそれから髭爺を睨みつけてくる。
髭爺は怯んだ。農村や農場、自由農民。そして市営の麦畑と小作人は、ポレシャ市の重要な財源でおろそかには出来ない問題だ。味方を求めるように周囲を見回すも今回、髭爺に賛同する人間たちはいない。
「前からねじ込まれてた小作人への支援も……」議長は明らかに気が進まない様子で、皮肉っぽく呟きながらも議会を進行している。
苦い表情を浮かべる髭爺だが、名家から選出された常任参事ではない。選挙によって選ばれた参事として、票を動かせるガライ家と真正面から事を構えるのはよろしくない。協力を求めるようにガライ家の兄を見るも、ガライ家の兄が肩を竦めた。複雑な関係の兄妹は、別に不仲でもないが、歩調を合わせたりはしない。
重要な議題に誰もが本腰で議論に乗り出した。一時間や二時間の調整や話し合いで決着のつく問題ではない。しかし、喫緊の課題でもある。つまり妥協できる最低限の線と、緊急の支援は決めてから、残りは綱引きを行うと言う形になるが、取りあえずの責務は果たした。皆が救われる形にはなった。だからこそ、残余の利権を巡っては、遠慮仮借なく権益を追求し、懸念を表明し、問題を指摘し、時に罵り合い、詭弁や修辞《レトリック》を使い、適当な約束と妥協、取引が飛び交った。会議は深夜にまで及び、幾度か、小休止が挟まれ、軽食と炭が持ち込まれ、結局、詰め切れずに後日、再開の運びとなった。
零下十度を下回る深夜での帰宅は、市民さえ危険であるから、議事堂への泊まり込みとなった。日の出と共に帰還し、さらに蠢動する者たちは、冬の市内を動き回って、次の参事会までに負担と支援の調整を詰めるのだ。近隣農村を入れて総人口が二千。自治区含めて三千程度の小都市国家でさえ、利害調整にこの有様である。小国並立の時代であれば、それは有能な王侯の支配する封土諸邦にはきっと戦争では及ぶまい。劣ってさえいるかもしれない。理念も幻想かなと思いつつ、黄昏の時代。それでも悠長な手順を踏むことを好み、体たらくとは捉えない者たちが、辺土の片隅で自由主義共同体を維持し続けていた。
深夜の議事堂の廊下の突き当たりで、スタンフィールド氏は高価な一枚岩のガラス窓から外の雪景色を眺めていた。
ぶさ犬を抱えながら背後から歩み寄ったシエル・ガライが、耳の近くで囁いた。
「とりま、一週間は稼いであげたわ。その後、年末には、またねじ込まれるわよ」
シエル・ガライは農場経営者だから農民に近い立場である。元々、動くつもりだったのを、ついでにスタンフィールド氏への貸しにしたのかも知れない。同時に農村部や小作人たちに対しても、味方として働いて見せた。
(やるもんだ)思いつつ、スタンフィールド氏も億尾にも出さなかった。むしろ、そのくらい出来なければ、参事会で手を組む意味がない。
「うん。感謝する。次の議会までには何とかするよ」スタンフィールド氏は頷いた。
※※※※
十二月も下旬――小屋を出れば、一面の雪化粧が広がっていた。
幻想的に見えて、実際、冷涼な土地の人間としてはうんざりする光景である。
寒い。冷気が押し寄せてくる。真冬本番の一月後半から二月半ばよりは幾分ましではあるのだけれど。トリスと猫耳ココは厚着を纏った。何時もの兵隊風ではなく、行商団の徒弟装束だ。でも、燧石銃《フリントロック》を担いで、軍用コートなので、外見は余り変わらない。半長靴をきっちりと履き込んで、調子を見る。
ニナと用心棒リジィ、料理人リリーと手伝いルー。居候のジゼルは留守番だ。ジゼルが見送りに出てきた。短期間で楽な暮らしに適応したと見えて、暖かい服を纏いながら、欠伸を噛み殺している。とは言え、ジゼルの密造酒の醸造器を潰してしまったのは親方マギーなので、追い出す訳にもいかない。それに設計書やら知識を見せもすれば、確かにただの穀潰しではないと思わせるだけの強かさも見せてくる。同様に厚着を着込んだセシリアのマフラーの襟を詰めたりしてやっていた。「空気の隙間を無くすんだ。意識してね」などと言いながら、世話を焼いているところは年上のお姉ちゃんだ。
三人で路地を出て表通りに向かい、予定より一時間ほど早く付いたので、馬車の停泊所で予約票を裏返して掛けておいた。それから手近なお店へと入って、お茶を飲みつつ、トイレを済ませたり、本を読んだり、適当な世間話するうちに、門前町行の乗合馬車がやってきた。賃金を払いながら、後ろに乗り込んだ。単なる荷車である。雪も雨も防げない。そもそも運航が中止になりやすい。冬でも二時間掛からない距離なので、庶民は大抵歩きだ。少し余裕のある行商団の徒弟なので、銅貨の運賃を支払う余裕があった。
歩くのと大して変わらない速度で、地区と地区を結ぶ街道をゴトゴトと荷車に揺られながら移動する。時々、屍者や野犬、コヨーテや巨大蟻が路上に立ちはだかるので戦闘になることはある。御者と三人、他の客も警戒はしている。少数の屍者や野犬なら何とでもなるが、狼の群れや中型の変異獣だと洒落にならない。旅人の話によれば、他所の村や居留地では度々、被害者が出ているそうだ。
中町にたどり着いた。御者が「三十分!三十分」と言いながら、ラッパを鳴らした。里帰りだ、と世間話していた、女が幼児を抱きながら降りた。三十分の停車。歩く方が早い気もする。白い息を吐いている馬の身体を、御者が拭いていた。猫耳ココが公衆トイレに駆け込んだ。新聞を荷下ろしている。曠野から入ってきた外の居留地の新聞だ。珍しく乗合馬車に客が並んでいるが、降りる客は少なかった。空席が足りなければ、新しい客は乗れない。出発間際、猫耳ココが戻ってくると、並んでいた親子連れがガッカリした様子で、後ろの男へと席を譲った。「出発!」景気よく御者が叫び、再び、馬車が動き始める。
問題はなく門前町へと到着した。三人で通りを歩いて、市民街区への検問も顔パスで通り過ぎた。
「議会の動向なら、フー爺か、メルを探すニャ」言いながら猫耳ココが近場の酒場に入っていったが、すぐに戻ってきた。「ニャー」と門前町を指さした。三人で門前町地区に戻りながら、
「誰ですって?」セシリアが首を傾げた。
「フーシェさんは、掃除夫」徒弟トリスは「議事堂で掃除をして……もう四十年近いんじゃないかな。少なくとも三十年は勤めている」と説明する。
「召使いとか雑役夫とかには、独自の繋がりがあるんだ。馬丁《ばてい》とか、徒弟とか、掃除夫とか、噂話を交換したりする。状況を知ったからと言って、なにが出来るとも限らないけれど……」
門前町の心当たりのあるやや安めの酒場の三軒目でフーシェ爺さんを見つけたので、三人組はビールを奢って話を聞きだした。正直にセシリアは亡命者の一員であり、議会の動向が気になっていると打ち明けた。嘘はない方がいいのだ。小柄な鼻の赤い眼鏡のフーシェ老人は、毛糸の帽子を被っていた。美少女の涙とアルコールの力によって、フーシェ爺さんは、打ち明けて問題ない範囲で見聞きした情報を打ち明けてくれた。それからも徒弟トリスと猫耳ココは、日中を場末の食堂やら安酒場を歩き回っては、議事堂の馬丁や参事たちの召使い、事務員や下級の書記などから話を聞いて廻った。また、別に後ろ暗い活動でもなかったので、衛兵に聞かれた際には、素直に答えた。亡命者襲撃を行った賞金稼ぎたちに対して、一戦交えた保安官補の徒弟である。ガルダ人亡命者の娘が、自分たちの処遇を知りたいと言う話に、衛兵たちも素直に納得して、すぐに放してくれた。
日没頃に酒場を兼ねた木賃宿の暖炉近くの床に肩を寄せ合いながら、ノートを取り出して、話を纏める。
「話を纏めると、参事会も割れてる。髭爺が姫さまを逮捕して引き渡そうって訴えてる」トリスが囁いた。相手方の提示した20000大陸通貨につられた訳でもあるまいが、追跡中の戦争犯罪者と言う言い分はそれなりに効いてるようだ。
「糞爺ニャ」猫耳ココは口が悪い。
「で、パオロ爺さんが頑張ってる」トリスが呟いた。
外では風が唸っている。猫耳ココがにゃあ、と尋ねて「スタンフィーは、別に何も」トリスが首を振った。
「……役に立たねぇニャ」ココは酷評した。
「問題は髭爺だよ。参事たちが向こうよりなのもおかしい。政治的亡命者には、普段はもう少し親切だからね」コーヒーハウスで時々、週刊新聞も読んでいるトリスは違和感を訴えた。
「この間の市街戦が原因かとも思ったけど、召使い情報では、髭爺の家に見慣れない客人が滞在している。この噂を仕入れるのに、ちょっとお金を使ったんだけど。まあ、冒険で使うのはいいんだけどさ。敵の使者だと思う。資金が流れてんじゃないかなぁ」トリスの結論にセシリアは難しい表情をしていた。
「それが分かっても、なにか手を打てる訳でもないけど。姫さまに報告してみるね」
なんとも厄介な情勢だ。アーシア姫の身柄を一部の参事だけで秘匿していたのが悪い方向に作用していた。大半のポレシャの参事たちにとって、最初に耳にしたアーシア姫に関する第一報は、いきなり引き起こされた市街戦の片方の当事者である。厄介ごとを持ち込み、しかも、いきなり戦闘を起こした南方の国で手配中の戦争犯罪者。この印象をひっくり返すのは容易ではなかった。
事情通の乞食なり、新聞記者。或いは酒場の店主なりに小金を払えば、アーシア姫を守るために動いたのが、地区保安官のマギー親方であること。親方と近しく付き合っているのがパオロ・ジャッコーニ参事であること。そこからアーシア姫が誰の庇護を受けているのかを結びつけるのは簡単であるし、ジャッコーニ参事と不仲で、かつ有力な参事の髭爺の事だって半日もあれば調べられるだろう。
「それにしても、アーシア姫の身柄には20000大陸通貨だってさ。うちの親方だってそんなに持ってないよ、多分」トリスはぼやいた。
「にゃあー」とココが唸って、トリスは肩を竦める。
「確かにね。割に合うのかなってくらいにしつこいし。姫さまだって普通は親戚の家に逃げ込むものだろう。なにかしら、ポレシャ市に逃げ込む理由もあったのかしらん?」訝しげにセシリアを見つめたが、侍女見習いの少女は肩を竦めただけだった。
※※※※
賞金稼ぎ・赤泥のジルカとその手勢が壊滅した直後、地区の出入り口や壁で斥候に配置していた浮浪者《ホーボー》や浮浪児《ストリートチルドレン》の幾人かは、ポレシャ市からいち早く離脱するジルカ側の敗残兵を確認していた。マギーちゃんが確認したところでは、それらの敗残兵は、悉く南の方面へと向かったそうだ。
そして第二に捕虜としたジルカの仲間への尋問の結果、ジルカが敗走した場合、雇い主は第二陣として黒騎士グレアムを投入する可能性が高いそうだ。以上の結果から、マギーちゃんは、黒騎士グレアムとその手勢が北上してくる可能性が高いと見て、手持ちの斥候を動かしながら、対策を練ることにした。斥候と言っても徒党の部下ではなく、お金で雇える比較的に親しい狩人や自由騎兵でしかない。つまり、お金がかなり掛かる。
勿論、外れる可能性はある。黒騎士グレアムが動かない。或いは、年明けでの襲来をしてくる場合、マギーちゃんは最悪、偉い人に掛け合って兵士を動かした上に空振りしたお間抜けさんになってしまう。その場合も、最低限の経費は負担できるので責任を取らされる結末がないのは幸いだが、評価が落ちることは否めない。
「失敗したら、お馬鹿さんとでも笑ってください。経費は払いますが、まあ、念のためです」色々と動いて働きかけながらも、見込みは半々以上だが念の為の備えは怠らない。生きていれば、どうしたって失敗はある。「年明けかも知れません」と外れた際の言い訳も予めしておいた。しかし、二度とも外れたら、大馬鹿である。つまるところ、世の中はなるようにしかならない。なるようになーれ!(やけくそ)
自由都市ズールの商業地区で穀物商店に下宿しているマギーちゃんは、何時《いつ》ものように出来るだけの手配は済ませたものの「出掛けたくないよぉ」と寝台に寝そべりながら軽く唸ってた。
「こら、出かける準備しなさい」ジーナ・
「胃が痛い。なんで会合に副頭取出てくるんですか」マギーは寝台の上で厭々と首を振った。
「それだけ大きな話なんでしょう」とジーナ・
「うぅ、気が進みませんよ」マギーは、怖気を振るってる。
「黒騎士より怖がっているように見えます」ジーナが言うと「恐いですよ」マギーは衒いなく告げた。
「どんだけ恐いんですか。冷や汗吹いてるじゃないですか」呆れたようなジーナ・
「昔、一緒に儲けようって、あの人のスカウトを断ったんですよ。オーの部下の方が面白い。後悔なんてしないって。格好良く」マギーが頭を抱えた。
「それがおめおめと(オーを)死なせてしまうし、行商して関税逃れの灰色の品でセコい金儲けに精励してる現状なんて知られたくないです。いや、絶対に知られてる」
それから、ジーナを見つめて、ぽつりと呟いた。
「いや、よく考えたら、あれです。他の者に交渉任せてもいい訳ですね」
「務まりませんよ。それに貴方、言ってたじゃないですか。グレアムは騎行戦術してくるかもしれない。農村や農場襲ったり、ならずものや盗賊と合流して、神出鬼没になるかも知れないって……人々の命と、個人的な恐怖のどっちが重いんですか」
窘められたマギーちゃん。「うぅ、人の命で御座いますぅ」渋々と起き上がると、着替えて銀行へと向かった。
「かと言って辛くない訳でもない。勘違いした受付嬢とかが、貧乏人への軽蔑の眼差しと共に、私たちを追い払ってくれませんかね。三文小説みたいに」道中も馬鹿みたいな願望を口から垂れ流していた。
ズール交易銀行【Zoul Mercantile Bank】。通称ZMBは、自由都市第二の資金力を誇る商業勢力である。不動の第一位【密輸同盟】にとっては、ズールさえも領域国家間の中継貿易拠点を置いているだけの辺境都市に過ぎず、都市内の勢力争いには殆んど関心を示さない。つまりZMBは、自由都市ズールにおいては、並ぶもの無き権勢を誇る最大の金融機関であった。活動は多岐に渡る。商人や商会・隊商への融資。傭兵団との仲介。為替・送金。商品取引に倉庫業。保険や投資の取り扱い。交易路への出資など様々だが、最大の利益をもたらしているのは、通貨造幣であった。技術力の高さから、他国の貨幣鋳造や紙幣発行を引き受ける事業も多い。例えば、ガルダ領の紙幣も、美しい渓谷にズールの紋章である歯車が入った意匠であり、ガルダ領の依頼を受けてZMBが発行したものである。そしてガルダ領が戦争に敗れ、公的には占領された今もガルダ紙幣の価値はポレシャ市と自由都市ズール――正確にはZMBによって何故か、保証され続けていた。