廃市街との境目とは言え、ダニエル師の営む孤児院は、中々に安全と見做される立地を割り当てられていた。子供連れの聖職者を態々、招聘したのだから当たり前の話ではあるが、 周囲に人家が少ないとは言え、警戒線やバリケード、見張り塔などは設けられているし、避難経路の地図も、何枚も壁に張られている。仮に廃市街から怪物が溢れても、警戒線を瞬時に圧倒するような数と言うのは、外部からの襲撃を除けば、ここ一世紀ほども無かったし、巨大蟻や巨大鼠は、定期的に雇われ銃士や狩人たちが間引きしている。多数の屍者や変異獣がピンポイントに孤児院に押し寄せてでも来ない限り、悲劇は起こらない筈である。
近隣の街路に巨大鼠や巨大蟻が彷徨っていようが、野犬らが近くの自治区や廃市街の路上に入り込んで、人を襲おうが、時折、屍者たちの呻きが響いてこようが、屋根の上や屋上に変異獣の影が映ろうが、それでも荒野の掘立小屋に比べれば、頑丈な消防署跡の孤児院は、安全極まりない孤児たちの城だ。嘘みたいな話だけれど、伝説の賞金稼ぎスネイクバイト――ラジオドラマで聞いた曠野の英雄の一人!が部下を率いて、定期的に怪物の群れを退治してくれてもいる。男の子にはやや塩対応で、女の子にはやや優しいから、噂通りで本物っぽい。
「入れ墨見せて‼入れ墨!」言いながら腕にぶら下がったり、背によじ登っても動じない。「すげぇな、子供」と言ってる剣士さんは、スネイクバイトではないらしい。「あたしは、ランツクネヒトだ!浚っちまうぞ!」と子供を脅かして、気の弱い子をがん泣きさせてしまった。見せてくれたのは部下の人だ。「すげぇ本物だ」興奮してる子供たちにべたべた触らせてくれた。少し年長の男子らは、半裸のお姉さんに顔を赤くして目を背けていたし、仲のいい女子に目隠しされる男の子もいた。
まあ、子供たちは安心しきっていたし、ダニエル師もらしくなく僅かに油断していた――とは言え、誰も用心を怠ったり、馬鹿な真似は一人もしなかった。消防署跡の頑丈な壁は大抵の野生動物にもビクともせず、避難するなり、防火扉の部屋に立てこもるなりしていれば、いずれは誰かしらは様子を見に来たり、食べ物を届けに来てくれるから、万全の備えではないにしろ、途方もない数で押し寄せてくるか、余程に運悪く不意を突かれない限り、なにも起こらない筈であったし、実際、怪物や野生動物に関してはその通りだった。
比較的に安全な立地とは言え、用件も無しに、廃市街との境目の孤児院を敢えて訪れる物好きは、そう多くはない。マギーの一団と、依頼で食料や物資を届けてくれる牧者衆や武装農民、木こり党や水キャラバン隊。これらを除くと、唯一の例外は、やたらと親切な近所の豚飼いたちだろうか。以前は、浮浪者《ホーボー》だったが養豚で成功した一団で、親玉は赤ら顔の肥満した大男だが、鼠肉など差し入れてくれる上、廃屋に拠点を構える際、気を付けるべき点や工夫すべきことなど事細かに教えてくれたし、度々、ダニエル師の礼拝堂に祈りに来て献金までしてくれる。
実際には、かなり凶暴なところもあって、家畜泥棒の頭をこん棒で叩き割るくらいは朝飯前と評判なのだが、子供たちの前では、欠片も出さずに穏やかな振る舞いに終始していた。それでも時折、恐さがにじみ出るが、そんな親分でも、マギーを前にした時には、真っ青になっていた。賢しらな少年が「親分でも恐ろしいのですか?」とそっと尋ねると、真顔で考えてから「身を守るために暴力を用いる人間と、武装した傭兵や無法者をパンを毟るように片付けられる戦場の……死神との間には、深くて越えられない奈落があるんだよ」と見た目の印象を裏切るように静かに囁いた。
何もかもが上手く運んでいるようにも見えた六月の或る日。屍者たちのうめき声がやけに響く夕暮れ時。
「やけに屍者たちが騒いでいる」庭先で松明を掲げたまま呟いたダニエル師は、足早に孤児院に戻ると、全ての雨戸と扉を厳重に戸締りさせた。それと同時に庭の木柵や門、それに建物や灌木との間に紐を通し、幾つかの空き缶を結び付けておいた。風の強い日にはうるさいだけだが、なにかが侵入してくれば、派手な音を立てるはずだ。
小さな子供たちには、持てるだけの荷や貴重品を纏めて傍らにおかせ、早めに寝るよう言いつけると、しかし、年長の子らの幾人かには交代しつつの不寝番を申し付けた。ダニエル師も一晩中、起きているつもりであったから、異常があればすぐに呼びに来るように申し付けておいた。誰か頼れる大人が常駐している訳でもなく、自分たちを自分で守るしかない。二階の院長室の窓だけは薄く開けており、外の様子を伺えるようにしておいた。
日没後の孤児院で蝋燭の明かりの下、日誌を書こうとするも落ち着かない。蝋燭の明かりを指で消すと、ランタンを付けた。油は安くはないが、危険な気配のする夜に惜しむほどに高価ではない。廊下と各部屋を見回っては、部屋に戻り、窓から庭先を何度ものぞいた。なぜ、こんなに胸騒ぎがするのかも分からない。
窓を覗き込み、ハッと息を呑んだ。庭先に人影が佇んでいた。複数、細い月明かりの下、紐を避けている。門を乗り越えて、開けたのか。ダニエル師は、しかし、慌てなかった。ランタンを抱え、忍び足で下の部屋へと急ぐと、「何者かが侵入してきた」と囁いた。
年長の少年少女たちがなにか言いかけるのを、ダニエル師は左の人指し指をそっと唇に当てて、静かにするよう伝え「地図は覚えているね」と尋ねかける。
避難経路は、幾度も確認している。ただし、昼の明るい光の下で。
「エリオ、マーサ、トマス。いいかね、皆を連れて避難しなさい」子供たちのうちでも特にしっかりしている三人に伝える。
「……先生は?」尋ねられて、頷いた。「もしかしたら、人狩りかも知れない。その場合、誰かが残ってなければ、連中はすぐに後を追うだろう」言ってから子供たちの肩を抱き寄せた。
子供たちを急ぎ、裏口から逃がす。心細そうに泣いている子もいるが、喚いてはいない。「皆、靴は履いたね」ランタンを手渡した。火の調節が出来るから、前方だけを僅かに照らせるはずだ。追跡者が後方から見ても、遠方ならなおさら判りづらい筈。「よし、きっと神さまが守ってくださる」ロザリオをエリオに手渡した。「孤児院の子だと言い、この手紙とロザリオを見せれば夜警たちも保護してくれるだろう。市の参事パオロ・ジャッコーニ氏への伝言を託して、無事を祈りながら別れを告げる。
子供たちが立ち去ってから、二階へと急いだ。院長室で櫃からクロスボウ。古い、手入れを怠っていた木製クロスボウを取り出した。これがどの程度の脅しになるかは分からないが、時間を稼がなくてはならない。扉が激しく叩かれる音が、強く建物内に響き渡った。ダニエル師は凍り付いたように立ち尽くした。唇を引き結んで、階下をギョロッと視線を向けた。扉を叩く音は既に叩きつけるように激しい音に変わっていた。やがて破砕音が響き始めた。狂乱するようになにかを扉に叩きつけている。
五分か、それくらいか。扉が砕かれる音。一部が砕かれ、手を伸ばして中から鍵を開けたのだろう。ドカドカと乗り込んでくる音、なにかのざわめき。囁き声。漁るような物音。歩き回る音。喉を鳴らして、階段を降りる。と、松明らしき光源に柱や廊下入り口の影が怪しく揺らいでいた。廊下の突き当りの保管庫にしゃがみ込んで、なにかを囁き合っている複数の人影。一人は斧を持っている。少なくとも屍者ではない。だが、もっと悪い相手かもしれない。
ダニエル師がクロスボウを構えた。その音か、気配に人影が振り返った。食べ物を漁っていたのは、傷ついた男。痩せた老人。そして赤子を抱えた女や怯えた表情の少年少女たち――貧しげな襤褸を纏った恐らくは廃墟生活者たちだった。
※※※※
屍者たちと戦うに際しては、戦場の選択こそがもっとも重要な要素の一つだとマギーは考えていた。彼我の戦力差、武装と弾薬量、日照や明度の条件も甲乙つけがたく重要な要素ではあるのだが。
本来、古い地下下水道跡で屍者と戦う行為は、愚策中の愚策に違いない。狭く、薄暗く、見通しが悪く、隠れ潜める通路が四方八方へと伸びて、音が反響している。
最悪の地形で待ち伏せを受ければ、アサルトライフルに十分な弾薬を携えた小隊《プラトーン》規模の戦闘部隊さえ、壊滅しかねない。狭隘で曲がり角が多い通路に加えて地下には、明かりは不十分で射界も通らず、視界も劣悪。退路も限られている。特に最後が一番、気に入らない。
マギーはため息を洩らして、今度は、いい条件を数えてみた。詳細な地図があり、案内人がいる。懐中電灯やランタンを持ち込める。土嚢や杭に縄などの十分な備蓄と準備期間が与えられている。敵は歩屍者《ウォーカー》であり、数も限られている――あくまで確認された時点では。
マギーは時間を掛けて、地下下水道内に陣地を設営した。土嚢を積んで柵を作り、杭と杭の間に縄を通した。有刺鉄線なんて良い代物はない。屍者の力は、目算で人間の三倍から五倍。体重六十キロの屍者なら、二百キロの獣に体当たりされたのと同じ程度の計算になる。土嚢はともかく、木柵と木製扉は体当たりを受け止めるのに心もとないが、何もしないよりはマシだった。高低差のある地点には、複数の縄梯子を設置する。滑り止めの鉄柵は錆びて心もとないので――多分、ただの鉄だろう――奥に土嚢を積んで固定しておいた。余り荷重をかけると、今度は中空構造が崩れないか別の心配が出てくる。ともかく、退路と射界を確保して、障害物で敵の進路を制限するしかあるまい。
地下下水道に暮らしている廃墟民が、住処に屍者が侵入してきたと泣きついてきた。泣きついてきたのは、マギーや市議会にではなく、孤児院にダニエル師にである。馬鹿が。でかい建物を所持しているから有力者だとでも思ったか。わんわんと泣いている子供だのいい年して途方にくれている父親だの、額から血を流して怯えている男だの――高価なワクチンを打ってやった。一番、安い気休めの奴だが、五十都市通貨のする代物なのに――の難民を前に、兎も角受け入れてしまったダニエル師だが、行き場のない難民たちに孤児院が乗っ取られるのは時間の問題だと、マギーは意地悪くみていた。なので、紆余曲折あって、マギーと手勢が出て行って屍者を退治する流れになった。
敵は、十体いない。歩屍者《ウォーカー》のみ。しつこいくらいにしつこく確認して、それから廃墟生活者たちが後の生活にも使えそうな防備を整えてやり、下水道へと潜った。
人間相手と違い、狭い場所に誘導するセオリーは採用しない。こちらの処理能力を超えて、屍者たちの勢いが停められない可能性もある。障害物で進路を制限して縄で動きが止まったところを発砲。下手をすれば、マギーたちは此処で全滅する恐れもあった。マギーは初見の案内人を信用しない。人間は時に、信じられないほど馬鹿な行動をするし、裏切りだって働いたりもする。特に素人は行動が読めない。臆病な同行者が先に逃げ込んで木戸を閉めたりとか、そんな馬鹿な理由で死ぬのは御免だから、先に逃げ出したら、「最悪、撃ち殺すかも」と警告し、仲間にも理由を説明しつつ、逃げたら射殺しろと命令しておいた。
地図を眺めて、何処に進んだ時に出てこられたら拙いか。何処を防ぐべきか。念には念を入れて討論し、友人のキャシディ保安官やら両替商スタンフィールド氏、民兵隊のヘルナル大尉にも、作戦を見てもらった。三人は共に経験豊富な戦術家で妥当だと思う、と太鼓判を押してくれたので、マギー隊はおっかなびっくり、覚悟を決めて地下水路へと足を踏み入れた。
外れた弾は殆んど無かった。多分、全部で六匹か、七匹。一匹退治するたびに、安全な木戸の後ろ側まで後退して装弾した。一匹だけ白兵でも倒した。屍者の残骸?は、住人の仕事だ。外へ出して燃やしている。マギーは大きくため息を吐いた。これで鼠退治と報酬が大して変わらない。なんなら、屍者の方が低いのは少々、納得がいかなかったが、世の中は得てしてそんなものだ。命懸けの仕事でも、市場価値は別問題。危険度と報酬は、必ずしも比例しない。
腕利きの狩人たちの中には、歩屍者《ウォーカー》の小さな群れを散歩するように大型ナイフだけで殲滅してのけたりもするようだが、意外なことにそんな連中が必ずしもコヨーテや野良犬、巨大鼠の群れなどに強い訳ではないらしい。
数十匹の俊敏な巨大鼠が相手となれば、一斉に襲われたら確かに手の施しようがない面はある。連発式の火器を持っていても迂闊に深追いすれば不覚を取るかもだが、しかし、そこで適切な距離を保ち続けるのが指揮と統制だろう。一人一人の精度が高い射手を複数名揃え、火点と射界を計算に入れて作戦計画を練れるなら、中型動物の群れなどさしたる脅威ではない。多分に武装や訓練、戦術によって得意とする相手が異なってくる。
「最初に、地下で屍者と戦うと言い出した時は、気でも狂ったのかと思った」リジィの言い分は、口は悪いが、直截的だ。勿論、最悪、撤退も織り込み済みだった。馬鹿みたいな任務で仲間を喪うよりはましだ。だが、やらなければいい、とは考えなかった。他の任務も似たような危険が付き纏うし、なによりマギーの直感は今回、いけると訴えてもいたし、やっておいた方がいい気もした。直感と言うよりは、大量の経験と観察から構築された自己チェックが無意識に違和感を検知しているのか。いや、それを勘と言うのかもしれないが。
弱くて少数の屍者――住人が口を揃えて言う、確度の高い情報――なにより、全員が逃げてきている。地下下水道に呻きは少ない――なら、それを相手に、危険な状況での戦闘でなにが有効か、一度は試しておくべきだ。理由を告げれば、仲間たちはそれなりに納得したように頷いた。部下たちの感嘆や称賛の視線に悠然と答えて、後始末の監督を命じ、なにかあったらすぐに知らせるよう告げてから、マギーは、しかし、廃市街の物陰に逃げ込んだ。怪物はやってこれない袋小路の入り口で、味方がすぐ近くに控えているが、人目はない。そこで震える手で額の汗を拭い取った。
だけど、危機察知とは本来、微細な感覚でもあった。それが失調した時、そして状況が想定を上回った時に危機が訪れる。今回は徹底的な準備をしてあっさりと勝てた。勘は正しかったが、マギーは己の勘が狂う時のことを畏れてもいた。
慣れによる油断、疲労と焦り、思い込みに情報不足。仲間を喪った際の怒りや絶望、自棄が判断を狂わせる。全身全霊でも及ばない相手もいるだろう。何度も勝ち続けて、正しい判断ができた、生き残るやり方を見つけたと思い、経験が積み重なるほどに、強みと同時に傲慢や思い込みのような脆弱性を抱えたノイズも生じる。奇妙な話だが、勝利がノイズを発生させる。勝ち続けるには、常に比較的に妥当な考えを残しつつ、ノイズを解消し続けて、おのれの思考を維持し、良い方向に形作っていかなければならない。生涯ずっとだ。
今日の判断と成功が、似て非なる状況において命取りになる日が来るかもしれない。多分、勝ち残っている古強者ほどに、そこら辺の矛盾について認識しているだろう。過去の成功体験に頑固に拘って負けた戦史の指揮官たちの幾らかも、ギリギリまで迷いつつ、判断を下したには違いないのだ。情報は常に不完全で、決断には責任が付き纏う。(もし、もう少し屍者が多かったら……前進した時に横合いの通路から湧き出ていたら……)味方が誰一人傷つかず、想定のままに推移した戦いを終えた後、マギーは木箱に座り込んで一人、脅え続けた。
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